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  • ふりさけみれば4 綿あめ慕情

     どんなにおいしいものだろうと思っていた。地方によっては電気あめ、綿菓子とも呼ぶのだろうか、あの夢か、雲のようにはかなくふくらんだ綿あめのことだ。いかにも特別な日の特別なおやつらしく夏のあいだだけ、祭やお盆には駄菓子屋の横に屋台が出た。
     風よけのフードの中、ザラメが熱せられて、くるくる回転する機械の中心から糸のように吐き出されるのを、割りばしをたくみにあやつりながらからめとっていく。白いダボシャツのおやじをまさか奇術師とも思わなかったけれどまるで手品のように割りばしの先にはみるみる綿がまきついた。食べられなければ食べられないだけ、妄想は頭の中で増大する。
     親が駄目だといえばあきらめるしかないのだが、心のどこかに不満がうずまいていた。
     安価なものだった。近所の子供たちはみな小づかいで買っていた。それで腹をこわした話も聞かない。
     だが、きたない、病気になると、うちでは禁止されていた。
     とにかく制約の多い家だった。まんが本を見てはだめ、本の貸借はだめ、遊んでいい友達、悪い友達というのもあった。親が梅毒だったり朝鮮人だったりしたのだったろうか。
     坑員住宅のならびには出入無料の共同浴場もあったが、私たちは毎日入浴させられた。
     夜、出歩くなどもってのほか、買いぐらいが許されるはずもなかった。
     5円、10円と小銭をにぎって、駄菓子屋にたむろする子供たちが心底うらやましかった。
     弟もきっと同じ気持だったと思う。
     
     2つ違いの弟は格・いたると言った。父が世話になった人の名前をもらったと聞く。その人とどういう付き合いがあったのか、長い間、賀状のやりとりは続いていた。
     子供の目で見ても私の家はかなり周囲からは浮きあがった存在だった。
     父は自分の感情をコントロールができない人で、だから人間関係のトラブルがたえなかった。
     母は利巧な人だったがそのプライドの高さはやはり人の鼻につくこともあっただろう。
     私が障害をもつことでそれらは増幅されることになったかもしれない。 
     となり近所、どこにでも似たような年かっこうの子供たちがいて遊び相手には事欠かなかったはずなのに幼い頃の弟はいつも私の脇にくっついていた。親がそう、しむけたものか、一人で遊びに出てもいいおもいはしなかったのか。ごく普通の子供だった弟だがおかしな家に生まれてきたばかりに一番割りをくうことになっていたとしたらかなしい。
     
     にいちゃんと呼んで弟はポケットからぐちゃぐちゃにまるめた10円札をとりだしてみせた。私が小学生になったばかりの頃だったと思う。祭の日だった。
     どうしたと聞くと拾ったという。
     これでと弟は私を見た。
     うん、私には弟の考えが自分のことのようにわかった。
     私たちは手に手を取るようにして家を飛び出すと駄菓子屋まで駆けた。
     駄菓子屋の横には案の定、屋台も出ていた。
     迷うことはなかった。
     綿あめ一つとアイスボンボン一つ、それでちょうど10円だ。

     赤痢になると絶対に口に出来なかった、アイス・ボンボン、それもあこがれの品だった。
     風船のゴムよりもいくらか厚手だったかもしれない、ひょうたん形のゴムの中に色をつけた砂糖水を入れて凍らせたものだ。子供の握り拳より一まわり程大きくて、赤、青、白の三色があった。
     普通は乳首のようになった先を鋏で切って、手で暖めてとかしながら吸うのだが口の堅く結んだ紐をなんとかほどくと傷のないゴムの袋が残るので水道の蛇口にはさんで水でふくらませたりして、それで遊ぶことができる。
     それもうらやましかったものだ。

     “購買”の坂をあがると右手は購買部を中心に床屋だの駄菓子屋だのが軒を連ねていたが左手は幼稚園の敷地で本当に歌の文句に合わせて作ったとんがり帽子の園舎があり、広い遊技場の隅にはブランコだのスベリ台といった遊具が並んでいた。園児たちが帰ったあとはそこはあまり人の寄りつかない場所だった。
     私たちは駄菓子屋からブランコへと移動して、ようやく一息ついた。
     なんとしてもアイス・ボンボンの口の紐をほどかなくてはならない。
     それは当然、私の仕事だった。弟は綿あめを右手でさヽげるようにして持つと息をつめて、私の指先に注目していた。
     
     弟が家のさいふから10円札を抜き取ったことはその夜に露見した。
     母は毎日、日記がわりに家計簿をつけていて、一円の誤差もないのが自慢だったからばれずにはすまないことぐらい弟にだってわかっていたはずだ。
     私たちは並んで立たされてしかられた。
     私は泣いたが弟はどうだったか、泣かなかったような気もする。泣いたとしてもそれは悔恨の涙ではなく、自分だってまわりの子供たちと同じようなことがしたいという抗議の涙だっただろう。
     弟の態度が反省的ではなかったからついに私たちは家を追い出されることになる。

