カテゴリー: ⑥片山一の文章

  • 「はるかな国の兄弟」あるいはリンドグレーン小考

     「長くつ下のピッピ」が娘はお気に入りでよく色違いのくつ下を左右にはいて得意になっていたものだ。娘と同じ本を読んで感想を話し合ったりしていた時期のことだからせかされるままとりあえず読むには読んだが私にはそのやかましさが鼻についてあまりよい印象は持てなかった。娘と感動を共有できなかった最初の体験だったかもしれない。

     しかし私のような反応がむしろ一般的なものではないかという気はする。1945年、この作品が発表された当時にも同様な評価の混乱が起きている。古い日本の紹介文にも女ターザンめいたおてんば少女が活躍うする物語とけして手放しに好意的なものではない。ピッピを即座に支持できる大人は今日でもけして多くはないはずだ。
     
     「長くつ下のピッピ」をリンドグレーンは38歳で書く。それまでの彼女は小学校の事務員として働くシングルマザーであったらしい。病床の娘に聞かせた話が原型になっているということだが、その娘はどんなに楽しかったことだろう。リンドグレーンの喜びも大きかったはずだ。少なくともこのデビュー作で彼女は作家としての自分の立ち位置を確立したと思う。子供の為に書こう、子供の立場で書こう。大人たちの否定的な評価にも関わらずピッピが生き残ったのは子供たちの絶大な支持があったからだ。
     リンドグレーンの真摯な想いを子供たちは直感的に感じ取っていたに違いない。

     「はるかな国の兄弟」はそれから33年後、リンドグレーン67歳の時の作品だ。すでに世界的な評価が定まっていたが、もしそうでなかったらこの作品にも宗教関係者を中心に非難の声が沸き上がっていたかもしれない。
     少なくともこの物語は主人公の少年の死から始まり、その少年の再度の死で終わる。児童文学としておよそ例をみない設定だ。 
     
     物語は16章から成っている。3章から15章までを抜き出せば仲のよい兄弟の冒険譚としてけっこう読めるかもしれない。1、2章と16章は世話物浄瑠璃のようなあやしいかなしみがある。それらが一体化することで「はるかな国の兄弟」は幅と深みを増す。

     さっとあらすじをなぞってみる。

     -----—-語り手でもある弟のカール(兄は親しみを込めてクッキーと呼ぶ)はベッドで死を待つばかりの気の弱い少年だが健康で勇敢で心やさしい(お話の王子のように輝いている)兄のヨナタンは死後にいくナンギヤラは楽しい世界だから何も恐れないでいいと話す。そんな折、家から火事が出て、弟を助けた兄は死ぬ。悲しみに沈むカールだったがナンギヤラは本当だったと白鳩が兄の伝言を伝えてきてカールはむしろ望むようにして死ぬ。
     そうしてナンギヤラで兄弟は再会する。
     ナンギヤラではカールも気弱なまま健康な身体を得て習うわけでもなく、泳いだり、乗馬をしたり、夢にみていたような体験をする。サクラ谷は花ざかりで楽しい日々が永遠に続くのかと思われたがナンギヤラにはナンギヤラの事情があって、隣の野バラ谷はすでに暴君の専制下にあり、サクラ谷も風前の灯火のような状況なのだということがわかってくる。野バラ谷を解放し、サクラ谷を守ろうという人々の抵抗に共鳴して兄ヨナタンは立ち、それに引きずられるように弟カールもあとを追う。二人の活躍でナンギヤラの危機は回避されるのだが兄ヨナタンは致命傷を受ける。
     自由を得るには再び死んでナンギリマに行くしかないのだというヨナタンの言葉に兄を背負うとカールは勇気をふるって崖の淵から暗黒の谷底に飛び出すのだった-----–。

