グラン・トリノ、あるいはクリント・イーストウッドについて

 映画のタイトルにもなったグラン・トリノはフォード社製の大型セダン、スポーティな装いで人気があった。
 しかしそれも一昔前の話だ。
 クラシック・カー、訳すると骨董品だろう。それに主人公ウオルトが重なる。
 老いたるアメリカ、しかしグラン・トリノもウオルトもまだしっかりと機能している。
 かってケネディは言った。我々がアメリカに何が出来るか、問おうではないかと。そういう意味ではウオルトの双肩にもアメリカの未来はたくされている。
 ウオルトはすでに血を吐くような重い病気におかされている。
 死を目前にしてウオルトがアメリカに出来ること、それが映画、グラン・トリノの主要なテーマだ。

 クリント・イーストウッドは妙な男で一見、映画職人にしか見えない風貌の奥におそろしく的確な予知能力を隠している。
 この映画の公開のあと黒人大統領が出現した。アメリカ繁栄の象徴だった自動車産業のビック3、そのうちの2社が倒産した。
 経済破綻の泥沼の中でアメリカはあがいている。もうかってのアメリカの栄光はない。
 イーストウッドはアメリカ再生の夢をグラン・トリノにかけて語りたかったのかもしれない。傲慢になりすぎたアメリカ人に対する自ずからの反省もあるのだろう。
 
 正直にいうとクリント・イーストーウッドはあまり好きな役者ではなかった。最初にお目にかかったのはやはり荒野の用心棒だったろうか。ひょっとすると夕陽のガンマンかもしれない。似たような映画で今ではなにがなんだかわからなくなっている。いずれにしろ封切りで観たわけではなく数年後、場末の三番館あたりだったはずだから、それに続夕陽のガンマンもついた三本立ての可能性だってある。当時テレビは持たなかったから三本とも劇場で観たのはたしかだ。

 で、面白かった。大衆の眼のたしかさにおどろかされた記憶がある。
 今にして思えばセルジオ・レオーネは一世を風靡するだけの才能だったと認めざるをえないがなにせはやりものには生理的な拒否が働くのですぐにはとびつけなかった。
 しかし、あの時のイーストウッドの印象はいかにも二流映画の主役が似合いの役者というにつきる。
 ちびた葉巻をくわえ眉間にしわをよせてぬすっとつっ立つ、のっぽの男。
 今日の大成を誰が予想できただろう。

 ダーティ・ハリーシリーズでも世評に踊らされることはなかった。なにかとの併映で偶然観ることになった一本が当人の演出だったことはあとで知った。
 大口径の輪胴式拳銃とキャデラック、いかにも狭視野的な正義が、カルフォルニアの突き抜けるような青空の下でなんとも空虚だった。しかし、映像がかもし出すその雰囲気がむしろ演出の意図するところだったのかもしれない。映像作家としてのイーストウッドをなめてかかるわけにはいかない。

 許されざる者はたしかに出来のよい作品だった。
 しかし、私が本当に兜をぬいだのはミリオンダラーベイビー、ひさしぶりに映画を堪能した。煮詰めるだけ話を煮詰めて、最後の最後にぽっと結論を個々人にゆだねる演出もこの場合、効果的で成功していたと思う。

 俳優の余技ではなく、すでにイーストウッドは一流中の一流監督になっていた。

 2008年、グラン・トリノ制作時、イーストウッドはすでに78才だった。
 出演しながら当人もこれが最後の映画になるかもしれないという意識はあっただろう。
 そんな目で見るせいか、物語の展開は性急だし思わせぶりのシーンも多い。
 棺桶におさまってイーストウッドは皮肉屋らしく、にやりと笑ってみせたりする。
 少年少女とのかかわりあいをもう少し丁寧に描いていたら三度目のオスカーもありえただけにファンとしてはいささか、残念な気がする。

 ウオルトからグラン・トリノを託された少年、タオが沿岸の道路を走っていく。
 海岸線のむこうには希望があるようにして終わるのがハリウッド映画の定石だ。
 しかし、本当にその先にアメリカの未来はあるのだろうか。

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