小説

仔ぎつね、おコン 【5】

 お紺の母親というのが源次の仕事上りの時刻を見はからって浅草、三間町の裏店を訪ねてきたのはそれからさらに二、三日あとのことだ。 「上州屋の家内、お栄ともうします」 駕籠を戸口に待たせて入ってくるといきなり切口上の挨拶だった。 ちょうど卓袱台...
小説

仔ぎつね、おコン 【4】

 「三間町の源次って大工はおめえかい」 突然声をかけられて、あわてて顔を上げると図体の馬鹿でかい男がぬっくと突立っていた。 「俺ぁ、入舟町の甚六ってえ目明しだ。ちょっと聞きてえことがあるんだが、ここでいいけえ、なんならこの先の自身番でもかま...
小説

仔ぎつね、おコン 【3】

 源次は一心に鉋の刃を研いでいる。 大村産の仕上砥は赤子の肌のように艶やかにぬめり、刃はぴったりと吸いつくようだ。このまま手を止めると刃は二度と剝がれなくなるかもしれない。 規則的に水を打ちながら源次の手はさっきから、まったく同じ角度、同じ...
小説

仔ぎつね、おコン 【2】

 翌朝も源次は仕事で早くから出掛けなければならなかった。 女のことが気にかゝったが別に盗られるものもないと腹を括ることにした。 女に目を覚す気配はさらになかった。朝の光でみる、女の寝姿は夕べ灯火で見たよりもさらに子供のように見える。 ふいに...
小説

仔ぎつね、おコン

 「あんたなんか大嫌いだ」 戸口で振り返ると女は捨台詞を吐いた。 「上等だ、俺だって、てめえみたいなズベタ、二度と顔なんか見たくもねえや」 喉まで出かけた買い言葉をなんとか呑み込んだのは源次の未練だったのかもしれない。 ぴしゃりと戸を閉めて...
エッセイ

春の愁い

 工房の周りにはかなり広い土地がある。 いつか、木を植えよう、花でもいいと思いながら結局、手を付けることはなかったからおそらくこれからもそのままだ。 もう30年を過ぎたが毎春、先住者が残した福寿草、野良生えの水仙がわずかに顔を出す。 庭とい...
エッセイ

東日本大震災

 3月15日、火曜日、夜。 比較的おだやかな気候だが気持は落着かない。 東北地方は今夜あたりから冷え込むという。 地震発生から5日、被災地ではいまだ茫然自失の状態が続いているようだ。 体験の過酷さを思えば無理のないことかもしれない。 それに...
エッセイ

東日本大震災

 最初は東北大地震といっていたはずだ。 東日本大震災と東北・関東大震災、呼称がいまだ統一されず、報道機関の好みで使いわけられているようだが、どう落ち着くのだろう。 3月11日、金曜日、時おりふぶいたりするものの、気温はむしろ暖かめだったかも...
エッセイ

 おじさん、これなんて読むかわかる?中学生になったばかりの姪に紙片をつきつけられた。 海という漢字が5つ並んでいる。 法事の席でひととおり酒がまわってようやく場がくつろぎ、雑談にも興が乗ってきたところだった。 親戚の間では私はもの知りで通っ...
エッセイ

ケータイ

 携帯電話は持つことがあたりまえの時代になったようだ。 かっては町のいたるところにあふれかえっていた公衆電話がどんどん姿を消しているのも結局利用者がいないからだろう。 おかげで私などがこうむる迷惑は計りしれない。家にちょっと連絡をとりたいと...
小説

その年の暮れ(まとめ読み用)

(一)~(三) (四)(五)(六)(七)(八)
小説

その年の暮れ

(八)  寒いと思ったらいつの間にか雪が降り始めたようだった。 向いの長屋の板葺きの屋根がうっすらと白い。 寺の鐘がいつもよりはっきり聞こえるのもやっぱり空気が冷えているせいなのだろう。 さっきまで大さわぎで煤をはらっていた隣の嬶も一区切り...
小説