     あてもなく家のまわりをさまよいながら見るともなく見上げた夜の空、あの満天の星を私は今も忘れない。
     とりとめもなく大空にちらばった星たちがやがて一つの糸でつながっていき、ある姿を形づくることを私は魔法にでもかけられたような気持で見つめていた。
     北斗七星がひしゃくを形づくると、おどろく程の近さにせまってきた。
     私たちは手をしっかりにぎりあいながら見上げていた。
     私たちはつらかったがそうしていると泣かずにすんだ。
     
     私たちは兄弟だった。
     その弟は40才で死ぬ。もう20年も前の話だ。
     ようやくこの頃はそれ程思い出さずにすむようになったが、たまに息子の後姿が弟に見えることがある。

  • ふりさけみれば3 私の西鉄ライオンズ

     父は偏執的な西鉄ファンだった。
     勝てば天井が抜けるような大喜びをして、なけなしの小銭を子供たちに配ったり大さわぎだったが負けるとその分不機嫌になり誰かれかまわず当りちらした。
     大正2年、四国、宇和島生まれの父が大阪に出、やがて終戦のどさくさに北海道まで流れつく。
     父の父、すなわち祖父に私は会わずにしまったが、四国では名の知られた指物大工だったと聞く。たしかに大工道具を使わせたら父も目を見張らせる腕を持っていた。子供の頃から親に口うるさくしこまれたせいだろう。それがいやで家を飛び出したらしいがおそらく天職だったにちがいない。以来、父はいくつかの職業を転々としたはずだがどれも生活の糧を得るためのものであって、それに生きがいを見つけることはついにできなかったのではないか。
     北海道でもそれ程、意に沿う境遇ではなかったはずだ。
     西鉄というプロ野球のチームがどこでどうそんな父の琴線にふれたものか。ともかく西鉄の勝敗は直接、家庭の平和に影響した。

     西鉄ライオンズは昭和26年(1951)前身の西鉄クリッパースが西日本パイレーツを吸収合併して成立する。プロ野球が2リーグに分裂した翌年のことだ。
     その年、巨人軍を追われるように退団した三原脩が監督に就任する。
     「われ、いつの日か中原に覇を唱えん」三原は煮え滾る復讐心を胸奥に日本制覇をめざして、チーム造りに着手する。
     翌27年(1952)、東急から実力、人気ともにトップスターだった大下弘を引き抜いてチームの要が出きる。
     怪童、中西太が高松一高から加入したのもこの年だ。
     28年(1953)豊田泰光(三戸商)、河村英文(別府・緑丘高)、高倉照幸(熊本高)。西村貞朗(香川・琴平高)。
     29年(1954)仰木彬(福岡・東筑高校、滝内弥端生(福岡、戸畑高)
     30年(1955)和田博美(大分、臼杵高)、玉造陽二(水戸一高)
     そして31年(1956)稲尾和久(別府・緑丘高)。
     最適の補強というべきか、強運の補強というべきか、これら、高卆ルーキーたちはたちまちのうちにレギラーの座を獲得する。

     西鉄は年ごとに強くなる。それにつれて、父のボルテージも上がる。
     母もいつか、野球のルールをおぼえ、選手の名前をおぼえて、父に口裏をあわせるようになっていた。子供たちが西鉄に強く肩入れするようになるのは当然のなりゆきだろう。
     昭和30年前後、当時5球スーパーと呼んだ真空管ラジオのチューニングをし、乱れがちな音声にそれこそかたずをのんで耳をかたむけたものだった。
     ひょっとすると我家は西鉄に依存することでその絆を強めていったのかもしれない。

     そうして私たちの至福のときがくる。
     昭和31年(1956) 日本初制覇
     昭和32年(1957) 4連勝で連続日本一
     昭和33年(1958) 3連敗のあと、奇跡の逆転、優勝。神さま仏さま稲尾さまの流行語も生まれた。
     私の9才、10才、11才の三年間だ。

     私はその後の落魄もしっている。三原が去り、大下が抜け、中西が故障に泣き、豊田が出ていった。孤軍奮闘の稲尾も力つきる。駄目押しの黒い霧事件は私にも相当なショックだった。
     池永など本当によいピッチャーだったものを。
     しかし、父も年を取って多少の分別をわきまえるようになり私たちも存在感を増しつつあったから再び以前のようなおかしな状況にはならなかった。

     思えば半世紀も昔のことだ。
     しかし私は今でもあのころのベスト・ナインをそらんじている。
      一番 センター 高倉 25
      二番 ショート 豊田  7
      三番 サード  中西  6  
      四番 ライト  大下  3
      五番 レフト  関口  9
      六番 ファスト 河野  1
      七番 セカンド 仰木  8
      八番 キャッチャー 和田 2
      九番 ピッチャー 稲尾 24
     
