古本屋で書棚を漁っていたら、ふいに高橋和巳という文字が目に飛び込んできて、思わず本を手に取った。
なつかしい。
名前を聞かなくなって久しいが、私たち団塊の世代の若い頃には教祖のような存在だった。
あの理屈っぽい難解な文章を皆が競うようにして読んだ。
「悲の器」、「散華」、「憂鬱なる党派」、いかにも時代の共感を惹起しそうな作品名がつけられていた。
高橋和巳は京大の中文の助教授をやっていた人で、異常に語彙の豊富な作家だったがあの表題の設定はまた別の才能なのだと思う。そしてそういう感覚が彼を一躍、流行作家にまで押し上げたに違いない。
しかし「孤立無援の思想」をいったいどれ程の人が真に理解していただろう。
高橋和巳は一般うけする要素と大衆に背を向ける部分が渾然と同居する咀嚼のやっかいな作家だったような気がする。
「人間にとって」という新潮社発行のその本の記憶がかすかながら私にあった。
高橋和巳は70年安保の翌年、39才で亡くなったがその直後急遽、発売されて、ベストセラーになったはずだ。
100ページほどの薄っぺらい本の奥附を見て私はそれを確認した。
どういう人が所有し、どういう理由で手放したのか、わからないが本は読んだ形跡が感じられないくらい程度のいい状態だった。
書庫を探すとどこかから出てくる確信があって、ちょっと迷ったが結局私はその本を買った。
105円、高橋和巳に線香を1本、手向けたような気持だった。
本の話をしていると、読んだんだがなぁ、覚えてないなぁといったたぐいの発言にしばしば出会う。
若い頃にはそんな言葉に敏感に反応した。
読んでないくせにときめつけた。
当時は読んだ本の内容を忘れるなどということが考えられなかった。
見栄を張って、厭な奴だと腹の底で軽蔑した。
だが、私が今、そういう状態になっている。
若い人と本の話をしていて、ひょっとすると今、私はそんなふうに認識されたかもしれないと思うことがある。
「人間にとって」も間違いなく、読んだはずなのにまるで覚えていなかった。
三島由紀夫が割腹した事件についてめずらしく素直な感想を述べた部分があった。
いつもなら一ひねり、二ひねりして、目くらましをかますところが感情が整理できないのか、体力がついていかないのか、その半年後の当人の死を思うとなんだか痛痛しい感じがする。
もっとも即座に太宰治を引きあいに出し、対比するあたり、学究としての批評眼はまだ確かなものだ。
私は発言者としての高橋和巳はそうとう無理をしていたのではないかと思っている。
高橋和巳ももう一度読んでもいいなと思う。
たしか、河出書房が出した全集もどこかに仕舞ってあるはずだ。
しかし、そういう時間がもう永遠にこないことも私はどこかで意識している。
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