標準的にはメンコが正しいのだろうが、バッタ、ツタンケなど各地方ごとに独特の呼び方もあったという。
私たちはパッチといった。
北海道は広いからどこでもそうだとはいいきれないが居酒屋で雑談の合間に聞き及んだかぎりでは北見でも余市でもやっぱりそう呼んでいたそうだ。
黄ボール紙に武者絵などを印刷した薄紙を貼って、丸く切り抜いたもので、直径20cmに及ぶものから、3cmぐらいまで7、8種類もあったろうか。
しかし10cm前後のものが扱い具合もよく、もっとも使われたと思われる。
それを釘や蝋石で四角い囲みを切った地面において、交互にうちあい相手のものを裏返したり、その枠からはじき出したりして取る。
その折、下手をして自分のパッチが裏返ったり、枠から出るとそれは相手のものになったのではなかったか。
敷石の上や、当時は木製だったりんご箱をさかさにした、急造の台などもさかんに使った。
粘り強く相手を打ち負かしていくお気に入りのパッチがあって、ここ一番という時には、それを使いたいのだが、相手に取られるとその分打撃も大きい。
そこらあたり子供心にも大いに悩むところだった。
小学生ぐらいのこどもの遊びで中学生になるともう見向きもしなくなるのだが男の子なら誰もが一時は夢中になったことがあるはずだ。
どういうわけか季節の変り目になるとはやっていたような気がする。夏には夏の、冬には冬の遊びがごまんとあったせいかもしれない。
秋口や春先、鼻水を啜りながら興じたものだ。
俺たちは家の中で座ぶとんの上でやったとがんばる友もいたがそんな時代もあったのだろうか。彼は私よりも一周りも若い。
私たちには普段、子供が家に集まって遊ぶなど考えられないことだった。
単純なだけに技術の優劣が如実に出た。
おこしという背負い投げのような恰好から手の掌ほどのパッチを勢いよくうちつけて顔ほどもある大型のものをひらりと返す、そんな大技を見せつけられて呆然としたこともある。
水で濡らして、張りをとったり、まわりを折り崩したり、それぞれに工夫があったし、人知れず練習などもしたものだ。
ばふらだのてっぱだの微妙なずるも当然のように存在した。
ちなみにばふらとは上着の裾のボタンを2つ3つはずしておいて手をうち下す時その風も利用しようというもの、てっぱとは一瞬の隙をついて、パッチのかわりに指先ではらうことをいった。
ばふらなし、てっぱなしと、事前に宣言して、勝負を始めるのだがどちらの技も巧妙に操る者がいて、ぼやぼやしているといいようにしてやられる。
私はこういった遊びにはからっきし才能がなく、親から買い与えられたパッチを右から左に供給する役目だったからこういったインチキにもどれ程カモられていたかしれない。
そういえば身代ぼろという取決めもあった。
どちらかの手持ちのパッチがなくなるまで勝負を続けるという約束で、普通に相手をするのには私はあまりにも手ごたえがなかったのだろう、身代ぼろでなら遊んでやると挑まれて、泣く泣く身を引いた記憶もある。
身代ぼろ、たいしていい思い出でもないはずなのに口にすると鼻の奥がつんと痛む。
もうかれこれ60年も昔の話だ。
投稿者: 片山一
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パッチ
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新年
どうしてこの日を年の始めと定めたのかといったことを考えている。
とりあえず掃除をすませ、鏡餅も飾った。風呂に入って髭もあたった。
いささか腹もへったし年越しの小宴が待ち遠しい。
しかし女房は依然、気忙しく立働いている。思いどおりに事が運んでいない苛立ちが身体中から放出されているようだ。
こういう時にはじっと身をちぢめているのにかぎる。
おかしく目についてからまれたりするとおもしろくないことになる。そういうことはもう充分承知しているのだが気になりだすと止まらない。
女房の目を盗みながら書棚のまわりをうろついて、あっちの書物、こっちの辞典と、とっかえひっかえ引っぱり出しては調べている。
まさに親の目を盗んでいたずらをする幼児のような心境だ。
おかげで暦法については蘊蓄が増えた。
太陽が春分点を一順するのを以って一年とする、これが今日の暦の基準になっているらしい。
新月から新月までの月の満ち欠けを一ト月としたのが太陰暦、こちらの方が古代人には理解しやすかったのは納得がいく。
なんと四千年も以前から暦は存在したというのだから人類の叡智も大したものだ。
しかし、その日を正月とする、その謂れはどこにも出ていない。
つまらない情報ばかりが増えてくる。
どうも年の始めの規準は、時代や地域でまちまちであったらしい。
旧正月という言葉はいまでも使われるが、実際、中国やベトナムではこの日を年の始めとしているようだ。
春分や秋分、冬至や夏至を正月とする国もあったというが、これはこれで理論的なものだろう。
そもそもは冬至をもって一月一日としていたと考える人もいる。それが閏を入れなかったから数千年の間にずれたのだと説明する。なるほど。
今はおしゃか様の花まつりということになっているが、古い日本では四月八日を年の始めとしていたという説もあった。
農耕の民族が新春のその日を選んだその心もわかるような気がする。
気分一新、さぞさわやかな気持で農作業にも取り掛かれたことだろう。
おまたせ、おまたせ、ふいに女房ができたての茶碗蒸しを運んできて、いつの間にか食卓もおゝよそ斉ったようだ。
私もあわてて本を閉じると本棚に押し込んだ。
今年は本当にいろいろなことがあったがなんとか無事にすごすことが出来た。
新しい年にはどんなことが起るのだろう。 -
「棚ぼた」顛末記
それであんたは綾子とは親しいのかと男はいった。
