夢を話せば

 本当は船乗りになりたかった。
 山育ちだからと単純に合点してもらってはこまる。そういう理由もないわけではないだろうがもっと心の奥に要因はあったのではないか。きっと心理学者なら興味ある分析をしてみせるだろう。
 努力する以前に障害があるのだから、それは初めからかなわぬ夢で、しかし、おかげで夢はかえって純粋に長く保持されることになった。
 黒い海賊、宝島、海と船の物語ならみんな好きだが、特に海底二万マイルはお気に入りだった。
 優雅に孤独で全能感のあるネモ船長は私の理想の男だった。

 夢のまた夢ではネモ船長になりきれたが夢の中の現実では私は商船士官になる。
 前後2基のデリックを持つ三島型の古い貨物船。船体は当然黒で三島の上部だけが白く塗り分けられている、
 煙突には誇らしげにファンネルマーク。
 号笛が鳴り、舫網がとかれ・・・・・・。

 しかし無念なことに私は船に弱かった。
 中学校の修学旅行でそれを思い知らされる。
 たかだか、津軽海峡を渡る4時間がもたなかった。
 七転八倒、船に弱いということはそれでしっかり頭に刻み込まれたがそれでも船が嫌いになったわけではない。

 青函連絡船にはその後幾度となく乗った。
 酔うんじゃないかとおっかなびっくり、どういうわけかなんともないこともあったけれど、こらえきれず甲板越しに海に向かって吐いたことも一度や二度ではない。
 酒に酔っていれば船酔いはしないといっけんもっともらしいことを吹き込んだのは誰だったろう。なる程と思って実行してひどい目にもあっている。
 それでも船が嫌いになれなかったのだからしつこいといえばそうとうにしつこい。
 そうして極め付けには太平洋を船で渡る。

 地球儀で東京をおさえその真逆を見るとブエノスアイレス、よしアルゼンチンに行こうと思った。
 23才、私は自分にも愛想をつかしていたが日本も厭でしかたがなかった。
 死ぬのだったらどこでも死ねる。とにかく日本から一番遠いところに身を置こう。
 あるいはそんな大袈裟な船旅がしてみたかっただけのことだったかもしれない。

 横浜からハワイまでの7日間は船酔いがひどくてほとんどベットを出られなかった。
 ホノルルでも大地が揺れた。
 しかしハワイを出るとそれっきり嘘のように船酔いは納まった。
 なぜだろう。自分の身体がそれ程、順応性が高いとは信じられなかった。

 もともと船のテーブルには四辺に張りをつけて落下防止の工夫がされているが海が荒れるとさらと食堂の白いクロスは水で濡らして広げられる。皿やコップがすべらないようにする為だ。
 中天に持ち上げられると次の瞬間には海の底に船は吸い込まれている。
 船窓いっぱいに波が拡がり、これでどうして沈まずにいるのか思案する間もなく、再び船は中空に放り出され、スクリューの音がカラカラとむなしく響く。
 いつもは満員の食堂もほんの数人が席につくだけ。
 今日はちょっと揺れてるものね。
 青白い顔のボーイに無駄口をたゝいたりしていい気持だった。

 船はいい。
 後年、私は夢を棄てきれなくて、息子を船乗りにしようと試みた。
 深慮遠謀を重ねなんとか商船大学を受験させるまでにはこぎつけたのだが残念ながら第一志望の大学に合格してしまい私の夢は水泡に帰した。

 小樽だの留萌だのには、時々思いがけない船が入港する。
 若い頃にはその度に見学にとんでいったものだが今はもうその体力も失せた。
 細ぼそと船舶関係の図書を収集することがかろうじて夢の名残りだ。
 人生なんて空しい。

 もう一度、人生がやり直せたらという問がある。
 そんな空想を楽しめるのはきっと幸せな人だろう。
 この人生を破綻させずになんとかここまで辿り着いた。これで私はもう充分だ。
 しかし船乗りだぞと唆されたら、やっぱりちょっと悩むかもしれない。

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