よし、仕込みはこれぐれえでしめえだ、タケは言うとどこからかジョニ黒のビンを出してきて封を切った。
前祝いだ、明日からは雀荘に出るぜ。
たっぷり酒の注がれたグラスを私は感慨深く受け取った。生涯、こんなウイスキィーを口にする機会はあるまいと思っていた。サラリーマンの一ト月分の給料で買えたかどうか。いい酒は喉にもやさしい。
今後勝手な小細工は一切するな、先ズモ、スリカエ、ツミコミ、ばれちゃただじゃすまねえからな、おれがサインを出した時だけ全力でサポートしてくれ、あとは好きに打ってりゃいいんだ、お前はけっこうやれるはずだぜ。
ペンだこよりも目立つようになったパイだこがふと目に入った。私はたこが出来やすい体質なのだろうか。
この子はがんばり屋なんだねえ、こんなにペンだこをこしらえて、そう小学生の私をほめてくれたのは大好きなおばだった。子供のいないおばは私がひいきで私のすることは何だってよいように解釈してくれた。
今のこんな私を見てもやっぱりおばはほめてくれるものだろうか。
マージャンが一般化したのは戦後のことだ。それもアメリカ経由のものの影響が強かったから本来の形とはいささか趣を異にする要素が加味された。七対子という役などその最たるものだろう。
敗戦直後の混乱期にはよく小説などで語られるバイ人だのイカサマ師だのが跋扈したこともあったようだが世間が落ち着くにつれてそのような存在にしだいに淘汰されて、マージャンは大衆の娯楽として定着していった。
昭和四十年代はマージャンの全盛期といってもいいだろう。さかり場にはマージャン荘が林立した。それ程費用がかからずに開店でき家族だけでも営業が出来る手軽さも雀荘経営が流行した一因であったかもしれない。
それまで私は四人で入って卓を借りる以外、雀荘に足を踏み入れたことはなかったが、一人で行ってもおやじがメンバーを揃えてくれたりしてけっこう遊ばせてくれるという話は聞いていた。
東京周辺では千点百円が通常のレートだった。二万七千点持ちの三万点返し、だから箱をかぶると三千円、それに総ウマがつくと最下位ならさらに三千円、別に裏ドラが二百円の一発倍、この程度でも半荘四回もすると二、三万の金は動いた。
普通の生活者からみればやっぱりちょっと度が過ぎる遊びかもしれない。
そんななかで私たちは悪さを企んでいた。
私はタケの指示にしたがって都下のさかり場をあっちこっち訪ねまわるはめになった。一ヶ所で打っているといずれ私たちがグルであることはバレるだろうと思われたからだ。
私たちは雀荘の出入りも別々にしたし、卓を囲んでも親しい口をきくことはなかった。
タケからのサインプレイの要求もほとんどなかった。言われなくても状況を考え場を読むと自ずから打つ方向は決まっていた。同じような配慮がタケからも感じられ、その心強さがツキにつながっていたのかもしれない。
ビギナーズ・ラックという言葉があるぐらいだからそういうこともあしばしば起こるのだろう。
私たちは勝ち続けていた。
その日、私が店に入るといきなりその男と目線が合った。正面奥の卓でこちら向きに坐って打っていたが人の気配で反射的に目が動いたのだろう。一瞬に品定めを済ますと目線はすぐに牌に戻った。軽くみられたのがわかったが、それは望むところだ。
ごめんなさい、少し遊ばさせて下さい、私は誰へともなく頭を下げて仁義を通すとそのまま奥にすすんで男の後側にまわった。
いきなり肩越しに他人の手牌をのぞくのはかなり無礼な行為といえる。どなられるぐらいですめばめっけもんで、殴られたって文句はいえない。
私はいちゃもんがつかないよう右左の卓の中間まで距離を取ると男の手牌をのぞきこんだ。旨い下手をいうレベルではなかった。この男はまだ点数計算さえ満足に出来ないようだった。それでも高目狙いの強引な手が面白いように決まる。とにかくツキにツイている様子で他の三人はなすすべもなく、すっかり白けて、終わりを急ぐ様子だった。
そうこうする間にも、よし、きた、ロン、男は大声で叫ぶとごちゃごちゃ手牌をいじくりまわして、これって、なんだ、三色っていうんじゃなかった、三色なら満願はあるな、なんてやっている。
いつの間にか、タケも来ていた。
卓が一段落ついて男はしきりに再戦を誘ったが他の三人はさっさと清算を済ますと離れていった。
さあ、続けるぞ、誰でもいい、誰かきてくれ、男がまたほえた。
じゃ、遊んでもらおうかな、タケが最初に手を上げた。
私も続いて卓についた。
最後の一人が決まらないのをみて、雀荘のおやじが、おおい山崎さんと客の一人に声をかけた。
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