     なつかしい。

  • ふりさけみれば2 -4行目-

     4才の私は弟を背負った母に引きずられるように坂道を登っていく。
     そこは枯野であり、青草の野であり、山雪の舞う雪原であったりする。
     その時々で背景は変わるがその坂の登り下りだけが鮮明に脳裏に残る。つじつまのあう話に繋がるわけではない。一枚の写真のようにそれだけがある。唯、その坂の登り下り。

     購買の坂と呼ぶ道だった。
     坂の下には私たち家族が住む一般坑夫用の一棟二戸の住宅がマッチ箱を並べたように連らなっている。坂の上には購買、今ならさしずめスーパーマーケットのような施設があった。
     日々の買出しのついでもあったものだろうか。私は毎日その坂の登り下りを強要された。

     母は医療知識のある人だった。
     セピア色に変色した陸軍の従軍看護婦時代の写真が残っている。制服に身をかため、革ベルトをしめ腕に赤十字の腕章をまいて、正面を見すえる母はけして美人ではないが、ひきしまった魅力的な顔をしている。敗戦のどさくさから私の誕生の前後、その母と父にどのような物語があったものか、くわしいことを私は知らない。

     当時小児麻痺は法定伝染病だったから私もすぐにどこか病院に隔離されたらしい。
     死ぬなり生きのびるなり、とりあえず病状が一段落するまでそのように放置されるのが罹患者の宿命だった。それを母はかっての同僚、医師たちとのコネを総動員して、私を救出することに成功した。
     その冒険譚も幾度か聞かされたものだ。

     母はそうして、私の後遺症の機能回復訓練に情熱をかたむけることになる。
     しかし、そのような意図をどうして幼児が理解するだろう。
     私は麻痺した足を引きずりながらいやいや母に従っていく。他人には子供いじめと見えたこともあったろうか。
     母は意地の張った人だったからいまに見ておれと思うところがあったはずだ。
     私は母の意趣返しになんら加担できなかった自分の不甲斐無さを今でも悔む。

     坂道の歩行訓練はどれ程の期間続き、どのように終わったものだろう。
     私の記憶にはそれも不思議なぐらい何も残っていない。
     母が絶望と妥協する経緯も今ではもう聞くすべがなくなった。

  • 希望ヶ丘まで 3

     てんやわんやでひと月やふた月はたちまち過ぎる。
     私もとりあえず荷物は運び込んだものの整理がまるでつかず、なかなか仕事再開のめどが立たなくて苛立っていた。
     周囲の農家も思いもかけない災害にその手当てでおおわらわだったのだろう。その間、幾度か歓迎会の話が出たがどちらかの都合がつかず、結局、年の暮れの忘年会と一緒になった。

     集落の人との初顔合わせだ。指定された時間に赴くと会館はすでに人で溢れかえっていた。当時はまだ三十戸を越えていたはずだ。
     挨拶もそこそこに宴会が始まった。
     大薬缶に一升瓶の酒があけられストーブで直燗がつけられると、それがあっという間に空になる。再び一升瓶が注ぎ足され、そうしてそれもみるまに空になった。
     集まった男衆は皆が働き盛りの年頃で勢いがいい。はなからこちらは気圧されていた。
     それにしても最初の乾杯のビールが注がれたあとはそれっきり誰もかまってくれず、いきなり手酌で飲むわけにもいかないから、私は無聊をかこっていた。
     とんでもないところに来てしまったのじゃないか、そんな思いは引越し以来ときどき心をよぎっている。
     しかしほどなく私は攻め立てられ、守勢にまわり、陥落寸前まで押し込まれることになった。
     やあ、先生、ごめん、ごめん、気が利かなくて悪かったね、まあ飲んでくれや、最初の人がそんなことを言いながら前に来て酒を注いでくれたのがきっかけだった。次から次から入れ替わり立ち替り、私も飲めない方とはいわないが、こう攻め立てられては身がもたぬとちょっとでも拒むと、あいつの酒は飲めて俺の酒は飲めぬのかと絡まれる。

     まあ飲めや、せかされて、一口、なめるようにすする。
     もう少し飲めや、なんぼ凶作だって、先生に飲ますぐらいの酒はあるぞ。
     仕方なしにもう一口すする。まあ、仲良くやろうや、先生ももうこの部落の住人だもんな、頭を下げているうちに横で待ち構えていた人が入れ替わる。
     そうして、まあ、飲んでくれやということになる。
     私は一応は上座に座らされてはいるのだが最前から歓待されているのかいじめられているのか、わからないような心境になっていた。
     ひょっとしてとんでもないところに越してきてしまったんじゃないだろうか……。