いきつけの居酒屋だった。
男とも目顔で挨拶を交す程の面識はあった。
だが三浦先生をいきなり綾子などと呼び棄てにするとはなんだ。
私は不快な感情を露骨に顔に出したかもしれない。作品展の案内葉書を店に置いてもらうのが目的で、しかし手ぶらで帰るのも不調法な気がしたから、とりあえずカウンターに座ってビールを頼んだところだった。
私が渡す葉書の束を見ていたのだろう。
手を出してマスターに所望すると一瞥して先生の推薦文に目を止めたらしい。
マスターとのやりとりの途中で腰を折られた私は無視して話を続けようとしたがすでにいい具合に酔った男には頓着なかった。
なあ、あんた、そんなに綾子と親しいんなら、俺に色紙を一枚書いてもらってやってくれよ。この手の話にはうんざりしていた。
先生の知遇をうけるようになって、私にもそんな依頼がときどき舞い込むことがある。
大方は間髪を容れずにお断りするがなかにはやんことない事情というのもあって、引き受けざるをえない場合もあった。
そんな時は本当に困った。
先生は無作法を嫌われる。
特別な因縁があるわけでもない私を、先生がもし心安く思っておられるとしたら、それは分を弁えた対応をしてきたからにちがいなかった。
その先生が作品展のたびに推薦文を書いて下さっている。
望外の幸せというべきでそれがどれ程私の活動の助けになっていることか、経済効果だって馬鹿にならない。
それ以上を欲張って、すべてを失うような真似はしたくなかった。
余計なことに首を突っ込むべきではない、それは人生の知恵のようなものだ。なんだって、またそんなに三浦綾子なんだろうね、マスターが場を繋ぐようなことをいった。
だってよう、おまえ、氷点なんか泣くぜ。
氷点という言葉は思いがけなく胸に反響した。
先生のあまりにも有名なデビュー作、だけど私はまだ読んでいない。
案外、こいつ、すごい本読みだったりして、私は密かに聞耳をたてた。
大手スーパーで鮮魚を担当しているという男はいつも、正面に入場証のタグを貼りつけた軍式キャップを被っている。その帽子がなかったら、人はおそらくその筋の者だとして敬して近づくことはなかっただろう。
酒焼けした赤ら顔からはどう見ても文学的な雰囲気はただよってはこない…、しかし人は見掛けによらないともいう。
だがやっぱり、そういう恐ろしい話にはならなかった。小説は長いからな、長すぎて読みきれなかったが、テレビで観た、かゝさず観たぜ、島田陽子がとにかくかわいかった。
映画の内藤洋子の方がすれていない感じでもっとよかったんじゃないですか、マスターが調子を合わす。
白けていないでおまえも飲めよ、そういって男にビールを注がれたのはその時だった。しかし、なんだな、旭川のあたりまえの風景でもテレビを通すとちょっと違って見えるから不思議なものだな。
席を立つのならこのあたりが潮時だったのだろう。
なのに私は話の成行きが気になって店を出そびれてしまった。
別に難しい注文がつくわけではなかったら色紙の一枚や二枚、手に入らないこともないのだ、注がれたビールに口を接けながら、私はそんなことも考えていた。
私は聖書の言葉を書きつけた先生の色紙を秘書の八柳さんが管理しているのを知っていた。
突然やってくるファンや教会のバザー用に先生は色紙を書き溜めておく必要がおありだったのだろう。
八柳さんにたのめば直接、自分でお願いしなくてもきっとなんとかしてくれるはずだ。
それはすごく気持が軽くなる思いつきだった。
私はぐいとビールを呷った。しかし、俺は仏教徒だからな、耶蘇の言葉じゃありがたくもなんともねえや、そういって、男はだだをこねるのだった。
どうせなら、男は度胸とでも書いてもらってくれや。
私が頭を抱えるとマスターは大笑いをした。
それからも私は男を説得しようと努力をしたのだ。
しかし男はどうしてもうんとはいわなかった。
ただ酒を飲んだ分、私の方に分が悪かった。
なに、いくつも逃げはうってきたんだ、いよいよになれば握り潰したってかまわないんだ、私は酔った頭で自分に都合のいい言訳を考えていた。誰がどう考えたって、三浦先生に“男は度胸”はないだろう。
先生には何にも伝えることはない。しばらく一人の胸にしまっておいて、ころあいをみて、やっぱり駄目だったと頭を下げる、厭味の一つくらいはいわれるかもしれないが、それで万事収まるはずだ。
そう心を決めるともう私は悩まなかった。
だからあの時、なぜぽろっとそんな話を先生にしてしまったのだろう。先生は私の工房で寛がれて、とりとめのない雑談に興じられていた。
その折だった。自分でもまったく思いがけず“男は度胸”の一件が私の口からこぼれ出してしまった。
心理学的には説明がつきやすい行動なのかもしれない。
私はずるいが小心者でもある。
あら、と先生は気にとめられて、なんだったら、私、書いてあげましょうかと続けて、おっしゃった。
先生には、そういう茶目っ気たっぷりな一面がある。ひょうたんから駒というべきか、はたまた棚からぼた餅とでもいうべきか、とりあえず、おいしそうな話になった。
おいしい話ならじっくり味わうにこしたことはない。先生の色紙を仰々しく差し出しながら私はたっぷりと尾鰭をつけて手柄話を語った。
それでお礼はどうしたらいいんだ、うろたえ気味に男がきいた。
一升下げて挨拶にいくか。
先生はお酒はたしなまないから、と今度は私があわてる番だった。なんてったって特別なものだからね、横からマスターが煽るようなことをいう。
十万といや十万、いや金で買えるものじゃない。
あゝだこうだと悩む男に私はただ酒を飲みながらつきあって、労働奉仕なんてことを先生は喜ばれるなどと知恵をつけたりした。
それでその冬、男は先生のお宅の屋根の雪下しをすることになった。
