カテゴリー: ⑥片山一の文章

  • 書けないときには

     書けないときには書かないと素人なら居直ってしまえばすむのだが、玄人となるとそういうわけにもいかないらしい。
     たしかになりわいがかゝるし、約束をほごにしたあとの応報もこわいものだろう。
     書けないときも書くのがプロだなんて見栄も馬鹿にできないことかもしれない。
     しかし、書けないときは誰だって書けない・・・・・・だろう。
     乾いたぼろ雑巾をいくらしぼったって、水一滴でないようなものだ。
     どのようにドツボが口をあけているのかしらないが嵌れば七転八倒の苦しみをしばらく味わわなくてはならない・・・・・・もののようだ。
     
     作家の随筆でもよくその辺のことを話題にしている。
     締切がきて、なお書けないときは、カンズメということになるらしい。
     通常はホテルの一室に編集者の監視づきで閉じ込められるようだが、いよいよとなると印刷所などとせっぱつまった話も少なくはない。
     他人の監視のもとで書かされるのがどんな気分のものか、私など考えただけでも頭痛がしてきそうだが、それで傑作をものにする人もいないわけではないのだからやっぱりプロは違うということか。

     もっとも、そんなホラ話のようなかたちですべてが落着するわけではない。
     書けないというのは傍で想像するより、よほど深刻な状況らしく、雲隠れ、居留守、虚言、はては原稿の使いまわし、盗作と追い詰められた書き手はおよそ考えられるかぎりの悪あがきをする。
     あげくは神経を病らったり、自殺をしたり、もちろんこんな話にもならない話は当人が書くはずもなく、時効になった後、周辺の人がぽつりともらすことだ。
     
     私は期限の追った依頼原稿をかゝえて、四苦八苦しているところだから身につまされる。
     玄人でなくてよかったとしみじみ思う。
     今夜はどうも物にはならないようだから頭からふとんをかぶって早寝でもしよう。

  • 冬隣

     欠礼挨拶の葉書はどうして、どれも一様に紋切型になるのだろう。
     やんことなく急場を凌ぐものであればわからないでもないけれど、そうでなくても結局、似たり寄ったりのところに落着いてしまうようだ。
     賀状にはひとかたならぬ凝り方をする人であっても、こと喪中葉書となるとなぜか御座成ですませている。
     あるいは故人とのかかわりをできるかぎり寡少にして、早く忘れたいという無意識でも働くのだろうか。
     それにしても葬儀には今日風の工夫をあれこれに凝らすのだから、こちらにも、ひとひねり、独自色を出す努力があってもいいように思われる。
     遺言状のことを考えれば本人手書きのお別れの言葉がとどいてもそれ程驚きはしないだろう。

     10月の中旬にひとしきり降って、そのまま根雪になるかと思われたがいつの間にかぐずぐずと溶けてもうじき12月だというのに陽のとどくかぎりあたりには雪がない。
     雪のないかぎりはまだ冬ではないと思う気持がどこかにある。
     それがなにかちょっとした余裕をうんでいる。
     なんの実体もない余裕。

     今日は、一時親しく付き合っていつの間にかその名残りのように賀状だけのやりとりが続いてきた—-そんな人からの知らせだった。
     義父が亡くなったのだという。
     会わずに過ぎた歳月を数えてみればはるか、十年は越えている。
     互いに還暦も過ぎたなあ、そう思いながらふとお会いしたこともないその義父なる人の冥福を祈っていた。
     冬隣—-日本語にはときどきどきりとするような奥深い言葉がある。

  • 腕時計

     最近では千円でおつりがくるような腕時計もめずらしくなくて、それが信頼性や耐久性、デザイン性でも馬鹿にできないのだという。
     中途半端よりいっそと愛用する女の子も少なくないらしい。
     しかし、いいかげんな年になったらそれなりのものをと思うのも人情かもしれない。
     もっとも、このそれなりのという感覚は難しいがそこらへんの若いサラリーマンにも百万円を越える腕時計をしている者がザラにいるらしいから驚かされる。
     さすが経済大国日本、時代の徒花で終わらないことを祈りたい。

     私は陶芸で生きようと思い定めて、内弟子に入る時、腕時計を棄てた。
     焼きもの屋は存外、手を濡らす仕事が多く、その度にいちいち腕時計を脱着するのもわずらわしかったが、この先、自分は時間に拘束されない生き方をしようという決意でもあった。
     気障と笑われてもしかたがない。
     最初はとまどうこともないわけではなかったが不便を感じなくなるのにそれ程、時間はかヽらなかった。
     日本人は時間に神経質なせいか、いたるところに時計がある。
     自動車にはへたをすると3個もついていたりする。
     ラジオでは30分ごとに正確な時報があるし、日時計、腹時計のたぐいも意識していればまんざら使えないわけではない。
     身に付けるつもりがないからオメガだのローレックスだのにもまるで心が騒がない。
     私は本来こだわるたちでこだわる以上、当然最高をめざすからこういう無関心は精神衛生上もきわめてありがたい。
     焼きもの屋になってよかったと思うことの1つではある。

  • 車いす

     札幌ドームでは案内の女性が私を見て、「けっこう歩きますけど」と言った。
     大丈夫だとは思ったけれど、団体での見学だったし、息子がついていたこともあって、あえて無理はせず、車いすに乗ることにした。
     私は両足に障害があるが、ずっと肩ひじ張って生きてきたから、今まで自覚的に人の世話を受けた記憶がない。息子に押される車いすは、おもはゆいような妙な気持ちのものだった。
     しかし、乗って正解というべきか、札幌ドームは確かに歩く。
     後日、家族で旭山動物園に出かけた時のこと。私は逡巡(しゅんじゅん)したが、「お父さんには無理、車いす」と女房があたかも犬に「ハウス」と命じるがごとく言ったので、私も反射的に従ってしまった。
     女房の判断も正しかったのだと思う。
     どうも最近、私の歩行は、おぼつかなくなったらしい。つんのめったり、転倒したりすることが多くなったのは事実だが、人には当人が感じる以上にひどく見えるものなのだろう。
     いずれ歩けなくなる日が来ることは覚悟していたが、心のどこかでは、そういう現実とは永遠に遭遇しないとも思っていた。
     「いいよ、おれは、車いすの陶芸家で売り出すから」。憎まれ口をたたいてみても、多少落ち込む日がないわけではない。

    (北海道新聞 朝の食卓 2009年10月25日掲載)

  • ゆめぴりか賛歌

     農業にはなんの関心もなかった。だから知識も小中学生程度もあったかどうか。
     水田や畑が近所になかったわけではないが親の仕事とは関係がなく、そういう人とたちとの接点もまるでなかった。
     家にも猫の額ほどの畑があり、母親が家計の足しにトマトや大根を作っていたが横目で見るだけでこれといって手伝った記憶もない。
     感心なことに籾を苗代で発芽させ苗まで育てて、水田に移植する、そんな工程は覚えていたが、稲が花を咲かせ受粉して米が出来るという、考えればあたりまえのことが念頭からは欠落していた。
     それがなんの因果か、30才を過ぎてから突然、水田のど真ん中に暮らすことになった。私は陶芸家で廃校になった校舎をアトリエなどに再利用することは当時ちょっとした流行だった。昭和58年の話だからもう4半世紀も前のことになる。

     百姓という本来は美しい言葉がいったいいつごろから蔑称として、使われるようになったものか。その人たちを前にこの言葉が使えなくなって、すでに久しいが私も都市部の生活者として、なんの根拠もない優越をいつか知らず知らずのうちに身にまとっていたのだろう。
     そんな私に農家の人たちは自虐と露悪をもって応じる。
     それは自衛の為に身につけたその人たち一流の韜晦の術であったかもしれない。

