ショートストリィ 酒場にてⅠ

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 私、実は今日、癌だと宣告されました。一瞬でも愕然としたのは我ながら情けない。そうじゃないかと覚悟は決めていたつもりだったんですけどねぇ。

 どうも下腹がしくしくする。耐えられない程、痛むわけじゃないが不愉快な感じがずうっと続いていた。手で押さえると変に張りがあって、いけないなと思っていたんです。しかし食欲は落ちないし、酒も飲める。まあもう少し時間はあるかなって勝手に決めて放っておいた。
 だけどどういうわけか突然、娘が一度病院に行って診察を受けて来いとうるさく言い始めましてね。ああ、私、三年前に女房を亡くしまして、今は娘夫婦と同居しています。一人娘なんですがよくしてくれますよ。私も年金は手つかずのまま渡していますが。
 なんなんですかねぇ、あれは。女の勘っていうやつかな。

 で、今日、内科の診察を受けて、一発でした。レントゲンでもわかるのはけっこう進行しているってことですかね。膵臓なんとかかんとかと説明されました。
 とりあえず入院して下さい、このまま放っておくと三ヶ月ですよと医者はおどかした。
 ちょっと待って下さい、今すぐって言われてもこっちにもこっちの都合があると私はとりあえず今日は帰してもらいました。

 妙なものですね、いずれは死ぬってことはわかっているんです。私、去年七十才を越しました。だからそれもそんなに先の話ではないとわかっているのに、とりあえず、明日じゃない、明後日でもない、しばらくまあなさそうだと先延ばしに死と真正面から向き合うのを避けてきた。
 そんなんで死が突然目の前に出現すると、やっぱり動転してしまいました。

 どうやって支払いを済ませて病院を出たものか、まるで記憶がない。夢遊病者みたいなものだったのでしょう。まっすぐ家に帰る気にもなれず、あっちこっち歩き回りました。
 そして、いつか吹き寄せられるようにデパートに入っていた。デパートなんて本当に久しぶりでした。屋上にあがると小遊園地とでもいうのかな、小銭を入れると子供を乗せてしばらく前後に揺れる遊具があるでしょう、きりんだとかぞうだとかを型どった、それが数台並んでいて、うさぎだのハムスターだのの飼育小屋、飲料水の自販機に固定式の双眼鏡、ベンチやテントもみな退色して、いつか、どこかで見たような、一時代前にタイム・スリップしたような気持ちだった。
 拡声器からはすりきれてかろうじて高音だけが聞き取れる音楽がタン、タン、タン、タン、タン、タン、と繰り返している。

 タン、タン、タン。タン、タン、タン。

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