希望ヶ丘まで 1

 昭和五十八年六月のことだ。当時、私は旭川市豊岡に工房を構えていたが、ある日そこに突然、男が飛び込んできて興信所の名刺を差し出すと悪いようにはしないから、少し内容を教えてくれと言った。

 私の仕事は陶芸家、このあたりでは一般的なものではないから、隣近所を聞き回ってもこれという実態が浮かび上がってこなかったのだろう。
 私は茨城県笠間市の荒田耕治の元で修行したあと北海道に戻って義父の所有する空家を借りて独立、七年目を迎えたところだった。三十六才になっていた。
 作品を制作する本業の部分ではまだ暮らしていくのが心もとなかったが、それでも市内の教材屋と組んで道北の小中学校が授業で造らせた陶芸作品の焼成を一手に引き受けていて、これが思いのほか忙しかった。第二次ベビーブームの最中で学習指導要領には陶芸が入っていた。本当に何の面白みもない仕事だったが金の為と割り切れば金にはなった。
 もう一つ、数年前から高校の講師として週八時間工芸の授業を持つようになっていた。若い連中に囲まれるのは刺激になったし、固定的な収入もありがたかった。
 市内のデパートでも商品を扱ってくれるようになって、年に一回の個展も開いていた。とりあえず順調といってもいいのではないかと自分では思っていた。

 女房がいて子供がいて家庭は平穏だった。今、何かを始めようという計画はなかったし、探られて困るようなことがあるはずもなかった。
 だから、なぜと当然、私は聞き返したと思う。

 悪い話ではない、さすがにそれ以上は口を割らなかったが興信所もけっこういいかげんなものだ。探る当人から話を聞いてどうするのだろう。
 まだ今日ほど個人情報の保護にも過敏ではなかった。腹をくくって私は問われるままに吹けるほらは吹き、読めるサバは読んで答えることにした。きっと暇な時間帯だったのだ。

 それからちょうど二週間後、今度は鷹栖の役場から人が訪ねて来て統廃合で空いた校舎が一つあるが、そこに越して来る気はないかという話だった。無償、無期限、無条件で貸すという。
 私は今の義父の家屋がそのままいつまでも借り続けられるとは思っていなかった。なにせ坪十七万円の土地が三百坪に敷地八十四坪のコンクリートブロックの工場だ。もともとは洗車場だったものだが営業不振で止めてしまった。次いで何をしようという予定がなかったからとりあえず貸してくれたが誰がどう考えたって、焼きもの屋風情には贅沢すぎる。
 そのあたりまで調べがついていたものかどうか、たしかに悪い話でもなさそうだが即答できることでもなく、考える時間をもらう事でその日は終わった。

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