     通常、物語にはなぜという疑問に対する最低限度の説明はなされるものだ。
     それがこの物語には一切ない。
     兄ヨナタンはなぜナンギヤラとかナンギリマという死後の存在を知っていたのだろう。
     死ぬと幸せになるとわかっているのであればヨナタンはなぜカールを命がけで助けたのだろう。
     ヨナタンとカールはナンギヤラで再会するがそれではなぜサクラ谷にはほかの知り合い(たとえば父)は存在しないのだろう。
     疑問を挙げていけばとてもこんな程度では済まないのだが、そんなことはおかまいなく物語は一つの意志のように進行する。
     そうして疑問の一つ一つが仕込まれたパン種でもあるように読者の中で醗酵し物語の感動を増大する。

     しかし私はそれが熟練の芸のなせる技だとは思わない。リンドグレーンは目線を低くして子供に合わせるとひたむきに物語を紡いでいくタイプの作家だ。デビューの時から彼女の創作態度は一貫している。大人の思惑に阿る器用さがあれば、彼女はノーベル文学賞を受賞したことだろう。

     未来は子供たちのものだ。笑いながら、ふざけながら先に進めばそこが未来だ、「長くつ下のピッピ」にはそんな楽観があった。「はるかな国の兄弟」はピッピの対極にある。死から死へ、自身、死を意識する年齢になったリンドグレーンは未来を閉ざされた子供たちの存在に深く思いをいたしたに違いない。

     「はるかな国の兄弟」にはむしろ不思議なぐらい教訓めいた言葉が出てこない。天国だの安息だのと、したり顔でささやく言葉の無力を承知していたのだろう、リンドグレーンが語るただ一つの示唆めいたフレーズは「もし今、思いきってやらなかったら、おまえはけちなごみくずなんだし、いつまでだってけちなごみくずのまんまだぞ。」というものだ。この言葉は二度も三度も繰り返される。
     変えられない現実は存在する。どのように正しく生きようと美しく生きようと立ちはだかる現実は厳然と存在する。
     その時が来たら、その時には勇気を持って対峙するのだと、私は実際、この本を読んで勇気と期待を抱いてその時に向かう子供たちがいることを信じたい。
     
     幸いその時が直前でないとしたら「死」を担保にリンドグレーンの言葉を吟味してみるのもいい。これからの夜は長い。

  • 岡のけんちゃん 2

     犬がうまく納まったとわかるとけんちゃんは足繁く通って来るようになった。鎖で繋ぐような飼い方をしちゃだめだよ、これはいい犬なんだからさ。鎖でつなぐと首のまわりの毛がこすれて、みすぼらしくなる、骨格を狂わせる原因にもなる、そう言われれば言われるままに、私は檻を準備した。
     犬が生後六ヶ月を過ぎると品評会に出せとうるさくなった。私にもうちの犬が客観的に見てどの程度の評価を受けるのか、関心がないわけではなかった。
     
     背中を押されて地元の品評会に出すと優勝した。大きいもの小さいもの品評会はけっこうあったが出ると賞をとった。一時は夢中になって全道をかけずりまわった。安っぽいトロフィーが部屋に置ききれないぐらいたまった頃、ようやく少し熱が冷めたが、私も結局けんちゃんの術中にはまって踊らされていたのかも知れない。

     一千万の話はさておいて、けんちゃんがプードルではけっこう知られた存在であることは確からしかった。いつも五、六匹の子犬を抱えていてバンに乗せて連れ歩いていた。
     小型犬っていうのはね、サイズオーバーにうるさいの、だからさ、餌はあまり食わせられない、高蛋白、高脂肪のものをちょっと、食餌のバランスが悪いでしょ、するとこうやって目脂を出すんだ、目脂で目のまわりの毛が焼けるとかっこ悪いから、そんな愚痴をこぼしながら暇さえあれば子犬の目脂を拭いていた。
     ネクタイの幅やスカートの丈に流行があるように犬猫の世界にもはやりすたりがある。当時はプードルが全盛だった。ようやく一山当てたという感じがあったのか、いつも機嫌がよかった。
     おかげで私も怪我をしないで済んでいた。

