弥助が十五才の時だ。
その年の盛夏のある日のことだった。
じっとしていても汗ばむ程の陽気で日はまだ中天にぎらついていた。
野良で雑草を刈っていた弥助がふと顔を上げると女が一人、街道筋を北に向って急ぎ足で通り過ぎるのが目についた。
町娘ふうの若い女だった。
女の一人旅か、思わずこらす目に着物の紅が染みた。
注意して様子を窺っても、やっぱり連れは見あたらないようだ。
村を抜けるとやがて嶮しい峠がある。昔から鬼が出ると恐れられるところで、いまだに夜には男でもめったなことでは歩かない。
しかし、この街道のそれが一本道なので日中、人の往来はある。
それにしても若い女の一人旅は尋常ではなかった。どんな仔細があるのか知らないが無用心にもほどがある。
弥助はすばやくあたりを見回した。
すでに村の誰かが目をつけているかもしれない。
だが畔の向うに一心に草を刈る母親の姿が見えるばかりで他の人影はないようだった。
それならば俺がやってやろう。
旅人を峠のどこかで脅かして金品を揺り取る、そんなことを男たちが時々やっているのは村の誰もが知っていた。
若衆宿でも年嵩の若者たちが得意気に吹聴する。夜は長い。盗み出した酒に酔い、顔を真赤にして、微に入り細をうがった仕方話は神楽でも観るようで弥助たち年少のものの心をいたく刺激した。
土下座して泣くものがあると一人がいうと女ならたいてい自分から帯を解くぜともう一人が話をついで、どこまでが本当でどこからがまやかしか判らないような話が延々と続く。
普段、虐げられるだけの百姓が束の間、主役を演じるのだ。こんな痛快なことはない。
いずれ機会があれば自分もと考えるのはなにも弥助にかぎったことではないだろう。
念には念をということもある。さらにしばらくようすを見極めてようやく得心がいくとやおら弥助は峠へ走った。
女の足だ。いくら急いだにしろ多寡が知れている。
案の定、峠の中腹あたりで追い付くと即かず離れず弥助は女の様子を窺った。
白足袋に包んだ小さな足が健気に坂道を踏み締めていく。
帯の結び方一つにも村娘とは違った華やぎがあるようで、弥助は目の前の獲物にほくそ笑んだ。
いざとなるとやっぱりこの女も自分から帯を解くのだろうか。
待つほどもなく機会はきた。
小用でも催したか女がふいに道を逸れて、下草を払った杉木立の中に入ったのだ。
あたりを見まわして人気のないのを確めると、すかさず弥助も後に続いた。
目算通りに事が運べばなんの問題もないはずだった。女は跪いて拝むように金品を差し出すだろう。
しかし裾を捲ってしゃがもうとした女は弥助に気がつくと、ありったけの声で叫んだ。
思いがけない大声が森中に反響して、弥助を動顚させた。
とにかく黙らせなくてはならない。
あわてて跳びついた弥助に女はさらに激しく抵抗した。
揉み合いながら弥助も腕や肩を引っ掻かれ噛み付かれて幾度となく呻き声を上げた。
汗とまじった濃厚な女の体臭がますます、弥助の正気を奪っていった。
それ程長い時間ではなかったような気がする。
ふいに女の体から力が失せた。洩れ出た小便が弥助の着物の裾やはだけた足を濡らしていた。
殺したという意識はまるでなかった。
だが女は目を剥いて死んでいた。
呆然自失の態でしばらく立竦んだあと、ようやく我に返った弥助は自分が今、どんでもないへまをやらかしたことを悟らなければならなかった。
この先どうすればいいか、すぐには判断もつきかねた。
それにしても人間がこんなにあっけなく死ぬとは思いもしなかった。
これでは鶏よりも簡単ではないか。
弥助は子供の頃、父親に鶏を殺すように命じられた時のことを思い出していた。
言われたとおり首を刎ねて放るとなんと鶏はそれでも五尺も跳ね上がり弥助を驚愕させたものだ。
以来、弥助はずうっと生き物を殺すという行為を心のどこかで恐れてきた。
それがなんとしたことだろう、今こうして人を殺してしまったのだ。
さっきまでの軽薄に高揚した気分はあっけなくしぼんで、ただ詮方無い悔恨が身を攻めていた。
人を殺すと殺されるというのが弥助が持つ素朴な常識だった。
悪いことをすればそれなりの罪を受けるのは当然だ。
しかし俺には殺す気なんてまるでなかった、弥助は泣きたいような気持で思った。
なんとしてもまだ死にたくはなかった。
どうかして助かる手立てはないものだろうか。
もし助かる道があるとすれば今、この事実をなかったことにするしかない。幸い人には姿を見られていないはずだった。
とにかく女を葬ろう。
弥助は手近の柴を拾うと女の傍らに穴を掘り始めた。
腐葉土が堆積した地面を掘るのは存外、たやすかった。
それでも女を埋め終るには一刻程もかかったろうか。
天からも地からも蝉しぐれがわきかえっていた。
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