私たちが学生生活を送った昭和四十年代前半、大学はどこでも、騒然としていた。
安保以後、一時停滞したかにみえた学生運動は細分化しながら盛り返し、内ゲバと称する内紛を繰り返していた。近親憎悪とでもいうのだろうか。その私闘は凄惨を極め、大学内にもしばしば死体が転がった。あの頃はやくざよりも学生の方がより多く殺されていたのではないかと思う。
連中にはそれなりの理屈があったが真に明日の理想社会の実現に身命を賭す者はいったいどれ程いただろう。
安逸な日常に退屈した若さが集団を頼りに凶暴化しただけではなかったか。
私がタケの話に乗ったのも似たような心理だったかもしれない。
平穏な現実に倦まなければならないのはなんと不幸なことだろう。
私では自分でも驚く程熱心な生徒になった。タケの要求には素直に従ったし、技術の修得にも努力を惜しまなかった。
たとえばサイコロの目を自在に扱う方法。タケは四六時中サイコロを二つ持ち歩いて、暇があったら転がせと言った。タケはかなりの確率でサイコロの目を操った。チンチロリン、すなわり、ドンブリにサイコロを三つ投げ込んで自由に目を出す男にむしられたことがある。そんなことが可能だと誰が思うだろう。出来ると信じるか、信じられないかの違いなのか、私が結局ものに出来なかった技術の一つだ。
しっかり仕込んでかかるとタケは言った。
私たちがやろうとしているのは通しといういかさまだ。四人で争うゲームでそのうちの二人が密かに融通し合えばまずこわいものはない。
その為にはマージャンの本質を理解し共有する必要がある。
その牌がなぜその場面で出てくるのか、相手の心理を演繹し、それに添って最良の支援を心がけなければならない。
私は毎晩のようにタケのところへ押しかけた。
学ぶことがあまりにも多かった。
そんな私をタケはもう少し、皮肉な目で見ていたかもしれない。
確かに私には麗花に会えることも大きな楽しみになっていた。
私が一方的に言葉をかけるだけで返事が返ってくることはなかったが何かの折、目線が交わればやっぱり心はときめいた。
すれちがいざまの香水の香り。無言で届けられる一杯の紅茶。
夜になるといつの間にかいなくなって、タケの言葉を思い出させたが私にはそれが悪い冗談であってくれればと願わずにはいられなかった。
壁を背にしたタケと入口を背に向けた私、対面に坐ると私たちは二人マージャンをする。
牌をふせる。洗牌して交互に任意の十三枚を相手に配る。盲牌で配牌を確認すると勝負の開始だ。かたわらに寄せた牌山から盲牌で引き、不要牌を切る。ルールは通常のままだから当然、ポンもチーもリーチもある。早ければ三巡くらいで聴牌になる。しかし打ち込んではならないというのが私たちが付加した条件の一つだからそれからが大変だ。相手の河を読み、時には手を崩しながら組み立て直さなければならない。そして十巡、私たちはそこでとりあえず勝負を打ち切るとそれからは検討にうつる。
手牌を表にさらして、切り間違いはなかったか、読みと実際は合致していたかどうか。自分の気づかない打ち癖を指摘されることもあった。相手につけこまれるような隙があってはならないのは当然のことだ。
勝負は勝ち負けがわからねえが博奕は勝つだけの準備をしてかかるもんだ、タケがよく言ったことだ。
サインは私たちの生命線だから特に時間をかけた。
目立たず確実に伝わること、タケがボーイスカウトで覚えたという指信号を動きを小さくして左手だけで出せるように改造した。
それにしてもタケがボーイスカウトだったなんてけっこう笑わせてくれるじゃないか。
お前は半端なよた言葉を使わずに学生っぽくふるまえ、タケが言った。私がレツだと悟られないこと、それは大事な点だった。
そんなことをしているうちに一ト月ぐらいはたちまちに過ぎた。
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