105円の至福

 昔、古本屋はなかなか敷居の高いところだった。
 立て付けの悪い引き戸を開けて、中に入ると奥の番台から下半身を毛布に包んで読書に熱中していたらしい白髪の親父にじろり、眼鏡越しに値踏されて、そこから先へ足を進めるにはちょっとした勇気が必要だった。
 古本といいながら値段もけして安くはなかった。
 もちろん店頭には100円均一のぞっき本が平台に山積されていたがほしいと思うような本にはやっぱり、それなりの価格が付けられていた。

 子供の頃に罹患した本依存症は大人になってもいっこうに回復する兆はなかったが古本屋との縁が深まらなかったのは最初のそんな印象が強かったせいもあるかもしれない。
 しかしこの業界も知らぬ間に驚くような変貌を遂げていた。
 息子に誘われなければおそらく足をふみ入れることもなかったろうが行ってみて、おどろいた。すでにかっての古本屋のイメージは跡形もなかった。

 新旧、装丁、内容、価格、そういう要素を一切無視して一律100円、税をふくめて105円という設定は画期的なものだ。
 本の好きな者には生命に替えてもと思ったり、生命の次にと思うようなものでも、そうでなければただのごみ、だからチリ紙交換に毛の生えたような値段でも処分する人も少なくないのだろう。
 さすが金を儲けるほどの人は目の付けどころが違うと感心させられる。
 本を選ぶ目に自信さえあればここはまさに宝の山だ。

 最近では親に小銭をもらって駄菓子屋に走る子供とまるでかわらなくなった。
 暇さえあれば女房に500円玉をせがんで店へ行く。
 なんといってもそれで4、5冊の単行本が手に入るのだ。
 棚をすうっと目で追っていると、おっと思う本がある。手にとって表紙をめくり、汚れ、痛みを吟味する。なかには蔵書印の押されたものもある。
 ああこの本の持ち主だった人はきっと亡なったのだなと思う。そういう本は多少食指が動いてもなんとなく恨みが残っているようでそっと棚に返す。
 時にはまったく人手に触れられた形跡のない本もある。おもしろそうな内容と思えるのに時宜を得なかったのだろうか。そんな本はとりあえず買いだ。いつ読めるかはわからないがなんといっても105円なのだ・・・・・・。

 そうして過ごす時間がとにかく楽しい。
 105円の至福と呼んで1人悦にいっている。

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