お紺の母親というのが源次の仕事上りの時刻を見はからって浅草、三間町の裏店を訪ねてきたのはそれからさらに二、三日あとのことだ。
「上州屋の家内、お栄ともうします」 駕籠を戸口に待たせて入ってくるといきなり切口上の挨拶だった。
ちょうど卓袱台に晩飯をととのえていた源次はあわてて出ていき上がり框に膝を揃えてとりあえず上がるように推めたのだがお栄は三和土に仁王立ちになったまま動こうとはしなかった。
「このたびは娘が大変お世話をかけました」
「へい」と受け答えながら源次は言葉のいい様に棘や厭味を感じずにはいられなかった。
またなにかを誤解して、腹を立てているのだろう。
姉に吊し上げを食ったのもつい昨日のことだ。
「なんなの、あの女」とやってきた姉も最初から喧嘩腰だった。
愛想一ついえず突っ立ったままの女がよほど腹に据えかねたらしい。
二つ違いの姉は子供の頃から源次には差し手がましい口をきく。たしかにその分、よく面倒もみてくれるのだがこの年にもなればさすがに多少はけむったい。左官職の亭主は数年前にうまく親方株を手に入れたというから、今は徒弟の世話、子育てと自分のことだけでも目が回る程忙しいはずなのにやっぱり源次のことも放ってはおけないようだ。
「お前も見境いなく女を銜え込んでいるとそのうち酷い目に合うよ」
人の弁解にはまったく耳を貸そうとせず持ってきた大根の煮付を皿に移すと姉は帰っていったのだがその後姿を見送りながら、思わず源次にも溜息が出た。
「まったく、女って奴は…」
吊り上がった目はお紺と似ていた。背はお紺の方が首一つ高いかもしれない。
板につかない化粧と高価な着物をとればこの長屋にでも住んでいそうな女だった。
道々練上げてきた口上を一気に吐き出したとでもいうように肩で小さく息を入れると、手にしていた菓子折りをお栄は源次に押しつけた。
そんなものを貰ういわれはないがあえて突っ返す程のこともない。明日にでも長屋の子供たちに振る舞えばどれほどの喚声がわくことだろう。
しかし、つづけてお栄が懐から袱紗に包んだ切餅をとりだした時にはさすがに源次も顔色を変えた。
「それじゃ、なんですか、そちらにはあっしにしゃべれたくないなにかがあって、それをこれで口を閉じろとおっしゃりたいんですか」
「はばかりながら、あっしはこんなことをしてもらわなくてもあることねえことぺらぺらしゃべってまわる程、口は軽くねえつもりですがね」
不請不請、お栄は一度出したものをもう一度、懐におさめ直すと帰っていった。
不愉快なものが源次に残った。
「金なんざ、必要な時に必要なだけ稼いでみせらあ」
それは職人の誇りだった。
誇りを貶められて、源次は傷ついていた。
商家ではこんな時に塩でも撒くのだろうか。
「まったく女ってやつは…」
「実はおまえに入り婿の話がきているんだが」
茶の間の長火鉢の奥のきまりの場所にどっかと腰を据るとさっそく親方は話を切り出した。
十年過して、我家のようになった家だから源次も厨に声を掛けるとそのまま上がって長火鉢を挟んで親方の向いに座ったわけだが話の意味がすんなりとは飲み込めなかった。
嫁のことなら一度ならず聞かされたが、婿の話は初めてだ。しかも、今、一人立ちしたやさきに入り婿というのはないだろう。
茶をはこんできたおかみさんもどこまで話を知っているのか、
「ついでだから、晩ごはんも食べておいき」 妙に愛想がいい。
夕方のことだ。帰り仕度をしていると「話がある、ちょっと寄れ」と突然、親方から声がかかった。
今の仕事はもうじき終るが親方は嘘のない性格で腕もよかったから仕事が断えたことはない。
大方、次の段取りだろうと源次はふんで福井町の家まで親方の後についてきた。
帰りの道々、親方はわざとのようにたわいのない世間話しかしないから妙だとは思ったのだが、まったく狐にでも抓まれたような話だった。
「それがあの上州屋なのだ」 芝居気たっぷりに親方は声をひそめた。
「まさか」 思わず源次はうめいた。
「このあいだ、上州屋のおかみさんてえ人が訪ねてきましたがね、まるであっしのことを蛇蠍でも見るように睨めまわしていきましたぜ」
「おめえ、最後に金を突っ返したろう、あれがどういうわけか先方には受けたらしいや」
「それまで反対していたおかみさんがそれでころっと手の掌を返えしたからあとはもうお前しだいだ。上州屋は材木問屋の中ではけして大きい方とはいえないが勢いのある先のたのしみな店だ」と親方はいった。
「お紺というのが一人娘でそろそろ婿をってえやさきのこの騒動だ。そのお紺がお前にぞっこんで、もう離れられないなんてさわいでいるそうだぜ」
「お前も案外、隅に置けないんだねえ」 いつの間にか横に座ったおかみさんが源次の顔を覗きみながら半畳を入れた。
「親方」 源次はもう半分泣きたいような気持だった。
「親方はいいましたよね、立てる気がなくたって立つものもあるが男気ってやるはしっかり立てる気でなきゃ立たないんだって、俺は本当にあの娘には指一本ふれちゃいないんですぜ」
「源次、おめえも気の仂かねえやろうだな、おめえが指一本ふれてこようとしなかったからお紺はおめえに惚れたんじゃねえか、おめえといっしょになりたい一心で生娘がつく嘘のせつなさがおめえには斟酌できねえのかい」
「しかし親方、それじゃあっしの十年の修行はどうなるんですかい、あっしの十年の辛抱を無駄にしろといいなさるんですかい」 さすがにそこまでいわれると親方も腕をかかえてうなるしかなかった。
ううんとしばらくうなってから、「よしわかった、それじゃ、おめえ、残りの御礼奉公はちゃらにしてやるから明日にでも道具箱を担いで旅に出な、一人前の大工になるにゃ、他人の飯を食うっていうのも必要なことだぜ」
思いがけない方向に話が跳んで今度は源次が腕をかゝえて唸る番だった。
お紺の顔が一瞬、心の中を横切った。
「子狐め、どこまで俺を虚仮にする気だ」
するともう一度舞い戻ってきたお紺がぺろりと赤い舌を出した。 〈完〉
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