闇の果て (十二)

 ここは弥平さんのお家じゃなかったですかね。
 夜になっても熱気が納まらず、開け放したままの戸から見知らぬ男が顔を覗かせていった。
 弥平は私の父ですが二年前に亡くなりました。
 それじゃ、おまえは誰だ、弥助かい、突然、男はぞんざいな口をきいた。
 怪訝に首を傾げる弥助に男は頓着しなかった。
 おれだよ、おれさ、おまえの兄の精次郎だよ。
 勧めもしないのに男はどかどかと土間に入ると、上り框に腰を下して草履の紐を解き始めた。
 しかし、あいかわらずしけた暮しをしてやがるなぁ、どうだ、そろそろ食い物にも不自由するだろう。

 弥助は最初から精次郎と名のった男にいい印象は持たなかった。
 青白い顔には身を持ち崩した遊び人特有の険がある。こんな時季に村に現れるもの女衒の真似事でもやろうという魂胆ではないか。
 口が妙に軽いのはどこかに本音を読まれたくない意図を匿すからだろう。この男はそうやって世間の裏道を歩いてきたのだ。
 村を飛び出した若者が辿る一つの典型のようなもので弥助もそんな男を幾人も見ていた。
 これはもう人間のくずだ。そうして俺にも同じ血が流れている。

 おい弥助、そんな仏頂面をしていねえで、早く茶碗を持ってこい。俺ぁ今夜、泊るつもりで酒を買ってきたんだ。
 弥助があわてて茶碗を二つ拵えると歯で貧乏徳利の栓を抜いて男はなみなみと酒を注いだ。
 飲め、俺のおごりだ、もうどちらが主人かわからなかった。
 若衆宿を抜けてから、酒を口にする機会がなかった弥助は一杯の酒をもてあました。
 男は手酌でぐいぐいと飲み、勝手に酔っておだをあげた。
 聞くに耐えない法螺話に弥助は半分眠りながらつきあっていた。
 兄というからには兄なのだろう。心の中には多少なりとも肉親に対する思いがあり、それが弥助の感情の歯止めになっていた。
 夜半を過ぎても暑さはいっこうに衰えず弥助の背中にもたえず汗が流れていた。

 朝早く弥助は目覚めた。
 旱魃のせいでこれといった仕事がなくなった今も、やっぱり朝は早くから起きる。それは百姓の習性のようなものだ。
 となりでは男が肌をはだけていぎたなく寝入っていた。
 酒くさい息があたりに充満して胸苦しい程だった。
 一つ屋根の下に男といるのがいかにもうっとうしくて弥助は外に出た。
 ぶらぶらと川まで歩いてみよう。
 夜は目に見えるように明けてきた。
 枯色に乾いた田の稲が一面に広がっている。
 わずかに青味を残すのは雑草ばかりで空さえ枯色に染まっていた。
 
 一生懸命働いてこれがその様だった。
 短かくたっていいじゃねえか、面白ろおかしく暮そうぜ、そう言って、兄は昨夜、弥助をしつこく仲間にさそったのだ。
 それもたしかに一理はある。

 ふと弥助は思いあたることがあって、あわてて家に引き返した。
 あの男、なにをやらかすかわかったものじゃない。
 弥助が土間に駆け込むと部屋の中央に蹲っていた男がぎょっとして振り向いた。
 案の定、片手には外した床板が握られていた。
 兄さん、兄さんは女衒だけじゃすまなくて、こそ泥もやるのかい。
 男は床板を投げ棄てると後へ飛び退いて懐から匕首を引き抜いた。
 弥助もすばやく土間の隅の鎌を掴んだ。
 これで五分と五分、いや体力なら間違いなく俺の方が上だろう、この状態の中で弥助はけして怯えてはいなかった。
 そうしてどれぐらいの時間、睨みあっていたことだろう。
 男は弥助の方からは仕掛けるつもりがないことを見てとると幾分余裕が出たようだった。

 弥助よ、弥助、弥助さん、男は唄うようにいった。
 こんな目腐れ金でおまえは兄さんを殺ろうっていうのかい。
 弥助は答えなかったがその言葉は意外に胸に響いていた。
 ここで兄まで殺したら俺は本当の畜生になる。
 男は一瞬の隙を見逃さなかった。
 身体を丸めると獲物を襲う猫のように飛び込んできた。
 匕首が弥助の体を貫いていた。
 相討ちに持ち込む余裕は充分あった。
しかし弥助は手の鎌を振り下ろそうとはしなかった。
 せめて兄殺しの汚名だけは避けたかったのだ。
 金はやるがつるの分ぐらいは残しておきな、獄門台もけっこう酷いそうだぜ。
 身体を離して見下す男に弥助がいったそれが最後の言葉だった。

                   完

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