     鷹栖町十六線十五号、そう所・番地をいえば味も素っ気もあったものではないが、このあたりを希望ヶ丘と呼ぶ。国土地理院の五万分の一の地図にもはっきりとそう出ているから俗称ではない。
     若い人たちが集い、学んで巣立っていった土地の名にふさわしかったと思う。私もその呼び名が気に入っている。
     希望ヶ丘、鎮守の想いも熱かったのだろう。
     新しい住人となった私たちも充分の祝福と加護を受けた。
     あれから二十五年が過ぎる。

  • 希望ヶ丘まで 2

     鷹栖町は人口およそ7600人、旭川市に隣接する広大な土地で、上川百万石の中核となる米作地帯だ。
     鷹栖の縁をたどれば多少はないわけでもなかった。
     私は春になれば山菜採りにこの町の奥に入り込んでいたし、仲間と畑を借りてとうもろこしを作ったりしたこともある。
     越して来いといわれている中学校にはかつて特殊学級があって、そこには二度か三度、陶芸の指導に行っている。なかんずく、この学校の最後の校長だった人の娘を、今、まさに私は高校で教えていた。しかしだからと言われればどれもこれといって取り立てて言える程の縁とも思えない。
     どうして私に白羽の矢が立ったものか、このあたりの事情はいまだによくわからない。

     女房に相談するとそれもいいんじゃないという答だった。私は長男で折があれば親の世話もしなければならないと思っていた。ちょうど住める家が二つある。そんなことも含めて親にも話した。親も迷わずに移るという。

     家族以外はみな反対だった。義父は土地、建物の名義をお前に書き替えてやるからそのままいろと引き止めた。方々に事業を展開している人だったから血縁につながる者を手元から失いたくはなかったのだろう。
     友人たちは異口同音に食えるならそんなど田舎に都落ちはやめろと言った。
     悪友の一人が目の前から消えるのが寂しかったのかもしれない。

     しかし話は動き始めていた。
     役場は思いの外積極的だった。
     金の手当てがつかないと泣きを入れれば借りられるように算段はつける、引越しにも手を貸すから心配するなという話だった。
     とにかく雪が降るまでには移れと、その一点張りだ。
     校長住宅と教頭住宅は私の家族と親たちがそのまま使う。一棟二戸の教員住宅は中を取り払って倍に建てまして工房にしたい、計画を話すと次の日には業者が来て、一週間後には工事が始まるといった按排だった。
     役場の窓口だった企画課には今の町長や副町長がいたのだが、ここまできたら何が何でもやり遂げるという気概に満ちていて私ももうぼやぼやしているわけにはいかなかった。

     そうして、-----十月十日、体育の日にまず親たちが引越した。約束どおり役場の連中がおんぶにだっこで面倒をみてくれた。
     十月二十日に私たちの家の引越し、二十三日が工房、窯や土練機など重量物はすでに業者の手で運び終えていたが、それでもよくもまあこれ程というぐらい物があった。自分でもいやになったぐらいだから役場の連中もよく最後までつき合ってくれたものだと思う。

     この年はこうして私にとっては忘れがたいものとなったが周囲の農家にとっても、また別の意味で生涯、記憶に刻み込まれることとなった。
     私たちの引越しの合い間を狙ったように二度、三度と大雪が降って刈取り前の稲をなぎ倒していた。田んぼはほぼ全滅の状態で近来まれにみる大凶作の年になってしまった。引越しで大汗をかいた連中も息をつく間もなく今度は援農にかり出されて、青田刈りの手伝いをさせられたはずだ。
     厄病神呼ばわりされずに済んだのは幸いというべきだろう。

  • 希望ヶ丘まで 1

     昭和五十八年六月のことだ。当時、私は旭川市豊岡に工房を構えていたが、ある日そこに突然、男が飛び込んできて興信所の名刺を差し出すと悪いようにはしないから、少し内容を教えてくれと言った。

     私の仕事は陶芸家、このあたりでは一般的なものではないから、隣近所を聞き回ってもこれという実態が浮かび上がってこなかったのだろう。
     私は茨城県笠間市の荒田耕治の元で修行したあと北海道に戻って義父の所有する空家を借りて独立、七年目を迎えたところだった。三十六才になっていた。
     作品を制作する本業の部分ではまだ暮らしていくのが心もとなかったが、それでも市内の教材屋と組んで道北の小中学校が授業で造らせた陶芸作品の焼成を一手に引き受けていて、これが思いのほか忙しかった。第二次ベビーブームの最中で学習指導要領には陶芸が入っていた。本当に何の面白みもない仕事だったが金の為と割り切れば金にはなった。
     もう一つ、数年前から高校の講師として週八時間工芸の授業を持つようになっていた。若い連中に囲まれるのは刺激になったし、固定的な収入もありがたかった。
     市内のデパートでも商品を扱ってくれるようになって、年に一回の個展も開いていた。とりあえず順調といってもいいのではないかと自分では思っていた。

     女房がいて子供がいて家庭は平穏だった。今、何かを始めようという計画はなかったし、探られて困るようなことがあるはずもなかった。
     だから、なぜと当然、私は聞き返したと思う。