     しかしぎくしゃくしたなん年間かのあいだにも農家の人たちとの日常的な接触は続くわけでたとえ敵同士であったとしてもやがてはうちとけざるえなかっただろう。
     それに、冠婚葬祭の度に末席に連なりながらそこでかわされる農作業の話を聞くともなく聞いていると、私にもそんな仕事に対する関心が少しずつ芽生えてくるのだった。
     興味を示して質問をぶっつけると馬鹿にしながらも農家の人たちはけっこう真面目に答えてくれた。
     たしかに馬鹿にされてもしかたがない面もあったと思う。最初の頃の私の質問は一反、何俵取れるかなどといったようなものでそんなことはこの辺では子供だって知っているだろう。
     しかし私は初めて、一反8俵が目やすだが、年により、人によって、6俵から12俵ほどのひらきがあることを知ったのだった。

     関心を持って耳学問を始めると、農家の人たちの話もなかなか面白い。
     こと米作に関しては、それぞれに一家言があって、そこら辺りは識人の世界と変わらなかった。
     農薬の使い方、天候への対応にも一人一人の工夫があるが昼夜の温度差にあわせて、水田の水の張り具合をかげんするというような話は私をちょっと感動させた。
     北限の米作りの苦労を知ると、うまい、まずいのはなしではなくなった。
     以来、私はなんといったって、身元のはっきりした道産の新米だよとことあるごとに吹聴している。
     
     もっともかっては猫またぎと揶揄された北海道米の食味が飛躍的に改善され始めたのもその頃からだ。
     きたひかりあたりがその嚆矢になるだろうか。
     バイオテクノロジーの発達で改良の速度もあがった。
     地球温暖化もこと北海道米に関しては非常に有利に作用している。ゆきひかりなどもう十分に本州米と肩を並べていたのではないか。
     そうして、平成元年(1989)デビューしたきらら397はそのネーミングのよさもあって堂々全国区のブランド米の地位をしめた。

     ささにしき、こしひかりなどたしかに優秀な米なのだろう。しかし流通の過程でまぜ米をくり返して、わけのわからない米になったものが本来のうま味を保持しているわけがない。
     私は気心の知れた身近の農家が丹精した米を玄米の状態でわけてもらう。それを小型の精米機で毎食ごとに精米して食べている。
     その米の食味になんの不満もない。
     今、私のもらっている米はおぼろづきだがこれだってなかなかうまい。
     どうも、きらら397とゆめぴりかの隙間で継子あつかいされたようで不憫な気がする。

     さて、ゆめぴりか、数年前から噂には聞いていたが今年いよいよ作ずけが始まるとあって私も大いに期待していた。
     本州のブランド米に、優るとも劣らないという、まさに夢のような北海道米だ。
     しかしこの気候だった。
     残念な結果だったがしかし逆に考えればこのような状態でもなお、そこそこの収量を確保したことは農家の人たちの殊勲ではなかったか。冷害をくい止めた栽培技術の進歩を私は素直に評価したい。

     米という字は八十八と書く。それだけ手数がかヽるのだと教えられた。
     しかし人によると稲は穂にたくさんの花をつける。それで八十八だという。聞けばこの意見も棄てがたい。
     稲の花はゆかしいものだ。足を止めてながめるような花ではないが、たとえば一つの水田で何万、何億という花がいっせいに開花する、その様子を想像すだけでも自然の偉大さに心ふるえるものがあるではないか。
     燦々とふりそそぐ太陽の光の下で、何万、何億という稲の花がいっせいに開花し、花粉をとばして受粉する。来年の初夏にはそんな光景をきっと見ることが出来るはずだ。
     希望しよう。
     ゆめぴりか!

  • 霍乱

     朝、起きるとはげしい眩暈がして立っているのも困難な程だった。小用をたすにも支障をきたすぐらいで吐き気もある。
     とりあえず這うようにしてベットに戻った。
     ベットに臥すと小康を得るがそれで納まったかと起きあがるとやっぱり目は廻る。
     なんのことはない、若い頃にさんざん味わった二日酔いのひどいやつ、その状態にそっくりなのだがしかし、前夜思いあたるような酒の呑み方はしていない。
     しようもなくベットでうつらうつら時間を過すと、夕方になって回復した。
     ひょっとして一滴二滴のアルコールさえ分解できない程、肝臓がやられてしまったのかと考えて厭な気分になったがそれならそれでもっとほかにも症状が出るはずだと自分自身にいいきかす。
     そんなことが二三週間前にもあって、これが二度目だから女房が取り乱すのもわからないわけではない。

     特に摂生するわけでもなく長い間ほったらかしの体だから、検査をすればあちこちに不具合は見つかるだろう。
     知らなければそれまでだが知ったとたんに病人になる。
     そういう頭があるから私はぐずぐずするわけだが女房と争っても勝てるはずもない。
     翌朝、指示されるままに知り合いの看護師さんに電話で相談すると当然すぐにでもこいという。
     脳に原因があることだってあるなどと驚かされて、ついに重い腰を上げるはめになった。

     実にひさしぶりの病院だった。
     前回はいつだったかと考えても、すぐには思い出せないぐらい昔のことだ。
     二、三時間は待たされるものと覚悟して本をかヽえて出かけたのだが待合室は人もまばら、待つ程もなく順番が来た。
     医師も看護師も妙に人当たりがやわらかい。どうも待たされ、引きまわされて、叱責されるという記憶の中のイメージとは違うようだ。
     なぜそうなったのかわからないがよく替わるにはこしたことがない。
     血圧、血液、心電図、脳のMRIと一通りの検査を受けることになった。

     翌日、結果を聞きに再び病院へ、いかに世に擦れたとはいえさすがに合否の発表を見に行く受験生程度には緊張する。
     しかし、なんとしたことか、血液、心臓、脳、いずれにもなんの問題もなかった。
     ついた病名は「良性発作性頭位目まい症」。耳鳴り、難聴、ことばの障害、手足のしびれ、意識障害、生命にかヽわることはありませんということだった。
     拍子ぬけとはこのことだろう。脳に異常がないとわかったのはちょっと喜しかったが、まったく人驚せな。
     特別な治療法もないとかで、うまく症状をあやしながらなれていくしかないのだろう。
     とりあえず、もう少し、世にはばかることになった。

  •  北海道の秋景色が本州と比べて、なにかものたりないのは柿の木がないせいかもしれない。
     本州の山里では枯山水に柿の実がぽっりと一つ色を添えてえもいわれぬ風情を醸す。
     もっともあれは偶然ではなく、あえて一つ残すのだそうだ。木守というそんな風習をいつ、誰から聞いたのだったろう。
     鉄斎の水墨画には一点、二点と朱をさすものがあって、それがまたよく画面を引き締めるがこの技法なども、そんな風景に喚起されたものではないかったか。

     柿にも思い出すことはある。
     若い頃、一時京都に住んだが、その間知り合った名古屋の男と毎日のように酒を呑んだ。
     下宿のあった一乗寺界隈には庭に柿の木を植える民家が多く、白らじらと明けかけた朝、蛮行の余勢をかって、よく垣根越しにその実を盗んだものだ。
     まだ充分に熟さぬ小さな柿の歯こたえは青春そのものだった。
     品種は一千程もあるといわれるが、あの小ぶりの柿はどんな種類のものだったのだろう。
     熟するとそこはかと甘く、鄙びた味がした。
     塀をはみだしたものには法的な所有権が及ばないという屁理屈の用意はあったが、一旦始めた狼藉がその枠の中で収まるわけもなく、見とがめられずにすんだのは、ただ、ただ幸運であったと思う。
     京都を離れて以来、音信もとだえたままだがあの男も還暦を過ぎたはずだ。どんな人生を送ったものか、なつかしい。

     娘がパタパタと結婚していき、柿の木のある家の親戚ができた。
     おいしい実がつきますと夏に会った時に聞いたから、ひそかに期待していたが、思惑通りそれが到来した。
     野趣を残したきりっと果肉のつまった柿だった。富有柿に似ているが花萼の跡が四辺にくっきり残るからまた別の種類かもしれない。
     甘すぎず歯こたえがあって、柿らしい味がする、いかにも私ごのみのものだった。
     まさか鐘は鳴らないが柿を喰いながらも想うことは想う。
     もう親に出来ることは心配するぐらいのものだがいくつになっても子供は子供だ。
     大阪に所帯を持った娘はいま、いかにあるか。