私までも先生や八柳さんに感謝されて、ずいぶんとおもはゆい思いをしたものだ。男は家宝にするといっていたがその後、色紙はどうなったことだろう。あれから四半世紀が過ぎる。
そのうち、なんとか鑑定団に、先生の筆なる男は度胸の色紙が出品されてその真贋が問われたりすることもあるかもしれない。 -
三浦先生のロクロ
綾子先生は本当のところ、どれぐらい焼きものに関心がありだったのだろう。
思いがけない知遇を得るきっかけもおそらく私が陶芸家であったことと無関係ではなかったと思う。
私が義父の土地を借りて独立したのは昭和51年6月のことだが、工房が先生のお宅から歩いて五分もかゝらない場所であったのはまったくの偶然だ。
その偶然に私はどれ程感謝したかわからない。6月14日、パリ祭の日に私は開窯した。別にそれに特別な意味があったわけではないがちょっと気取ってみたかった。
しかし不思議なものだ。いったん気に入ってもらえるとそんなことさえ大いに先生を喜ばせることになった。
開窯といっても、その日に窯に火が入るわけではなく、まず中に詰める作品から造らなくてはならない。
最初からけっこう大きな窯を据えたから、その分、作品造りも大変だった。
先生がいらっしゃった時もやっぱり私は一心にロクロを引いていたような気がする。先生はすでに流行作家としての地位を確立なさっておられて、私もそのお顔は存じあげていた。思いの外、小柄な方だというのはその時の印象だ。ついでに言っておけば私は文学青年の成れの果だがまだ先生の作品は読んだことがなかった。29歳、小難しい、生意気盛りの青年だった。
その時は、なにか時代小説を書いているのだが、その中に焼きものの話がしばしば出てくる、ついては焼き物にかゝわる職人の特殊な言葉のようなものがあったら教えてほしいというようなお話ではなかったろうか。
ぼろが降る、とか窯きずが出るとかそんな言葉をお教えしたような気がする。私は人生最初の著名人との邂逅に舞い上がっていた。それを態度に表わさないよう苦労した記憶がある。
先生は話の合間には手を止めるな、仕事を続けろというようなことを仰った。
仕事の邪魔をしたくない、そんな思い遣りもおありだったことと思うが作家としての好奇心もほのみえていた。
そうして物造りはそんな眼差には過剰に反応してしまう。だいたい初対面の相手に平気で仕事姿を見せる職人などまずいない。
なんなのかと思惑だけが先走るぎこちない対応だったにちがいない。そのなにがよかったのか、それをきっかけに先生はしばしば工房を訪れて下さるようになった。
たまに光世さんがごいっしょの時もあったが先生がお一人のことの方がはるかに多かった。
光世さんは焼きものより将棋やカラオケの方に興味がおありだったのだろう。本当に先生は好奇心の塊のような方だった。
粘土のこと、窯のこと、道具のこと、時にはノートを片手に次々と質問を浴せられた。
いいかげんな返答などしようものならたちまち鋭い突込みが入る。
私は口頭試問を受けているような錯覚さえ覚えたものだ。
しかし先生が実際に粘土を触れられるまでにはさらにしばらく時間がかゝった。
私には妙な遠慮があった。
先生はすでに充分おいそがしく、取巻きの人たちもいて、新参の私が独占する時間などありそうにも思えなかった。
先生も積極的な姿勢をお見せにならなかったのは似たような理由からだったろう。
だから先生がすでに焼きものの道具一式をお持ちであったことを知った時の驚きは小さくなかった。私が先生のお宅に出入りを許されたのは最初の出会いから三ヶ月もあとのことだったろうか。
導かれるまゝ付いていた物置の奥に立派な窯やロクロがでんと居座ていた。
立派とは金をかけたというほどのことで、なにをどう造りたいのか、そんな意志がまるで伝わらない品拵えだった。
しかもまったく手が付けられた形跡がない。
だいたい窯を売ったら、一度、二度、焚いてみせるのは業者の側の責任だ。
素人をだますような真似をしやがってと腹が立ったがこれがもし先生の御意志で集められたものだとしたら、それはもうだまってうなずくしかないことだった。
畏れ多くてたしかめることはできなかったが実際のところはどうだったのだろう。使えそうですか、小さなお声で先生はたずねられた。もっとも先生のお声はもともと小さい。
先生、こんな道具を使う、使わないより、それならまず粘土をいじってみましょうよ、恫喝するつもりはなかったが、私の地声はとにかく大きい。それからしばらく先生は工房に通ってこられて、小さな作品をいくつか作られた。
しかしお仕事はますます、いそがしく、やがて、御病気を得られるに及んで、いつか先生の作陶は立ち消えになってしまった。
焼きものの道具を始末したいむねの意向は秘書の八柳洋子さんから伝えられたのだったろうか。
みな差し上げるというお話はお断りして、とりあえずロクロだけお預かりすることにした。この話は先生がお書きになることはなかったし、洋子さんもお亡くなりになり、光世さんの記憶がおぼつかなくなった今では八柳務さんが唯一の証人ということになるだろうか。
先生のロクロは今も私の工房にある。 -
浮気の愉しみ
浮気は文化などと居直るつもりはない。
残された時間もそれ程、多いわけではなく、今、予定している計画だって、おそらくその半分も達成できずに終るだろう。
時間の貴重さは身に浸みてわかっている。
年齢相応の分別も弁えているつもりなのだが、どういう加減か、そういうことになってしまうわけで無駄に時間を過したと忸怩たる思いで反省することも少なくないのだ。
しかし、性懲りもなくつい手を出してしまうのは新しい出会いのときめき感が忘れられないせいかもしれない。
なかには、もう少し若かったら、どれ程、深入りすることになっただろうと怖気をふるうこともある。
麻薬のようなとでも表現すればいいのだろうか、これを理性で止められる人はよほど意志が強いに違いない。