     悪い話ではない、さすがにそれ以上は口を割らなかったが興信所もけっこういいかげんなものだ。探る当人から話を聞いてどうするのだろう。
     まだ今日ほど個人情報の保護にも過敏ではなかった。腹をくくって私は問われるままに吹けるほらは吹き、読めるサバは読んで答えることにした。きっと暇な時間帯だったのだ。

     それからちょうど二週間後、今度は鷹栖の役場から人が訪ねて来て統廃合で空いた校舎が一つあるが、そこに越して来る気はないかという話だった。無償、無期限、無条件で貸すという。
     私は今の義父の家屋がそのままいつまでも借り続けられるとは思っていなかった。なにせ坪十七万円の土地が三百坪に敷地八十四坪のコンクリートブロックの工場だ。もともとは洗車場だったものだが営業不振で止めてしまった。次いで何をしようという予定がなかったからとりあえず貸してくれたが誰がどう考えたって、焼きもの屋風情には贅沢すぎる。
     そのあたりまで調べがついていたものかどうか、たしかに悪い話でもなさそうだが即答できることでもなく、考える時間をもらう事でその日は終わった。

  • タケⅡ

     その時、雀荘で卓を囲んだその一人がタケだった。
     同級だと紹介されたが顔を見た記憶がない。けげんな気持ちが表情に出たのだろう。
     去年は一級上だったんだ、おととしは二級上か、来年は間違いなく後輩だ、すかさず棚沢が付け足した。
     大学に籍を置いてさえいりゃあ、とりあえず親は納得するからな、俺はぐずぐずいわれねえ時間さえあればそれでいいんだ、タケもそう吐き捨てた。
     こいつ、おとなしくやっていりゃあ、一生金に困ることなんてないのにマージャンに狂ったばかりに勘当寸前なんだ。黒くくすんだねずみのような顔貌からは想像もつかないが大金持ちのおぼっちゃんなのだという。どうしたって表舞台の金持ちの子には見えない。古紙や空ビンを取り仕切る乞食のような老人がそこら辺の公務員など足元にも及ばぬ豪勢な暮しをしていると聞いて目をむいたことがあるがその類なのだろうか。この大学には華僑とか、在日とかその他得体の知れない親を持つ学生が少なくなかった。ひょっとすると私の知らない世界の住人であったりする可能性は充分あった。
     少なくても二つ三つは年上に見えるが松木までもが気安くタケと呼び捨てるのもその辺の事情が絡んでいるのかもしれない。
     私も皆にならってタケさん、タケさんと言っているうちに正式な名前は聞きそびれた。

     私とタケは対面の席を引いた。偶然だが互いがもっとも意識しあう席順だ。
     強いと聞いたから私は当然タケの手元に注目した。圧力は感じさせなかったが手馴れた牌捌きだった。理牌しない打ち手に会うのは久しぶりだった。私も理牌を止めて盲牌だけで手牌の出し入れをし、目は河から動かさなかった。つまらぬ見栄だが久しぶりに自分の実力が評価されると思うと自然に力が入った。
     タケも私にターゲットを絞ったことが感じられた。
     棚沢と松木はノーテンキにビールを浴び、よた話に笑い転げながら牌をいじくっている。

     私は小学生の時からマージャンを仕込まれた。
     母はやっぱりマージャンが好きで仕方なかったのだ。
     大戦時、病院船で幾度も大陸を往復した従軍看護婦だった。尉官待遇というから少なくても二、三十名の部下を掌握していたはずだ。病院船は返りは蜂の巣をつついたような大騒動だが往きは呑気なもので母も軍医たちを相手に四六時中マージャンにほほけていたという。
     当時が母の一番、輝いていた時代だったのだと思う。よく想い出話を聞かされた。
     そういう過去を総て封印して、結婚したのだったがマージャンだけは捨て切れなかった。
     男だったらマージャンぐらい一人前に打てなくては、というのが母の言い分だったが実際には一人でもトイツが欲しかったのだろう。
     私は小学生で大人に混じってマージャンを打った。
     母は華やかなきれいなマージャンを打った。強かった。私はそんな母にほめられるよい弟子だった。
     マージャンの他に母が私に望んだのは読書することだった。本さえ手にしていたら安心しているふうがあった。そして私は性格的にも深くそれらに馴染んだのだ。
     文章はしょせん語彙がすべてだ。眼から血を流す程の読書を続ければ多少の文章など誰にだって書ける。私は作文でもちょっとしたコンクール荒しだった。
     母はいったい私にどんな人生を想定したのだろう。ひょっとすると私が障害児になった途端、期待の上半分はあっさりと吹き飛んだのかもしれない。
     マージャンと読書、私は今、母から手渡されたわずかな資本を元手に一人歩きの二歩三歩を始めたところだった。
     よくやっているとほめられてもいいようなものだ。

