仔ぎつね、おコン

 「あんたなんか大嫌いだ」 戸口で振り返ると女は捨台詞を吐いた。
 「上等だ、俺だって、てめえみたいなズベタ、二度と顔なんか見たくもねえや」 喉まで出かけた買い言葉をなんとか呑み込んだのは源次の未練だったのかもしれない。
 ぴしゃりと戸を閉めて女が走り去ると思いがけない静粛がきた。
 八月も下旬、もう秋だ。
 鳴りをひそめていた虫たちがまたいっせいに声を競いはじめた。虫さえなにか自分を嘲笑うようで源次はいらだたしげに踵を床にたたきつけた。一瞬、虫の声は止む。
 「くそ、おもしろくもねえ」 食べかけの晩飯の味噌汁の匂いがふいに鼻をついたが食事を続ける気にはなれなかった。
 「なんだ、あの女、早とちりしやがって」 両指を組んで枕をつくると源次は仰向けに寝転がった。
 おそらく、女は源次の帰りを見越して食事時にやってきた姉のことを誤解したにちがいない。
 応対に出た女と姉のちぐはぐなやりとりを思い出す。
 立上がっていく間もなくあわてた姉は帰ってしまい柳眉を逆立てた女はそれきり一切源次の話を聞こうとはしなかった。
 しかし、あの女、ここを飛び出して、いったいどうしようというのだろう。
 
 三日前のことになる。
 その日は棟上げで振舞酒が出た。
 源次もいい気分で酔った。
 だがこの辺がいいところなのだ。勧められるまま度を越すと酷い目にあう。
 翌日、親方に怒鳴られ、兄弟子にこずかれて、吐きながら仕事をする辛さを源次は何度か味わっていた。
 六つの鐘を潮に腰を上げると、源次はもう少し飲むという親方や兄弟子と別れて家に向った。
 しかし浮れた調子は続いていた。夜風が火照った頸筋にここちよかった。
 だから吾妻橋を渡った先の小さな稲荷の鳥居の前で所在なげに佇む女に思わず声をかけてしまったのだ。
 「ねえさん、いくところがねえんなら、ついてくるかい、一晩ぐれえなら泊めてやれるぜ」
 いたずら半分だった。
 源次は年季が明け、あと半年もすれば御礼奉公もすむという二十三才の孤りものの大工だが実は気の小さい律儀な男で普段ならとてもそんな軽口はたたけない。
 酒が源次を常になく昂揚させていた。
 「なにいってやがるんだ、あさってにしな」 もっともそんな啖呵で切り返されて、互いに舌を出して行きすぎるはずだったのだがなんと、女はついてきたのだ。
 
 「俺は源次っていうんだ、あんたも名前ぐれえはおしえてくれ」 家に上げてそう問うと、女は「ゆき」と名告った。
 うそか本当かわからねえなと思うぐらいの常識は源次にもあった。
 しかし暗闇ではすれっからしの中年増ぐらいに思えたものが灯火の下ではまだほんの小娘のようにも見える。身にまとうものもけして、粗末なものではない。
 どんな素性の女なのだろう、源次の頭にもそんな疑問が浮んだがどうせ一晩だと、あえてそれ以上は考えないことにした。
 「俺は馳走になってきたんだが、腹がへってるんなら、冷飯ならあるぜ」
 しかし女も食べ物はいいといった。
 「妙ないきがかりだが、言ったことは言ったことだ、今日はともかく泊っていってくれ」 源次が煎餅布団を敷きだすと「好きにしてくれていいんだよ、義理を金ですます持ち合わせもないからね」 居住いを正して女がいった。
 源次にもそんな下心がないわけではなかったが、面と向ってそう切り出されると男の面子を棄てるわけにもいかず、「馬鹿野郎、据え膳に飛びつく程、こっちとら飢えちゃいねえんだ。」と強がってみせるしかしかたがなかった。
 女もほっと息を抜いたように思ったが帯もとかずに横になると、やがて軽い寝息をたてはじめた。
 「いったい、この女はなんなんだ」 一つしかない布団をとられて、しかたなく源次は半天を肩からかけると、板の間に寝そべった。むしろその夜は、源次の方がよほど寝つきが悪かった。

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