関心のない人にはバカばかしいかぎりかもしれないがこの人生それではいったいなにがどれほど意味のあることだというのだろう。
ひととき、なにもかにもをうちすてて夢中になることができるというのはやっぱり幸せなことだと思う。自分を浮気者と規定して、特段、恥じるところはない。
だが、それにはそれなりの費用がかゝるものだと覚悟していたが最近、それがきわめて安価にすむようになった。
喜んでいいのか、どうか、おかげでしばしば本筋をはずしそうになる。
かっては一冊の本を入手しょうと思えばけっこう吟味してかかったわけでおのずから守備範囲も狭く構えざるをえなかった。
手を出さない分野はけっこうあったし、初見の著者はよほどのことがないかぎり無視していた。
しかし最近のように文庫本一冊分の価格で単行本が何冊も手に入るとなると話はずいぶん違ってくる。
今、押えておかないとそれきりもう二度と手に入らないかもしれないという条件も微妙に心理に作用するのだろう。
とにかく買う。ちょっとでも興味があればとりあえず買っておく。
どうせ読めもしないのにといわれればたしかにそうで、今の私の読書力では手に入れた本をすべて読破することは不可能だ。
パラパラとめくって一行でも気を入くものがあればそれはとりあえず読む。
そうでないものはいずれまたということで部屋の隅に積み上げる。
そうして読む本の中におもいがけない発見がある。
ああ本の世界はすごいとためいきでもつくしかない。昨日、私が買ってきた本。
1)くちなしの花、ある戦没学生の手記 宅島徳光 1600 光文社
2)招かれざる仲間たち 源次鶏太 980 新潮社
3)満身これ学究 古筆学の創始者、小松茂美の闘い 吉村 克己 1900 文藝春秋
4)算私語録 安野光雅 1200 朝日新聞社
5)真剣師 小池重明“新宿の殺し屋”と呼ばれた将棋ギャンブラーの生涯 団鬼六 1800 イーストプレス
この五冊を525円で購入した。
定価ではけして買わないような本ばかりだが、この価格だともうしわけないような気がする。
そうして、私は真剣師 小池重明にはまって、一晩寝そびれた。
小池重明という存在は知っていた。
私は一時、将棋に狂ったことがある。
もともと真剣師として伝説の男だから話がおもしろくないはずはない。
団鬼六を読むのは初めてだった。女体を縛ったりする方面専門の人だと思っていたから縁がなかった。
しかし熟練の職人技というか、なかなかしっかりした文章でおどろいた。
2、3ページ、のぞくつもりで手にとって、そのまま、目が離せなくなってしまった。
手に入れば、団鬼六はもう二三冊、読んでもいい、こんなふうに浮気は始まるのだ。
私は年に百冊ほどの本を読む。
六十才になった時、こんなふうに本が読めるのもあと十年かと思った。
十年、千冊、あれは読みたい、あれももう一度読もうとあげていくと、とても千冊ではすまなくなった。
計画をたてて、ノートをとってきちんと、読もう、浮気なんてしている場合ではないぞとあの時の誓いはどこへいってしまったのだろう。
私は人生をもう一度やり直したいなどと思ったりすることはないのだが、本だけはもう少し読んでいたい。 -
闇の果て (十二)
ここは弥平さんのお家じゃなかったですかね。
夜になっても熱気が納まらず、開け放したままの戸から見知らぬ男が顔を覗かせていった。
弥平は私の父ですが二年前に亡くなりました。
それじゃ、おまえは誰だ、弥助かい、突然、男はぞんざいな口をきいた。
怪訝に首を傾げる弥助に男は頓着しなかった。
おれだよ、おれさ、おまえの兄の精次郎だよ。
勧めもしないのに男はどかどかと土間に入ると、上り框に腰を下して草履の紐を解き始めた。
しかし、あいかわらずしけた暮しをしてやがるなぁ、どうだ、そろそろ食い物にも不自由するだろう。弥助は最初から精次郎と名のった男にいい印象は持たなかった。
青白い顔には身を持ち崩した遊び人特有の険がある。こんな時季に村に現れるもの女衒の真似事でもやろうという魂胆ではないか。
口が妙に軽いのはどこかに本音を読まれたくない意図を匿すからだろう。この男はそうやって世間の裏道を歩いてきたのだ。
村を飛び出した若者が辿る一つの典型のようなもので弥助もそんな男を幾人も見ていた。
これはもう人間のくずだ。そうして俺にも同じ血が流れている。おい弥助、そんな仏頂面をしていねえで、早く茶碗を持ってこい。俺ぁ今夜、泊るつもりで酒を買ってきたんだ。
弥助があわてて茶碗を二つ拵えると歯で貧乏徳利の栓を抜いて男はなみなみと酒を注いだ。
飲め、俺のおごりだ、もうどちらが主人かわからなかった。
若衆宿を抜けてから、酒を口にする機会がなかった弥助は一杯の酒をもてあました。
男は手酌でぐいぐいと飲み、勝手に酔っておだをあげた。
聞くに耐えない法螺話に弥助は半分眠りながらつきあっていた。
兄というからには兄なのだろう。心の中には多少なりとも肉親に対する思いがあり、それが弥助の感情の歯止めになっていた。
夜半を過ぎても暑さはいっこうに衰えず弥助の背中にもたえず汗が流れていた。朝早く弥助は目覚めた。
旱魃のせいでこれといった仕事がなくなった今も、やっぱり朝は早くから起きる。それは百姓の習性のようなものだ。
となりでは男が肌をはだけていぎたなく寝入っていた。
酒くさい息があたりに充満して胸苦しい程だった。
一つ屋根の下に男といるのがいかにもうっとうしくて弥助は外に出た。
ぶらぶらと川まで歩いてみよう。
夜は目に見えるように明けてきた。
枯色に乾いた田の稲が一面に広がっている。
わずかに青味を残すのは雑草ばかりで空さえ枯色に染まっていた。
一生懸命働いてこれがその様だった。
短かくたっていいじゃねえか、面白ろおかしく暮そうぜ、そう言って、兄は昨夜、弥助をしつこく仲間にさそったのだ。
