工房の周りにはかなり広い土地がある。
いつか、木を植えよう、花でもいいと思いながら結局、手を付けることはなかったからおそらくこれからもそのままだ。
もう30年を過ぎたが毎春、先住者が残した福寿草、野良生えの水仙がわずかに顔を出す。
庭というにはあまりにもおそまつだから、とりあえず地所と呼ぼう。
その地所の隅に火山灰が小山程に積んである。
これはうちの釉薬の基本原料で年間、けっこうな量を消費する。
庭土がわりに播いたりするようなもので値段など高のしれたようなものだが20目のフルイを過すと排棄する方がはるかに多い。1年分を賄うのには延べで2週間もかかるだろうか。
夏場、好天が続くのを見計らって採集している。
ゴーグルやマスクをしても全身灰まみれになる、あまりありがたくない仕事だ。
数年に一度、ダンプ1台分を運んでもらう。
それで小山はその都度大きくなったり、小さくなったりを繰り返すがそのてっぺんあたりに柳が芽吹いたのはいつのことだったろう。
年をとると歳月の流れは早い。つい2、3年前のように思っていたことが実は10年も昔の出来事だったりする。だからあまりあてにはならないのだがそれでも5年はたっていないような気がする。
最初はスギナにまじって見分けがつかなかった。
しかし、すぐにあきらかに木とわかる様相を呈してきた。
雑草と変わらず引き抜けそうなほどのものだが、それはやっぱり木なのだった。
いつでも引き抜けると思いながらそうしなかったのは、健気なという意識が心のどこかで働いたせいかもしれない。1度や2度はその芽をさけて荷を下ろすよう運転手にも頼んだものだ。
それが今では家の廂を越える程に育ってしまった。
雪が融けかけて、あたりが薄穢なく見え始めたやさきには邪魔臭く思えてしかたがない。
いっそ切ってしまおうかと近づいてみる。
息子にいえばその場で始末がつくだろう。
だが見上げると、枝の先々にはすでにびっしりと赤い蕾がついている。
若い木だ。肌はつややかに輝くようだ。
しゃあないな。そんな不決断が、女一人も棄てきれず、ついにはこんな人生を送らせたのだと思いながら花はいつ咲くのだろうと、すでに関心は別の方に移っている。
春愁という季語があって、それに沿ったことを書くつもりでとんだ駄文を労してしまった。
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