ケータイ

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 携帯電話は持つことがあたりまえの時代になったようだ。
 かっては町のいたるところにあふれかえっていた公衆電話がどんどん姿を消しているのも結局利用者がいないからだろう。
 おかげで私などがこうむる迷惑は計りしれない。家にちょっと連絡をとりたいと思ってもおいそれとはいかなくなった。
 知らない町ではキヨスクあたりで尋ねるのがてっとり早いがつっけんどんな対応をされるとけっこう心に傷がつく。
 そこの出口を左に曲がって少しいくとなどと教えられてようやくたどりつくと小銭がなかったりする。
 親しい友人がいっしょなら拝借することもないわけではないがあれも案外、肩身が狭い思いをするものだ。
 貸せというと相手が一瞬身構えるのがわかる。
 ケータイがすでに脳の一部を代行する機能を持っているからだろう。
 妻に覗かれて浮気がばれたなどという話は掃いて棄てるほど転がっている。

 電話番号を聞かれて固定機のものを教えるとずいぶんガードの固い人だなという顔をされることがある。
 できればケータイもと重ねて要求されることもある。
 ケータイは持っていないと答えるとけげんそうにする。どうして持たないんですかとさらに追求されることも少なくない。
 そういう場合は貧乏なものでといってすますことにしている。
 そう答えるとまさかと笑いながら、この人には持たないだけの主義・主張があるのだろうと納得してくれるようだ。
 これを逆に主義・主張を話すとうなずきながらも心の中ではケチか貧乏なんだと合点するに違いない。
 人間とはそういうもののような気がする。

 私はあんなもので四六時中、所在を管理されることに生理的な嫌悪を感じる。
 私は今、女房に秘密らしい秘密は持たないがそれにしたって、なにからなにまで知られていいとは思わない。
 シャメと呼ぶのだろうか、なにかというとすぐに写真におさめるシュウカンもあまりすきなものではない。記憶から消えていくものはしかたがないしそれでいいと思っている。
 いい年をしたジジ・ババがまちうけ画面とやらにまごの写真を入れて、やにさがって見せ合う姿など馬鹿馬鹿しくて、つきあいきれない。
 ケータイを持つ人は皆、一様にそういう中毒症状を呈するようだから持たずにすますのが一番よいと私は思っている。
 きっとケータイにはそういう恐ろしい魔力があるのだろう。
 バスに乗ってあたりを見まわすと全員が右手にかざしてケータイを睨んでいる。集団洗脳でもされているようで気持の悪いことといったらない。
 こうしてやがて世の中は私にとって場違いな場所になっていくのだろうか。

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