それもたしかに一理はある。ふと弥助は思いあたることがあって、あわてて家に引き返した。
あの男、なにをやらかすかわかったものじゃない。
弥助が土間に駆け込むと部屋の中央に蹲っていた男がぎょっとして振り向いた。
案の定、片手には外した床板が握られていた。
兄さん、兄さんは女衒だけじゃすまなくて、こそ泥もやるのかい。
男は床板を投げ棄てると後へ飛び退いて懐から匕首を引き抜いた。
弥助もすばやく土間の隅の鎌を掴んだ。
これで五分と五分、いや体力なら間違いなく俺の方が上だろう、この状態の中で弥助はけして怯えてはいなかった。
そうしてどれぐらいの時間、睨みあっていたことだろう。
男は弥助の方からは仕掛けるつもりがないことを見てとると幾分余裕が出たようだった。弥助よ、弥助、弥助さん、男は唄うようにいった。
こんな目腐れ金でおまえは兄さんを殺ろうっていうのかい。
弥助は答えなかったがその言葉は意外に胸に響いていた。
ここで兄まで殺したら俺は本当の畜生になる。
男は一瞬の隙を見逃さなかった。
身体を丸めると獲物を襲う猫のように飛び込んできた。
匕首が弥助の体を貫いていた。
相討ちに持ち込む余裕は充分あった。
しかし弥助は手の鎌を振り下ろそうとはしなかった。
せめて兄殺しの汚名だけは避けたかったのだ。
金はやるがつるの分ぐらいは残しておきな、獄門台もけっこう酷いそうだぜ。
身体を離して見下す男に弥助がいったそれが最後の言葉だった。完
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闇の果て (十)
半夏生の小祝いが終わると、それを待ってでもいたかのようにぴたりと雨が上がった。
梅雨明けには早いように思われたが作物は例年になく順調に生育していたし、その時点では誰もがいかほどの不安も感じてはいなかった。
だがそれ以来、まったく雨は降らなくなった。
人間とは勝手なもので好天も十日も続くと空を見上げ、そろそろ一雨ほしいものだとつぶやいたりする。
そんな人情を嘲笑うかのように雲一つない青空の真ん中で依怙地に太陽は照り続けていた。
気温も鰻昇りでいつの間にかもうすっかり真夏の様相だった。稲は田に水気があるうちはとりあえずもつ。しかし、青々と葉を繁らせていた畑のものは見る見るうちに縮んでいった。
最初のうち村人たちはそれでも川の水を撒くなどしがない努力を試みたのだがそれこそまったく焼け石に水というものだった。
水を掛けた一瞬だけかすかに生気を取り戻すようにみえる作物だがすぐに以前にも増して萎れていく。
人々は徒労に絶望して大地にへたりこむしかなかった。
あれ程、順調だったのにこれはいったいなんの祟りだ。
杉蔵の祟りかもしれないとは誰も口に出しては言わなかった。
二十日もすると、溜池の水も底をつき、田にも水が廻らなくなった。
田が乾き罅割れると、それに引きずられて稲の根も断ち切られる。そうなると田も全滅だ。
右往左往するだけだった農民も今ははっきりと危機感を抱いていた。村役たちが集まり、その場で雨乞いの祈祷の話が纏った。
村のお祓い事に呼ばれる巫女は決まっていて、四つ先の村まで世話役が馬を仕立てて迎えにいく。
あんなお祓いなどとてんから否定するものもいたが馬鹿にできない霊験があってころりの時も婆あの祈祷でとにもかくにも収まったのだ。
真白な髪を伸び放題にのばした顔も姿もまるで猿のような老婆で歯はすべて抜け落ている。
なにかというと村に来て、護摩を焚き、御幣を振って口寄せをしたから弥助も子供の頃から見知っていた。
それにしても昔からいっこう姿形が変わらないのが不思議だった。触れがあって、鎮守の杜の境内に村人たちは集められた。
しばらく待つと、夕陽の中、世話役に手を引かれて巫女が、やってきた。
最前から昂奮した子供たちが人垣のまわりを駆け回っていたがふいに現れた奇態な老婆に愕いたのだろう、そのうちの一人が前のめりにつんのめって、地面にしたたか顔をうちつけると大声で泣きだした。
ちょうど目の前の出来事でやむをえず子供を抱き起そうと弥助が立ち上がったとき、ふと老婆と目が合った。
そのとたんだった。
ぎゃあと叫んで今度は老婆が腰を抜かした。
なんじゃい、われは。肩に死霊を背負いよってからに。
指差す手がぶるぶると震えていた。あまりの剣幕に一瞬子供が泣き止んだ程だった。
まわりの人々は集中を乱された巫女の腹いせぐらいに聞流したかもしれない。
苦笑を浮べた世話役が老婆をかかえ起すと先をせかした。
恐ろしや、恐ろしや、呪文でもとなえるようにくりかえしながら老婆が遠ざかるとすぐにまわりは平静をとりもどした。
ただ弥助の動悸だけはなかなか鎮まらなかった。弥助には巫女の言葉が単なる出まかせとは思えなかった。
視える者には視えるのだ。
俺にはあの日、峠で殺した女がまちがいなく憑いている。
そうしておそらく復讐の機会をうかがっているのだろう。
俺のまわりで人間たちが次々に死んでいくのもあるいはその女のせいだったかもしれない。 -
闇の果て (十一)
どこでどう聞きつけるのか村に飢饉の噂が立つとまずやってくるのが女衒たちだ。
わずかな金で村中の娘を買い漁っていく。
飢えて死ぬのと体を売って生きるのと、どちらが切ないか判断の難しいところだが、少なくとも親にとっては目の前で子供が瘦せ衰えて死んでいくのを見るのは耐えがたいことかもしれない。
畔の向うから子供二人をせかせながらやってきたのも商売をうまくまとめて都にもどる女衒の一人にちがいなかった。
娘二人は姉妹なのか、見知った顔ではなかったが上の方でもまだ十才にはなっていないだろう。
泣きながら追い立てられていくのを、弥助は眉を顰めて見送った。それでなくても弥助の心には不愉快なものが蠢いていた。