  • 夢を話せば

     本当は船乗りになりたかった。
     山育ちだからと単純に合点してもらってはこまる。そういう理由もないわけではないだろうがもっと心の奥に要因はあったのではないか。きっと心理学者なら興味ある分析をしてみせるだろう。
     努力する以前に障害があるのだから、それは初めからかなわぬ夢で、しかし、おかげで夢はかえって純粋に長く保持されることになった。
     黒い海賊、宝島、海と船の物語ならみんな好きだが、特に海底二万マイルはお気に入りだった。
     優雅に孤独で全能感のあるネモ船長は私の理想の男だった。

     夢のまた夢ではネモ船長になりきれたが夢の中の現実では私は商船士官になる。
     前後2基のデリックを持つ三島型の古い貨物船。船体は当然黒で三島の上部だけが白く塗り分けられている、
     煙突には誇らしげにファンネルマーク。
     号笛が鳴り、舫網がとかれ・・・・・・。

     しかし無念なことに私は船に弱かった。
     中学校の修学旅行でそれを思い知らされる。
     たかだか、津軽海峡を渡る4時間がもたなかった。
     七転八倒、船に弱いということはそれでしっかり頭に刻み込まれたがそれでも船が嫌いになったわけではない。

     青函連絡船にはその後幾度となく乗った。
     酔うんじゃないかとおっかなびっくり、どういうわけかなんともないこともあったけれど、こらえきれず甲板越しに海に向かって吐いたことも一度や二度ではない。
     酒に酔っていれば船酔いはしないといっけんもっともらしいことを吹き込んだのは誰だったろう。なる程と思って実行してひどい目にもあっている。
     それでも船が嫌いになれなかったのだからしつこいといえばそうとうにしつこい。
     そうして極め付けには太平洋を船で渡る。

     地球儀で東京をおさえその真逆を見るとブエノスアイレス、よしアルゼンチンに行こうと思った。
     23才、私は自分にも愛想をつかしていたが日本も厭でしかたがなかった。
     死ぬのだったらどこでも死ねる。とにかく日本から一番遠いところに身を置こう。
     あるいはそんな大袈裟な船旅がしてみたかっただけのことだったかもしれない。

     横浜からハワイまでの7日間は船酔いがひどくてほとんどベットを出られなかった。
     ホノルルでも大地が揺れた。
     しかしハワイを出るとそれっきり嘘のように船酔いは納まった。
     なぜだろう。自分の身体がそれ程、順応性が高いとは信じられなかった。

     もともと船のテーブルには四辺に張りをつけて落下防止の工夫がされているが海が荒れるとさらと食堂の白いクロスは水で濡らして広げられる。皿やコップがすべらないようにする為だ。
     中天に持ち上げられると次の瞬間には海の底に船は吸い込まれている。
     船窓いっぱいに波が拡がり、これでどうして沈まずにいるのか思案する間もなく、再び船は中空に放り出され、スクリューの音がカラカラとむなしく響く。
     いつもは満員の食堂もほんの数人が席につくだけ。
     今日はちょっと揺れてるものね。
     青白い顔のボーイに無駄口をたゝいたりしていい気持だった。

     船はいい。
     後年、私は夢を棄てきれなくて、息子を船乗りにしようと試みた。
     深慮遠謀を重ねなんとか商船大学を受験させるまでにはこぎつけたのだが残念ながら第一志望の大学に合格してしまい私の夢は水泡に帰した。

     小樽だの留萌だのには、時々思いがけない船が入港する。
     若い頃にはその度に見学にとんでいったものだが今はもうその体力も失せた。
     細ぼそと船舶関係の図書を収集することがかろうじて夢の名残りだ。
     人生なんて空しい。

     もう一度、人生がやり直せたらという問がある。
     そんな空想を楽しめるのはきっと幸せな人だろう。
     この人生を破綻させずになんとかここまで辿り着いた。これで私はもう充分だ。
     しかし船乗りだぞと唆されたら、やっぱりちょっと悩むかもしれない。

  • 女友達

     ひょっとすると、そんなことになっても、おかしくなかったはずなのにそんなことがなかったおかげでいまだにいい関係が続いている女友達がいる。
     幼い頃には近くに住んだがたいして口をきいたこともなかった。もっとも近所に数多くいた似たような年恰好の子供たちの誰とも親しまなかったから私にとっては特別なことではない。
     中学で初めて同じクラスになって、どういう風の吹き回しか気を許すようになった。おたがい恋愛の対象は別にあったから本当に仲がよいだけの仲だった。
     相手はすでに女組のボスのような立場だったが私というあぶなげな存在に母性本能がくすぐられたものだろうか。
     すでに顔もでかいが態度もでかく、こういう人に憎まれたらさぞ怖いだろうと思われた。実際、独善的な張り切り方をする新任教師を睨み倒した実績ももっていたから私には心強い姉のようなものだった。
     彼女を紹介されたり、まあなにかと世話になったものだ。
     それでいて私を自分の恋愛対象と考えたことは一度もなかったはずだ。
     その件ではいまだに感心させられる。私なんかに関わったら苦労かたえないとわかっていたのだろう。さすがに見るべきものは見ている。
     その時々で多少の濃淡はあったが以来ずうっとそんな関係が続いてきた。
     女房とも当然旧知の仲で家に来ると、私をさておいて、更年期の話なんかに熱中している。
     その辺の芸が男にはなかなか出来ないところだ。
     数年、舅、姑の介護で大変だったらしいがようやく開放されたとかで先日、酒を呑む機会があった。
     ほろっと酔って、そういえば俺たち近所だったのに一度もお医者さんごっこなんてしなかったな、ちらっと下ねたをふると、なに、そのうちに寝たっきりになったら一度ぐらいはおむつを替えにいってあげるからとかるくいなされた。
     どうも最後まで一人前のあつかいはうけないらしい。

  • 花の名前

     花の名前を覚えようとしたことがある。日本の詩歌を正しく観賞しようと思えばそれは必要なことだと思ったからだ。
     たとえば万葉集、およそ4500首の内に植物が読み込まれたものが3分の1をこえる。桜、梅、椿など日本人として生長するうちに当然のようにすりこまれるものもあるが中には生まれて初めて聞くような名前も少なくない。文学を学ぶ者としてこれではあまりにもなさけないではないか。私は若くて純粋だった。そうして、かくのごとく志は正しく高かったのである。しかし、その方法において私は決定的なあやまちを犯した。
     すなわち受験勉強方式に植物図鑑の丸暗記をこころみたのだ。
     そのようにして覚えた英単語が実際にはなんの役にもたたなかったように私の知識は野山に出るとほとんど用をなさなかった。そのトラウマがある。野花を見てパッと名前をいえる人には年がいもなく嫉妬する。
     女房は朝昼のワイドショーにしか興味がないのかと思っていたら近年、フィールド派に変身した。庭に出て汗だくで土を耕し草花を植えたりしている。それが楽しくてたまらなくなったという。
     「お父さん、これ、これね、おみなえし」
     私は暇にまかせて知識を蓄積すること半世紀、すでに雑学百般、人後に落ちることはないと自負していた。
     それを今更、なぜ、こうして女房の後塵を拝さなければならないのだろう。
     深く天を恨むしかない。

    (北海道新聞 朝の食卓 2009年9月25日掲載)

  • 105円の至福

     昔、古本屋はなかなか敷居の高いところだった。
     立て付けの悪い引き戸を開けて、中に入ると奥の番台から下半身を毛布に包んで読書に熱中していたらしい白髪の親父にじろり、眼鏡越しに値踏されて、そこから先へ足を進めるにはちょっとした勇気が必要だった。
     古本といいながら値段もけして安くはなかった。
     もちろん店頭には100円均一のぞっき本が平台に山積されていたがほしいと思うような本にはやっぱり、それなりの価格が付けられていた。

     子供の頃に罹患した本依存症は大人になってもいっこうに回復する兆はなかったが古本屋との縁が深まらなかったのは最初のそんな印象が強かったせいもあるかもしれない。
     しかしこの業界も知らぬ間に驚くような変貌を遂げていた。
     息子に誘われなければおそらく足をふみ入れることもなかったろうが行ってみて、おどろいた。すでにかっての古本屋のイメージは跡形もなかった。