     それにしてもやくざの女たち、水商売の女たちはどうしてあれ程、犬や猫に入れ込めるのだろう。その執着は異常だ。度を越したままごと遊び、まるで醜い自分やうつろな現実から目を背けるように架空の世界に没頭する。他人よりよいものを持ちたがり、自慢し、みせびらかし、何かというと周りを巻き込んで大騒ぎする。もっとも他人のことをとやかく言えた義理ではない。自分もまったく同じようなものだった。
     その間をうまく泳いで金を巻き上げるのが犬猫屋だ。

     けんちゃんはけっこう気まぐれで、来るとなったら毎日のように顔を見せたが一ヶ月以上足が途絶えることも珍しくなかったから私は気が付かなかったけれど何か事件が起こっていたのだ。
     しばらくして、猫でしくじって町を出たと人づてに聞いた。
     何でも弟分の女が三十万円で買った姉妹猫を兄貴分の女に五十万円で売ったのがばれたということらしい。うそか本当か、妹が三十万円なら姉が五十万円で何がおかしいとけんちゃんは啖呵を切ったというがやくざが出てきたらそんな話は屁のつっぱりだ。最後は兄貴分の兄貴分に泣きついてとりあえず指はつながったそうだけれど車の一台や二台分の金は使わされたことだろう。承知でやったのならけんちゃんも大したものだが猫の扱いはあまりやっていないみたいだったからひょっとするとはめられたのかもしれない。ちょっとはぶりが良くなりかけた矢先の事だからほらでも吹いて妬みを買ったとしてもおかしくはない。男の嫉妬ほどしようがないものもないのだ。

     それっきりけんちゃんには会っていない。けんちゃんとは二年足らずの付き合いだった。特に嫌な思い出はない。小博奕で小遣いをむしられたぐらいのものだ。こんな男にくっついていたっていいことないから俺と逃げようと女房にちょっかいをかけていたとはあとから聞いた。女房も男まさりの気の勝った女だから倶利伽羅紋紋を背負って極妻をやっても充分つとまったことだろう。
     人生は同時に二方向へ進めないがあっちへ行っていたらと考えることはある。
     けんちゃんがその後どんな人生を歩いたのか想像することはあるが会ってみたいわけではない。

  • 岡のけんちゃん 1

     岡のけんちゃんは犬猫屋だったがどう考えたってそれだけでは食べていけそうもないから他にもいろいろやっていたのだろう。だけど他のいろいろの事は知らない。犬を買いたいと思い知人たちのつてをたどっていたらやってきたのがけんちゃんだった。素人には見えなかったが、その筋の人の険もなかった。

     だけどアイヌ犬かとのっけからけんちゃんは言った。アイヌ犬なんてつまんないよ、今さ、アメリカからプードルのチャンピオン犬が入るんだ、その子なんかどう、儲かるよ。一千万もするプードルを輸入する話をけんちゃんは得得と始めたが、もちろん私はそんな話はてんから信じはしなかった。大体室内犬にはまるで興味がない。
     オスのアイヌ犬、赤毛の血統のいいやつと私は念をを押して手配が出来るようなら一度見せて欲しいと言った。

     ペットなどという言葉がまだ一般的でなく水商売かやくざ関係の女たちが主な顧客で当人たちも自嘲的に犬猫屋と称していた。私は純血種にこだわったから犬猫屋に頼ったけれど一般にはまだ犬や猫は買うものではなく貰うものだった時代のことだ。
     私は小さな会社をまかされていて多少の金なら自由になった。
     いい気になっていたのだろう。

     一ヵ月後、けんちゃんはやって来た。
     ちょっと話が違うんじゃない、私は露骨に不快な声を出したと思う。そんな私におかまいなく、こんなのめったに手に入らないんだぜ、けんちゃんは言った。けんちゃんの腕の中で子犬が震えていた。メス犬だった。
     室内犬の場合はメスが高い。子がとれるからだ。それで小遣い銭を稼ぐ飼い主も少なくない。しかし室外犬の場合は逆だ。管理が難しくなるからだ。そんな業界の裏情報めいた話を書いた本もあったはずだ。私には情報魔的なところがあって何かというと本をあさる。

