私は佐伯の絵に納得し、幸福な蜜月は続いた。
佐伯のすべては書物として手の内にある。目をつむれば記憶に残る絵は容易に脳裏に浮かんだ。
私は佐伯のパリ以前初期の絵が好きだ。秀才らしい端正な絵。
自画像が多いのは自意識が過剰だったせいか。
自画像をじいっと見ているとやがて佐伯が語りだす。
才能に溢れ、自信に溢れ、未来への夢に溢れた佐伯。
そうしていると私も勇気づけられるような気持になれた。
私はそのように現実をまぎらわし、まぎらわしながら生きのびてきた。
大正12年(1923年)3月、25才の佐伯は東京美術学校西洋画科を卒業する。前年、長い交際を経て池田米子と結婚、日をおかず長女彌智子が誕生している。
関東大震災をおして渡欧、翌年早々、ついにパリに立つ。
佐伯とパリを切り離して考えることは出来ないが実際の滞在は前後あわせてもたかだか三年だ。
ヨーロッパの洗礼をまともに受けて、それを消化しきるにはあまりにも短いといわねばならない。
まさに佐伯の内外は疾風怒涛のごとくであったことだろう。
選ばれてあることの恍惚と不安、佐伯は真摯なゆえに精神を蝕まれていかねばならなかったのだ。
私はゴッホやベラマンク、エコール・ド・パリの連中がひよいと顔を出したりする第一次パリ滞在中の絵も好きだ。
一時帰国中の滞船や汽船の一連のシリーズもいい。人物や静物もけして片手間の仕事とかたずけられるようなものではない。
だがパリに魅せられた佐伯は憑かれたように風景を描くことに没頭する。
最後の三ヶ月、モランから始まる一連の絵は恐い。
一人の人間が生命を賭けたその狂気と気魄。
昭和3年(1928)、8月16日、午前11時10分、パリ郊外のヴィル・エヴラール精神病院で佐伯は死ぬ。
前夜、泣きあかしたという佐伯、エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ、佐伯は神の仕打ちに承諾できぬ恨みを残したか。
ともかく。
札幌に佐伯が来ていると思うと私は落着けなかった。
いかねばならない。
雨の日だった。会期末近く、その日しか時間がとれなくて私はいくつか仕事をつくるとついでのように息子の運転する車ででかけた。
旭川も雨、札幌も雨、しかし雨ならば会場はおそらくすいていることだろう。
しかし、予想に反して会場は混んでいた。人がきの外から垣間見て、私はそれでも一瞬に了解した。
かって、恋こがれた女でも40年ののちに再会すればこんな感情にもなるのだろうか。
絵も老ける。すっかり老けて歴史的な価値になり下がった絵はそれでも人たちを魅了するようだった。
白いライフ・マスクがあの日と同じように目の前にあった。
佐伯は狂気に満ちて人を威圧するのに目を閉じるとなんとおだやかな顔になるのだろう。
私も老いた。老いて緊張を失った感性が感動をにぶらせているのかもしれないと自省する。
時をおこう。時をおいて考えてみよう。私の内なる佐伯はいつだって私と共にいるのだから。
まだそのぐらいの時間は私にも残っていると思う。
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