副本を広辞苑で引くと、①原本のうつし、そえしょ、複本 ②「法」正本と同一事項を記載した文書、正本の予備、または事務整理のために作成、と出ている。
しかし、図書館用語として使う場合は複本とは同じ内容の本が重複して存在することをいう。
昔から複本はよくやった。岩波の啄木歌集や牧水歌集は家におそらく5、6冊はあるはずだ。
たとえば旅先で啄木が読みたいとなったら迷わず駅前の書店に飛込んで買う。喫茶店で飲むコーヒー一杯分と変わらなかったし、それが無駄づかいだとは思わなかった。
そんなわけで朔太郎や道造もやっぱりなん冊かずつある。
文庫本の活字が一まわり、二まわり大きくなったのはいつごろだったろう。
ついでに文章も新かなに改まったりして、すると同じ作品が見違えるようにわかりやすくなったような気がして、つい手が出てしまう。諭吉の学問のすゝめとか、海舟座談とか、これも厳密にいえば複本になるに違いない。
いささかいいわけがましいがさらにそこに亡くなった弟の書籍がまぎれこんだ。
おかげで岩波の古典文学大系なども2セット揃っている。
数年前、中程度の蔵書の整理をした。
ちょうど帰省していた娘が手伝ってくれたが、複本の多さにはさすがにあきれたようだった。
娘は図書館学の専門家である。
今日、図書館における複本は看過できない問題なのだという。
児童書の出版元は零細が多い。持っている玉をどれだけ転がすかも経営の知恵なのだろうか。
表紙を変え、題名を変え、全集に組み込んでとあらゆる手段を使うらしい。
かぎられた購入費の中ではたしかに複本が一冊ふえるごとに良書が一冊、排除される計算になるわけだが、なんのことはない、私に対するまわりくどい説教なのだった。
それを横で聞いていた女房も鬼の首をとる勢いでせめたててきてものだ。
たしかに長い年月、本を買い漁ってきたのだからあきらかに記憶違いで重複した場合もあるだろう。持っているはずなのにいくら探しても見つからず結局、もう一度買い直すというケースもないわけではなかった。
だが、それぐらいとりたてて大さわぎするような話でもないではないか。
私は恥じることも動じることもなかった。
本を読む人なら私のいい分はわかるはずだ。
しかし最近、私はしばしばいいわけのつかない複本をするようになった。
古本屋の店頭にひと時代前、ふた時代前に話題になった書籍がどうみても人手に渡ってきたとは思えない状態で並ぶ。へたをすると腰巻までがしっかりついている。
それがカンコーヒー1個とかわらない。
まあ、とりあえずあってもいいかという気持になるのはやむをえないところだろう。
そんなわけで時には10冊、20冊とまとめ買いしてくる。
だがどうもそんな買い方をした本には愛着が欠けるようだ。
情けないことだが、自分の所有する本の把握が出来なくなっていた。
本を積み直そうとすると部屋のあっちとこっちから、片翼だけの天使が出てくる。生島治郎は、なんとなく気になる作家でいつも読んでみてもいいと思っているのだがそれにしたって2冊はいらない。
フランク・ボームのサンタクロースの冒険などどういうわけか3冊もある。田村隆一訳というところがミソで見ると衝動的に手が伸びるのだろう。
その心理は了解するが、なんともだらしないことになったものだ。
娘や女房にはまだバレていないが本の神さまは先刻御承知のことだろう。
天罰が下らないうちになんとか対応を考えなければならないと思っている。
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