カテゴリー: エッセイ

  • そんなこと

     最近は地球温暖化を実感させられるがついこの間まではここらあたりはよく冷えた。
     なんといっても明治35年(1902)、1月25日に氷点下41.0℃という日本観測史上の最低気温を記録している土地だ。
     ちなみにこの日、青森では八甲田山を雪中行軍中の陸軍第8師団第5連隊の210名が遭難、実に199名の死亡者を出す大惨事があった。
     全国、いたるところで異常低温を記録しているから大寒波が列島を襲ったにちがいないがそれにしてもこの気温はすごい。
     南極、昭和基地の-45.3℃にはさすがに一歩ゆずるとしても、富士山頂の-38℃はかるく上回っている。
     上川盆地の中心、その旭川から20キロ程山裾のわが鷹栖町ではさらに5℃は低くなるだろうというのが通説だ。
     引越しの当初は味噌、醤油も凍る、朝には掻巻の襟さえ凍ることがあるなどと威された。たしかにそんな話を昔話のように聞いた記憶があった。
     しかし、その時代から住居は飛躍的に改善されている。まさか今どきと私は半信半疑だった。
     どうも新参者をからかう気配がある。
     それでもそんな折、つけたしのようにされた凍裂の話はいまだに耳に残っている。
     樹液が凍結して立木が裂ける凍裂は-25℃を越えると起こるらしいがそれもしばしばあったという。
     妙に乾いたやるせない音が闇夜に響く、あれはいやなものだと古老の一人は目をつぶった。

     焼きもの屋はけっこう気温には神経質だ。
     粘土を凍らせると大騒ぎになる。
     データを取ろうと外に出していた寒暖計が破裂したのは最初の正月を過してしばらくしてからだ。
     -20℃までの表示だったから判断も甘かったのだが、それにしても破裂までにはさらにずいぶんと温度は下がっていたことだろう。
     たしかにここの気温は侮れないなと気を引き締めた記憶がある。
     その頃、私は夕食後も工場に出て、深夜1時、2時まで働いていた。
     引越しに際してした初めての借金が気になってしかたがなかった。
     若くて無理がきいたし、予定を前だおしして返済を早めるのも楽しかった。
     運、不運に関わりなく、そもそも大物になる資質には欠けていたらしい。

     その夜、一仕事を終えて、工場を出ると奇妙な違和感にふと立ち止まった。
     空気が層をなしてたゆたっていた。
     一瞬、気のせいかと目を疑ったがたしかに空気は薄いレースのカーテンでもたらしたようにかすかに揺らいでいる。
     そうして、私はいつの間にか、そのやわらかいカーテンに包み込まれていた。
     鼓膜が抜けたように無音で、寒さも感じられなかった。
     思わず声が出た。するとその無意味な音声は四方八方に反響しあうのだった。
     私は興に乗って再び言葉を発した。谺は拡散し集中する。増殖しながら共鳴しているのだった。
     幻想の世界が現実にある。私は少なからず錯乱したが落着くにしたがって一つの推測ができあがった。
     気温がある条件下で下がっていき、限界点を越えると大気中に水分が凍結したまま浮遊してこのような現象になるのではないだろうか。
     私は女房を起こすと外に連れ出して、この神秘的な体験を共有した。
     この土地に移り住んですでに30年になるが、以来、再びこの現象にはめぐりあわない。
     風のないよく冷える夜には外に出て声を出してみることがある。
     ひょっとするととそのたびに思うのだが、言葉はむなしく暗闇にすいこまれていくばかりだ。
     あれはなんだったのだろう。
     すごく大切なものをそれと気づかずにやりすごしてしまったような無念さが残る。

  • 電話

     年に一度か二度、ごくたまに朝6時を過ぎるのを待ちかねたように電話が鳴ることがある。
     はずかしながら私たちはまだふとんの中で目覚めきらぬ頭につきささるような電話のベルに辟易しながらあゝまた部落のどこかの家で不幸があったなと考えている。
     女房が起き出して受話器を取る。対応に聞き耳を立てながら間違いがなかったことを確認する。
     これで丸一日半は拘束される。予定を思い浮かべて身体を空ける算段をつけ、身支度を急ぐ。7時にも葬儀の打合せが始まるからだ。遅れたらまた何を言われるかわからない。
     それにしても、一日、24時間あるのにどうしていつも早朝なのか、そこらへん、わかりかねるところもあるがとにかくそんな時にはきまって、朝、6時すぎだ。
     引越した当初は面食らいもし、腹も立った。
     以前、真夜中に無言電話がかゝることが続いた。
     私は身に覚えのない疑いを女房にかけられて、無実の証明に四苦八苦させられたが、それはさておき、時間外の電話は特別なことであり特別なこととは身内になにか異変があった場合しか考えられなかった。
     時間外の電話は精神衛生にもきわめて悪い。
     夏場の農家なら、すでに一仕事を終えた時間かもしれないが夜の遅い私たちにとっては、朝の来るのはもう少し先になる。
     農家とは生活のリズムが違う。表立って文句を言う程の元気はないが、かんべんしてくれよといいたい気持だ。
     しかし少し時間をおくと客観的にものをみる余裕もでてくる。
     ひょっとすると農家どうしでは平気で朝の3時、4時に電話がとびかっていたりするのではないか。
     あそこは夜がおそいからと連絡担当はいらいらしながら6時を過ぎるのを時計をにらみながら待ってたりするのかもしれない。
     そんなふうに考えれば相手に対してもいくらか柔軟な対応ができるというものだ。若い頃はとんがる一方だったが年の功か、自身を韜晦する術を身につけつつある。
     結局、それが身の為だ。
     袖ふれあうも他生の縁などと思いながら顔を洗う。
     朝ごはんどうすると台所で女房が叫ぶ。
     それにしても電話のベルをあゝいう音に設定した人は天才だと思う。
     へたな目覚まし時計よりよほど神経を覚醒させる。
     無視したところでなに程の不都合があるとも思えないのに結局、受話器を取らされる、あの仕掛け。
     考えると電話はけっこうこわい。