     新旧、装丁、内容、価格、そういう要素を一切無視して一律100円、税をふくめて105円という設定は画期的なものだ。
     本の好きな者には生命に替えてもと思ったり、生命の次にと思うようなものでも、そうでなければただのごみ、だからチリ紙交換に毛の生えたような値段でも処分する人も少なくないのだろう。
     さすが金を儲けるほどの人は目の付けどころが違うと感心させられる。
     本を選ぶ目に自信さえあればここはまさに宝の山だ。

     最近では親に小銭をもらって駄菓子屋に走る子供とまるでかわらなくなった。
     暇さえあれば女房に500円玉をせがんで店へ行く。
     なんといってもそれで4、5冊の単行本が手に入るのだ。
     棚をすうっと目で追っていると、おっと思う本がある。手にとって表紙をめくり、汚れ、痛みを吟味する。なかには蔵書印の押されたものもある。
     ああこの本の持ち主だった人はきっと亡なったのだなと思う。そういう本は多少食指が動いてもなんとなく恨みが残っているようでそっと棚に返す。
     時にはまったく人手に触れられた形跡のない本もある。おもしろそうな内容と思えるのに時宜を得なかったのだろうか。そんな本はとりあえず買いだ。いつ読めるかはわからないがなんといっても105円なのだ・・・・・・。

     そうして過ごす時間がとにかく楽しい。
     105円の至福と呼んで1人悦にいっている。

  • 靴のことなど

     靴を選ぶ女房の姿を見るのが好きだ。
     履きごこちをたしかめたり、鏡に写して様子を見たり、色の違うもの、型の違うもの、あれこれととっかえひっかえ迷う姿を見ているのが好きだ。
     私自身がそんなふうにして靴を買うことが出来ないせいもあるかもしれない。無心に靴を選ぶ女房の姿は好ましい。
     女房にうまく取り入りながら店員がちらりと流し目で私の足元を見る。それもいつものことだ。靴屋としての本性が働くのだろう。この亭主はどんな靴を履いているのか、あわよくばもう一足と、そうして見てはいけないものを見たようにあわてて目を逸らし、一呼吸おいて、もう一度私の足元をたしかめたりする。
     私の靴は左右非対称、普通の靴屋ではけして手に入らないものだから店員のおもわくはみごとにはずれ、密かに落胆する様子を確認して私はほくそえむ。
     たしかに私も意地が悪い。靴にはそれだけ苦労してきた。

     靴らしい靴がなんとか手に入るようになったのはここ10年ぐらいのことだ。
     16才、高校生のころから、それまでの間、私はサンダルか、バスケットシューズの後を踏み潰したものを履いてすごした。
     雨の日、雪の日などはいやおうなく踵が濡れて、みじめだったが、それも宿命と思えば甘受できた。うがった見方をすればマゾイズムの影が発見できるだろうか。
     もともと私は小児麻痺の後遺症で右足の第2関節から下に障害があった。それでも指先や足首の機能は不完全ながら残っていて、とりあえず普通に市販の靴を履いて生活していた。
     それが16才の時に受けた矯正手術の失敗でそれらの機能も全廃してしまい、エル字型の棒きれのようにかたまった足を、鉄筋入りの補装具でおゝわなくては歩くことも出来なくなった。

     補装具は義足屋の範疇だが病院で医師の指導のもとで作る。
     高価なもので普通の勤め人の給料、一ヶ月分ぐらいもする。もっとも公的な助成があって当人に金銭的な負担はない。
     しかし、それがよかったかどうか。
     おしきせで与えられる補装具は半年もしないうちにかならず鉄筋が折れてへたをすると修理に1週間もかゝったりする。その間、私は身動きが出来ない。
     靴は靴で補装具の上にしゃにむに履くと足が締めつけられて30分とがまんできないしろものだった。
     これをたいして文句もいわず受領したのは結局、自分の腹が痛むわけではないからだ。

     義足屋に補装具の鉄筋を倍の太さにし、底にも鉄板を張って、補強してくれと注文をつけたのは10年も過ぎてからだ。
     それじゃ重くて使えませんよと義足屋は反撥した。金額は国がきめた額に決まっているし、細工もこちらが想像する以上に大変になるのだろう。
     それを使うのは私だ、私のいいようにやってくれと押しきるにはそれなりの年令も必要だった。
     だがそう改造するとうそのように破損は止まった。ようやく使用と強度のバランスがとれたということだろう。
     30年も使うとさすがに他の部分の劣化がはげしくて、4,5年前、新しいものにとりかえたが鉄筋と底の鉄板はまだびくともしていなかった。

     靴の改善にはその先、さらに20年近くの歳月がかゝった。
     当初、靴も義足屋で作っていると思い込んだのがそもそもの間違いで、それこそ隔靴掻痒、そのものの話だった。ずうっと長い間、こちらの意見が作り手にはうまく伝わっていなかったのだ。
     靴は外注していると知って、相手と直接交渉させてくれとたのんだ。
     すでに私は文句の多いうるさい客になっていたから義足屋はわりとすんなり諒承してくれた。

     その道、その道にはそれぞれに約束事があってそれを破るには非常な抵抗感があるものだ。同じ職人仕事をしているからそこらあたりは私にもよくわかる。
     靴屋にはどうも左右対称に作りたいという無意識が働くもののようだった。

     公的助成でやるのだから何年かに一遍忘れかけた記憶をよびもどしながら微々たる改善を重ねていくしかない。直接注文を付けても、なかなか思うような履ごこちの靴は出来なかった。
     これでは生涯かゝっても納得のいくものは出来ないだろうとあきらめかけてふと思いつくまゝ靴じゃなくていいんだ、この足が入るバックを作ってくれ、バックの底に靴底をはってくれゝばいいんだといってみた。

     実に厭な顔をする靴屋をなんとか説得して仕事にとりかゝらせたがやっぱり靴の概念は棄てられないようだった。
     それでも私の意見を本格的にとり上げてみる気持にはなったようだった。
     今度はうまくいくかもしれないという予感があった。
     そうして予感は適中した。
     あなたの為に木型を一つ造らされてしまいましたよ。
     靴は木型がなくては作れないものなのだそうだ。しかし、なぜそんな話をあえて私にしたのだろう。木型は靴屋にとってそれ程大仰なものなのだろうか。
     それで出来きるなら、もう少し早くそうしてくれていたらよかったじゃないかというがこちらの気持だった。
     
     新しい靴が手に入ったときにはさすがにうれしかった。
     なんども女房や子供たちにどうだと声をかけてしまいにはうるさがられたりした。
     私としてはなかなかいいよといってほしかったのだ。
     なんどでもそんな言葉が聞きたかった。
     靴が一足、二足と増え、夏用だの冬用だののほかに作業用までがあるようになると、さすがに最初の感動はない。
     それでも履く靴がなかった雨の日、冬の日をしばしば思いだす。いつも靴下のかゝとを濡し時にはしらぬまに穴もあいていた・・・。
     靴は男の人格を現すなどと知ったようなことをいったのはいったい誰だったろう。
     私はいまでも 女房が靴を選ぶ姿を見ているのが好きだ。
     迷いに迷ったあげく、最後にこれと決めた靴を履いてどおっとたずねる女房にはうん、とてもいいよと即座に答えることにしている。

  • 雨蕭蕭

     9月。英語を母国語にする人たちでも、やっぱりセプテンバーという言葉にはある種の哀愁を感じるものなのか。
     それとも、親の親の代あたりが初めて聞く異国の言葉にセンチメンタルな想いを仮託した、それを引きずるこの国特有の現象か。
     長月とはいったものだ。たしかに日、一日と夜は長くなっていく。
     またたく間に月も中端、もう夏の気配はない。上着をはおったまま、身体を動かすとさすがにまだ汗ばむが手だけですむ作業を続けていては肌寒い。
     朝のうちは気持のよい青空だったものが、昼を過ぎたあたりから、いつの間にか雨が降り出して空もどす黒い雲におゝわれている。
     息子は商工会・青年部の研修とかで朝から出掛け、女房もついさっき、習い事に出て行った。
     孤り、工房で仕事をしながら、妙に自省的な気分になっている。
     人生。その終盤を可もなく不可もなく過している。
     特にやりそこねたとも思わないが、別のやりようもあったかもしれない。そういう思いはこの先も最後の最後までまとわりついてくるのだろうか。
     未練ともいえぬ程の未練だ。かきまわすとまだほかにもいろいろな澱が浮きあがってくるのだろうがとりあえず、そういう状況にはない。
     晩飯にはちょっとうまいものが食いたい。結局、思考ははそういうところに収斂していく。
     窓の外。目をこらさないと確認できないような細かな雨が、しかししつかりと腰をすえて降っている。
     ガラスに平行して張られた蜘蛛の巣が主の不在のまま水滴を無数にはらんでわずかな風にふるえている。
     遠く深い空の奥を飛行機が飛ぶくぐもった音がしている。
     今日はことさら夜が早いようだ。

