源次は一心に鉋の刃を研いでいる。
大村産の仕上砥は赤子の肌のように艶やかにぬめり、刃はぴったりと吸いつくようだ。このまま手を止めると刃は二度と剝がれなくなるかもしれない。
規則的に水を打ちながら源次の手はさっきから、まったく同じ角度、同じ調子ですべっている。
気持ももうすっかり落ち着いていた。
刃物を研ぐことで気を鎮めるという知恵を源次が身につけたのはいつだったろう。
徒弟に入って、二年、びっちり家事まわりの雑用をさせられたあと、ようやく仕事場に出ることを許されてからも、一年は材木運びだの跡かたずけばかりだった。
だから三年目、親方から一通りの道具を贈られて刃物の研ぎを教わった時はうれしかった。
「道具は手入れだ。暇がありゃあ道具の手入れをするんだな。仕事の途中で砥石を持ち出すような大工にだけはなるんじゃねえぞ」
その時、親方にいわれた言葉を源次は後生大事に胸にしまった。
寝る前にはかならず道具の手入れをする。
大工の道具はほとんど刃物だ。
鋸は歪を正して刃を鑢でたてる。
鉋、鑿の類も、刃毀れがあればやっぱり荒砥で刃を落すところからかゝらなければならない。
一刻はたっぷりかゝる仕事だった。
疲れきってからの一刻は辛い。
しかしそれをやらなければ翌日の仕事に如実に響く。
切れない刃物を無理に使うと時間はかゝるし見栄えも悪い。
そうわかってからは源次はそれをやり通してきた。
それが今の源次の大きな支えになっている。
一通り、仕末を終えて手をぬぐうと待っていたように四つの鐘が遠くで鳴った。
女はもどらなかったがいずれ帰ってくるだろう。
あいつにはこの江戸でたよれるものといったら俺しかいないのだ。
「もう寝なきゃな 明日も仕事だ」 女の為に布団を残すと源次はまた半天をかぶって、板の間で横になった。
一日が過ぎ、二日が過ぎた。
最初、源次には女はかならず戻ってくるという確信があったが今ではそれも泡かなにかのように消えてしまった。
心にぽっかりと穴があいて、そこを風が勝手に通り抜けていた。
仕事をしているときだけはかろうじてそんな気持を忘れることができた。
女のことを考えまいとできるだけ長く、できるだけ熱心に仕事をした。
「おめえ、このごろ、なんかつきものにでもつかれたみてえだな、身体を壊すなよ」 事情を知らない親方はただ目を細めるだけだった。
その日の昼飯どきのことだ。
天気がいいので外に皆が車座に集まっていた。
「そういやあ、二、三日前女狐お今とかいう掏摸が捕まったって噂ですがね」 先に弁当を食べ終わった兄弟子の与三郎が茶を啜りながらふといった。
源次は飯をかっこみながら聞くともなしに聞いていた。
「なんでも通りすがりに男の褌まですっちゃうていう凄腕だったらしいんでね」
「野郎、よっぽどゆったり締めてやがったな」 弟弟子の庄太がまぜっかえしたが、与三郎はとりあわなかった。
「まだ焼きが回る年でもねえのになんでそんなドジを踏んだか、町じゃもっぱら男出入りかなんかのせいじゃ、ねえかって、首をかしげているところです」
「まあ死罪にはならねえな、しかし遠島は逃れられめえよ、残りの人生、島暮しあつれえなあ、それでその女いったい、いくつぐれえになるんだい」
莨を吸いつけて煙りを吐きながら親方がいった。
「へえ二十四、五だっていうんですがね、それがどう見たって二十前にしか見えねえらしい。目がきゅっと吊り上ってるから女狐なんて通り名がついたようですが小股の切れ上がっためっぽういい女だってことですぜ」
途中から源次は箸を止めて聞耳をたてていた。
ひょっとしたら、あいつのことかもしれない。いや、あいつのことに違いない。
「あの女、ゆきだのなんのって、さんざん人を虚仮にしやがって、挙句の果てにドジを踏んでりゃ世話ねえや」 源次は腹の中で毒ずいたがしかし、悲しみはむしろ深まったようだった。
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