     だけどあんたが飼ってやらなきゃこいつ明日にも殺されちゃうんだよ、かわいそうにな、室外犬の場合、生後45日から180日ぐらいまでが商品であって、それが過ぎると多くの場合、殺処分される。えさ代も馬鹿にならないし、飼う場所、運動、みな手に余る。価格を下げて無理に売りさばいても、値崩れを起して結局自分の首を絞めるだけだ。

     まあ二、三日預かってみてよ、嫌ならすぐに引き取るからさ、けんちゃんは子犬を押し付けると帰っていった。そこら辺の呼吸が犬猫屋の芸の見せ所なのか、情が移ればしめたものだ、けんちゃんの見込み以上だった。女房はたちまちこの犬に取り込まれその夜のうちに名前も決まった。
     
     日本犬の場合、ある時期になるとご飯を一杯食べると一杯分、二杯食べると二杯分、ぐんぐん大きくなるという形容が決して大げさに感じられないような成長の仕方をする。子犬はころころと順調に育って子供のいなかった私たち夫婦のかすがいの役も充分果たした。

  • やっぱり犬が好き!?

     犬派か猫派かということであれば断然犬派だ。もっともどんな犬でもよいわけではなく、グレートデンやドーベルマンなど何か日本語で命令しても無視されそうで一歩引く。かわいい娘さんがおでこにリボンなんかつけたチワワを抱いているのを見るのは微笑ましいが、小型犬、室内犬も自分で飼いたいとは思わない。他人の趣向をとやかく言うつもりはないが私はやはりきりりと尻尾を巻いた大型の日本犬が好きだ。
     子供の頃、家では犬も猫も飼っていたから猫も嫌いではなかったのだろう。まあ猫に関してはちょっとした思い出がある。髭を切ってひどく怒られたことだ。それほど大それたいたずらの自覚はなかったが猫の髭は一度切ると元には戻らないのだと言う。髭がなければねずみを捕まえられなくなるとは知らなかった。真偽の程は確かめたことがないが猫の始末をさせられた記憶はないし、ひょっとすると一ヶ月後には髭も元に戻っていたかもしれない。とにかくいまだに憶えているぐらいだから、その時はけっこうきつく叱られたことは確かだ。それがトラウマだなどと言うつもりはない。やっぱり相性がよくないのだろう。年を取るごとに猫は嫌いになっていくようだ。

     室外犬が飼えるような状況になってからはほとんどの期間、家には犬がいる。ほとんどというのは先の犬を見送ったあとはしばらく喪に服すからだ。
     最初の犬はメスのアイヌ犬でヒミコという名は女房がつけた。名前通り気位の高いきかない犬だった。成犬になってからも譲ってくれと声がかかった。よほどのチャンピオン犬でもあれば話は別だが中型・大型の成犬に値段がつくことなどまずはない。散歩に連れて歩いても鼻が高かった。
     次に来たのがオスの秋田犬でゴンという名も女房がつけた。
     女房のご機嫌を損ねると犬は飼えないので命名権も女房が持っているが、どういう発想でヒミコだったりゴンだったりするのか、そのあたりはわからない。
     トラ毛は甲斐犬にはよく見られる毛並みだが少数ながら日本犬全般にいる。トラ毛の太刀尾というのはけっこう穿った好みで大いに納得していたが、きれいなトラ毛にはならなかった。この犬は16年、家にいたがだんだん風格が備わってきて晩年はまさに仙人のようだった。泥棒を撃退してくれたことでも感謝している。
     
