タケⅧ 終章

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 トマス・ハーディなんて聞いたこともない。時間と資料さえあれば何とでも出来ると思うが、明日というわけにはいかない。現実的な話をしようと私はいった。
 若い女のむせかえるような匂いのこもった部屋で私たちは膝をつきあわせていた。
 それであんた、その教授との関係はどうなんだ。
 女は一瞬、考えるふうをして次いで大口をあけて笑いころけた。
 関係だなんて、国立大を停年で退官した七十過ぎのおじいちゃんよ。
 私の吹き出す番だった。
 俺は何もそんなことを聞いたんじゃない、人間関係は良好かどうかってことだ。
 お前の頭の中にはそういうことしか詰まってないのかという言葉は棚沢の手前飲み込んだ。
 あっ、そういうことね、悪くないと思うわよ、だからこうしてチャンスをくれたんじゃない。
 じゃ、こういうのはどうだろう、それはさておきというんだが。
 私は旧制の中学や高校でまかりとおったというそれはさておきについて語った。
 自分に回答するだけの用意のない課題に対して、それはさておきとまったく無関係の論旨を展開する。うければそれで及第点がついたという伝説もある。
 私は馬鹿だからトマス・ハーディについてなにか考えようとがんばったけれど何も書けなかった、だけど親にはもう迷惑はかけられないからなんとしても卒業したい、それでとりあえず学生生活の反省を書いた、これでなんとかゆるしてほしい、というような内容でどうだと私はいった。
 女はしばらくしぶった。馬鹿は馬鹿という言葉に異常反応するものか。
 それで本当にだいじょうぶかしら。
 駄目なら最後の手段で上着を脱いできゃあっと大声をあげて教授室をとび出すんだな。

 その日、私たちは遊び人風の男たちにとりこまれ面白くもないマージャンを打っていた。横柄な態度を見逃すとさらにつけあがるといった感じで、最前から少しずつ圧迫が強くなっていた。
 すでに勝とうという気持はなく、いかに少ない負けでこの場を切り抜けるかが問題だった。
 タケもおそらく同じ考えでいたことだろう。
 二人組の一方、顔に険のある痩せた男がツモの途中で牌山をくずした。
 わざとそうしたとしか思えない。
 やれやれという気持で私が目を上げ、上げた目が偶然、タケの目と合った。

 その瞬間だった。
 てめえら、通したな、牌山をくずした男がそう怒鳴るといきなり雀卓を蹴飛ばしてタケにとびかかった。胸元を握られ顔を殴られるタケの影像が目に定着するかしないうちに私も椅子を蹴倒され、もんどりうって床に突っ伏していた。最初の痛さを感じる間にも尻や背中や腹をいくど蹴られたことだろう。襟首をつかまえて立上がらせられると身体中がしびれるように痛んだ。

 事情はよくのみこめなかったが私たちは填められたのだ。
 左右を男たちに抱えられて、店を引きずり出されると私たちはそのまま道路をなん間かへだてた男たちの事務所に連れ込まれてしまった。
 両腕を抱えられたままそこでもう一度、私は顔と腹を殴られた。口が切れ、口中に血の味が拡がり、鼻血がふき出して、両足の間の床にぼたぼたとはねかえつて、ようやく男たちの手は止まった。
 
 椅子に坐らされたタケは動きをおさえられて、左手をテーブルの上にのせられた。血まみれのタケはそれでも一、二度身震いをこころみたが男たちは手なれた屠殺人のように動きを完全に制止していた。
 ああ、そういうことが始まるのだなと私はまるで他人事のように思った。
 しかし私の想像とは違って、男たちが始めたのは小指の第一関節に綿糸のようなものをきりきりと巻きつけることだった。
 しばらくすると小指の先が真黒に変色するのが見えた。
 窓を背に、机に両足をあげて煙草をくゆらしていた男が首をふった。
 あれはペンチだ。
 男の一人がどこからか出したペンチを当て、コクッとひねると指先はたいして血も出さずに簡単に取れた。電線を切るようなものだった。
 戒めをとかれたタケはのろのろと立ちあがるともういいかとくぐもった声できいた。窓側の男が首をふった。
 出口にむかいかけたタケに男がいった。
 そんな小汚ねえ指を置いていかれたってしょうがねえ、持っていけや、いい医者に駆け込めばくっつけてくれるかもしれねえぜ。
 タケは大儀そうにテーブルにもどると右手でテーブルに転がっていた左指先をつまみあげた。そうしてつぶれた目の上にかざしてしばらくみつめるとふいにそれを口にほおりこんだ。
 男たちが気をのまれたのが私にもはっきりとわかった。タケの逆転というべきだろう。
 タケは私の方に目をむけると首をしゃくった。私はおずおずとタケにしたがった。
 おい、跛、おまえもいい気になって、ちょろちょろやっているとそのうち同じ目にあうぞ、その罵声が男たちのせめてもの虚勢だった。
 
 おう、ずいぶん男前になったじゃないか、入口で棚沢がひやかした。
 身体を動かすとまだあちこちがずきずきと痛む。
 どのようにしてタケと別れ、どのように部屋にもどったものだったか。ともかく三日間、私は部屋でふとんをかぶって過した。
 身体も痛んだが心も痛んだ。
 まあ、そのくらいですんでめっけもんだぜ、棚沢のいうこともわかる。
 おまえのおかげで助かった、レポート意外にうけたっていうぜ、これはレポート代とそれにお礼だってよ。
 あれからタケは拳銃を持って引きかえして、男の一人を射殺したあと自首したという。
 本当かと問い質す私に嘘をついてなんになると棚沢はいった。
 それよりな、おまえ伊藤さんの卒論、引きうけてるんだろう、いいかげんになんとかしてやれよ、伊藤さん焦ってたぜ。
 ああ、そんなこともあったなあと私は思った。
 大学三年の秋が過ぎようとしていた。

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