     半荘四回、四時間あまりがまたたく間に過ぎた。
     結果は私がトップで棚沢が二着、タケがしょぼしょぼの三番手で松木の一人負けだった。
     清算を済ませて、外に出ると辺りはもう暗かった。
     飯でも食うか、勝ち逃げがいやで私が誘った。
     気にするな、じゃあな、棚沢と松木は片手をあげると離れていった。そろそろ別の遊びが始まる時間帯なのだろう。午後六時を過ぎていた。
     俺も今日は行くけど、今度一度つき合え、あとに残ったタケが言った。
     いいよ、半分はその場限りの愛想のつもりで答えたのだが、じゃ連絡先を教えろとタケはけっこうしつこかった。
     私もタケに見込まれたのだ。

  • 贋自分伝(おおよそ事実 だがすべてをそうとられても困るという意味で)より タケⅠ

     お前さんの擦れてないわけでもないくせに妙にうぶっぽく見えるところがいいんだよな、どうだい、しばらく俺と組んでやってみないか、タケは銜え煙草の煙に顔をしかめながら片手でビールを私のグラスに注ぎ足すとそう言った。
     私は軽く頭を下げてビールを受けた。話の要領がよく飲み込めていなかった。おごるからちょっと出て来いと誘われて、深く考えもせずに出てきたまでだ。
     しかしけっこう打つよな、昨日今日覚えたマージャンじゃないだろう。
     開店間もない居酒屋には客はおらず、店員たちもまだ仕込みに余念がなかった。奥のボックスに壁を背にして座ったタケはせわしげにグラスを空けるとビールの追加を店員に言いつけてから、どうだと念を押した。
     どうだと言われてももう少し具体的な話をしてもらわないことにはどうとも答えようがないのが私の正直な気持ちだった。だいたいタケとはついこの間、初めて顔を合わせたばかりだ。友人と呼ぶのさえはばかられる。
     しかし、その存在に関心を持たされてしまったことには違いなかった。

     三日前のことだ。
     午後の講義が突然休講になって、しようこともなく食堂で煙草をふかしていたら、同級の棚沢に声をかけられた。
     トイツが足りなくて探していたところだという。意識したわけではなかったがそういう展開を心持ちにするところがあった自分を否定することは出来ない。マージャンは好きだし、かなり率のいい収入源になっている。

     棚沢とは一年の時、レポートを代筆してやったことで親しくなった。何の苦労もしないで育つとこんな大人が出来るのかもしれない。態度がでかくて人当たりがよいという矛盾した要素を大きな図体に違和感なく同居させていた。大学を自分の庭ぐらいに思っているのは付属高校から上がってきた奴らの思い上がりだが、それでも誰彼の別なくやたらに突っかかったりしないところはやっぱり育ちのよさなのだろうか。赤い外国製のスポーツカーを乗り回す姿を構内でもよくみかけた。
     どうしようととりまき連中を相手に大騒ぎする声を小耳にはさんだから、書いてやろうかと買って出たが原稿用紙五枚ぐらいのレポートにそれ程恩を着せるつもりはなかった。しかし棚沢はどういうわけか、いたく感動して、とっておいてくれと万札を押しつけると以来、私を友人扱いするようになった。

     けっこうマージャンが打てるとわかってからはちょくちょく仲間内の遊びに誘われるようになったが私に小遣い銭を稼がせる魂胆もあってのことだったろう。彼らから見れば私は目を覆いたくなるような貧乏学生に違いなかった。
     たまにまるで畑の違う分野のレポートを書かされるのにはまいったが、それだってアルバイトと割り切れば悪い話ではなかった。
     図書館で資料を当って幼児の感情表現とその対応についてなんて保育論めいたものを仕上げたりした。どうせ今ちょっかいを出している短大部の女の子に安請け合いをしたのだろうが、それにはどんな点数がついたものか。文句を言われたことはないからとりあえず及第は出来たはずだ。

     それで他のメンバーは、すでに付き合うつもりになっていたが一応聞いた。
     一級下の松木、お前も何度か打っているから知っているだろう。
     私は棚沢の子分みたいにつきまとう松木ののぺらっとした顔を思い浮かべた。そいつも大学をマージャンのトイツか女をあさるところとでも心得ているような奴だったが、いくら負けても機嫌よく金を出すので相手としては異存がない。
     もう一人は初対面だな、俺の古いつれだがちょっと変わっている、雀師になるってほざいて、ここ二、三年はマージャンのことしか考えてねえんじゃないか、打つぜ、だけど、まあ、お前となら五分かな。