     今、家には三代目のオスの秋田犬がいる。40日足らずで家に来て4年、蘭丸という呼び名は私も気に入っているが、この犬は相当変わっている。個人情報に関することなので詳しくは言えないが、どうしてうちみたいな平凡な家庭にこんなおかしな犬が育ったのか、なんとも納得のいかない気持ちだ。蘭丸とはこの先どんな物語が展開するのだろう。

  • コテ

    一般の人にはただの木片にしか見えないものだが、なければ仕事にならないというほど重要な道具の一つにコテがある。
     焼き物の道具にもいろいろユニークな名前があって、たとえば器の深さと口径をはかる竹製のものを“トンボ”と呼ぶが、これなど見るからに竹とんぼを連想させる。
     “ネコ”という柄ゴテもおそらくその先端が招き猫の手のように見えるところからつけられた名前だろう。ともかくそういうふうに持って説明すると大抵の人が納得する。細口の壺など手の入らない形状のものの内側を成形する時には必ず使う。
     “ダンゴ”とは皿や鉢の内側の成形に使う文字通りだんご状の木塊だが、これだってしっかり使い込まれたものを見るとただならぬ気配を感じたりする。おぬし出来るなと言ったところ。道具を見れば腕がわかるという言葉がこの世界にはまだ生きている。
     自分の手に合わせ、使いながら削ったり、紙ヤスリをかけたりして、微調整を繰り返し、満足できるまでに仕上げるにはけっこうな時間がかかる。思い入れが生ずるのももっともなことだと思う。
     製品に合わせて一つ一つコテを用意する几帳面な人もいれば、一つのコテを使いまわして何でもこなす人もいる。どちらかと言うと私はけっこう道具は用意する方だ。
     桂、桜など、堅い木で作られたコテはまさに末代もの、衣鉢を継いだつもりでいるのか有名だった先代の形見だと黒光りするコテを得意気に見せびらかされたこともある。
     息子と仕事をしているが、いずれ私の道具もそうして引き継がれることになるのだろう。そう思うと日常何気なく使うコテにもある感慨が沸く。

  • 増毛へ 3

     国稀酒造は明治15年(1882年)創業だからかれこれ130年になろうかという道内屈指の伝統ある造り酒屋だ。創業者、本間泰蔵は新潟県佐渡の人、裕福な仕立屋の三男として育ったが24歳の時に来道、小樽をふり出しにほぼ10年、33歳にしてすでに自分の酒蔵を持つ。面白い時代だったのだろう。アメリカンドリームという言葉があるが男なら誰しもが見たい夢だ。才覚と先見の明とそして運とであっという間にのし上がっている。泰蔵にとっては酒造りも事業のほんの一部であったにすぎない。

     酒と染め抜いた大のれんを横目に赤く焼けた杉玉をくぐって薄暗い店内に入るとさくらさんが腕をこまねいて待っていた。
     さくらさん、四代目当主の義妹というより、泰蔵直系のひ孫と言うべきか。高橋留美子のうる星やつらのさくらさんを私はすぐに連想した。
     さくらさんは溌剌としている。意気軒昂だ。国稀を背負って立つという気合がある。工場を歩きながらの説明にもそれがみなぎる。相槌は佐々木さんにまかせて、私は右から左に話を聞き流しながら130年の風雪を想った。よく使い込まれた建物はまるでそれ自体の意思のように凛として動じない。
     重要文化財、丸一本間家も素晴らしかった。一世紀を耐えてゆるぎない。家を形作る木材の一つ一つがもうすでにこの国のどこを探しても手に入りそうもないものばかりだ。それをくぎ目も見せずに組み上げている。床板の一枚一枚に手がんなをかけ面を取る作業をさせた大尽も大尽ならした職人も職人だ。家の端々に一見さりげなく刻み込まれた男たちの心意気を伝えようと松本さんも熱い。案内をしていただいた松本さんはまるでこの家の霊に取りつかれたような人だ。もっともっと話を聞いていたかった。