あの日、巫女に言われた言葉が忘れられず考えあぐねた末、とうとう今日、寺に教えを乞うたのだ。
人は犯した罪を許されることがないのだろうか。
弥助は人並の信仰心しか持ち合わせなかったがそれでも宗教をまるで無視できる程、無神経ではなかった。
それなりの修業を積んだ者なのだから、それなりの答は出すだろう。
しかし思いあまった末の弥助の質問はみごとにはぐらかされてしまった。
弥助はにがく、寺でのいきさつを思いかえした。人目を憚って弥助は村から離れた寺を探したのだ。
一刻も歩くと見栄えのする寺を見つけたので苔むした山門を潜っておとないをいれた。
大きな声の返事があって、やがて血色のいい大男が現れた。
なにか御用かな、和尚の声は鷹揚で人を安堵させるものがあった。
一つ教えいただきたい、弥助は膝を折って頭を下げた。
犯した罪はいかようにすれば許されるのですか。それとも許されることはないのですか。
しばらく、弥助を見下ろしていた和尚がおもむろにいった。
そうさな、ありがたいお経がある。どんな罪でも許されるというお経じゃ。お布施を持っていらっしゃい。
拙僧がその経を読んで進ぜよう。要は金を持って来いという話なのだということは弥助にも理解できた。
金か、金なら腐る程あるが、おまえに恵むつもりはないよ、喉まで出かかった言葉をのんで、わかりました、布施を用意して出直しましょう、弥助はもう一度慇懃に頭を下げた。
馬鹿にした話さ、と弥助は思った。
金ですむ話なら俺はなにも苦しまないのだ。
熱風が一吹き頬を嬲った。
目を上げると女衒の一行は村のはずれに消えようとしていた。 -
闇の果て (九)
弥助は夕方になってようやく家にたどりつくとそのまま蒲団に倒れこんだ。
弥助の症状がなんだったのかは解らない。
過労か、風邪か、それとも本当に怨霊にとりつかれたものか、とにかく傷を負った獣がひたすら寝て回復を待つように弥助は眠った。
そうして、弥助の若さはそれに打ち勝った。
二日目に目を覚ますと、今度は耐えきれぬ程の空腹が襲ってきた。
弥助は家を飛び出すと裏の畑から大根だの人参だのを手当りしだい引き抜いてむしゃぶりついた。
どれも喰いごたえのあるものではなかったがそれでもやがて腹はふくれた。
人ごこちがつくにしたがって意識も正常にもどってくる。
杉蔵はもうこの世にはいないのだということがしみじみと思われた。
杉蔵…。
するとそれに引きだされるように杉蔵とかわした最後の約束が蘇がえってきた。
およねをたのむと杉蔵はいったのだ。
あの状態で是非がいえるわけもない。
弥助は引き受けざるをえなかった。
およねという女を弥助は知らなかった。およねは杉蔵の子を孕んでいるという。
牛や馬なら仔を孕んだ牝はむしろ儲けものといえるかもしれないが人間の子となると、そんなふうには簡単に割りきれないものがある。
無責任に引き受けたわけではなかったが忘れていられるものなら忘れていたいところだった。
しかし思い出した以上もう、そういうわけにはいかなかった。
およねに会わなくてはならない。
翌朝、弥助は川下をゆっくりとくだっていった。
おだやかな風が病上がりの頬にここちよかった。
梅雨晴れのやさしい日差しに稲の葉がそよいでいる。
今年はどこの田もみな出来が良いようだった。
畔の向うでは子供たちが一塊になって喚声を上げていた。鮒でも釣っているのだろうか。
つかの間の日差しは大人だって嬉しい。
野良に人影がないのは、どうせ雨と決め込んで、朝寝でもしているか、嬶でもかかえこんでいるか、この時季、百姓はどうしても一息つきたい気持になる。
仕事はかぎりなくあったが、今すまさなければならないというほどのものもない。
およねが住むという部落はちょうど村の反対側に位置したからゆっくりと歩くと半刻程かゝる。
とりあえず会ってみての話だと弥助は思っていた。
相手が望むなら嫁にするのも止むを得ないだろう。
どうせ、俺の人生、そんなところだ。
杉蔵のたのみだといえばおよねは心を動かすだろうか。
だが、二人の間にいつも杉蔵が介在するのも億劫だ。
まあ会いもしないうちからあれこれ算段したところで始まらない。
ここらあたりがおよねの住む部落だろうと見当をつけて近づいていくとうまい具合に家の外に女が立っていた。
吉兵衛さんのお宅はこの辺ではないでしょうか、弥助はおよねの父親の名前を出して尋ねた。
背伸びするようにして、先方を窺っていた女はそれでようやく気付いたように今度は弥助に目を移した。
お弔いのお客さんかいと女はいった。
おそいねえ、今、お棺が出るところだよ。
ほら、あそこの人だかりが見えるだろう。
吉兵衛さんのところで、どなたか亡くなられたんで、弥助は気忙しく聞いた。
およねちゃんさ、若い身空で因果なことだ、石見銀山、呻ったそうだよ。
笹ヶ谷鉱山の砒石で製した殺鼠剤を俗に石見銀山と呼ぶが闇では堕胎薬としても用いられていた。
しかるべき医師がしかるべき時期にしかるべき量を処方すればあるいはそれなりの効果が望めることもあったのだろう。
しかし、素人が訳も解らずに飲むのは自殺行為にほかならなかった。
およねは子を堕したかったのか、それとも死にたかったのか、あるいはもう、どうでもよかったのか。
俺がもし寝込まなかったら、あるいは事態は変わったものになっていたかもしれない。
弥助はついに会うことのなかった杉蔵の女を思った。 -
闇の果て (八)
刑場を出ると弥助はひたすら帰路を急いだ。
とにかく一刻も早く家に帰りたかった。
家に帰って眠りたい。
しかし気は急くのだが足は思うようには運ばなかった。
どうしたことだろう。一歩一歩が宙を踏むように心許無く身体は一向に前には進まないのだ。
いいようにない無力感が弥助に伸し掛かっていた。
体力には自信がある弥助が初めて経験する感覚だった。