  •  私が暮らすのは学校だったところだから住宅のまわりにはかなりの空地がある。引越しの当初にはすぐにでもそのぐるりに木を植えるつもりだった。
     どんな木がいいだろうと考えている間は楽しかった。
     檜葉はあたりまえすぎて、面白くない。ポプラは棄てがたかったが少し背が高くなりすぎるような気がした。30mを越すポプラに囲まれたらさすがに圧迫感があるだろう。
     あれやこれやと悩んだあげく、ついにエゾヤマザクラに落ち着いた。
     同じサクラであってもソメイヨシノなどにくらべて地味な感じのところがいい。国粋主義者でなくても桜は好きだ。日本人なら当然だろうというところがある。
     桜切る馬鹿、植える馬鹿という言葉があることをその時、知った。
     私はなにか始めようとする場合、しっかり下準備をしてかゝらないと気がすまないたちだ。庭木としての桜はなかなか扱いが面倒らしい。
     しかし、年に一度、満開の桜に囲まれて過す誘惑には抗しきれなかった。
     エゾヤマザクラの苗木は1本3千円もしたのだったろうか。1,5m間隔で周囲に植えるといくらになるか、小学生の問題のような計算をして出たその数字に驚いた。
     ここらあたりでは反だの町だので土地を数えるから坪なんて猫の額程に思っていたが千坪という敷地は案外広い。
     生まれて初めて、借金をして、工場を建て、家をいじって、私は相当、高揚した気分でいたがすでに金銭的な余裕はまったくないのが実情だった。
     それでも無理をしたらなんとか無理が通りそうな気もしないわけではなかったがそれを理性でしゃにむに押さえて、私は本当に涙をのむようにしてあきらめた。
     そんな鬱憤を酒の席かなにかで話したことがあったのかもしれない。
     お情のように桜の苗木が数本とどけられたこともあったけれどそれは結局根づかなかった。
     土地が悪いという話だった。
     あそこは田んぼに盛り土をしたところだから、本格的にやろうと思えばきちんと客土して土壌をととのえなきゃいけないと講釈する人もいた。
     話が大げさになればなる程、実現は遠ざかる。
     そうして、いつの間にか25年が過ぎてしまった。
     あの時やっていたら思うことがある。
     どれ程の桜の森が育っていたことだろう。
     眼をつむればその森はくっきりと眼にうかぶ。
     見はてぬ夢とはそのように老いの身につきまとうものかもしれない。
     

  • ツイてない  

     雨が降っている。なんともうっとうしい。
     雨は嫌いだ。とにかく無難に一日やりすごそう、そう自分に言い聞かせて、朝、家を出たのだった。
     しかし前を走る若葉マークの小型車が右折の車をかわせなくてぐずぐずしているうちに信号が赤に変わった。それでなくても朝は気がせく。ちょっと舌打ちでもしたい気分だ。
     タイミングが一つ狂うとどうもすべての調子がおかしくなるらしく、先々の信号が目の前で赤になる。今日はなんともツイてない。
     雨の日は車を使用する人の数も増えるのだろうか、なんとかたどりついた駐車場も満車状態で奥の方にようやくスペースをみつけて車を寄せていくと、すんでのところで脇からきた車が鼻先を突込んでいく。
     ビルに入るといい具合にエレベーターが止まっている。
     上着の雨を手ではらいながら急ぐと人を小馬鹿にしたように目の前でドアが閉る。
     気のきかない奴らだと一瞬、腹が立つ。
     訪ねた人は今日は休み、おいおい、一週間前にアポをとって、俺はその為にわざわざ出掛けてきたんだぜ。
     予定をはずされて、まあちょっと時間は早いけれど昼飯でも済ませておこうと入ったラーメン屋は、それはもう最悪、今時こんなものでよく商売が出来るなあとむしろ関心させられる始末。
     一事が万事、こんな調子でへとへとになってようやく夕方、たまに本屋でものぞいていくかと信号を待っていると、見知らぬ女の人が突然、あの、ツイていますと耳元でささやいた。
     俺は今日、一日、まったくツイていなかったんだぜ。
     なにかおかしな新興宗教のキャッチかと、むっとして、見返すとなにやら意味ありげに目線が下の方へ。
     つられて、ズボンを手でさぐっていくと、たしかに得体の知れないものがお尻のあたりにべっとりと、ツイていた。