     滞在3時間。少し時間が足りなかったですねと佐々木さん。腹八分目って言いますからと私。
     国稀の酒は辛口でアルコール度数も高い。それでいてうまい。試飲の酒に私たちはけっこういい気分で増毛駅に向かう。
     さて。終着駅は始発駅なんて歌もあったっけかな。




  • 増毛へ 2

     増毛は終着駅だ。ホームの先で線路は途切れ、いかにも車止然とした車止がここで写真をお撮り下さいと言った感じで設置されている。一瞥してやり過ごそうとしたが声がかかり写真。とりあえずスポンサー付きの身だ。
     十数人程の降客があったはずだが、そんなこんなの間に皆散ってしまい、駅前には私たち二人だけが残る。
     たしか駅の裏手は港だったはずだと、古い記憶が蘇ってくる。

     昔は一時、よく来た町だ。この町へと言うより、その先の別刈だの何だのという小さな漁村へ。通りすがりだがラーメンを食べたり飲み物を買ったりはよくしたものだ。
     私は若く妻や子がすでにいたが、まだ夫にも親にもなりきれずに毎日のように飲んだくれていた。つるむ連中は皆、私より若かったが最も年若な寿司屋の職人が店を持った矢先で私たちはそこでたむろした。たまに家にいると呼び出しの電話がかかってきたりする。朝まで飲んで店を閉めると海に向けて車を走らせる。増毛へ行こうは私たちの合い言葉だった。
     浜で漁の後始末をする漁民に近づいて章魚だのほやだの生魚をただみたいに買い叩き、戻るとそれを肴にまた酒盛りだ。そういう生活だったからさすがに女をかまう余裕はなく、それが唯一、妻が私を見棄てなかった理由ではなかったろうか。
     あの頃、駅裏はいつ来ても工事中だった。
     今は車道も歩道も家並も小奇麗に整備されている。ただどこにも人の気配がなく、何か休業の遊園地に紛れ込んでしまったようだ。
     あっちですね、と佐々木さんが指指す案内板もこじゃれている。
     国稀酒造、徒歩五分、しかし私の足でも五分とかからなかったろう。

  • 増毛へ(1)

     JR北海道に“ライズ”という広報誌がある。そこから突然、“ぶらり一日旅”に出演してもらえないかと電話がきた。
     JR北海道には土・日・祝日限定の“一日散歩きっぷ”というのがあって決められた範囲内であれば普通・快速列車の自由席が一日、乗り放題で2040円、子供は半額という。そのキャンペーン企画だった。どういうわけか私に白羽の矢が当たったらしい。
     そのきっぷを使うつもりになって一日好きなように旅をする、費用はすべて先方持ち、日当も出る、一も二もなく引き受けた。
     旭川からだと美唄、新得、上川、中川、増毛がそれぞれの方面の限界、しかしけっこう遠くまでいけるものだ。
     本当にどこへでもいいんですよということで久しぶりに海を見に行くことにした。
     そこで増毛へ。

     朝というにはやや遅い、十時すぎ旭川駅出発。普段の行いのせいだろうか心配だった天気もとりあえずいい。
     深川で担当の佐々木さんと合流、初対面だったがそんな堅苦しさを感じさせない。二両編成のディーゼル車は便数が少ないせいもあるのだろう、ほぼ満席だ。
     北一巳、秩父別、質問ぜめにあいながら、晩秋の野をがたごとと列車は進む。もえ人気で一時は大騒ぎだった恵比島も今はひっそりとおさまっていた。
     昼過ぎに留萌着。乗客は皆降りて私と佐々木さんだけが残る。ここで昼食支給。にしん親子弁当は可もなく不可もなし。弁当を食べ終わっても列車はいっこうに動き出す気配がない。本は持ってきたがあえて手にする気にもなれず手持ちぶさたのままぼんやりと外を見ている。留萌は大きな町だと思っていたが、こうして車中から眺めると意外にこじんまりとした感じだ。左手は駅舎に阻まれているが、右手は線路の柵のすぐ向こうがもうパークゴルフ場、老人が数人、のんきそうにプレーしている。パークゴルフ場の奥は水田だろうか、その先は水産加工場、そしてなだらかな山が連なっている。もの思いに沈みかけて人の気配に我にかえった。

