「はるかな国の兄弟」あるいはリンドグレーン小考

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 「長くつ下のピッピ」が娘はお気に入りでよく色違いのくつ下を左右にはいて得意になっていたものだ。娘と同じ本を読んで感想を話し合ったりしていた時期のことだからせかされるままとりあえず読むには読んだが私にはそのやかましさが鼻についてあまりよい印象は持てなかった。娘と感動を共有できなかった最初の体験だったかもしれない。

 しかし私のような反応がむしろ一般的なものではないかという気はする。1945年、この作品が発表された当時にも同様な評価の混乱が起きている。古い日本の紹介文にも女ターザンめいたおてんば少女が活躍うする物語とけして手放しに好意的なものではない。ピッピを即座に支持できる大人は今日でもけして多くはないはずだ。
 
 「長くつ下のピッピ」をリンドグレーンは38歳で書く。それまでの彼女は小学校の事務員として働くシングルマザーであったらしい。病床の娘に聞かせた話が原型になっているということだが、その娘はどんなに楽しかったことだろう。リンドグレーンの喜びも大きかったはずだ。少なくともこのデビュー作で彼女は作家としての自分の立ち位置を確立したと思う。子供の為に書こう、子供の立場で書こう。大人たちの否定的な評価にも関わらずピッピが生き残ったのは子供たちの絶大な支持があったからだ。
 リンドグレーンの真摯な想いを子供たちは直感的に感じ取っていたに違いない。

 「はるかな国の兄弟」はそれから33年後、リンドグレーン67歳の時の作品だ。すでに世界的な評価が定まっていたが、もしそうでなかったらこの作品にも宗教関係者を中心に非難の声が沸き上がっていたかもしれない。
 少なくともこの物語は主人公の少年の死から始まり、その少年の再度の死で終わる。児童文学としておよそ例をみない設定だ。 
 
 物語は16章から成っている。3章から15章までを抜き出せば仲のよい兄弟の冒険譚としてけっこう読めるかもしれない。1、2章と16章は世話物浄瑠璃のようなあやしいかなしみがある。それらが一体化することで「はるかな国の兄弟」は幅と深みを増す。

 さっとあらすじをなぞってみる。

 -----—-語り手でもある弟のカール(兄は親しみを込めてクッキーと呼ぶ)はベッドで死を待つばかりの気の弱い少年だが健康で勇敢で心やさしい(お話の王子のように輝いている)兄のヨナタンは死後にいくナンギヤラは楽しい世界だから何も恐れないでいいと話す。そんな折、家から火事が出て、弟を助けた兄は死ぬ。悲しみに沈むカールだったがナンギヤラは本当だったと白鳩が兄の伝言を伝えてきてカールはむしろ望むようにして死ぬ。
 そうしてナンギヤラで兄弟は再会する。
 ナンギヤラではカールも気弱なまま健康な身体を得て習うわけでもなく、泳いだり、乗馬をしたり、夢にみていたような体験をする。サクラ谷は花ざかりで楽しい日々が永遠に続くのかと思われたがナンギヤラにはナンギヤラの事情があって、隣の野バラ谷はすでに暴君の専制下にあり、サクラ谷も風前の灯火のような状況なのだということがわかってくる。野バラ谷を解放し、サクラ谷を守ろうという人々の抵抗に共鳴して兄ヨナタンは立ち、それに引きずられるように弟カールもあとを追う。二人の活躍でナンギヤラの危機は回避されるのだが兄ヨナタンは致命傷を受ける。
 自由を得るには再び死んでナンギリマに行くしかないのだというヨナタンの言葉に兄を背負うとカールは勇気をふるって崖の淵から暗黒の谷底に飛び出すのだった-----–。

 通常、物語にはなぜという疑問に対する最低限度の説明はなされるものだ。
 それがこの物語には一切ない。
 兄ヨナタンはなぜナンギヤラとかナンギリマという死後の存在を知っていたのだろう。
 死ぬと幸せになるとわかっているのであればヨナタンはなぜカールを命がけで助けたのだろう。
 ヨナタンとカールはナンギヤラで再会するがそれではなぜサクラ谷にはほかの知り合い(たとえば父)は存在しないのだろう。
 疑問を挙げていけばとてもこんな程度では済まないのだが、そんなことはおかまいなく物語は一つの意志のように進行する。
 そうして疑問の一つ一つが仕込まれたパン種でもあるように読者の中で醗酵し物語の感動を増大する。

 しかし私はそれが熟練の芸のなせる技だとは思わない。リンドグレーンは目線を低くして子供に合わせるとひたむきに物語を紡いでいくタイプの作家だ。デビューの時から彼女の創作態度は一貫している。大人の思惑に阿る器用さがあれば、彼女はノーベル文学賞を受賞したことだろう。

 未来は子供たちのものだ。笑いながら、ふざけながら先に進めばそこが未来だ、「長くつ下のピッピ」にはそんな楽観があった。「はるかな国の兄弟」はピッピの対極にある。死から死へ、自身、死を意識する年齢になったリンドグレーンは未来を閉ざされた子供たちの存在に深く思いをいたしたに違いない。

 「はるかな国の兄弟」にはむしろ不思議なぐらい教訓めいた言葉が出てこない。天国だの安息だのと、したり顔でささやく言葉の無力を承知していたのだろう、リンドグレーンが語るただ一つの示唆めいたフレーズは「もし今、思いきってやらなかったら、おまえはけちなごみくずなんだし、いつまでだってけちなごみくずのまんまだぞ。」というものだ。この言葉は二度も三度も繰り返される。
 変えられない現実は存在する。どのように正しく生きようと美しく生きようと立ちはだかる現実は厳然と存在する。
 その時が来たら、その時には勇気を持って対峙するのだと、私は実際、この本を読んで勇気と期待を抱いてその時に向かう子供たちがいることを信じたい。
 
 幸いその時が直前でないとしたら「死」を担保にリンドグレーンの言葉を吟味してみるのもいい。これからの夜は長い。

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