  • ツイてる

     たとえば、朝、町に向かって車を走らせていると、まるで待ち構えるように信号が目の前で青に変わる。
     一つや二つではままあることかもしれないが、三つ目になるとおやっという気持になるだろう。
     四つ続くと、おゝ今日はツイてると誰だって思うはずだ。
     五つ目の信号で一息ついて、なにげなくラジオのスイッチを入れるとちょうど天気予報の最中でこの地方は今日は一日、快晴だと言っている。
     雨が好きだなんて男の気を引こうとする女のたわごとでからっと晴れた青空がうっとうしいはずがない。
     駐車場に車を入れるとけっこう混んでいる様子だがさてっと思案するまでもなく目の前から大型車が走り出る。
     エレベーターは戸を開いて待っていたし、商談はこちらから切り出すまでもなく、思いのほか、好条件でまとまった。
     今日はツイてる。
     もっとも朝方のツキが一日中続くなんてめったにない。
     だいたい当人が昼食を喰うころにそんなことは忘れている。
     しかし、たいして選ばずに入った店のラーメンが意外においしく、支払いのときには、開店3周年のお祝いなのでと、次回半額のサービス券をわたされたりすると、おっと朝のツキを思いだす。
     今日はツイてると思うせいか、本当にツイているのか、いい気分でこなす仕事は普段の倍も進んだし、夕方のかえるコールには、気をつけて帰ってきてね、今晩はお父さんの大好物よと機嫌のいい女房の返事。
     こんな日だってたまにはあるんだ。
     今夜は女房とビールを飲んで、それからフ、フ、フ・・・。

  • 好き嫌い

     牛肉は乳くさい臭いが鼻について口に出来なかった。
     チーズも食べられなかった。
     バターを使ったいためものも熱いうちは平気だったが冷めてくるとやっぱり臭いが気になって箸は止まった。
     それでいて、熱い御飯の真中にバターを埋めてちょっと醤油をたらす、いわゆるバター飯は好物だったのだからこの辺の微妙な嗜好は自分でもうまく説明がつかない。

     父は好き嫌いが激しくて、だから子供の頃は納豆だのとろろだのといったぬめるものはめったに食卓に上がらなかった。
     マヨネーズやトマトケチャップも家には置いてなかったと思う。
     醤油一辺倒でそのかわりなんにでも見境いなくじゃぶじゃぶ醤油をかける。
     漬物にも梅干にも醤油をかけた。
     その癖をどうも私も受け継いでしまったようで今でも時々女房にたしなめられている。
     
     そんなふうには思わせなかったが、ひょっとすると母の方が父よりももっと好き嫌いがはげしかったのではなかったか。
     母の場合は買う買わないの判断も調理についても一切がその手の内にあったのだから実体は見えずらいが、どうもそんな気がする。

     そんな親たちだったから私も好き嫌いをとがめられたり矯正されたりすることなく育った。
     知性のすぐれた人間には好き嫌いがあって当然だとでも勘違いしていた節もある。
     食物の好き嫌いと人の選り好みとにはなにか関連するものがあるのだろうか。
     どうも非科学的だが無関係ではないような気がする。
     父も母も私も、それぞれに人の選り好みも激しかった。
     一目見て駄目だと思ったらどうにもならなかった。
     それでどれ程、人生を狭くしたかわからない。

     年を取ると好みが変わるというのは本当だ。
     若い頃には見向きもしなかった煮魚がおいしくなった。
     風呂吹き大根だの茄子の煮浸しがうまいと思う。
     そのせいかどうか、人間に対する許容の幅も拡まったような気がする。
     だとすると年をとるのもまんざら悪いことばかりではない。

