闇の果て (九)

 弥助は夕方になってようやく家にたどりつくとそのまま蒲団に倒れこんだ。
 弥助の症状がなんだったのかは解らない。
 過労か、風邪か、それとも本当に怨霊にとりつかれたものか、とにかく傷を負った獣がひたすら寝て回復を待つように弥助は眠った。
 そうして、弥助の若さはそれに打ち勝った。
 二日目に目を覚ますと、今度は耐えきれぬ程の空腹が襲ってきた。
 弥助は家を飛び出すと裏の畑から大根だの人参だのを手当りしだい引き抜いてむしゃぶりついた。
 どれも喰いごたえのあるものではなかったがそれでもやがて腹はふくれた。
 人ごこちがつくにしたがって意識も正常にもどってくる。
 杉蔵はもうこの世にはいないのだということがしみじみと思われた。
 杉蔵…。
 
 するとそれに引きだされるように杉蔵とかわした最後の約束が蘇がえってきた。
 およねをたのむと杉蔵はいったのだ。
 あの状態で是非がいえるわけもない。
 弥助は引き受けざるをえなかった。
 およねという女を弥助は知らなかった。およねは杉蔵の子を孕んでいるという。
 牛や馬なら仔を孕んだ牝はむしろ儲けものといえるかもしれないが人間の子となると、そんなふうには簡単に割りきれないものがある。
 無責任に引き受けたわけではなかったが忘れていられるものなら忘れていたいところだった。
 しかし思い出した以上もう、そういうわけにはいかなかった。
 およねに会わなくてはならない。
 
 翌朝、弥助は川下をゆっくりとくだっていった。
 おだやかな風が病上がりの頬にここちよかった。
 梅雨晴れのやさしい日差しに稲の葉がそよいでいる。
 今年はどこの田もみな出来が良いようだった。 
 畔の向うでは子供たちが一塊になって喚声を上げていた。鮒でも釣っているのだろうか。
 つかの間の日差しは大人だって嬉しい。
 野良に人影がないのは、どうせ雨と決め込んで、朝寝でもしているか、嬶でもかかえこんでいるか、この時季、百姓はどうしても一息つきたい気持になる。
 仕事はかぎりなくあったが、今すまさなければならないというほどのものもない。
 およねが住むという部落はちょうど村の反対側に位置したからゆっくりと歩くと半刻程かゝる。
 とりあえず会ってみての話だと弥助は思っていた。
 相手が望むなら嫁にするのも止むを得ないだろう。
 どうせ、俺の人生、そんなところだ。
 杉蔵のたのみだといえばおよねは心を動かすだろうか。
 だが、二人の間にいつも杉蔵が介在するのも億劫だ。
 まあ会いもしないうちからあれこれ算段したところで始まらない。
 ここらあたりがおよねの住む部落だろうと見当をつけて近づいていくとうまい具合に家の外に女が立っていた。
 吉兵衛さんのお宅はこの辺ではないでしょうか、弥助はおよねの父親の名前を出して尋ねた。
 背伸びするようにして、先方を窺っていた女はそれでようやく気付いたように今度は弥助に目を移した。
 お弔いのお客さんかいと女はいった。
 おそいねえ、今、お棺が出るところだよ。
 ほら、あそこの人だかりが見えるだろう。
 吉兵衛さんのところで、どなたか亡くなられたんで、弥助は気忙しく聞いた。
 およねちゃんさ、若い身空で因果なことだ、石見銀山、呻ったそうだよ。
 
 笹ヶ谷鉱山の砒石で製した殺鼠剤を俗に石見銀山と呼ぶが闇では堕胎薬としても用いられていた。
 しかるべき医師がしかるべき時期にしかるべき量を処方すればあるいはそれなりの効果が望めることもあったのだろう。
 しかし、素人が訳も解らずに飲むのは自殺行為にほかならなかった。
 およねは子を堕したかったのか、それとも死にたかったのか、あるいはもう、どうでもよかったのか。
 俺がもし寝込まなかったら、あるいは事態は変わったものになっていたかもしれない。
 弥助はついに会うことのなかった杉蔵の女を思った。

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