待つ (二)

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 日が翳って、庭の石組の陰が長い。
 申の刻は少し過ぎただろうか。
 蝉の声もいつか止んでいる。かすかな風が単衣の肌に心地好かった。
 つい、この間まではこうしていると藪蚊が執拗に襲ってきて閉口したものだが今日はもうそれもない。
 人間落目になると蚊も刺さないか、清次郎はつい自嘲的な気分になる。

 あの日、異変が突発したのは下城の触れが鳴って4半刻も過ぎたころだった。
 近習溜りには普段なら10人近い若侍が屯してにぎやかなのだがそのときは上司の田村右京之介と同輩の遠山猪一郎、それに清次郎の3人しかいなかった。
 要領のいい者たちは右京之介の不機嫌に愛想を尽かしてさっさと座をはずしていったようだ。太鼓の音を聞きつけてすでに帰途についた者もいるかもしれない。
 帰り仕度をととのえて清次郎は次の間に控えていた。
 最先に退室するのは憚られる。いまだに新参者という意識が抜けず、揚げ足を取られぬよう細心に気を配っていた。
 奥の間からは右京之介が猪一郎を叱罵するねちっこい声が漏れてくる。

 厭な奴だと清次郎も思う。
 右京之介は家老、田村帯刀の息子でいずれ藩の中枢に座ることが約束された男だった。30才前で近習の組頭はけして遅い出世ではない。その先には若年寄が見えている。
 しかし当人はそれでもなお満足がいかぬらしかった。
 なにかというと人を押し退けて目立とうとする。そうして、自分の意がかなわぬときには右の顬に太蚯蚓のような癇筋が走った。その傍若無人ぶりに眉をひそめはしてもあえて諫める人がいないのは一旦憎まれると後を引くからだった。誰れもが後難を怖れていた。
 妻女でももらえばもう少し落着くものをと考えるのが親心かもしれない。世話をやこうとする物好きもたまにはいるらしいのだが、断るのか、断られるのか、話はいつも途中でたち消える。
 すべて兵馬の受売りだが、右京之介には男の方が好きなのだという噂もあった。
 父とそっくりだとも親よりもさらに悪いとも人はいう。
 清次郎は垣間見るだけで帯刀の人となりは知らないが兵馬はつねづね似たもの親子だと吐き棄ていた。

 俺などまだ多少商人の飯を食っているせいで如才のないところがあるのだろう。それとも歯牙にかける程の相手ではないととっくに見透かされてしまったか、とくにひどい目にあわされたことはないが、いかにも気のきかぬふうな猪一郎にはなにかとつらく当るようだ。
 どうも下士の分際で藩中一、二を争う剣の使い手というのが面白くなくてしかたがないらしい。

 藩主、和泉守が御前試合の活躍ぶりに目を止めて、みずから声をかけて、とりたてたというのだから、猪一郎ももう少し毅然と構えていればよいものを人並に茶坊主の真似などしようとするから阻喪を犯す。
 望外の出世が猪一郎に自分を失わせてしまったらしい。
 今朝も拝領の茶碗の口を欠したとかで一騒動だった。
 今もおそらくその件を右京之介がぶりかえしたに違いない。

 それにしても右京之介はしつこい。
 猪一郎もたまらんだろうな、清次郎は年上の同僚に同情した。
 こんなことばかりやっていると、そのうち誰かに闇討でも仕掛けられるぞ、そう思ったやさきだった。
 突然、甲高い罵声が轟き絶叫が後に続いた。
 奥の間に飛込んだ清次郎は首根から血を吹き出させた右京之介がのけぞる姿に度肝を抜かれた。
 目を吊り上げた猪一郎の鬣は逆立ち、頬からは浴びた返血が汗のようにしたたり下ちている。
 血刀を下げて、立ちつくす猪一郎はすでに人間の姿には見えなかった。
 腥ぐさい臭いが鼻腔に充満して、清次郎は必死に嘔吐をこらえていた。