  • 蟻が10匹  

     もう5年も前のことになるだろうか。
     その年、娘から贈られた父の日のプレゼントは黒い色画用紙を切り抜いて作った蟻だった。
     贈り物はいつ、誰にもらってもうれしい。
     だから、わくわくしながら小包をほどき、中に黒い蟻しか入っていないのを確認したときにはさすがに拍子抜けしたものだ。
     1匹20cm程の蟻が10匹繋がっている。
     ありがとうというシャレはすぐにわかった。しかしいつもはなにかしら気のきいたものをくれる娘がなんとしたことだろう。
     部屋いっぱい蟻を拡げて考えた。
     昔、お手伝い券やら、肩たたき券をもらって喜んだことはある。
     それが当時、娘に出来る精一杯のプレゼントだった。
     親に内緒で一生懸命作ったのだろう。おぼつかない字で書かれたチケットはそれだけでもうれしく、とても使う気にはなれなくて、机の引き出しの奥にしまいこんだ。
     いつかなにかの折、取り出して、まだ有効かどうか確かめてやろう、そんないたずら心で時々思い出してはにやりとしている。
     あの頃は可愛いかった。
     だけど23才の娘の蟻10匹なのだ。
     部屋に閉込って一心不乱に蟻を切り抜いている娘の姿を想像する。
     そして、ふいに思い当たることがあって、不覚にも私は涙ぐんだ。
     娘は学友たちにファザー・コンプレックスを揶揄されていたようだが、私にも自分たちが軽度の共依存の関係にあることには気付いていた。
     もっとも、母親と息子であれ兄弟であれ、度を越さないかぎり家族が依存しあうのは異常なことだとは思っていない。むしろ幸福な家族の証しだともいえるのではないか。
     私たちは雪深い山の中に暮してけっこう濃密な家族関係を築いていた。
     その親ばなれの季節がおそまきながらやってきたに違いない。
     意識したかどうかはべつとして、この黒い蟻は娘の独立宣言と受取るべきなのだろう。
     今こそ笑顔でにぎった手綱を手ばなす時だ。
     何も聞かず愛想よく礼を言ってそれきりではあったけれど以来私は娘との距離感に気を配るようになった。
     これも娘が嫁にいってようやく出来る話の一つだ。
     蟻はもちろん私の手元に大切に保管している。

  • マイ盃

     マイ箸というんだそうだ。
     ハンドバックなどの片隅に自前の箸を忍ばせておいて、レストランや食堂での割箸の使用を自粛する。
     森林保護やエコ運動と連動して、結構なブームらしい。
     間伐材や端材を使うのだから目くじらを立てることもないという意見もあるが毎日大量に破棄される割箸の山を見せられるとしたり顔でそんな発言をするのも躊躇される。
     折たたみのもの、つないで使うもの、最初から小ぶりにまとめられたもの、デパートにはそれ専用のコーナーもあって、見ていても楽しい。
     値段はけして安くはないがやっぱり人前で取り出して得意になれそうな品がそろっている。
     そんな新風俗にはなじめぬと顔をしかめるには及ばない。
     股旅といった時代の渡世人はあっちこっちで一宿一飯の世話にはなったろうが箸は自前ときまっていた。
     万葉の昔、飯を椎の葉に盛ると歌った有馬皇子だって箸は持参していた可能性が高い。
     腹合わせの笄は箸にも使うためのものだったし、なんといったってきわめつけは、古来、乞食は箸と茶碗を肌身はなさず持ち歩く。
     ひよっとすると日本人にはそんな習癖が遠い昔になんらかの理由で遺伝子に組み込まれてしまったのかもしれない。
     男が盃を持ち歩いた気持もわかろうというものだ。
     ついこの間までといっても、昭和が終ってすでに20年もたつのだが、かっては気に入りの盃を錦の小袋などに納めて、袂や懐に男は飲み屋に出かけたものだった。
     女房に帯の余りででも作らせた小袋は使込まれてほどよくくたびれている。
     男は椅子を引き、従容せまらざる手つきで袋の紐をとき、おもむろに盃を取り出す。
     酒と手ずれで鈍色に沈む盃が卓に置かれると周囲の人の目が思わずそれに集中する。さすがにそれだけの迫力がその小さな器にもそなわっている。
     これは魯山人なんだがね、ロクロは豊蔵だと思うんだ。この高台の造りがね、いや、やっぱり豊蔵だ。
     問わず語りに一人ごちながら器に酒を満たす。
     すっかり毒気を抜かれて酔客は静かに口元にはこばれる盃を息もつかずに見つめている。
     ふん、こんなもんが百万円かい、下世話なことを思うのは銚子をとどけたおかみさんぐらいのものだ。
     うん、いい酒だ、一瞬の間をおいて男がいう。
     いい酒だねえ、いい燗だ。
     ようやくほっと場がなごむ。
     いいかげんな年になったら、これぐらいの芸のできる男でありたいものだ。
     しかし、人品、風貌、物腰、態度、そのどれを欠いてもこれはもう絵にならぬ。
     最近盃を持ち歩く場面に出会わなくなったのはそのような度量の男が絶滅寸前の状況にあるせいだろうか。
     盃ならそれほど売る程あるのに残念なことだ。
     男を磨いて、マイ盃、やってみませんか?

  • 書けないときには

     書けないときには書かないと素人なら居直ってしまえばすむのだが、玄人となるとそういうわけにもいかないらしい。
     たしかになりわいがかゝるし、約束をほごにしたあとの応報もこわいものだろう。
     書けないときも書くのがプロだなんて見栄も馬鹿にできないことかもしれない。
     しかし、書けないときは誰だって書けない・・・・・・だろう。
     乾いたぼろ雑巾をいくらしぼったって、水一滴でないようなものだ。
     どのようにドツボが口をあけているのかしらないが嵌れば七転八倒の苦しみをしばらく味わわなくてはならない・・・・・・もののようだ。
     
     作家の随筆でもよくその辺のことを話題にしている。
     締切がきて、なお書けないときは、カンズメということになるらしい。
     通常はホテルの一室に編集者の監視づきで閉じ込められるようだが、いよいよとなると印刷所などとせっぱつまった話も少なくはない。
     他人の監視のもとで書かされるのがどんな気分のものか、私など考えただけでも頭痛がしてきそうだが、それで傑作をものにする人もいないわけではないのだからやっぱりプロは違うということか。