  • あの頃の酒Ⅲ

     あの頃はまだ女の子たちには飲酒に対する罪悪感や警戒感があったと思う。戦前の教育の残滓のようなものだが、今日のようにいくら飲んでもけろっとしているうわばみみたいな女性ばかりが増えるとそんな時代が懐かしい。
     コンパと称して男女同席の飲み会もしばしば行われたが、たとえ出席してきても仲間同士でかたまって、酒を口にする者はめったにいなかった。
     もっともみゆき族やフーテンもいたわけだから、中には今しがた人でも食ってきたような真赤な唇をしてグラスを片手に煙草を吹かすけばいおネエちゃんたちもいないわけではなかったが、他の女の子たちからは完全に浮き上がっていたし男子だってあえて近寄ろうとする者はいなかった。
     だからこそ誘ってOKをもらった時にはやったねと思ったと当時の友人は今でも語る。一対一ではちょっときどってカクテルなんかをご馳走したらしい。
     当時は何度目かのカクテル・ブームで私たちは競ってそのうんちくを仕込んだものだ。創刊されたばかりの男性週刊誌が牽引役を果たしていたのだろうか。ちょうどイアン・フレーミングの007・ジェームズ・ボンドシリーズの映画が大ヒットしていて主人公がウォッカベースのマティーニをドライで、なんてキザにきめていた。その影響も少なくなかったと思う。
     ブラッディー・メアリーだのスクリュードライバーだのといった恐ろしいカクテルを飲まされて、そのあとひよこちゃんはどうなったのだろう。

     ウイスキー・ソーダもカクテルというらしいからコーク・ハイも当然カクテルということになる。男同士では居酒屋で日本酒が多かったが、女の子が混じると決まってバーに繰り出してコーク・ハイを飲んだものだ。ウイスキーのコーラ割り、あれも恐ろしい飲み物で口当たりはほとんどコーラと変わらないからぐびぐび飲める。しかし、いい気になって飲んでいると、突然、ガクッと酔いがくる。
     私は日本人の約半数がそうだというアルデヒド脱水素酵素2型の部分欠損者だから好きなくせに酒には弱い。そうしてひどい二日酔いをする。自己嫌悪にかられてうんうん唸りながら一日、布団から抜け出せない。

     飲む度にそんなことをやっていたが酒には人生の機微も随分と教えてもらった。
     
     ある時、五、六人で居酒屋に入り、飲んだものの、飲み足りなくてどうだ有り金をはたいてもう少し飲むかと衆議一致した。千円、二千円、とそれぞれがポケットを裏返すようにして金を出してさらに飲んだ。
     じゃあな、いいかげん酔って皆と機嫌よく別れたものの無一文の私はそれからアパートまで小一時間程歩かなくてはならない。歩くのは苦手だが自業自得だ。
     二、三町ふらふらと歩いて、赤信号で立ち止まっているとすらっと通り過ぎたタクシーのうしろにさっき別れた仲間の一人が乗っていた。
     あれを晴天の霹靂というのだろう。腹が立つよりも自分と自分以外の存在との距離を改めて考えらせられた。
     人づきあいが悪いのは生まれついてのものではない。

  • あの頃の酒Ⅱ

     幸か不幸か、私たち団塊の世代は赤線や青線にお世話になる機会はなかった。もっともバクダンだとかカストリという怪しげな酒で目がつぶれたり死んだりすることもなかったから差し引きは零か。
     高度成長に比例するように酒の品質もどんどんよくなっていた。
     ビール大瓶一本百二十七円、缶ビールなどという気の利いたものはまだなかった。日本酒二級一升五百五十円、清水崑のカッパの絵が頭に刷り込まれていて、何かとこのメーカーのものを買った。
     トリスを飲んでハワイに行こうというコピイが大流行だったが一本三百八十円のトリスはあまり飲まなかった。悪くてもその一ランク上のレッド。レッドはまだ丸ビンで五百円だった。
     大衆の酒、焼酎は……と唄いはしたが焼酎も飲んだ記憶がない。ちなみに煙草も新生を吸う奴はいなかった。みんな、ハイライトかセブンスター、馬鹿が一人いきがってゴールデン・バットを吸っていた。一箱二十本入り三十円、とんとんと詰めると上の方三分の一程が空になる。火をつけるとパチッパチット爆ぜて、下手をするとズボンを焼いた。中也はこんな煙草のどこがよかったのか。
     ともかく、学生はけっこう贅沢だった。昭和元禄と揶揄される所以だろう。

     なにかというとすぐ酒になる。本当によく飲んだ。アルバイトの帰りがけ居酒屋に流れることも少なくなかったけれど、大概は誰かかれかのアパートに集まって車座になって飲んだ。
     親元を離れて、一人立ちしたものの、まだ一人は心もとなく、とりあえず群がったのだろう。私も構えていた割には誘われると断らなかった。
     そんな席に女の子が混じることはまずなかったと思う。下卑た猥談で盛り上がるなんてこともなかった。まあ、ほらを吹ける程の経験もなかったのかもしれないが、酒にほてった頭で声高にけっこう高級な議論を闘わせたものだ。政治、文學、人生、気の合う奴も合わぬ奴もごったごたで、みんな、それぞれ勝手なことをしゃべっているようでそれなりにけじめもあったから、めったなことではけんかにもならなかった。
     そして、お決まりのように誰かが酔いつぶれ、誰かが吐く。妙なもので介抱にまわると酔いは醒める。肩を貸して外に連れ出す奴、手際よく後始末をつける奴。
     ほてった頬を風にさらしながら夜道を帰ると金鳳花の匂いが鼻をくすぐったりして青春だった。
     あれは今、思い出しても懐かしい青春だった。

