カテゴリー: 朝の食卓

  • 辞典片手に

     辞典も楽しいものだ。
     小説にあきると私はよく辞典を開く。
     「一」は漢和辞典の最初に出てくる。
     息子の名前をどうするか、頭をつきあわせた両親があっちをめくり、こっちをめくりしてさんざん悩んだあげく結局元にもどって落ち着くまでにどれ程の時間がかかったことだろう。そんな場面を想像するとたしかに親のありがた味は増すがこれを「まこと」と読ませたおかげで私は終生まともに呼ばれることがないかもしれない。
     けっこう由緒ある出典なのだが女房などうそから出たまことと本気で信じている。
     まあ、そうふきこんだのは私自身なのだから、自業自得というべきか。
     「一」は部首も一なら、画数も最小の一、それでは最大画数の漢字はなんというか、一冊ものの辞典ならせいぜい35画程度の漢字が最後の方にのっている。
     馬を三つ重ねたものがある。馬がたくさんなんて意味だという。ひょっとしてと、探したらやっぱり鹿が三つ重なる字もあった。二つを並べたらすごいぞと期待したがさすがにそんな熟語はなかった。残念。
     諸橋轍次の大漢和辞典全13巻にはなんと64画の漢字も出てくる。
     龍という字をたて、よこに4つ並べる。音はてつ、意味は多弁。
     おまえもそろそろいいかげんなおしゃべりはやめろという示唆だろうか。

    (北海道新聞 朝の食卓 2010年12月27日掲載)

  • エビス

     イザナギ、イザナミの最初の子をヒルコという。ヒルコは生まれながらの不具だった。そこであし舟に乗せて川に流す。
     古事記にそうある。
     都合の悪いことはなかったことにしてすます性向は当時からすでにあったようだ。
     知ったかぶりのついでに言えばこれが水子の語源になるとの説もある。
     子棄て、子殺しはいわば日本開闢以来の伝統だからなにも現代の風潮に目くじら立てることもあるまいよとつい脱線した言辞をはいて、私は女房の逆鱗に触れた。
     女房は常に絶対の正義に立つ人である。そんな深刻な問題におちゃらけなどは許せないのだった。
     恐ろしくて言いそびれた話の続きをすれば、そのヒルコが長じてエビスになる伝説もある。
     だから立姿のエビスはいない。宝船のエビスだって鯛を抱えてかならず座っているだろう。そういう意識で見るとその名前のビールのラベル、あの足のかっこうもなにかちょっと不自然なのがわかるはずだ。
     エビスの、あの笑顔に隠した屈辱、怒り、絶望、哀しみはけして他人事とは思えないわけで……。
     なに、要は私がそのビールを愛飲する正当性を理屈づけて説明したかっただけのことなのだが、やっぱりちょっと方法論に問題があっただろうか。

    (北海道新聞 朝の食卓 2010年11月13日掲載)

  • マイ・ブーム

     今、私たちはことわざを合体させる、ことば遊びに熱中している。
     たとえば今日の政治状況を一寸先は闇夜の鴉と表現する。一寸先は闇と闇夜の鴉を尻とりでつなげたわけでなにか意味ありげなうさんくさい感じが気に入っている。
     女房だって、ケーキをいただいたぞと家に持ち帰ると両手に花より団子だわと飛びつくわけでお互い、相当はまっているのだ。
     負けるが勝ち馬に乗るとか喪家の狗も西向きゃ尾は東とか石の上にも三年寝て待つなど、その間に出来た傑作も少なくない。
     その日、私たちは病院の待合室で額をくっつけるようにして悩んでいた。しかし別に深刻な病気が発見されたわけではない。
     尻とりでことわざはどのぐらいつながるものかと考えていた。
     仏の顔も三度…三度目の正直…正直者は馬鹿を見る、もう小一時間も待たされているはずだがまるで気にならなかった。
     前の方にもつくんじゃないと女房。
     そのヒントで上の方に聞いて極楽見て地獄と地獄に仏の2つをくっつけることができた。これで5つのことわざがつながったことになる。大満足でうなずいたところで、とうとう名前を呼ばれてしまった。
     その途端、見るは目の毒という、ことわざがぱっと浮かんだ。これで6つだ。まだまだ続けていけるかもしれない。どうだろう。

    (北海道新聞 朝の食卓 2010年10月2日掲載)

  • 風邪かもしれない

     ごほんと一つ咳をして台所の女房をうかがった。食事の準備に夢中で聞きもらしたか、反応がない。そこでごほん、ごほんとさらに大きく咳をする。
     どうも今朝は身体が重い。けっこう熱もあるんじゃないか。
     こんなに具合が悪そうなのにどうして女房は気付いてくれないのだろう。昔はちょっとしたことにだって目をとめてうるさいぐらいのものだった。
     別に大騒ぎしてほしいわけではないが、せめて、お父さんどうかした、ぐらいのことがあってもいいだろう。
     ようやく手渡された体温計を口に銜えて、これで高温だったら有無なく病院に行かされるだろうなと私は考えている。だけど低けりゃ低いで、大丈夫よ、大袈裟なんだからなんていわれて腹が立つ。なんとか希望通りの体温が計示されないものだろうか。
     子供の頃、幾度か入院生活を経験したが、そういえば日に3度の検温はたいてい指でこすって、調整していた。一度なんか、温度を上げたまま返して、ひどい目にあったりしたが、まあ、いよいよになればそんな手もある。
     正確に自分の体調を知っておきたいし、この状況にもっとも適応する体温も提示したい。
     私はハムレットのような心境で天井を睨んでいる。(2010年9月2日北海道新聞 朝の食卓掲載)