     ぱたぱたと客が乗り込むと待つ間もなく列車は出発。すぐに右手に海が見え、たちまち車窓いっぱいに拡がっていく。
     色彩と質感を欠いた海、薄曇りの空は海と同化し、空は海となり海は空になって、透明の硝子に定着している。 
     車体を傾け右に大きく湾曲しながら列車は進む。
     さあ増毛だ。

  • 職人

     私は20代も半ばを過ぎてから内弟子に入ったのでそこは自分よりも年若な“職人さん”ばかりだった。
     職人さんとは内弟子を卒業して、一通り焼物の仕事をこなせるようになった人のことを言う。工場に来て親方からロクロ挽きなど賃仕事をもらう、言われた仕事を自分の都合に合わせて期限までにこなせばよく、それ以外の拘束はない。
     独立して窯を持ったものの収入がままならないという人も多かった。
     手もとと言って私はその人たちの下働きで粘土を練ったり、手水を換えたりさん板を運んだりするのが仕事だった。

     大量の注文が入ったりすると数人の職人さんが競うように同じものを挽く。もちはもち屋で表面上はどれが誰の作かわからない程揃えててある。しかし裏の高台にはそれぞれの個性が隠しようもなく表れていて、これは誰のだとすぐに見分けがついた。茶道で器拝見と裏を見る意味がわかったような気がしたものだ。

     その前後の人生を考えるとうそのようだが、そこではいやな思いをさせられた記憶がない。人にも恵まれたのだろうし、やはり天職でもあったのだろうか。私は身体に障害があるがそれもみんなが上手にかばってくれていたように思われる。

     段取り七分と俗に言うが、職人さんが工場に来て、親方から新しい仕事をもらうと、やおら道具を作り始める。トンボ(寸法)、コテ、これで一日、翌日は昼近くにやってきて鉢の200も水挽きすると日の高いうちに口笛なんか吹きながら帰っていく。
     ゲイジッカなんて、俺はおかまになるつもりはねえや、なんてうそぶいていた。皆、粋だった、30年も前の話である。

  • 読書依存症

     読書家という職業がないので仕方なく陶芸家をしているが、本を読んで暮らしがたつならどんなに幸せだろう。
     子供の頃から本ばかり読んできた。本を読んでいると楽しかったし幸せだった。私はいじめられっ子で毎日のように泣かされていたから現実からの逃避だと言われれば反論できない。だけどやっぱり私は本が好きなのだ。

     年百冊、三万ページ、そういうノルマを自分に課して、もう十年は過ぎただろうか。とりあえず月十冊が目標だから、月末はいつも借金取りに追われる様な心境だ。飲み会の誘いにはそれこそハムレットのごとく悩む。
     飲むべきか飲まざるべきか、いや、読むべきか読まざるべきか。
     そして二兎を追って目から血を流したりする。

     本を読んでも利巧になるわけではないと誰かが言っていた。別に利巧になろうと思って本を読んでいるわけではないが、余計な知識が蓄積する。それを時々ひけらかしては総スカンをくう。嫌な性格だ。ちょっと欲求不満気味なのだろうか。
     朝の九時から夜の七時まで仕事はけっこう真面目にするが、家に帰ったらそれこそ縦のものを横にもしない。本をかかえて寝転ぶばかりだ。古今東西、人文、理工、ほとんど何でもこなすけどホラーとオカルト、SFは駄目、下ねたもハウツウものもあえて手にすることはない。児童書とファンタジーは大好きだけど絵本は魂胆が見え透いているような気がして拒否。 
     