  • あの頃の酒Ⅰ

     昭和四十二年の春、私は東京の小さな末流の大学にもぐり込んで家を出た。私は拗ねた十九才で斜に構えることでかろうじて自分の矜持を失わずにいたが、すでに夢だの希望だのがかなう立場にないことは承知していた。いや、そう言いながらパンドラの棺のたとえのようにポケットのすみには羽虫が一羽、ひっそりと息づいていたのだったろうか。
     ともかく閉塞状況から解放されたのはうれしかった。
     
     時は昭和元禄のまっただ中、GNPは世界第二位に迫る勢いで伸びていたが、当然、その負の半面、公害や薬害だの都市問題も顕在化していた。喉元を過ぎて、笑って見ているが、現在の中国、北京の状態とそれ程変わらなかったのではないかと思う。

     アングラ酒場、フォークゲリラ、フーテン、情報はリアルタイムで地方にも届いていたが、しかしなんといってもここにはその実体があった。
     街を歩けば髪も髭も伸ばし放題の若者たちがビルの脇にけだるそうに寝そべっていた。ギターを抱えて大声で唄う若者がいた。膝を抱えて聞き惚れる少女がいた。そういう存在をまるで無視して忙しく行きかう人、人、人の波があった。
     階段を上がっていて、ふと目を上げるとミニスカートの奥がまる見えだった。慌てて視線をずらす間もなく罵声をあびていた。どぎもを抜かれて腹が立つまでには時間がかかったが、馬鹿はどっちだ。
     そうして革命という緊張はなかったが実にしばしば暴動が起きていた。
     よくも悪くも東京だった。

     大学はどこでも学園紛争を抱えて混乱していた。赤だの青だの白だののヘルメットをかぶり、タオルで顔を覆った連中が三分角の角材を片手に集団ヒステリーで熱くなっていた。
     それはそれでノンポリと呼ばれた私たちのような存在にはありがたいことだった。授業がサボれるというより学校が機能不全に陥って授業そのものが成立していなかった。
     早々に大学に見切りをつけると、私はアルバイトとおぼえたての酒に関心を集中していった。
     自分でも意外だったのは私には妙にセールスの才能があったことだ。
     出来たての友人に誘われて始めた日給プラス歩合の訪問販売の仕事では常に上位の成績だった。二万とか三万という当時の金額は今日だったらおよそ三倍程の値打ちにもなるだろうか。日雇労働者(ヨイトマケ)の日当が千二百三十六円の頃だ。毎月のようにそれぐらいの歩合があった。
     そっちの方の才能を伸ばしていれば、また別の人生だったかもしれない。

  • 増毛へ 2

     増毛は終着駅だ。ホームの先で線路は途切れ、いかにも車止然とした車止がここで写真をお撮り下さいと言った感じで設置されている。一瞥してやり過ごそうとしたが声がかかり写真。とりあえずスポンサー付きの身だ。
     十数人程の降客があったはずだが、そんなこんなの間に皆散ってしまい、駅前には私たち二人だけが残る。
     たしか駅の裏手は港だったはずだと、古い記憶が蘇ってくる。

     昔は一時、よく来た町だ。この町へと言うより、その先の別刈だの何だのという小さな漁村へ。通りすがりだがラーメンを食べたり飲み物を買ったりはよくしたものだ。
     私は若く妻や子がすでにいたが、まだ夫にも親にもなりきれずに毎日のように飲んだくれていた。つるむ連中は皆、私より若かったが最も年若な寿司屋の職人が店を持った矢先で私たちはそこでたむろした。たまに家にいると呼び出しの電話がかかってきたりする。朝まで飲んで店を閉めると海に向けて車を走らせる。増毛へ行こうは私たちの合い言葉だった。
     浜で漁の後始末をする漁民に近づいて章魚だのほやだの生魚をただみたいに買い叩き、戻るとそれを肴にまた酒盛りだ。そういう生活だったからさすがに女をかまう余裕はなく、それが唯一、妻が私を見棄てなかった理由ではなかったろうか。
     あの頃、駅裏はいつ来ても工事中だった。
     今は車道も歩道も家並も小奇麗に整備されている。ただどこにも人の気配がなく、何か休業の遊園地に紛れ込んでしまったようだ。
     あっちですね、と佐々木さんが指指す案内板もこじゃれている。
     国稀酒造、徒歩五分、しかし私の足でも五分とかからなかったろう。