     もっとも、そんなホラ話のようなかたちですべてが落着するわけではない。
     書けないというのは傍で想像するより、よほど深刻な状況らしく、雲隠れ、居留守、虚言、はては原稿の使いまわし、盗作と追い詰められた書き手はおよそ考えられるかぎりの悪あがきをする。
     あげくは神経を病らったり、自殺をしたり、もちろんこんな話にもならない話は当人が書くはずもなく、時効になった後、周辺の人がぽつりともらすことだ。
     
     私は期限の追った依頼原稿をかゝえて、四苦八苦しているところだから身につまされる。
     玄人でなくてよかったとしみじみ思う。
     今夜はどうも物にはならないようだから頭からふとんをかぶって早寝でもしよう。

  • 冬隣

     欠礼挨拶の葉書はどうして、どれも一様に紋切型になるのだろう。
     やんことなく急場を凌ぐものであればわからないでもないけれど、そうでなくても結局、似たり寄ったりのところに落着いてしまうようだ。
     賀状にはひとかたならぬ凝り方をする人であっても、こと喪中葉書となるとなぜか御座成ですませている。
     あるいは故人とのかかわりをできるかぎり寡少にして、早く忘れたいという無意識でも働くのだろうか。
     それにしても葬儀には今日風の工夫をあれこれに凝らすのだから、こちらにも、ひとひねり、独自色を出す努力があってもいいように思われる。
     遺言状のことを考えれば本人手書きのお別れの言葉がとどいてもそれ程驚きはしないだろう。

     10月の中旬にひとしきり降って、そのまま根雪になるかと思われたがいつの間にかぐずぐずと溶けてもうじき12月だというのに陽のとどくかぎりあたりには雪がない。
     雪のないかぎりはまだ冬ではないと思う気持がどこかにある。
     それがなにかちょっとした余裕をうんでいる。
     なんの実体もない余裕。

     今日は、一時親しく付き合っていつの間にかその名残りのように賀状だけのやりとりが続いてきた—-そんな人からの知らせだった。
     義父が亡くなったのだという。
     会わずに過ぎた歳月を数えてみればはるか、十年は越えている。
     互いに還暦も過ぎたなあ、そう思いながらふとお会いしたこともないその義父なる人の冥福を祈っていた。
     冬隣—-日本語にはときどきどきりとするような奥深い言葉がある。

  • 腕時計

     最近では千円でおつりがくるような腕時計もめずらしくなくて、それが信頼性や耐久性、デザイン性でも馬鹿にできないのだという。
     中途半端よりいっそと愛用する女の子も少なくないらしい。
     しかし、いいかげんな年になったらそれなりのものをと思うのも人情かもしれない。
     もっとも、このそれなりのという感覚は難しいがそこらへんの若いサラリーマンにも百万円を越える腕時計をしている者がザラにいるらしいから驚かされる。
     さすが経済大国日本、時代の徒花で終わらないことを祈りたい。

     私は陶芸で生きようと思い定めて、内弟子に入る時、腕時計を棄てた。
     焼きもの屋は存外、手を濡らす仕事が多く、その度にいちいち腕時計を脱着するのもわずらわしかったが、この先、自分は時間に拘束されない生き方をしようという決意でもあった。
     気障と笑われてもしかたがない。
     最初はとまどうこともないわけではなかったが不便を感じなくなるのにそれ程、時間はかヽらなかった。
     日本人は時間に神経質なせいか、いたるところに時計がある。
     自動車にはへたをすると3個もついていたりする。
     ラジオでは30分ごとに正確な時報があるし、日時計、腹時計のたぐいも意識していればまんざら使えないわけではない。
     身に付けるつもりがないからオメガだのローレックスだのにもまるで心が騒がない。
     私は本来こだわるたちでこだわる以上、当然最高をめざすからこういう無関心は精神衛生上もきわめてありがたい。
     焼きもの屋になってよかったと思うことの1つではある。

  • ゆめぴりか賛歌

     農業にはなんの関心もなかった。だから知識も小中学生程度もあったかどうか。
     水田や畑が近所になかったわけではないが親の仕事とは関係がなく、そういう人とたちとの接点もまるでなかった。
     家にも猫の額ほどの畑があり、母親が家計の足しにトマトや大根を作っていたが横目で見るだけでこれといって手伝った記憶もない。
     感心なことに籾を苗代で発芽させ苗まで育てて、水田に移植する、そんな工程は覚えていたが、稲が花を咲かせ受粉して米が出来るという、考えればあたりまえのことが念頭からは欠落していた。
     それがなんの因果か、30才を過ぎてから突然、水田のど真ん中に暮らすことになった。私は陶芸家で廃校になった校舎をアトリエなどに再利用することは当時ちょっとした流行だった。昭和58年の話だからもう4半世紀も前のことになる。