  • 絶賛

     「96時間」が面白かった。
     ひさしぶりに映画を堪能した気分だ。
     それこそ息をつくひまもない感じだった。
     だからといってせわしいのとも違う。
     フランス映画らしくプロローグとエピローグには全体の3分の1の時間もとっている。
     導入部の説明的な場面が丁寧に描かれるので過激な展開にもあまり違和感を持たずについていけるのかもしれない。たくみな伏線と要所ごとのディテールの積重ねが所詮、絵空事をそうは思わせない緊張で引っぱっていく。

     だとしたらまず脚本をほめるべきか。
     「ニキータ」、「レオン」のリュック・ベッソンがロバート・マーク・ケイメンと組んだ作品は「トランスポーター」「ダニー・ザ・ドッグ」など少なくないが、いずれも出来のいい娯楽作としてヒットしている。
     しかし、枝葉をはずして、本筋だけで物語を組み立てるのはけっこう冒険でもあったはずだ。それをみごとにやってみせた。さすがというほかはない。

     監督、エール・モレルもこれが2作目とは思えない才能だ。
     撮影監督上がりらしくシャープな映像と、テンポのいい展開はみごと。己らカメラを手に取ったとも聞くが拷問シーンのスムーズなレンズの移動などあざやかなものだった。
     こけおどしのCGや大音響にたよらない作品造りにも好感がもてる。
     次回作は東京が舞台とのうわさもあってなんとも先が楽しみなことだ。

     主演、リーアム・ニーソンは「シンドラーのリスト」などで日本でも識られた役者だがどちらかといえば地味な演技派の印象が強い。
     50才を過ぎてからのこのはじけかたには誰もがおどろいたのではないか。しかしこれはリーアム・ニーソンの映画だった。見終わってリーアム・ニーソン以外の役者の名前が浮ばない程のはまり役だった。役者の力量とはこういうものか。

     物語はいたって単純、旅先のパリで拉致された娘を元C・I・Aの工作員だった父親が救出する、ただそれだけ。96時間とは救出できる可能性が残るタイム・リミットで、その為には家宅侵入、自動車泥棒、殺人、なに一つ逡巡することなく実行する。
     スティーブン・セガールの乱造する映画となにも変わらないシチュエーションなのだが、逆にいえば脚本・監督・主演が変わるとこうも違った作品も出来る。
     
     この映画はアメリカでは六ヵ月にわたってヒットを続けた。
     ブッシュ政権下にアメリカ人が抱いたフラストレーションを開放させるものがあったからだとの説もある。
     娘をいたぶろうとしていたアラブ系らしい富豪を問答無用で撃ち殺すあたりをさしているのだろう。そういえば殺戮のシーンでは銃はかならず観客の目線で撃たれているのはたしかなことだ。
     製作者側にもはつきりとそういう意図があったかどうか。
     おもしろいものは誰が観てもおもしろいと思うのだが、まあ、考える人はいろいろと考えるものだと思う。

  • 闘いすんで…

     政治はショーだとは誰の言葉だったろう。
     へたな芝居よりもというがたとえ上手なものだとしてもこれを上まわる興趣を与えてくれるかどうか。
     心臓に毛を生やした先生としても予想外の危機ともなれば形振などかまってはおれぬのだろう。
     自分の娘のような年齢の対抗馬を口ぎたなく誹謗する元首相。
     日頃の横柄な態度を一変させて泣きに徹する党首もいる。原爆投下もやむなしと宣もうた元防衛大臣を追い詰めるのは薬害肝炎のうら若き女性だ。
     判官びいきの国民の感情をくすぐって、視聴率を稼ぐマスコミのあざとい演出と承知しながらつい引きずられるのは敵役の面々のいかにも小狡そうなつらがまえのせいかもしれない。
     その合間、合間に開票速報が挿入される。展開は速いし密度は濃い。どんなドラマよりドラマチックだ。
     ひさしぶりにだらだらとテレビを観て、はずかしながら翌日の仕事にも影響が出た。

     やれ官僚主導の打破だ、大企業優先政治からの脱却だとかしましいがとりあえず政権が交替するのはよいことだ。
     権力がかならず腐敗するものだとすれば民主主義を担保する上で適当な政権の交替は不可避だろう。
     戦後の日本の発展に自民党の功績がなかったとは思わないが森政権以降のていたらくは目をおヽうばかりだった。
     小泉の目くらましに皆が騙されたときにはこの国の政治感覚に絶望したがどうしてどうして国民もなかなかしたたかなものだ。

     マニフェスト選挙もだいぶ定着してきたようだ。
     あれもやります、これもやりますと今回もずいぶんうたったが政権をとっておいて、選挙が終われば知らぬそぶりはもう通用しないだろう。

     民主党がどこまでやれるか不安がないわけではないが、ただ一つ、首相を止めたら政界を引退するという鳩山由起夫の言葉は評価に値する。
     自民党など子分もたいして残っていないのに元首相ばかりごろごろいてみっともないかぎりだ。これでどうやって解党的出直しができるのだろう。
     小泉はどうしても好きになれない男だったが風の吹きかげんの見きわめはさすがにみごとだった。これだけ日本をがたがたにしておいて、いまだに人気が高いのはひとえに時をえたけじめにあるのだろう。
     そういう点ではご当地の杉村太蔵君も若いに似あわずなかなか鼻のきく政治家なのかもしれない。

  • ちょっと冴えないホラ話

     アルゼンチン。ブエノス・アイレスの街角では花売りや新聞売りにまじってりんご売りが軒を連ねている。
     木工ロクロのできそこないのような妙な機械にりんごをはさんでくるくるまわすと面白いように皮がむけていく。
     ふうん、りんごの皮むきにはいささか自信のある私は目を奪われた。
     しかし近寄ってよく見ると果肉の方も3分の1ぐらいそぎとっている。
     なんじゃい、これは、と思ううちにみるみる対抗心がわいてきた。
     気配を察して袖を引く女房をふりきって1歩、2歩近づくと、おれにナイフを貸してみろ、もちろんスペイン語でそう言った。
     りんごは逆さにして、尻からむく。私が左手にりんごをとって、右手のナイフで皮をむき始めると見る間に黒山の人だかり。ナイフを進めるのではなく刃は軽くたてて。りんごをまわすように、皮を引くように。もっともそこいらはあうんの呼吸だ。
     さすがに緊張はしたが一度も途切らずに皮をむき終えるとやんやの拍手、口笛さえもまじるではないか。
     おっ日本人、すごい、これ手品か、
     手品じゃないよ、日本人、だれでもこれぐらいのことはする、だから、ラジオ、テレビ、車、手で作るものはみんなすばらしいだろ。
     外国に出ると人は愛国者に変わるようだ。
     差し出される手に皮をむいた方をわたして、再びりんごを左手にとる。
     むき始めると皆が息を呑むのがわかる。2個目は緊張もほぐれ最初よりもずうっと手早く、上手にむけた。
     女房が目顔で制止するのを無視してさらに3個目、4個目、そうやって30分も遊んだろうか。
     大喝采の中、屋台を離れようとするとりんご売りがあわてて肩をたたく。
     もういいだろう、礼はいらないぜ、だがよく聞くとりんご代を払えということだった。それにしてもいったい何個分の代金を請求されたことだろう。どさくさにまぎれてずいぶんぼられたような気がする。
     プッタケテパリオ、これは馬鹿野郎というより、もっとひどい悪口だがあえて訳はつけない。
     さすが地球のうら側では常識も違う。
     あとから女房には怒られるやら笑われるやら。
     おかげで今日までどうにも頭があがらない。

