その年の暮れ

(八)
 
 寒いと思ったらいつの間にか雪が降り始めたようだった。
 向いの長屋の板葺きの屋根がうっすらと白い。
 寺の鐘がいつもよりはっきり聞こえるのもやっぱり空気が冷えているせいなのだろう。
 さっきまで大さわぎで煤をはらっていた隣の嬶も一区切りついたようだ。まるで嘘のように静かになった。
 与平は夜叉五倍子に染った指を火桶に翳した。火桶には今、夜叉五倍子を湯煎する為の炭が起きている。
 与平は煮汁についた天狗の面の根付をときどき裏返しながらこの十日ばかりの間のめくるめくような出来事をぼんやりと思い返していた。

 とにかく、お葉なんて女はそれ以前にはまったく念頭にもなかったのだ。
 それが今はあたり前の顔をして台所で野菜なんかきざんでいる。
 親方にはたしか猫の仔をもらうようなわけにはいかぬと啖呵をきったものだったがどうもお葉は猫の仔よりもすんなりと家に居着いてしまったようだ。
 まったく、女って奴は、月並な文句が頭に浮んでしかし、与平はその言葉に脂下がる自分を感じて一人で照れた。

 お葉の話では昨日は与平に晩飯でも作ろうと思って訪ねたのだという。
 住いをたしかめにわざわざ親方のところまでいったりしてそれなりに大変だったに違いない。
 助けてもらったお礼と赤くなったあたりはなかなか可憐だった。
 そこであの騒動に出くわした。
 お葉の機転で事無きを得たが一段落がついたのはもう暮れ六つに近かった。
 それでもお葉がなにか作るというものだから表へ買い物に出た。

 米屋はすでに閉っていたが賃餅屋はこの時期、夜鍋仕事だから切り餅は手に入った。
 隣に味噌を借りにいくと煮付の残りと漬物もくれた。
 それでお葉は小器用に雑煮のようなものをこしらえた。
 腹がへっていたせいもあっただろう、これがうまかった。
 疲れていた。腹が満たされるともう動く気にはなれなかった。
 一人で帰すわけにもいかないから泊れと誘うとお葉は拒ばなかった。

 それから起こったことを与平は考えている。
 最初は背中合せに寝たのだった。相手のぬくもりがここちよかった。
 そのまま、ひとときは眠っただろう。
 深夜に目が醒めた。
 ゆっくりと今、自分が置かれている立場が思い出されてきた。
 この女を俺は助け出し、この女に俺は助けられた。それはやっぱりただの偶然だとはいえないのではないか。
 背中に伝わるかすかな緊張感から相手も以前から目を醒ましていることが感じられた。
 お葉、起きているか、おもいきって与平は声をかけた。
 返事はなかったがうなずく気配はあった。
 俺は見たとおりの跛でそれにだいぶ臍も曲がっているかもしれねえが、おまえさえよけりゃ俺は所帯を持ってもかまわないんだぜ。
 深い沈黙の意味を与平は計りかねたが、ありがとう、やがて、くぐもった声でお葉はいった。
 もし与平さんがそういってくれなかったら私、妾奉公にでも出るところだった。
 くるりと身体をまわすとお葉がむしゃぶりついてきた。
 おもいがけぬ強い力だった。

 我にかえって、与平はこの瞬間にもまたお葉のぬくもりを恋しがっている自分を知って少なからずあわてるのだった。
 とにかく親方には一刻も早く報告すべきだ。
 その時はお葉をつれていくべきかどうか。
 引っ越しだってさせなくてはならない。
 まったく明日は除夜だというのにとんだことになったものだ、与平は照れかくしに一人ごちた。
 お葉が台所でなにかいっている。
 おゝかた食事の用意がととのったといでもいったのだろう。
 与平はもったいをつけて一呼吸おくとおうっと大きな声で返事をかえした。

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