     飲む、食う、読む。そして深夜におよんで、いいかげんにせよと家人に怒鳴られて寝る。
     若い頃には文学青年の私をどれ程、憧れの目で見上げたものだろう。それが今ではまるで禁治産者の扱いだ。
     歳月は人を変える。体型のことまであげつらうつもりはないが、女房の奴め。

  • 縁起(げん)をかつげば

     いまだ人知が及ばぬところがあるせいかもしれない。焼きものの世界では験かつぎ、忌ぎらい、迷信の類がずいぶん多いような気がする。
     その一つ一つに気を配っていたら身動きが出来なくなりそうなので、大抵は知らぬふりで済ます。
     それでも窯の奥には神棚が据わっているし、中には瀬戸の陶彦神社の御札、大窯を焚くのは大安、火を入れる前には家族揃って拍手を打つ。
     赤不浄、すなわち出産などを忌み嫌うのは職人仕事ではけっこう普通でなかなかうるさい。私も妻の出産時には三日間病院に寄りつかなかった。当然、義父・義母には大ひんしゅくを買った。忌明けに尾頭付きの大鯛を持参して何とか離縁を免れたといういきさつがある。くわばらくわばら。

     私はカトリック系の女子高で三十年近く陶芸を教えたが、ある時、窯を購入する話が持ち上がった。何もかも私にまかせっきり、おおらかと言えばおおさかだが、その分、私は責任も感じ張り切った。
     初窯には左馬と言って馬という字を逆さに書いた湯呑を配る慣わしがあります。火がよく走るようにということですが、それでお茶を飲むと中風にならないとも言われています。これはとりあえずこちらで用意しましょう。
     話はとんとん拍子に進んでいったが、それで神主さんを呼んで、と言うに及んで凍結した。

     うちはカトリックですから。

     しかしやることはやらないと、とすったもんだが一週間も続いただろうか。
     最後は泣き落としに私が折れたが、神父さんがお祓いした窯など日本広しと言えどもそうざらにはないだろう。
     それでよかったのかもしれない。この窯は今も健在で生徒の傑作を焼き続けている。
     高文連全国大会に毎年のように生徒を送ることなど、神助がなければ出来ることではないだろう。
     来年は三重だと言うが、ついこの間出場が決まった。

  • ロクロ


     陶芸家の仕事というと、まずロクロを挽いている姿が思い浮かぶかもしれない。取材を受けてもいざ写真という段になるとできればロクロで、と注文が入る。たしかに私たちの数多い作業の中でももっとも絵になる場面かもしれない。
     雑用をのぞけば、まず教えられるのがロクロ。使う方も使われる方にもロクロぐらいはという頭がある。腕さえ上がればロクロ師として一人立ちすることだってできた。世間一般で考えれば車の運転免許といったところになるだろうか。
     最初はまずパイ挽き。パイ、すなわち盃状のものを形を揃えながら挽き続ける。手が決まるまではひたすらそればかり。我流ながら多少の下地があったので私の場合はきっ立の湯呑で始まった。
     一日百個、十日で千個。まあ三、四か月をめどにまず一万個やってみなさい。

     大窯を焚いた翌日などは、一日自由にしていいと言われることもあったが原則的には日常の作業を済ませたあとの時間でやるのだ。最初の頃は一日二十個も挽けただろうか。
     もっともこれは通過儀礼のようなもので二、三千個、半年も続けるうちにうやむやになっていく。息子にも同じことを要求したがやっぱり同じ結果になった。
     昔は腕がいい職人なら湯呑を一日千個は挽いたという。徳利など多少心得があれば誰だって外見は揃えるが、容積となると話は違う。それが七勺なら七勺とぴたりと揃えたというからたいしたものだ。

     独立したあとも二百、三百とまとまった個数の仕事がよくあった。お金をいただきながら練習させてもらえるとうれしかったものだ。最近はそういうまとまった注文がめっきり減った。うちだけではなさそうなので食器の需要が急速に減ったということだろう。これから腕を磨かなければならない若い人たちには気の毒な時代というしかない。