    (北海道新聞・朝の食卓 2009年8月22日掲載ブログバージョン)

  • ふりさけみれば4 綿あめ慕情

     どんなにおいしいものだろうと思っていた。地方によっては電気あめ、綿菓子とも呼ぶのだろうか、あの夢か、雲のようにはかなくふくらんだ綿あめのことだ。いかにも特別な日の特別なおやつらしく夏のあいだだけ、祭やお盆には駄菓子屋の横に屋台が出た。
     風よけのフードの中、ザラメが熱せられて、くるくる回転する機械の中心から糸のように吐き出されるのを、割りばしをたくみにあやつりながらからめとっていく。白いダボシャツのおやじをまさか奇術師とも思わなかったけれどまるで手品のように割りばしの先にはみるみる綿がまきついた。食べられなければ食べられないだけ、妄想は頭の中で増大する。
     親が駄目だといえばあきらめるしかないのだが、心のどこかに不満がうずまいていた。
     安価なものだった。近所の子供たちはみな小づかいで買っていた。それで腹をこわした話も聞かない。
     だが、きたない、病気になると、うちでは禁止されていた。
     とにかく制約の多い家だった。まんが本を見てはだめ、本の貸借はだめ、遊んでいい友達、悪い友達というのもあった。親が梅毒だったり朝鮮人だったりしたのだったろうか。
     坑員住宅のならびには出入無料の共同浴場もあったが、私たちは毎日入浴させられた。
     夜、出歩くなどもってのほか、買いぐらいが許されるはずもなかった。
     5円、10円と小銭をにぎって、駄菓子屋にたむろする子供たちが心底うらやましかった。
     弟もきっと同じ気持だったと思う。
     
     2つ違いの弟は格・いたると言った。父が世話になった人の名前をもらったと聞く。その人とどういう付き合いがあったのか、長い間、賀状のやりとりは続いていた。
     子供の目で見ても私の家はかなり周囲からは浮きあがった存在だった。
     父は自分の感情をコントロールができない人で、だから人間関係のトラブルがたえなかった。
     母は利巧な人だったがそのプライドの高さはやはり人の鼻につくこともあっただろう。
     私が障害をもつことでそれらは増幅されることになったかもしれない。 
     となり近所、どこにでも似たような年かっこうの子供たちがいて遊び相手には事欠かなかったはずなのに幼い頃の弟はいつも私の脇にくっついていた。親がそう、しむけたものか、一人で遊びに出てもいいおもいはしなかったのか。ごく普通の子供だった弟だがおかしな家に生まれてきたばかりに一番割りをくうことになっていたとしたらかなしい。
     
     にいちゃんと呼んで弟はポケットからぐちゃぐちゃにまるめた10円札をとりだしてみせた。私が小学生になったばかりの頃だったと思う。祭の日だった。
     どうしたと聞くと拾ったという。
     これでと弟は私を見た。
     うん、私には弟の考えが自分のことのようにわかった。
     私たちは手に手を取るようにして家を飛び出すと駄菓子屋まで駆けた。
     駄菓子屋の横には案の定、屋台も出ていた。
     迷うことはなかった。
     綿あめ一つとアイスボンボン一つ、それでちょうど10円だ。

     赤痢になると絶対に口に出来なかった、アイス・ボンボン、それもあこがれの品だった。
     風船のゴムよりもいくらか厚手だったかもしれない、ひょうたん形のゴムの中に色をつけた砂糖水を入れて凍らせたものだ。子供の握り拳より一まわり程大きくて、赤、青、白の三色があった。
     普通は乳首のようになった先を鋏で切って、手で暖めてとかしながら吸うのだが口の堅く結んだ紐をなんとかほどくと傷のないゴムの袋が残るので水道の蛇口にはさんで水でふくらませたりして、それで遊ぶことができる。
     それもうらやましかったものだ。

     “購買”の坂をあがると右手は購買部を中心に床屋だの駄菓子屋だのが軒を連ねていたが左手は幼稚園の敷地で本当に歌の文句に合わせて作ったとんがり帽子の園舎があり、広い遊技場の隅にはブランコだのスベリ台といった遊具が並んでいた。園児たちが帰ったあとはそこはあまり人の寄りつかない場所だった。
     私たちは駄菓子屋からブランコへと移動して、ようやく一息ついた。
     なんとしてもアイス・ボンボンの口の紐をほどかなくてはならない。
     それは当然、私の仕事だった。弟は綿あめを右手でさヽげるようにして持つと息をつめて、私の指先に注目していた。
     
     弟が家のさいふから10円札を抜き取ったことはその夜に露見した。
     母は毎日、日記がわりに家計簿をつけていて、一円の誤差もないのが自慢だったからばれずにはすまないことぐらい弟にだってわかっていたはずだ。
     私たちは並んで立たされてしかられた。
     私は泣いたが弟はどうだったか、泣かなかったような気もする。泣いたとしてもそれは悔恨の涙ではなく、自分だってまわりの子供たちと同じようなことがしたいという抗議の涙だっただろう。
     弟の態度が反省的ではなかったからついに私たちは家を追い出されることになる。

     あてもなく家のまわりをさまよいながら見るともなく見上げた夜の空、あの満天の星を私は今も忘れない。
     とりとめもなく大空にちらばった星たちがやがて一つの糸でつながっていき、ある姿を形づくることを私は魔法にでもかけられたような気持で見つめていた。
     北斗七星がひしゃくを形づくると、おどろく程の近さにせまってきた。
     私たちは手をしっかりにぎりあいながら見上げていた。
     私たちはつらかったがそうしていると泣かずにすんだ。
     
     私たちは兄弟だった。
     その弟は40才で死ぬ。もう20年も前の話だ。
     ようやくこの頃はそれ程思い出さずにすむようになったが、たまに息子の後姿が弟に見えることがある。

  • ふりさけみれば3 私の西鉄ライオンズ

     父は偏執的な西鉄ファンだった。
     勝てば天井が抜けるような大喜びをして、なけなしの小銭を子供たちに配ったり大さわぎだったが負けるとその分不機嫌になり誰かれかまわず当りちらした。
     大正2年、四国、宇和島生まれの父が大阪に出、やがて終戦のどさくさに北海道まで流れつく。
     父の父、すなわち祖父に私は会わずにしまったが、四国では名の知られた指物大工だったと聞く。たしかに大工道具を使わせたら父も目を見張らせる腕を持っていた。子供の頃から親に口うるさくしこまれたせいだろう。それがいやで家を飛び出したらしいがおそらく天職だったにちがいない。以来、父はいくつかの職業を転々としたはずだがどれも生活の糧を得るためのものであって、それに生きがいを見つけることはついにできなかったのではないか。
     北海道でもそれ程、意に沿う境遇ではなかったはずだ。
     西鉄というプロ野球のチームがどこでどうそんな父の琴線にふれたものか。ともかく西鉄の勝敗は直接、家庭の平和に影響した。

     西鉄ライオンズは昭和26年(1951)前身の西鉄クリッパースが西日本パイレーツを吸収合併して成立する。プロ野球が2リーグに分裂した翌年のことだ。
     その年、巨人軍を追われるように退団した三原脩が監督に就任する。
     「われ、いつの日か中原に覇を唱えん」三原は煮え滾る復讐心を胸奥に日本制覇をめざして、チーム造りに着手する。
     翌27年(1952)、東急から実力、人気ともにトップスターだった大下弘を引き抜いてチームの要が出きる。
     怪童、中西太が高松一高から加入したのもこの年だ。
     28年(1953)豊田泰光(三戸商)、河村英文(別府・緑丘高)、高倉照幸(熊本高)。西村貞朗(香川・琴平高)。
     29年(1954)仰木彬(福岡・東筑高校、滝内弥端生(福岡、戸畑高)
     30年(1955)和田博美(大分、臼杵高)、玉造陽二(水戸一高)
     そして31年(1956)稲尾和久(別府・緑丘高)。
     最適の補強というべきか、強運の補強というべきか、これら、高卆ルーキーたちはたちまちのうちにレギラーの座を獲得する。

