靴のことなど

 靴を選ぶ女房の姿を見るのが好きだ。
 履きごこちをたしかめたり、鏡に写して様子を見たり、色の違うもの、型の違うもの、あれこれととっかえひっかえ迷う姿を見ているのが好きだ。
 私自身がそんなふうにして靴を買うことが出来ないせいもあるかもしれない。無心に靴を選ぶ女房の姿は好ましい。
 女房にうまく取り入りながら店員がちらりと流し目で私の足元を見る。それもいつものことだ。靴屋としての本性が働くのだろう。この亭主はどんな靴を履いているのか、あわよくばもう一足と、そうして見てはいけないものを見たようにあわてて目を逸らし、一呼吸おいて、もう一度私の足元をたしかめたりする。
 私の靴は左右非対称、普通の靴屋ではけして手に入らないものだから店員のおもわくはみごとにはずれ、密かに落胆する様子を確認して私はほくそえむ。
 たしかに私も意地が悪い。靴にはそれだけ苦労してきた。

 靴らしい靴がなんとか手に入るようになったのはここ10年ぐらいのことだ。
 16才、高校生のころから、それまでの間、私はサンダルか、バスケットシューズの後を踏み潰したものを履いてすごした。
 雨の日、雪の日などはいやおうなく踵が濡れて、みじめだったが、それも宿命と思えば甘受できた。うがった見方をすればマゾイズムの影が発見できるだろうか。
 もともと私は小児麻痺の後遺症で右足の第2関節から下に障害があった。それでも指先や足首の機能は不完全ながら残っていて、とりあえず普通に市販の靴を履いて生活していた。
 それが16才の時に受けた矯正手術の失敗でそれらの機能も全廃してしまい、エル字型の棒きれのようにかたまった足を、鉄筋入りの補装具でおゝわなくては歩くことも出来なくなった。

 補装具は義足屋の範疇だが病院で医師の指導のもとで作る。
 高価なもので普通の勤め人の給料、一ヶ月分ぐらいもする。もっとも公的な助成があって当人に金銭的な負担はない。
 しかし、それがよかったかどうか。
 おしきせで与えられる補装具は半年もしないうちにかならず鉄筋が折れてへたをすると修理に1週間もかゝったりする。その間、私は身動きが出来ない。
 靴は靴で補装具の上にしゃにむに履くと足が締めつけられて30分とがまんできないしろものだった。
 これをたいして文句もいわず受領したのは結局、自分の腹が痛むわけではないからだ。

 義足屋に補装具の鉄筋を倍の太さにし、底にも鉄板を張って、補強してくれと注文をつけたのは10年も過ぎてからだ。
 それじゃ重くて使えませんよと義足屋は反撥した。金額は国がきめた額に決まっているし、細工もこちらが想像する以上に大変になるのだろう。
 それを使うのは私だ、私のいいようにやってくれと押しきるにはそれなりの年令も必要だった。
 だがそう改造するとうそのように破損は止まった。ようやく使用と強度のバランスがとれたということだろう。
 30年も使うとさすがに他の部分の劣化がはげしくて、4,5年前、新しいものにとりかえたが鉄筋と底の鉄板はまだびくともしていなかった。

 靴の改善にはその先、さらに20年近くの歳月がかゝった。
 当初、靴も義足屋で作っていると思い込んだのがそもそもの間違いで、それこそ隔靴掻痒、そのものの話だった。ずうっと長い間、こちらの意見が作り手にはうまく伝わっていなかったのだ。
 靴は外注していると知って、相手と直接交渉させてくれとたのんだ。
 すでに私は文句の多いうるさい客になっていたから義足屋はわりとすんなり諒承してくれた。

 その道、その道にはそれぞれに約束事があってそれを破るには非常な抵抗感があるものだ。同じ職人仕事をしているからそこらあたりは私にもよくわかる。
 靴屋にはどうも左右対称に作りたいという無意識が働くもののようだった。

 公的助成でやるのだから何年かに一遍忘れかけた記憶をよびもどしながら微々たる改善を重ねていくしかない。直接注文を付けても、なかなか思うような履ごこちの靴は出来なかった。
 これでは生涯かゝっても納得のいくものは出来ないだろうとあきらめかけてふと思いつくまゝ靴じゃなくていいんだ、この足が入るバックを作ってくれ、バックの底に靴底をはってくれゝばいいんだといってみた。

 実に厭な顔をする靴屋をなんとか説得して仕事にとりかゝらせたがやっぱり靴の概念は棄てられないようだった。
 それでも私の意見を本格的にとり上げてみる気持にはなったようだった。
 今度はうまくいくかもしれないという予感があった。
 そうして予感は適中した。
 あなたの為に木型を一つ造らされてしまいましたよ。
 靴は木型がなくては作れないものなのだそうだ。しかし、なぜそんな話をあえて私にしたのだろう。木型は靴屋にとってそれ程大仰なものなのだろうか。
 それで出来きるなら、もう少し早くそうしてくれていたらよかったじゃないかというがこちらの気持だった。
 
 新しい靴が手に入ったときにはさすがにうれしかった。
 なんども女房や子供たちにどうだと声をかけてしまいにはうるさがられたりした。
 私としてはなかなかいいよといってほしかったのだ。
 なんどでもそんな言葉が聞きたかった。
 靴が一足、二足と増え、夏用だの冬用だののほかに作業用までがあるようになると、さすがに最初の感動はない。
 それでも履く靴がなかった雨の日、冬の日をしばしば思いだす。いつも靴下のかゝとを濡し時にはしらぬまに穴もあいていた・・・。
 靴は男の人格を現すなどと知ったようなことをいったのはいったい誰だったろう。
 私はいまでも 女房が靴を選ぶ姿を見ているのが好きだ。
 迷いに迷ったあげく、最後にこれと決めた靴を履いてどおっとたずねる女房にはうん、とてもいいよと即座に答えることにしている。

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