  • なさけない

     テレビから目が離せない事情もあった。背後にあるはずのごみ箱めがけて、前をみたまま丸めたティッシュを肩ごしにぽいと放った。
     するとどうしたあんばいか思いもかけず、その一投が見事に決まってしまったのだ。
     ふむ、これが百発百中で出来るとしたら、ちょっとした芸だななんて考えたわけではない。しかし、その快感が忘れられず、わざわざごみ箱からティッシュを拾い出して挑戦している。
     あれをビギナーズラックとでも言うのだろうか。今度はそうやすやすと入らない。
     再度ごみ箱の回りに散らばったティッシュを集めて前を向こうとした瞬間、ふと気配を感じて台所の方に目をやると女房が声をころして笑い転げていた。
     まずい、最初から見られていたとするとこれは相当にまずい。
     われに返ると自分でもばかなことをやっていたと思わないわけではないから、すごすごとティッシュをごみ箱に戻して、テレビを見ている格好は作ったが女房からの一言を身構えて待つ。
     案の定、お父さん、ときた。
     お父さん、そこまでしたら、せめてもう一度、決めるまでは続けなきゃ! なんと小憎ったらしいいいぐさだろう。
     私は屈辱にふるえながらじっと耐えるしかないのだった。

    (北海道新聞 朝の食卓 2010年7月27日掲載)

  •  弟を背負った母は私の手を引いてその坂を上った。私はなえた右足を庇いながら引きずられていく。
     もっと右足を使えと母がしかる。
     下りは楽だが下れば上りが待っている。
     そうして日に幾度上り下りをくりかえしたことだろう。
     看護師だった母には機能回復訓練の知識はあったろうがまだ小学生にもならぬ子供にその意味は理解できなかった。
     ただ母の必死の思いが伝わるから私も黙々と従っていた。
     不具になったことで親を恨んだことはないがその坂はしばしば夢に出た。それはけして気持ちのいい夢ではない。
     数十年ぶりに女房、子供を連れてその坂を訪ねて、私は思わず笑ってしまった。
     それは本当にちっぽけな坂だった。こんな坂になんで私はこだわってきたのだろう。
     のどが渇いたと息子がいった。
     坂の上の店でラムネを買い、したり顔で栓を抜いてみせ、私もびんを口にあてた。
     するとどうしたわけか、突然、涙がふき出してきて私は家族の手前、あわてて背を向けるとあくびでもするふりをして、空をあおいだ。
     母さん、それで母さんはやっぱり不幸だったのかい…。
     まっ青な空には白い雲が一つ静かに流れていた。

    (北海道新聞 朝の食卓 2010年6月19日掲載)

  • 叱られて

     私には二つ違いの弟がいた。
     仲のよい兄弟だった。
     そのころ、父親はまだ充分におそろしい存在だったが、しかし、男の子にはいたずらが仕事のような時期もある。
     怒鳴られ、殴られしながら性懲りもなく、二人して悪さを繰り返していた。
     あれはなにをやって叱られたのだろう。
     女房にもよく指摘されることだが、私には子供のころから妙に強情なところがあって、おかしなところで突張るから、それで事態を悪化させたのかもしれない。
     それでも晩飯をとりあげられ、外にたたき出されるとなるとさすがにこたえる。
     あてもなく家のまわりをさまよいながら見るともなく見上げた夜の空、あの満点の星を私は今も忘れない。
     大空にちらばった星たちがやがて一つの糸でつながっていき、ある姿を形づくるさまを私たちは魔法にでもかけられたような気持で見つめていた。
     北斗七星がゆっくりと柄杓の形に集約されていき、おどろく程の近さにせまっていた。
     私たちはしっかりと手をにぎりあいながら見上げていた。つらかったがそうしていると泣かずにすんだ。
     私たちは世界にたった二人の兄弟だった。
     その弟は40才で死ぬ、もう20年も前の話だ。
     この頃はようやくそれ程も思い出さずにすむのだがたまに息子の後姿に弟を見る。

    (北海道新聞 朝の食卓 2010年5月掲載)

