ふりさけみれば2 -4行目-

 4才の私は弟を背負った母に引きずられるように坂道を登っていく。
 そこは枯野であり、青草の野であり、山雪の舞う雪原であったりする。
 その時々で背景は変わるがその坂の登り下りだけが鮮明に脳裏に残る。つじつまのあう話に繋がるわけではない。一枚の写真のようにそれだけがある。唯、その坂の登り下り。

 購買の坂と呼ぶ道だった。
 坂の下には私たち家族が住む一般坑夫用の一棟二戸の住宅がマッチ箱を並べたように連らなっている。坂の上には購買、今ならさしずめスーパーマーケットのような施設があった。
 日々の買出しのついでもあったものだろうか。私は毎日その坂の登り下りを強要された。

 母は医療知識のある人だった。
 セピア色に変色した陸軍の従軍看護婦時代の写真が残っている。制服に身をかため、革ベルトをしめ腕に赤十字の腕章をまいて、正面を見すえる母はけして美人ではないが、ひきしまった魅力的な顔をしている。敗戦のどさくさから私の誕生の前後、その母と父にどのような物語があったものか、くわしいことを私は知らない。

 当時小児麻痺は法定伝染病だったから私もすぐにどこか病院に隔離されたらしい。
 死ぬなり生きのびるなり、とりあえず病状が一段落するまでそのように放置されるのが罹患者の宿命だった。それを母はかっての同僚、医師たちとのコネを総動員して、私を救出することに成功した。
 その冒険譚も幾度か聞かされたものだ。

 母はそうして、私の後遺症の機能回復訓練に情熱をかたむけることになる。
 しかし、そのような意図をどうして幼児が理解するだろう。
 私は麻痺した足を引きずりながらいやいや母に従っていく。他人には子供いじめと見えたこともあったろうか。
 母は意地の張った人だったからいまに見ておれと思うところがあったはずだ。
 私は母の意趣返しになんら加担できなかった自分の不甲斐無さを今でも悔む。

 坂道の歩行訓練はどれ程の期間続き、どのように終わったものだろう。
 私の記憶にはそれも不思議なぐらい何も残っていない。
 母が絶望と妥協する経緯も今ではもう聞くすべがなくなった。

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