     百姓という本来は美しい言葉がいったいいつごろから蔑称として、使われるようになったものか。その人たちを前にこの言葉が使えなくなって、すでに久しいが私も都市部の生活者として、なんの根拠もない優越をいつか知らず知らずのうちに身にまとっていたのだろう。
     そんな私に農家の人たちは自虐と露悪をもって応じる。
     それは自衛の為に身につけたその人たち一流の韜晦の術であったかもしれない。

     しかしぎくしゃくしたなん年間かのあいだにも農家の人たちとの日常的な接触は続くわけでたとえ敵同士であったとしてもやがてはうちとけざるえなかっただろう。
     それに、冠婚葬祭の度に末席に連なりながらそこでかわされる農作業の話を聞くともなく聞いていると、私にもそんな仕事に対する関心が少しずつ芽生えてくるのだった。
     興味を示して質問をぶっつけると馬鹿にしながらも農家の人たちはけっこう真面目に答えてくれた。
     たしかに馬鹿にされてもしかたがない面もあったと思う。最初の頃の私の質問は一反、何俵取れるかなどといったようなものでそんなことはこの辺では子供だって知っているだろう。
     しかし私は初めて、一反8俵が目やすだが、年により、人によって、6俵から12俵ほどのひらきがあることを知ったのだった。

     関心を持って耳学問を始めると、農家の人たちの話もなかなか面白い。
     こと米作に関しては、それぞれに一家言があって、そこら辺りは識人の世界と変わらなかった。
     農薬の使い方、天候への対応にも一人一人の工夫があるが昼夜の温度差にあわせて、水田の水の張り具合をかげんするというような話は私をちょっと感動させた。
     北限の米作りの苦労を知ると、うまい、まずいのはなしではなくなった。
     以来、私はなんといったって、身元のはっきりした道産の新米だよとことあるごとに吹聴している。
     
     もっともかっては猫またぎと揶揄された北海道米の食味が飛躍的に改善され始めたのもその頃からだ。
     きたひかりあたりがその嚆矢になるだろうか。
     バイオテクノロジーの発達で改良の速度もあがった。
     地球温暖化もこと北海道米に関しては非常に有利に作用している。ゆきひかりなどもう十分に本州米と肩を並べていたのではないか。
     そうして、平成元年(1989)デビューしたきらら397はそのネーミングのよさもあって堂々全国区のブランド米の地位をしめた。

     ささにしき、こしひかりなどたしかに優秀な米なのだろう。しかし流通の過程でまぜ米をくり返して、わけのわからない米になったものが本来のうま味を保持しているわけがない。
     私は気心の知れた身近の農家が丹精した米を玄米の状態でわけてもらう。それを小型の精米機で毎食ごとに精米して食べている。
     その米の食味になんの不満もない。
     今、私のもらっている米はおぼろづきだがこれだってなかなかうまい。
     どうも、きらら397とゆめぴりかの隙間で継子あつかいされたようで不憫な気がする。

     さて、ゆめぴりか、数年前から噂には聞いていたが今年いよいよ作ずけが始まるとあって私も大いに期待していた。
     本州のブランド米に、優るとも劣らないという、まさに夢のような北海道米だ。
     しかしこの気候だった。
     残念な結果だったがしかし逆に考えればこのような状態でもなお、そこそこの収量を確保したことは農家の人たちの殊勲ではなかったか。冷害をくい止めた栽培技術の進歩を私は素直に評価したい。

     米という字は八十八と書く。それだけ手数がかヽるのだと教えられた。
     しかし人によると稲は穂にたくさんの花をつける。それで八十八だという。聞けばこの意見も棄てがたい。
     稲の花はゆかしいものだ。足を止めてながめるような花ではないが、たとえば一つの水田で何万、何億という花がいっせいに開花する、その様子を想像すだけでも自然の偉大さに心ふるえるものがあるではないか。
     燦々とふりそそぐ太陽の光の下で、何万、何億という稲の花がいっせいに開花し、花粉をとばして受粉する。来年の初夏にはそんな光景をきっと見ることが出来るはずだ。
     希望しよう。
     ゆめぴりか!

  • 霍乱

     朝、起きるとはげしい眩暈がして立っているのも困難な程だった。小用をたすにも支障をきたすぐらいで吐き気もある。
     とりあえず這うようにしてベットに戻った。
     ベットに臥すと小康を得るがそれで納まったかと起きあがるとやっぱり目は廻る。
     なんのことはない、若い頃にさんざん味わった二日酔いのひどいやつ、その状態にそっくりなのだがしかし、前夜思いあたるような酒の呑み方はしていない。
     しようもなくベットでうつらうつら時間を過すと、夕方になって回復した。
     ひょっとして一滴二滴のアルコールさえ分解できない程、肝臓がやられてしまったのかと考えて厭な気分になったがそれならそれでもっとほかにも症状が出るはずだと自分自身にいいきかす。
     そんなことが二三週間前にもあって、これが二度目だから女房が取り乱すのもわからないわけではない。