  • 女友達

     そんなことがなかったおかげでいまだにいい関係が続いている女友達がいる。
    家が近かったから、子供のころにも一度ならず遊んだはずだが、中学で初めて同じクラスになって、いつの間にか姉弟のように親しんでいた。
    私のどこかに母性本能をくすぐるものがあったのだろう、彼女を紹介してくれたり、なにかと世話をやかせたものだ。
    そのくせ、どうも私は恋愛の対象にはならなかったようで、そこらあたりの機微を理解するのはむずかしい。
    当然、女房とも旧知の仲で家に来ると私をさておいて、二人、更年期の話なんかに熱中している。
    この辺の芸も男にはなかなか出来ないところで妙に感心させられる。
     数年、しゅうと、しゅうとめの介護で大変だったらしいが、ようやく開放されたとかで、先日、酒を呑む機会があった。
    ほろっと酔って、そう言えばおれたち、近所だったのに一度もお医者さんごっこなんてしなかったな、ちらりと大人げない言辞を披瀝すると、なにそのうちに寝たっきりになったら一度ぐらいはおむつを替えにいってあげるからとかるくいなされた。
     男、63歳いまだにこれだもの、女房、子供にだってばかにされてもしかたがないなとほぞをかむ。

    (2010年3月19日 北海道新聞「朝の食卓」掲載)

  • 父の年

     わが町には長寿番付なるものがあって、大相撲よろしく、年齢順に東西の横綱、大関とふりわけられた氏名の一覧が年に一度正月に配られる。
     父の名前が前頭下位に入って以来、毎年、少しずつ順位が上がるのを見るのがひそかな楽しみになった。
     それでつい、頂点をきわめる最後のチャンスだ、がんばれなどといらぬことを口走ってしまったのかもしれない。
     父にも十分、功名心はあったのだと思う。
     あるときから父が言う年齢が番付よりも一つ、二つと先行するようになった。
     とうとう来たかと思ったがそれ以外は実にはっきりしている。どういうことかと女房と二人、さんざん悩んでふと気付くことがあった。
     満年齢に統一されたのは戦後のことでそれ以前は正月に皆がいっせいに年をとった。私の子供のころには満だの数えだのとちょっとした混乱もあったものだ。
     父もそこらあたりで迷ったあげく、自分に都合のいい解釈を選んだのではないのだろうか。
     年齢早見表を見せて父に納得させたうえでもち食って一つ、ケーキ食って一つじゃよくばりすぎだ、とからかうと、おまえがいくつになっても頼りないから、おれは人の倍、がんばることになるんじゃないかとみごとに切り返された。
     憎まれっ子、世にはばかるとは本当らしい。
     父は96歳、かくのごとく元気だ。

    (2010年2月10日 北海道新聞「朝の食卓」掲載)

  • 何でだろう

     「何でだろう」と1人が言った。
     「どうも最近、かみさんが怖くてな。妙によそよそしい態度が続くと、離婚でも切り出されるんじゃないかと、どぎまぎする」
     「そりゃあ、おまえの行いが悪すぎたからだ。せいぜい、いじめられろ」。もう1人が、すかさず突っ込んで言う。
     「じゃあ、おまえのところは大丈夫か」
     還暦をすぎた男が3人、居酒屋で飲んでいる。
     「日ハムは最後の最後で残念だった」と、しばらくは盛り上がり、「鳩山も何か、もたもたしだしたな」としたり顔で政治談議もした。しかし、妙な具合に連れ合いの話になった。
     「いや正直言うと、おれも怖い。おれなんざ、何だかんだといったって、結局、いいようにかみさんに、あやつられてきたんだけどな。ふと、かみさんの顔色をうかがう自分に気付いて嫌な気分になる。何でだろう」

     「おい、おまえはどうだ」。ふいに話をふられて、「おれかぁ」と私はすっとんきょうな声をあげた。
     受けを狙うか、調子を合わせるか。一瞬、判断がつきかねた時、1人の男の携帯電話が鳴って、話は終わった。
     よかった。私だって女房に「あんまり、おかしなことを言いふらすんじゃない」とくぎを刺されてきたところだった。

     女房は怖い。だけど、何でだろう。

    (2009年12月9日 北海道新聞朝の食卓掲載分)

  • 車いす

     札幌ドームでは案内の女性が私を見て、「けっこう歩きますけど」と言った。
     大丈夫だとは思ったけれど、団体での見学だったし、息子がついていたこともあって、あえて無理はせず、車いすに乗ることにした。
     私は両足に障害があるが、ずっと肩ひじ張って生きてきたから、今まで自覚的に人の世話を受けた記憶がない。息子に押される車いすは、おもはゆいような妙な気持ちのものだった。
     しかし、乗って正解というべきか、札幌ドームは確かに歩く。
     後日、家族で旭山動物園に出かけた時のこと。私は逡巡(しゅんじゅん)したが、「お父さんには無理、車いす」と女房があたかも犬に「ハウス」と命じるがごとく言ったので、私も反射的に従ってしまった。
     女房の判断も正しかったのだと思う。
     どうも最近、私の歩行は、おぼつかなくなったらしい。つんのめったり、転倒したりすることが多くなったのは事実だが、人には当人が感じる以上にひどく見えるものなのだろう。
     いずれ歩けなくなる日が来ることは覚悟していたが、心のどこかでは、そういう現実とは永遠に遭遇しないとも思っていた。
     「いいよ、おれは、車いすの陶芸家で売り出すから」。憎まれ口をたたいてみても、多少落ち込む日がないわけではない。

    (北海道新聞 朝の食卓 2009年10月25日掲載)