本のリサイクルが一般化したおかげで、以前ならけして手にしないような本にも関心が及ぶようになった。
なにか新しい遊び場を発見した子供のように暇をみてはいそいそと古本屋に出掛けている。
行けば手ぶらで戻ることはまずないが、なに、今どき、これ程安価に楽しませてくれるところはない。
新刊で買う程の興味はなかった、図書館で借りてまで読みたいとも思わなかった、しかし、手元に置けばなにかのおり、読むこともあるだろう、そんなたぐいの本は多い。そしてその中には必ず掘り出し物もまじるのだ。
アンドレ・ガルコフのペンギンの憂鬱は一時、話題になったこともあるから、書棚に見つけた時はしめたと思った。
新潮社のクレストブックスは海外の話題の新人を紹介する注目すべきシリーズだがおそらく販売部数が望めぬせいなのだろう、設定価格がおゝむね高い。
それを運良く105円で手に入れたのだから道端で100円玉を拾うよりどれ程うれしかったことか。
読後の感想を言えば定価で買ってもけして損をしたとは思わないですむだろう。こんな本がどうしてもっと売れないのか。
フランス装を意識したシックな装丁で若い女性が小道具に持ち歩いても充分いけるはずなのだが、今どきはそんなおしゃれははやらないらしい。
デイヴィット・バルダッチのクリスマス・トレインも、新刊の書棚からはまず引き抜くことはないような本だった。
1、2ページ、おざなりに目を通して、とりあえず買った。
しかしこれも悪くなかった。
上品なラブストリィーで適度に起伏も用意され、ちゃんとほろりとさせるおちもあったりしてなかなかのエンタテーメントだった。
たとえば大ベストセラーになったマディソン郡の橋と比べて、どちらが小説としての出来がいいかと問われたなら私は迷わずこちらを選ぶ。
ちなみに女房も同意見だった。女房は年に5、6冊しか本を読まないが、その見識にはつねづね瞠目させられている。
本も数をこなせばいいわけではないのかもしれない。
私は今、本来なら古本屋でもけして手を出さないような本に手を出したばかりに思いかげず貴重な時間を浪費させられている。
北大路公子の枕もとに靴、なんのだろう、これは。
私は年間、どうがんばっても100冊前後の本しか読めない。
老い先を考えるとあとせいぜい1000冊がいいところだろうか。読んでおきたい本、読み直したい本は、数かぎりなくある。
残された時間、古今東西の名作、傑作に集中しなければならぬと決心したのはついこの間のことだった。
それがどうでもいいような本により道ばかりでなさけないことおびただしい。
子供の頃、勉強しようとすると机のまわりが気になってしかたなかった、それに似た心理が働いているのかもしれない。
だいたい札幌の出版社というのがよくなかった。
寿郎社、がんばっているのだろうな、無駄な金は一銭だってかけられないという決意のような一色刷りの表紙、しかし、これで本が売れるのだろうか。
同人誌だの自費出版だとのに多少かゝわってきた者にはいかにも身につまされるような本でしかもひょっとしたら版元から直接流出したのではないかと想像させるように人手にふれた形跡もないまゝ三冊が並んでいた。
私は喜捨でもするようなつもりで買ったのだ。
女房だったら一行読んで“馬の糞”と投げ棄てるかもしれない。しかし、私はなんのかんのと結局、最後まで読まされてしまいそうだ。
挿入のコントなど妙に引かれる。影切りなんて特にいい。
なかなかのものだよ、北の才能、そうほめれば多少、自分の読書も正当化できるだろうか。
とても北海道とは思えないようなおかしな気温で日中は工房もサウナ状態だからつい外に逃げ出したくなる。
外に出るとおのずから足は古本屋に向う。
これ以上ふやすと床が抜けるという女房の悲鳴を思い出したが、結局又何冊か買ってしまった。
これはひょっとするともう本当に病気かもしれないと自分でも思う。
病気だったら病気でもいい。おまえは病気だから寝ていろと誰かいってくれないものか。
本をかゝえて寝ていられたら、それこそ望外の幸せなのだが。
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