ショートストリィ 酒場にてⅢ

 誰だってそうは思うが、誰もがそういうふうにいくってわけにはいかないものだとおっしゃいますか。
 そうですね、死ぬときまで運、不運ってやつはつきまとうんですかね。
 しかし“運”っていったいなんなんでしょう。
 運、不運といっても、当人の性格やら生き様がそういうものを必然的に引き寄せている場合も少なくないですね。しかし、私はあの戦争を識っています。道路を挟んで向側の町内が全焼して、こちらの町内は無傷だったなんてことも経験しています。昨日、手を振って別れて、それっきりという友達もいた。あれはやっぱり運でしょう。
 えっ、運でなく、ただの偶然だと。偶然を理屈で説明しようとするから運という言葉も出てくるんだと、なる程、私にもそっちの方が飲み込みがいいか。

 不幸なことに私には神仏を信じることが出来ませんでした。けして馬鹿にしたわけではないのです。信仰を持てる人がうらやましいとしばしば思うことがあります。
 私のおふくろは熱心な法華経信徒で朝晩は決まって団扇太鼓をどんどんやった。おやじが無事、戦地から戻れたのも法華さんのおかげ、お前が大病をせずに一人前に育ったのも法華さんのおかげ、あの朝晩のどんどんには最後までなじめなかったが、ああして、おふくろは自分の一番核の部分を仏に仮託することでどれ程、安堵を得ていたかと思うとありがたいことだったという他はない。

 私はね、不遜というか、驕慢というか、牧師なり坊主なりがしたり顔で騙るでしょう。あれを聞くともう駄目なんですね。人格と言葉の乖離しか感じない。聖書や仏典を読むのは嫌いではないんです。だけどそれも文学作品としてとらえてしまうから手を合わせる気持ちにはなれない。
 困ったもんです。戦前と戦後の一瞬に人はくるりと一回りして、口をぬぐって、手のひらを返したでしょう。人格形成の最中にああいう姿を見せられてしまったせいでしょうか。

 だから死ねば死にきり。あの世なんてことは考えたこともない。
 死の恐怖、それは当然あります。生きものである以上、それは本能に刷り込まれたものかもしれない。だけどどんなにずるい奴でも、卑怯な奴でも、やっぱりきちんと死んでいる。だったら自分だって越えられないはずはない、そう言い聞かせています。
 案外、抜歯の前の心理に似ているのかなと思ったりします。あれこれ考えていると恐ろしさは増大するが、いざ始まってしまえばそれ程、大したこともない。
 まあいずれ、近いうちに経験することになるんでしょうが。

 やあ、もうこんな時間か。
 そろそろ帰って娘に説教されなきゃいかんな。
 くだらないことを長々と話してしまって、申し訳ありません。
 じゃ、最後に熱燗をもう一本お願いします。

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