翌朝も源次は仕事で早くから出掛けなければならなかった。
女のことが気にかゝったが別に盗られるものもないと腹を括ることにした。
女に目を覚す気配はさらになかった。朝の光でみる、女の寝姿は夕べ灯火で見たよりもさらに子供のように見える。
ふいに源次は十才で死んだ妹のことを思い出した。
あれは源次が徒弟に入る少し前の出来事だった。
昼間いっしょに表の露地で大さわぎしていた妹が家に帰るなり、ふらふらっと倒れると動けなくなってしまった。
夜中には火のような熱が出て、あわてた親父が布団にくるんで医者に駆けつけたが、それっきり妹は生きて戻ってはこなかった。
ころころと太った妹はいつも源次に纏わりついて片時さえ離れようとはしなかったものだ…湿っぽい感傷がすうっと源次の鬢をなぞった。
この女ともきっともうこれっきり会わないのだ。
だが仕事に入るともう源次は女のことは考えなかった。
今、源次たちが手掛けているのは深川の大店の主人夫婦の隠居所で三十坪の平屋というのは大きくも小さくもない寸法だが材料や間取りは凝りに凝ったものだったから大工の腕も試されるやりがいのある仕事だった。
親方、兄弟子、弟弟子、手許と、それに源次の五人の呼吸はぴたりと合い、弾むように一日が過ぎていく。
源次には今、仕事が楽しくてしかたなかった。
しかし、夕方、ここちよく疲れて戻るとなんと女はまだ家にいた。
しかも、晩飯なんかこしらえている。
「どうなってるんだ」 思わず大きな声を出した源次に女は舌を出してみせた。
「隣のおかみさんがなんだかんだと親切にしてくれるもんだから」
源次はあわてた。一つ間違うとどんな噂を立てられるかしれたものではない。たしかに隣のかみさんは人はいいかもしれないがまた他人の詮索が何より好きだときている。
「しかしなんのかんのと根掘り葉堀り聞かれただろう」
「うん上州から奉公先探して出てきたいとこだっていっておいた、しばらくいるって」
「俺は一晩って、いったはずだぜ」 仏頂面で源次がいった。
「出ていけっていうんなら、出ていくけど、いくところはない」
女は俯いてちぢこまっていたがやがてベソをかき始めた。
「別に叩き出そうってわけじゃないんだが、しかし、俺も猫の仔一匹拾ってきたってわけにもいくまいからよ」
結局、源次がおれるしかなかった。
女は本当に上州、前橋の生まれで十四才だといった。
中に立ってくれる人がいて一ト月程前、日本橋の越後屋に奉公に上がったが、主人に手籠にされそうになって、思わず店を飛び出してしまったのだという。
右も左もわからぬまゝ、途方にくれて歩いているうちにあの鳥居の前に出ていたらしい。
話を聞いて、すっかり同情した源次はこれは俺が一肌脱ぐしかないなと思ったものだ。
しかし一肌脱ぐといったところで今の源次にはなにほどの算段がつけられるわけでもない。
結局、親方か大家に相談するのが関の山だ。
「まあ、俺にまかせておけ、なんとかしてやらあ」 それでも源次はそう見得を切ったのだった。
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