佐伯祐三全画集という本を持っている。朝日新聞社が1200部限定、番号入りで出した。私の本は553番だ。
昭和54年11月の発行だから私は32才、当時私には本屋に友人がいて、ほしいと思えばいくらでもつけで買えた。そんな事情もあったわけだけれど買ったものはいずれ支払わなくてはならず1冊10万円の本代は相当な無理が必要だった。
自慢話がしたいわけではない。それくらい佐伯にのめり込んでいた。
どのようにして私は佐伯祐三に出会ったのだろう。
おそらく高校の美術のテキストで立てる自画像を観たのが最初だと思う。パレットと絵筆を左右に持ってだらりと力なく下げられた手と削りとられた顔、一見子供落書きといったらそれでもとおりそうなこの絵のいったいなにが評価されるのか、興味を覚えて評伝をあさると、30才、パリ、狂死、天才、そんなキーワードが乱舞していた。
美術至上主義という生き方はそれでなくとも若い魂を揺振るものだ。
なろうことならそのような生き方をしてみたい。
もし、メフィストフェレスが耳元でおまえの総てと引きかえに一片の芸術をとさゝやいたなら、私は迷うことなくその契約にとびついただろう。
私は一年間の入院生活のあと復学はしたものの学業には身が入らず、生きる目的すら見失しなって、ひたすら読書に耽溺する17才だった。
クタバルナ×今に見ろ×水ゴリしてもやりぬく、きっと俺はやりぬく、やりぬかねばをくものか。
死-病-仕事-愛-生活、21才の佐伯はそう書いている。
しかし私はそれだけの才能、意志、体力の欠如を自覚していた。
おれはインポな豚だ、一世を風靡していた青年作家が小説の主人公に語らせるそんな科白がいつか私の口ぐせになっていた。
死-病-仕事-愛-生活、考えれば考える程、いきつく先は自死しかないような気がする。
そんな私は佐伯の生涯におのれを重ねて、つかの間、天才の白日夢に溺れていたのかもしれない。
だいたい日本人には自分の想い入れを制作者の生きざまに重ね作品を鑑賞しようとする傾向がある。
短歌、俳句など極端に語数の少ない詩型の味わいを深めるための工夫だったのかもしれない。
石川啄木にしろ、太宰治にしろ、そのようにして読む。青木繁の生涯を重ねることで海の幸はいかに奥ゆきを深めることか。
佐伯の絵もそのようにして評価を高めることもあっただろう。
実作を初めて観たのは昭和43年、横浜、年譜によれば神奈川県立近代美術館で4月6日から5月19日まで第三回、佐伯祐三展が開かれている。
うつうつと東京で学生生活を送っていた私がどんな想いで出かけていったか、今考えても胸が詰まる。
暗い色調の中にも佐伯の怨念が血油のように浮き出した絵にははげしく訴えてくるものがあって、しっかり足をふみしめて対峙しないとその圧力に身体がゆらぎそうだった。
会場全体を妙な妖気が支配していたような気がする。
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