     特に摂生するわけでもなく長い間ほったらかしの体だから、検査をすればあちこちに不具合は見つかるだろう。
     知らなければそれまでだが知ったとたんに病人になる。
     そういう頭があるから私はぐずぐずするわけだが女房と争っても勝てるはずもない。
     翌朝、指示されるままに知り合いの看護師さんに電話で相談すると当然すぐにでもこいという。
     脳に原因があることだってあるなどと驚かされて、ついに重い腰を上げるはめになった。

     実にひさしぶりの病院だった。
     前回はいつだったかと考えても、すぐには思い出せないぐらい昔のことだ。
     二、三時間は待たされるものと覚悟して本をかヽえて出かけたのだが待合室は人もまばら、待つ程もなく順番が来た。
     医師も看護師も妙に人当たりがやわらかい。どうも待たされ、引きまわされて、叱責されるという記憶の中のイメージとは違うようだ。
     なぜそうなったのかわからないがよく替わるにはこしたことがない。
     血圧、血液、心電図、脳のMRIと一通りの検査を受けることになった。

     翌日、結果を聞きに再び病院へ、いかに世に擦れたとはいえさすがに合否の発表を見に行く受験生程度には緊張する。
     しかし、なんとしたことか、血液、心臓、脳、いずれにもなんの問題もなかった。
     ついた病名は「良性発作性頭位目まい症」。耳鳴り、難聴、ことばの障害、手足のしびれ、意識障害、生命にかヽわることはありませんということだった。
     拍子ぬけとはこのことだろう。脳に異常がないとわかったのはちょっと喜しかったが、まったく人驚せな。
     特別な治療法もないとかで、うまく症状をあやしながらなれていくしかないのだろう。
     とりあえず、もう少し、世にはばかることになった。

  •  北海道の秋景色が本州と比べて、なにかものたりないのは柿の木がないせいかもしれない。
     本州の山里では枯山水に柿の実がぽっりと一つ色を添えてえもいわれぬ風情を醸す。
     もっともあれは偶然ではなく、あえて一つ残すのだそうだ。木守というそんな風習をいつ、誰から聞いたのだったろう。
     鉄斎の水墨画には一点、二点と朱をさすものがあって、それがまたよく画面を引き締めるがこの技法なども、そんな風景に喚起されたものではないかったか。

     柿にも思い出すことはある。
     若い頃、一時京都に住んだが、その間知り合った名古屋の男と毎日のように酒を呑んだ。
     下宿のあった一乗寺界隈には庭に柿の木を植える民家が多く、白らじらと明けかけた朝、蛮行の余勢をかって、よく垣根越しにその実を盗んだものだ。
     まだ充分に熟さぬ小さな柿の歯こたえは青春そのものだった。
     品種は一千程もあるといわれるが、あの小ぶりの柿はどんな種類のものだったのだろう。
     熟するとそこはかと甘く、鄙びた味がした。
     塀をはみだしたものには法的な所有権が及ばないという屁理屈の用意はあったが、一旦始めた狼藉がその枠の中で収まるわけもなく、見とがめられずにすんだのは、ただ、ただ幸運であったと思う。
     京都を離れて以来、音信もとだえたままだがあの男も還暦を過ぎたはずだ。どんな人生を送ったものか、なつかしい。

     娘がパタパタと結婚していき、柿の木のある家の親戚ができた。
     おいしい実がつきますと夏に会った時に聞いたから、ひそかに期待していたが、思惑通りそれが到来した。
     野趣を残したきりっと果肉のつまった柿だった。富有柿に似ているが花萼の跡が四辺にくっきり残るからまた別の種類かもしれない。
     甘すぎず歯こたえがあって、柿らしい味がする、いかにも私ごのみのものだった。
     まさか鐘は鳴らないが柿を喰いながらも想うことは想う。
     もう親に出来ることは心配するぐらいのものだがいくつになっても子供は子供だ。
     大阪に所帯を持った娘はいま、いかにあるか。

  • 夢を話せば

     本当は船乗りになりたかった。
     山育ちだからと単純に合点してもらってはこまる。そういう理由もないわけではないだろうがもっと心の奥に要因はあったのではないか。きっと心理学者なら興味ある分析をしてみせるだろう。
     努力する以前に障害があるのだから、それは初めからかなわぬ夢で、しかし、おかげで夢はかえって純粋に長く保持されることになった。
     黒い海賊、宝島、海と船の物語ならみんな好きだが、特に海底二万マイルはお気に入りだった。
     優雅に孤独で全能感のあるネモ船長は私の理想の男だった。

     夢のまた夢ではネモ船長になりきれたが夢の中の現実では私は商船士官になる。
     前後2基のデリックを持つ三島型の古い貨物船。船体は当然黒で三島の上部だけが白く塗り分けられている、
     煙突には誇らしげにファンネルマーク。
     号笛が鳴り、舫網がとかれ・・・・・・。

     しかし無念なことに私は船に弱かった。
     中学校の修学旅行でそれを思い知らされる。
     たかだか、津軽海峡を渡る4時間がもたなかった。
     七転八倒、船に弱いということはそれでしっかり頭に刻み込まれたがそれでも船が嫌いになったわけではない。