     西鉄は年ごとに強くなる。それにつれて、父のボルテージも上がる。
     母もいつか、野球のルールをおぼえ、選手の名前をおぼえて、父に口裏をあわせるようになっていた。子供たちが西鉄に強く肩入れするようになるのは当然のなりゆきだろう。
     昭和30年前後、当時5球スーパーと呼んだ真空管ラジオのチューニングをし、乱れがちな音声にそれこそかたずをのんで耳をかたむけたものだった。
     ひょっとすると我家は西鉄に依存することでその絆を強めていったのかもしれない。

     そうして私たちの至福のときがくる。
     昭和31年(1956) 日本初制覇
     昭和32年(1957) 4連勝で連続日本一
     昭和33年(1958) 3連敗のあと、奇跡の逆転、優勝。神さま仏さま稲尾さまの流行語も生まれた。
     私の9才、10才、11才の三年間だ。

     私はその後の落魄もしっている。三原が去り、大下が抜け、中西が故障に泣き、豊田が出ていった。孤軍奮闘の稲尾も力つきる。駄目押しの黒い霧事件は私にも相当なショックだった。
     池永など本当によいピッチャーだったものを。
     しかし、父も年を取って多少の分別をわきまえるようになり私たちも存在感を増しつつあったから再び以前のようなおかしな状況にはならなかった。

     思えば半世紀も昔のことだ。
     しかし私は今でもあのころのベスト・ナインをそらんじている。
      一番 センター 高倉 25
      二番 ショート 豊田  7
      三番 サード  中西  6  
      四番 ライト  大下  3
      五番 レフト  関口  9
      六番 ファスト 河野  1
      七番 セカンド 仰木  8
      八番 キャッチャー 和田 2
      九番 ピッチャー 稲尾 24
     
     なつかしい。

  • ふりさけみれば2 -4行目-

     4才の私は弟を背負った母に引きずられるように坂道を登っていく。
     そこは枯野であり、青草の野であり、山雪の舞う雪原であったりする。
     その時々で背景は変わるがその坂の登り下りだけが鮮明に脳裏に残る。つじつまのあう話に繋がるわけではない。一枚の写真のようにそれだけがある。唯、その坂の登り下り。

     購買の坂と呼ぶ道だった。
     坂の下には私たち家族が住む一般坑夫用の一棟二戸の住宅がマッチ箱を並べたように連らなっている。坂の上には購買、今ならさしずめスーパーマーケットのような施設があった。
     日々の買出しのついでもあったものだろうか。私は毎日その坂の登り下りを強要された。

     母は医療知識のある人だった。
     セピア色に変色した陸軍の従軍看護婦時代の写真が残っている。制服に身をかため、革ベルトをしめ腕に赤十字の腕章をまいて、正面を見すえる母はけして美人ではないが、ひきしまった魅力的な顔をしている。敗戦のどさくさから私の誕生の前後、その母と父にどのような物語があったものか、くわしいことを私は知らない。

     当時小児麻痺は法定伝染病だったから私もすぐにどこか病院に隔離されたらしい。
     死ぬなり生きのびるなり、とりあえず病状が一段落するまでそのように放置されるのが罹患者の宿命だった。それを母はかっての同僚、医師たちとのコネを総動員して、私を救出することに成功した。
     その冒険譚も幾度か聞かされたものだ。

     母はそうして、私の後遺症の機能回復訓練に情熱をかたむけることになる。
     しかし、そのような意図をどうして幼児が理解するだろう。
     私は麻痺した足を引きずりながらいやいや母に従っていく。他人には子供いじめと見えたこともあったろうか。
     母は意地の張った人だったからいまに見ておれと思うところがあったはずだ。
     私は母の意趣返しになんら加担できなかった自分の不甲斐無さを今でも悔む。

     坂道の歩行訓練はどれ程の期間続き、どのように終わったものだろう。
     私の記憶にはそれも不思議なぐらい何も残っていない。
     母が絶望と妥協する経緯も今ではもう聞くすべがなくなった。

  • 振りさけ見れば

     陶芸家の看板のせいかどうか、たまに原稿の依頼がある。
     今回は人生をふりかえってというものだった。
     わかる人にはわかると思うが800字は本気で書こうと思えば短すぎ、適当にごまかすには長すぎる。しかしこれがコラムの基本的な字数なのだからしかたがない。

     よい思案もなく机に向う。コラムの場合は最後から始めるという人がけっこういるようだ。おちを決めてから書き出す方式、一瞬その気になって、自分にはそんな芸はないとすぐにあきらめた。

     800字、人生、62才だからすると私の1年は12,3字になるのだろうか。
     この思いつきが気に入って、20罫、20行の原稿用紙の上から13桁目に線を引いた。
     1行目に1月19日誕生と書くともう7文字だ。それで月日は棄てヽ、一、誕生、父美登、母御代子と書き直してなんとか納める。
     2行目、1才9ヶ月、小児麻痺に罹患、後遺症と書く余白はなかった。
     3行目 弟、格、誕生、3月24日、弟の場合は月日も入れる余裕がある。

     こうして書いてみて初めて気がついたことがいくつかある。
     私が高熱で生死の境をさまよっていた時、母は6ヶ月の身重だった。
     そうすると片輪になるぐらいなら死んでくれた方がいいという父の言葉もさらに実感を増す。

     私を養子に出す話もあったと聞いている。父と母の生活が子供をかヽえてなりたたないような状況だったのかもしれない。
     当然それも、病気にかヽる以前の話だったろう。なにも好きこのんで跛の子供をもらおうとする者はいない。

     それでもその人は終生、私を特別あつかいして可愛いがってくれた。私も北野のおっちゃんと呼んでなついたものだ。もし養子にいっていたらと思ったことがしばしばある・・・・・・。

     たった3行のあいだにも、これ程のことがらがあるのにいささかおどろいている。
     残り59行、完成させるとしたらどんなことになるだろう。
     
     800字の原稿は今日はもうあきらめて、4行目4才の自分を想い出すことにしよう。

  • 次郎長三国志についてはいさヽか辛口で

     マキノ雅彦の次郎長三国志を観た。
     観たといっても、DVDを居間のテレビで再生しただけのことだからたいして威張れるわけでもない。
     もっとも前作、初監督の寝ずの番は息子に唆かされて、映画館で観た。思ったより出来がよかったのでこの作品も実は映画館で観るつもりでいたのだが、それがなんのかんのと予定が狂って、結局家でDVDということになってしまった。
     しかし、それでよかった。これを映画館で観たらきっと腹をたてたことだろう。

     出だしは悪くなかった。宇崎竜童の唄う旅姿三人男に乗って書割のような富士山と茶畑が現れたときには田舎芝居の幕あけをみるようで大いに期待させられた。
     こねたとこしばい、しゃれとおちとで、小粒ながらピリッと楽しませてくれるのだなと膝を乗り出す思いだった。

     おきん役の真由子が小気味いい啖呵を切る。女郎を身請にいって死に分かれて帰ってきた法印大五郎役の笹野高史が次郎長、お蝶の前で口説く、大熱演だ。あくが強くて好きではないが長門裕之だって、出番では見ごたえのある演技で場をさらう。そこここに見処はあるのだがそれが繋がらない。

     だいたい北村一輝にはどんな役柄をふったつもりだったのだろう。追分政五郎というから名前が違うんじゃないかと思っていると突然、お前は今日から小政だなんて、いくらなんでも乱暴すぎる。そのせいかどうか、二枚目半で演じていたはずが、芸もなく二枚目になり下がった。
     旅籠の二階で出窓にもたれて色男ぶってみせる、あのシーンはいったいなんだったのだろう。
     まさか、かって美男でならした監督自身へのオマージュ、なんて話にもなるまいが・・・。