 猪一郎、かすれた声が出た。
 その声にようやく我に返ったように猪一郎は清次郎に目を向けた。
 狂気を消した猪一郎の目はかぎりなく哀しかった。
 その視線を受けとめたと清次郎は思ったが、しかし、今、なにを言えばいいのか、何をすればいいのか皆目、見当がつかなかった。
 一瞬の間があった。
 次の瞬間、すまぬ、迷惑をかける、叫ぶと猪一郎は下げていた刀をいきなり自分の腹に突立てた。

 猪一郎はめったやたらと刀で腹を突きまくったようだった。
 しかし死にきれず断末魔の唸り声を上げながら血の海の中をのたうちまわっていた。
 2人の体内から迸り出た血液は天井といわず、壁といわず、あたりを真赤に染め上げていた。
 血の臭いは部屋に横溢し、たまらずついに清次郎は嘔吐した。
 一度吐くと嘔吐は波のようにくりかえし襲ってきた。

 騒ぎを聞きつけた人々が部屋のまわりに駆つけ始めた。
 腰を抜かした清次郎は後手をついて、吐きながら、知らず知らず後退さっている。
 人垣を作った何方かの足に阻まれなかったら、そのまま廊下を越えて庭にころがり落ちていたかもしれない。
 ふいに人垣が割れる気配があり、今井清次郎、うろたえるな、頭上から大声の叱責がとんだ。

 大目付、牧民部はさすがに場なれていた。
 一声で清次郎を正気に戻すとそのまま奥に進んで総てを諒解したらしかった。
 のたうつ猪一郎の肩を膝で押えると、脇差を抜いて止めを刺し、右京之介の絶命をたしかめて、その目を閉じてやった。
 とりあえず一件は落着した。
 しかしこれが清次郎の生命を左右する大騒動の端緒でもあったのだ。

 武道不覚悟とはよくぞいったものだと清次郎は思う。
 もともと武道のこころえなどまるでないようなものだったがしかし、あの場面に誰が居合わせればどうなったというのだろう。
 たしかに醜態といわれればその通りだった。
 初めて人が殺されるのを見、人が死ぬさまを見て、俺は仰天してしまった。俺は腰を抜かし、嘔吐した。それをあえて弁解しようとは思わない。
 人に指さされ、嘲られるのなら、あまんじて受けよう。
 だがそれが腹を切らねばならぬ程の失態とはどうしても思えなかった。

 大目付の取調べは詳細をきわめ、その日、深更に及んだが清次郎にはそもそも隠し立てするいわれもなく、言葉のはしばしに猪一郎への同情は滲ませたかもしれないが知ることは総て正直に申しのべた。
 事件は右京之介に刀を抜いた形跡がないことから猪一郎の一方的な襲撃として処理されるようだった。
 遠山家が取り潰されるのはやむおえないとして、清次郎にまで累が及ぶとは、その時、その場に居合わせた者の誰れもが思いもしないことだったろう。
 二、三日家でおとなしくしておれ、いずれ、沙汰があろうがどうということもあるまい、牧民部もそういって清次郎を帰宅させたのだ
った。

 しかし翌朝早々に田村家老の家人が清次郎宛に届けてきた書状は目を疑うものだった。
 それには武道不覚悟もはなはだしい。事が殿のお耳に入るのは必定、殿のお怒りをかって上意が下りてからでは遅い。すみやかに自裁せよ。それが今井家安堵の唯一の道だということが激烈な言葉でしたためられていた。
 
 千五百石取りの田村家はもともと藩主家とも血縁で繋がる由緒ある家柄で代々家老職を務めてきたが当代帯刀になって娘の浜路が和泉守の側室に上がるといよいよ権勢をほしいままにするようになった。
 暗愚の噂のたえぬ和泉守の陰で藩政を左右するのは帯刀だと城下では知らぬものはない。

 その帯刀の泣きどころが子の少ないことだった。どういうわけか帯刀には右京之介と浜路の一男、一女しか出来なかった。
 その宝のような一人息子が殺されたのだ。
 これで名家、田村の直系は絶える。
 帯刀の無念はわからぬでもない。
 しかし八つ当りされる清次郎もたまったものではなかった。
 常識では考えられない話なのだ。
 しかし、逆上した帯刀ならやりかねないと思わせるところが不気味なのだった。

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