疲れたのだ。少し疲れ過ぎたのに違いない。
丸一日、雨の中を歩きまわったようなものだ。知らない町をあちらこちら訪ねて歩く気苦労も馬鹿にならない。
そうして杉蔵との対面ではどれ程、緊張したことか。雨は夜が明けるにしたがって、幾分小降りになってきたようだがそれでも濡れそばった衣服が乾くというわけではない。
ふいに寒さを感じると思わずくしゃみが出た。
続けてもう一つ大きなくしゃみをすると弥助は鼻をすゝった。
そうだ、風邪をひいたのだろう。
杉蔵とどれ程の時間じっと雨に打たれていたことか。
あの時は寒さを感じる余裕もなかったがやっぱり身体は冷えていたのだ。
冷えと疲れでどうやら風邪をひいたようだ。
弥助はもう一度、くしゃみをすると鼻をすゝった。しかし意識は避けようとする方向へ結局、引き寄せられていくようだった。
俺は怨霊にとりつかれたのではないか。
あの河原には不本意に生命を断れた人間たちの怨念が満々ているはずだ。
人が近づきたがらないのはやっぱり、それなりの理由があるからだろう。
怨霊にとりつかれる話は弥助のまわりにも掃いて捨てるほどある。
そんなおどろおどろしい話は聞き流すことにしていた。自分には関係なかった。
気の小さい奴、体力の弱った者がとりつかれるものだと思っていたのだがなにせ、俺はあの場所に長く居すぎた。
すると俺もじきに死なねばならないのだろうか。
そうなっても仕方無いだけの経緯はある。
弥助は自分が手がけた女の死顔を思い出そうとした。
目を剥いて死んでいたはずだ。
せめて俺は目を閉じて、手を組ませてやってもよかったはずなのに、そんな余裕はまるでなかった。
いつか涙がにじみ出ていた。
かわいそうだ。あの女も俺もみんなかわいそうだ。だが弥助のまとまった思考はその辺までだった。
あとはとりとめのない想念が断片的に浮ぶばかりでそれも長くは意識に残らなかった。
ふわふわと弥助は前のめりに泳ぐように歩いていた。
小雨の中、ぼちぼちと人が往来に現れ始め、町は目覚めようとしていた。
職人たちが足早く往きかい、物売りは声を張り上げている。
だが弥助を見ると誰もがあわてて路をあけた。
人は引かれ者でも見たようなつもりだったかもしれない。
弥助はうすく笑うような反応をした。
それさえも意識にはない状態だった。
泣きながらうす笑いを浮べ弥助は歩いていく。
ただ帰巣本能のようなものだけが弥助を前に進めていた。 -
闇の果て (五)
弥助は十九才になっていた。
春、畔の縁の雪が融け、桜が散り、郭公が鳴き始めると百姓の血は騒ぐ。
待ちに待った田植えの季節だ。
夕暮れどきなど、すでに目の前に海とみまごうばかりの景色が広がっている。
秋の実りを思い描いて気がはやるのはなにも弥助にかぎってのことではない。
水を張った田はおだやかに輝き、蛙の声も夜毎に大きくなっていた。
もう少し、水が温るむといよいよ苗取りも始まるだろう。そんな矢先のことだった。
城下から役人が配下を引きつれてやってくると庄屋の屋敷に陣どった。
先だって峠で起った殺人の取り調べだという。
さすがに弥助の心もざわめいたがそれはほんの一時のことだった。
あれはもうずいぶん昔の出来事だ。そもそもが誰も知らない。じっとしていればそれですむのだ。
もっとも弥助は自分が人を殺したことを忘れていはいなかった。
なにかの折、それは突然甦って、弥助を嘖んだが、じっと静かに暮らしていると、その波紋は小さく間遠くなることをいつか経験的に知っていた。
そうして、目立たぬようにひっそりと暮らすのは弥助の性格にも合っていたのだ。
傍らで眺めていればみなやがては過ぎていく。役人が事件について、おざなりなことは弥助はよく知っている。
しかしこの度はどうも本気のようだ。
一罰百戒のつもりかどうか、たまに役人はこんな大鉈を振ってみせる。
なに殺されたのがたまたま隣藩の御用商人だったからさとしたり顔で話す者もいた。
隣藩から事件の解明をせかされて巳を得ず奉行所も重い腰を上げたのだという。
殺された男は伴を連れずに歩きまわるのを癖にしていたがなんでも藩の懐具合を左右する程の大物だったそうだ。だからうとましく思う対立派に殺されたという噂もまんざらでまかせでもなかったかもしれない。
たしかに帯刀した壮年の男を村の者が襲うなどとは考えづらいことだった。
だが役人たちは村に乗り込んできたのだ。翌日、村人たちは呼び出されて一人ずつ庄屋の庭先で尋問を受けた。
当然、弥助も例外ではなかった。
襷、鉢巻に棒、刺股をかまえた捕方に周囲をかこまれ弥助もさすがに緊張したが、吟味そのものはむしろ気抜けする程ゆるやかなものだった。
もっとも一ト月も前の行動を克明に覚えている方が不思議なくらいのものだ。
弥助はこの件には関わりがなく、その意味では気持にもゆとりがあったがしかしこんな調子でらちがあくのかという疑問は残った。
だがそれで農作業はほぼ一日遅れたわけだ。二度目の呼び出しを受けたのは中一日おいてのことだったがその時、集められた農民たちはあきらかにいらだちを匿さなかった。
仕事の予定は狂うばかりだ。
百姓に米を作らせないのなら死ねというのと同じことだろう。
役人はそうやってゆるゆるとかまえていてもなんとかなる。
しかし役人たちの食事や接待もみな村の掛りだから貧しい村では馬鹿にならない負担だった。
弥助にはようやく役人たちの魂胆が透けて見えたような気がした。
こうして、百姓たちを追い詰めれば仲間うちの結束は崩れやがて密告者の一人や二人、現れるに違いない。
密告、この言葉が思い浮かぶと、弥助は落着きを失った。あれはいくつの時だったろう。
親たちがはばかるようにひそひそ声で話していたのをふと目を醒した寝床で聞いた記憶がある。
子供心にも衝撃だったから弥助は今も覚えていた。
