最近は地球温暖化を実感させられるがついこの間まではここらあたりはよく冷えた。
なんといっても明治35年(1902)、1月25日に氷点下41.0℃という日本観測史上の最低気温を記録している土地だ。
ちなみにこの日、青森では八甲田山を雪中行軍中の陸軍第8師団第5連隊の210名が遭難、実に199名の死亡者を出す大惨事があった。
全国、いたるところで異常低温を記録しているから大寒波が列島を襲ったにちがいないがそれにしてもこの気温はすごい。
南極、昭和基地の-45.3℃にはさすがに一歩ゆずるとしても、富士山頂の-38℃はかるく上回っている。
上川盆地の中心、その旭川から20キロ程山裾のわが鷹栖町ではさらに5℃は低くなるだろうというのが通説だ。
引越しの当初は味噌、醤油も凍る、朝には掻巻の襟さえ凍ることがあるなどと威された。たしかにそんな話を昔話のように聞いた記憶があった。
しかし、その時代から住居は飛躍的に改善されている。まさか今どきと私は半信半疑だった。
どうも新参者をからかう気配がある。
それでもそんな折、つけたしのようにされた凍裂の話はいまだに耳に残っている。
樹液が凍結して立木が裂ける凍裂は-25℃を越えると起こるらしいがそれもしばしばあったという。
妙に乾いたやるせない音が闇夜に響く、あれはいやなものだと古老の一人は目をつぶった。
焼きもの屋はけっこう気温には神経質だ。
粘土を凍らせると大騒ぎになる。
データを取ろうと外に出していた寒暖計が破裂したのは最初の正月を過してしばらくしてからだ。
-20℃までの表示だったから判断も甘かったのだが、それにしても破裂までにはさらにずいぶんと温度は下がっていたことだろう。
たしかにここの気温は侮れないなと気を引き締めた記憶がある。
その頃、私は夕食後も工場に出て、深夜1時、2時まで働いていた。
引越しに際してした初めての借金が気になってしかたがなかった。
若くて無理がきいたし、予定を前だおしして返済を早めるのも楽しかった。
運、不運に関わりなく、そもそも大物になる資質には欠けていたらしい。
その夜、一仕事を終えて、工場を出ると奇妙な違和感にふと立ち止まった。
空気が層をなしてたゆたっていた。
一瞬、気のせいかと目を疑ったがたしかに空気は薄いレースのカーテンでもたらしたようにかすかに揺らいでいる。
そうして、私はいつの間にか、そのやわらかいカーテンに包み込まれていた。
鼓膜が抜けたように無音で、寒さも感じられなかった。
思わず声が出た。するとその無意味な音声は四方八方に反響しあうのだった。
私は興に乗って再び言葉を発した。谺は拡散し集中する。増殖しながら共鳴しているのだった。
幻想の世界が現実にある。私は少なからず錯乱したが落着くにしたがって一つの推測ができあがった。
気温がある条件下で下がっていき、限界点を越えると大気中に水分が凍結したまま浮遊してこのような現象になるのではないだろうか。
私は女房を起こすと外に連れ出して、この神秘的な体験を共有した。
この土地に移り住んですでに30年になるが、以来、再びこの現象にはめぐりあわない。
風のないよく冷える夜には外に出て声を出してみることがある。
ひょっとするととそのたびに思うのだが、言葉はむなしく暗闇にすいこまれていくばかりだ。
あれはなんだったのだろう。
すごく大切なものをそれと気づかずにやりすごしてしまったような無念さが残る。
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