その年の暮れ

(七) 清蔵、てめえ、年の暮れにこそこそと他人のシマ荒らしたぁよっぽど凌ぎに難儀してやがるな。 突然、岡っ引きの文七の銅間声が轟いた。 文七は赤ら顔の大柄な男だ。それが引き戸の敷居を跨いだところで仁王立ちになって吼えている。 いささか芝居が...
小説

その年の暮れ

(六) 与平さんのお宅ですね、引き戸を開けて、どことなくねずみを思わせる小男が顔をのぞかせた。 ついさっき七つの鐘を聞いたばかりのような気がするがあたりはすでに暮れかけている。 与平は馬に向っていた手を止めると顔を上げた。 今どき、誰が何の...
小説

その年の暮れ

(五) お菊の店はいつ行っても客で溢れかえっているな、壮太が感嘆したような声を洩した。 お菊は昔から人あしらいはうまかったからな、藤吉がしたり顔であいづちをうつ。 色気七分じゃねえのか、どの客もみなものほしそうな目でお菊の尻を追っていたじゃ...
小説

その年の暮れ

(四) ここ数日、与平は忙しかった。 桔梗屋の注文をなんとか年内に割入ませる為にはそれなりの遣り繰りはしなくてはならない。 押木に向った与平は削り上げたばかりの三味線撥に椋の葉を当てて仕上げの磨きにかゝっていた。 気を抜かずに磨く。根気よく...
朝の食卓

辞典片手に

 辞典も楽しいものだ。 小説にあきると私はよく辞典を開く。 「一」は漢和辞典の最初に出てくる。 息子の名前をどうするか、頭をつきあわせた両親があっちをめくり、こっちをめくりしてさんざん悩んだあげく結局元にもどって落ち着くまでにどれ程の時間が...
エッセイ

風邪のことなど

 牛と風邪は引くなという。 牛は依怙地で引かれると突っ張る。下手をすると後退さる。 牛を歩ませるには尻の方から宥めすかすように追ってやる。 牛追いと呼ぶ所以だ。 牛にはまったく関わりないがこの感じはなんとなくわかる気がする。 風邪の場合も引...
エッセイ

複本問題

 副本を広辞苑で引くと、①原本のうつし、そえしょ、複本 ②「法」正本と同一事項を記載した文書、正本の予備、または事務整理のために作成、と出ている。 しかし、図書館用語として使う場合は複本とは同じ内容の本が重複して存在することをいう。 昔から...
朝の食卓

エビス

 イザナギ、イザナミの最初の子をヒルコという。ヒルコは生まれながらの不具だった。そこであし舟に乗せて川に流す。 古事記にそうある。 都合の悪いことはなかったことにしてすます性向は当時からすでにあったようだ。 知ったかぶりのついでに言えばこれ...
エッセイ

なんと呼ぶ……?

 私は連れ合いを人に紹介する場合など、最初からごく自然に「女房」といってきた。 それであたりまえだと思い込んでいたふしがある。 しかし、そう呼ぶことがけして一般的ではないことを最近になって知った。 いまさら心外だが、女房もあまり好きではなか...
エッセイ

占い

 血液型占いというのが一時大流行した。 多種多様の人間を4つに仕分けるのはいささか乱暴だがその単純明快さが受けたのかもしれない。 当時、スナックなどで飲むときまって血液型を聞かれたものだ。 何型だと思う?と逆に問い返すと待ってましたとばかり...
朝の食卓

マイ・ブーム

 今、私たちはことわざを合体させる、ことば遊びに熱中している。 たとえば今日の政治状況を一寸先は闇夜の鴉と表現する。一寸先は闇と闇夜の鴉を尻とりでつなげたわけでなにか意味ありげなうさんくさい感じが気に入っている。 女房だって、ケーキをいただ...
エッセイ

師匠

 師匠の釣りは世間一般の釣り好きとは少し違っていたかもしれない。 釣りが出来ればそれでいいというようなところがあった。 ちょうど釣りを覚えたての小学生が学校から帰ると玄関にカバンを投げ棄てて、あわてて一本竿とバケツをかゝえて川に駆けつける、...
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