村の為だ、かわいそうだがしかたがない、そう父親ははっきりといった。そうして翌日、たしかに村の男が一人、城下に引かれていったのだ。
罪のない者に罪を着せる、ひょっとすると今度もそんなことが起きるかもしれない。
いざとなれば真犯人などどうでもいいのだ。
いったん犯人と目星をつければあとはどうにでもなる。
逆さ吊り、石抱き、水責め、過酷な拷問に耐えきれず誰れもが身に覚えのない罪を白状することになる。
とにかく犯人さえ挙れば役所の面目はたち、村には平静が戻るのだ。
そこにまで考えが及ぶと弥助はいかに自分がこころもとない立場にいるかを思いしって怯えずにはいられなかった。親も嫁も子もいない自分を犠牲にしたところで、誰に不都合があるはずもない。まして俺は嫌われものだ。まんざら身に覚えのないわけでもない。
皆の心にそういう思惑がわくだろう。誰かが一言口走ればそれで決まりだ。
今ごろはそんな讒訴が庄屋の庭先で行われているかもしれない、そう思うと弥助はいてもたってもいられない気持だった。
二晩、三晩と、眠むれぬ夜が続いた。
眼を真赤に充血させて、いっそ自分から罪をかぶって出てやろうかと弥助は思ったりした。
その方がどれだけ楽になることか。
そんな時だった。
犯人が捕まったと弥助は知った。
人の目も憚らず、弥助はその場にへたりこんだ。 -
闇の果て (六)
(六)
杉蔵は川向うの部落の小作農家の次男だが、身体が弱いこともあって、ずっと親元を離れずにきた。
長男がすでに嫁をとって、親のあとをついでいたから、さぞ肩身のせまい思いで暮らしていただろうことは想像がつく。
弥助は杉蔵のうらなりのような青白い顔を思い浮べた。
たしか、年は一つ二つ上ではなかったか。
部落は子供にとっても一つの集団でなにかというと他部落の子供たちとは反発しあっていた。
一人で他所の部落を通り抜けるの憚られたし、まず無事ですむことはなかった。よくてなにかをゆすり取られる、悪くすれば袋叩きにあってもおかしくなかった。だから益々、仲間内の結束は強くなる。川向うといえば恰好の喧嘩相手で川をはさんでよく石合戦などやったものだ。
互いに悪口を囃しながら石をぶつけあう。
目を逸さなければめったに当ることはないが、だからといって油断するとひどい目にあう。
弥助の後頭部には今でも削ぎ取ったような小さな禿が残るがそれは石を食らってできた傷だ。
あの時は一瞬、死ぬかと思った。尋常な痛さではなかった。
おびただしい血が吹き出したからまわりの子供たちも度肝を抜かれた。
誰かが親を呼びに走り、あわてた親が駆けてきて、しかし布切れで傷口をかたく縛って、一晩眠るとそれですんだ。
頭部の出血は見掛けほど怖れることはないのかもしれない。
その頃の印象がまるでないのは杉蔵はよほど目立たない子供だったからだろう。
大きくなるに随って、さすがに顔を合わせると啀み合うということもなくなったが杉蔵は人を認めると遠くから脇に寄って、伏目がちに擦違うのを常とした。
声をかけると愕いたふうに目を見張っておどおどと返事をかえす。面白半分に大声をかけて杉蔵を愕ろかせては喜んでいた自分がにがにがしく思い返された。
あの杉蔵に人殺しなど出来るはずがない。それは弥助の確信だった。
役人が得意気に杉蔵を引っ立てて城下に帰っていき、村にはようやく平静が戻ってきた。
遅れた農作業を取り戻そうと皆が必死だった。
米作りには仕事が遅れると、その分、刈入れが遅れるというだけではすまないところに難しさがある。
たとえば苗は梅雨前にはきちんと根を張っていなくてはならない。
そうでなければ雨に叩かれた苗は浮き上がり、横に倒れ、やがて腐る。
そんな知識は当然、弥助にもあったが今一つ仕事に集中できないのは杉蔵のことが頭を離れないせいだ。自分の身代わりにされたのだという思いはむしろ、日を追うごとに強くなっていた。
そういえば杉蔵は笛が上手な男だったと、そんなことがふいに思い出された。どこで覚えたか知らないが神楽の囃方には欠すことができなかった。
ころりが流行ったあと神楽の囃方も補充しなくてはならなくなって弥助も世話役に拝み倒されて、一、二度その練習に顔を出したことがある。
杉蔵は若い娘たちに囲まれて、楽し気に篠笛を吹いていた。
弥助は誰が見ても笛に向くとは思えなかったようで最初から太鼓方に回されたのだがそれにもまったく関心が持てなくて、ほうほうの手で逃げ出した。
その後、二度とお呼びがかゝらなかったのは誰れもが弥助にそれ以上の期待は持たなかったせいだろう。
杉蔵の奴、と弥助は思った。
今ごろは過酷な責めに泣き明かしているではないだろうか。杉蔵の処刑が決まったという噂がぱっと村中に拡がったのはようやく田植えがすんで一息ついたころのことだ。
死罪は免れられないとは、当初から誰もが思っていたが鋸引きとは極刑だった。
かっては実際に首を鋸で引き落としたこともあったという。
だがその凄惨な刑罰はさすがに長くは続かなかった。
今は極刑として名前を残すのみだ。
後手に縛ったまま、罪人を檻に入れ、目の前に竹で造った鋸の見立てを置いて三日晒す。そののち磔、極門というのがきまりだった。
本物の鋸から玩具のような代物に替わったのも、あえて檻に入れるのも無惨な悪戯から罪人を守る為の処置だということは知る人は知る。
それでも処刑されるものは三日間、死の恐怖におびえながら縛めの苦痛に耐えなければならない。杉蔵の奴と弥助は思わずにはいられなかった。
今ごろは身の置きどころもなくへたり込んでいるに違いない。
あいつがつるなんて気のきいたものを隠していったはずもない、だがつるという言葉に思い至ったとき、弥助にはひらめくものがあった。
そうだ、せめて俺がつるをとどけてやろう。金ならある。けして手をつけようとはしなかった金だが今こそ使うべき時だろう。あの時の金がこんなふうに役立つ皮肉を弥助は複雑な気持で思った。