     もっとも白けたのはお蝶の臨終の場面。役者の芸の見せ所とたっぷり時間をとったのだろう。現場では仲間内でそれなりに盛り上がったのかもしれないがそれが画面からはまったく伝わってこない。
     こんなおいしい場面をさらってみせるような根性のある役者はいないのか。
     同じような科白、同じような泣きが冗漫に続くのはただただ辟易させられた。

     殺陣もおそまつ。次郎長役の中井貴一は今では数少ない時代劇スターの一人だがだからといって誰もかれもを一手に切り棄てるのはいかがなものか。
     当節は刀を振り回したことがない役者も少なくないのかもしれないが、やはり時代劇にとって殺陣は花、とくに集団乱闘シーンにはそれなりの工夫がほしい。

     広沢虎造の次郎長伝は今も人気だという。知っている人は知っていて展開の先を読むのも楽しいものだ。次郎長伝というからにはそのおヽよそは変更なしになぞってほしい。
     萩野目慶子のお駒だっておかしな説明科白をつけるからかえってやヽこしくなるのであって、だまって保下田の久六の妾にしておけばそれはそれですんだはずだ。
     それにしても蛭子能収はひどかった。あれでもどこかで一つ悪辣な顔でもしてみせればもうちょっとなんとかなったかもしれないのだが。

     最後に上映時間のこと。
     単独上映だから2時間はほしいと端からきめてあったものか。
     潤沢な予算があるはずもないから撮影したフィルムを無駄にしたくない気持もわかる。出演料を値切った分だけ出番で花を持たせなきゃならない義理もあるだろう。
     だからといってただただ空疎な2時間につきあわされる側はつらい、

     私はプログラム・ピクチャーと呼ばれたかっての日本映画が好きだ。雷蔵がいて裕次郎がいて話がきちっとまとまるから見終わって気持がよかった。
     大スターの顔にたよれない分だけ大変なのかもしれないがマキノと名のるからには叔父、雅弘の手際も受け継いでほしいものだ。
     がんばれ、マキノ雅彦!
     とりあえず次回作では初心にかえった演出を期待する。

  • 蜘蛛との闘い

     私はなによりも蜘蛛が嫌いだ。生理的に嫌悪を感じる。嫌悪ではなく恐怖かもしれない。実は蜘蛛という字を使う度に鳥肌が立つ。
     これはもう立派な神経症というべきだろう。
     スティーブン・キングの小説ではないが、前世では蜘蛛の糸に巻かれて生きながら餌にされたのかもしれない。
     
     小学生の頃、自己紹介で嫌いなものはと問われて正直に答えたら、数日後、背中に蜘蛛をのせられて、きゃあきゃあ女子が騒ぐものだから、ふと後を見て、目の先にそれが這っていたときには本当にもう少しで気絶するところだった。
     
     蜘蛛は害虫を取ってくれるのだし、人間には何も悪さをしませんよとしたり顔で意見をされたことがある。自分の異常が気になっていたところでもあり、たしかにその通りではあったのでなんとか蜘蛛と折り合いをつけたいと努力したこともある。

     昆虫の総てが嫌いなわけではない。とんぼだって蝶だってそんな目で見ればけっこうグロテスクな顔をしている。とんぼや蝶には平気でふれられて、蜘蛛がさわられぬわけがない。理性ではそういうことになるのだが、駄目なものはやっぱり駄目だった。

     蜘蛛は夜行性だから、日中は巣を離れて近くの安全な場所に隠れて休む。寝込みを襲ったこともないわけではないがどうも空ふりが多いようでじきに止めた。
     夕方、薄暗くなり始めた頃に巣の中心にもどってくる、そこをみはからって殺虫剤を吹きつけ、昏倒して落下したところを踏つぶす。
     目につくかぎり始末していくと20匹前後にもなるだろうか。
     次の日にもまた同じぐらいの数の蜘蛛が出てきて同じことをくりかえす。
     一度息子にどうしてこうもきりもなく出てくるのだろうと嘆いたら、どこか奥に巨大な親蜘蛛がひそんでいたりするんじゃないかと逆に驚かされて、その夜、厭な夢をみた。
     巨大な蜘蛛が天井からつうっと糸を引いて襲ってくる。
     大声で叫んで女房に起こされて、あヽよかった、もうちょっとで蜘蛛に食われるところだったと話したらしい。
     おかげで夫の権威はますますあやうくなってしまった。

     今年は蜘蛛が少ないような気がしていたが糠喜びだったようでまたたく間に工房の軒は蜘蛛の巣におヽいつくされてしまった。
     4・5間しか離れていないのにどうも蜘蛛にも好みがあるらしく例年セラミックス・ブロック造りの家の方はそれ程でもないのだが、木材をフランス張りした工房の方はとんでもないことになる。
     虫よけに取らずにおいてあるんですかなどと来客にとぼけた質問をされたものだから、あわてて外に出てみて驚いた。
     ここ一両日の間にわくように出現したにちがいない。親戚の法事があってちょっと工房を空けた隙のことだ。
     まいった。これで今年も蜘蛛との闘いだ。
     これから木枯の吹き始める初冬まで蜘蛛の姿を見るかぎり闘いは続く。

  • 待たされ上手

     もしそんな言葉があるとしたら私はけっこう待たされ上手な方だろう。
     1時間ぐらいなら放っておかれてもたいして苦にはしない。
     本があればそれこそ御の字だがそうでなくても、妄想、空想をくりひろげていると時間は思いのほか、早く過ぎる。
     呼びかけられて、いいところだったのにと舌打ちしたくなるような気持で我にかえることさえある。
     時間をもてあますと子供の頃には手あそびを始めたらしい。指しゃぶりの変形でもあったのだろうか、やめろとたびたび親から注意された記憶が残る。
     そんな目に見える癖はいつか消えたが、思考回路でする一人遊びは大人になってむしろ増長したようなところがある。
     だいたいなんだって遊びになる。
     100から7を引いていくのは精神科医が脳軟化症の診断に使ったりするがこれだって、しばらく遊べる。7が終われば6でやっらり8でやったり、200からやったりといくらでも工夫はできるわけで頭をかゝえてうつろな表情をしているからといってかならずしも深刻な悩みがあるわけではない。
     このあいだはふと思いたってことわざとしりとりは出来ないものかとやってみた。
     —渡る世間に鬼はない—言いたい事は明日いえ—縁は異なもの—暖簾に腕押し—と意外に続く。
     しかし続けば続くなりにあきる。
     それで今度はことわざで言葉重ねをやってみた。
     —知らぬが仏—仏の顔も三度—三度目の正直—正直者は馬鹿を見る—知らぬが仏の顔も三度目の正直者は馬鹿を見るとつづけて悦に入ったところで名を呼ばれた。
     立ち上がった瞬間、見るは目の毒ということわざがぱっと浮んだ。
     そのあとにこれは続くと思ったが残念ながら思考は中断せざるを得なかった。
     ひょっとするとまだまだ続けていけたかもしれない。残念。

  • 夫唱不随?

     「何で『ムショ』か知っていたか」と私。
     「ケームショの略でしょ」と女房。
     「大概の人は、そう思っている。けど、あれはやくざの隠語だ。刑務所ではコメと麦とが『6対4』の飯を食わせる。この6・4でムショになったということだ」
     さっき読んだ安部譲二の「ぼくのムショ修行」で覚えたてのネタなのに、「ふうん」と女房は実にそっけない。だから、何なのという顔をする。
     「本を読んでも利口になるわけではない」とは誰が言った言葉だったろう。それでももしかしてと思った時期がなかったわけではない。
     しかし、眼から血の涙を流す程、読みに読んでも、たいして代わり映えはしなかった。
     もっとも、くだらない知識はたまる。仕込んだものは、ひけらかしたくなるのが人情だ。だが、さすがに誰かれ構わずともいかなくて、つまるところは女房が相手になる。
     「上野の西郷さんが連れている犬。あの名前、知ってたか」。丸谷才一の「軽いつづら」に書いていたことを思い出して言ってみた。
     機嫌の悪い時の女房は返事もしない。
     「あれって『ツン』て言うんだ。まるで今のおまえみたいだ」
     ひょっとすると、私は結構寂しい男なのかもしれない。

    (北海道新聞 「朝の食卓」 2009年7月1日掲載)