     青函連絡船にはその後幾度となく乗った。
     酔うんじゃないかとおっかなびっくり、どういうわけかなんともないこともあったけれど、こらえきれず甲板越しに海に向かって吐いたことも一度や二度ではない。
     酒に酔っていれば船酔いはしないといっけんもっともらしいことを吹き込んだのは誰だったろう。なる程と思って実行してひどい目にもあっている。
     それでも船が嫌いになれなかったのだからしつこいといえばそうとうにしつこい。
     そうして極め付けには太平洋を船で渡る。

     地球儀で東京をおさえその真逆を見るとブエノスアイレス、よしアルゼンチンに行こうと思った。
     23才、私は自分にも愛想をつかしていたが日本も厭でしかたがなかった。
     死ぬのだったらどこでも死ねる。とにかく日本から一番遠いところに身を置こう。
     あるいはそんな大袈裟な船旅がしてみたかっただけのことだったかもしれない。

     横浜からハワイまでの7日間は船酔いがひどくてほとんどベットを出られなかった。
     ホノルルでも大地が揺れた。
     しかしハワイを出るとそれっきり嘘のように船酔いは納まった。
     なぜだろう。自分の身体がそれ程、順応性が高いとは信じられなかった。

     もともと船のテーブルには四辺に張りをつけて落下防止の工夫がされているが海が荒れるとさらと食堂の白いクロスは水で濡らして広げられる。皿やコップがすべらないようにする為だ。
     中天に持ち上げられると次の瞬間には海の底に船は吸い込まれている。
     船窓いっぱいに波が拡がり、これでどうして沈まずにいるのか思案する間もなく、再び船は中空に放り出され、スクリューの音がカラカラとむなしく響く。
     いつもは満員の食堂もほんの数人が席につくだけ。
     今日はちょっと揺れてるものね。
     青白い顔のボーイに無駄口をたゝいたりしていい気持だった。

     船はいい。
     後年、私は夢を棄てきれなくて、息子を船乗りにしようと試みた。
     深慮遠謀を重ねなんとか商船大学を受験させるまでにはこぎつけたのだが残念ながら第一志望の大学に合格してしまい私の夢は水泡に帰した。

     小樽だの留萌だのには、時々思いがけない船が入港する。
     若い頃にはその度に見学にとんでいったものだが今はもうその体力も失せた。
     細ぼそと船舶関係の図書を収集することがかろうじて夢の名残りだ。
     人生なんて空しい。

     もう一度、人生がやり直せたらという問がある。
     そんな空想を楽しめるのはきっと幸せな人だろう。
     この人生を破綻させずになんとかここまで辿り着いた。これで私はもう充分だ。
     しかし船乗りだぞと唆されたら、やっぱりちょっと悩むかもしれない。

  • 女友達

     ひょっとすると、そんなことになっても、おかしくなかったはずなのにそんなことがなかったおかげでいまだにいい関係が続いている女友達がいる。
     幼い頃には近くに住んだがたいして口をきいたこともなかった。もっとも近所に数多くいた似たような年恰好の子供たちの誰とも親しまなかったから私にとっては特別なことではない。
     中学で初めて同じクラスになって、どういう風の吹き回しか気を許すようになった。おたがい恋愛の対象は別にあったから本当に仲がよいだけの仲だった。
     相手はすでに女組のボスのような立場だったが私というあぶなげな存在に母性本能がくすぐられたものだろうか。
     すでに顔もでかいが態度もでかく、こういう人に憎まれたらさぞ怖いだろうと思われた。実際、独善的な張り切り方をする新任教師を睨み倒した実績ももっていたから私には心強い姉のようなものだった。
     彼女を紹介されたり、まあなにかと世話になったものだ。
     それでいて私を自分の恋愛対象と考えたことは一度もなかったはずだ。
     その件ではいまだに感心させられる。私なんかに関わったら苦労かたえないとわかっていたのだろう。さすがに見るべきものは見ている。
     その時々で多少の濃淡はあったが以来ずうっとそんな関係が続いてきた。
     女房とも当然旧知の仲で家に来ると、私をさておいて、更年期の話なんかに熱中している。
     その辺の芸が男にはなかなか出来ないところだ。
     数年、舅、姑の介護で大変だったらしいがようやく開放されたとかで先日、酒を呑む機会があった。
     ほろっと酔って、そういえば俺たち近所だったのに一度もお医者さんごっこなんてしなかったな、ちらっと下ねたをふると、なに、そのうちに寝たっきりになったら一度ぐらいはおむつを替えにいってあげるからとかるくいなされた。
     どうも最後まで一人前のあつかいはうけないらしい。

  • 花の名前

     花の名前を覚えようとしたことがある。日本の詩歌を正しく観賞しようと思えばそれは必要なことだと思ったからだ。
     たとえば万葉集、およそ4500首の内に植物が読み込まれたものが3分の1をこえる。桜、梅、椿など日本人として生長するうちに当然のようにすりこまれるものもあるが中には生まれて初めて聞くような名前も少なくない。文学を学ぶ者としてこれではあまりにもなさけないではないか。私は若くて純粋だった。そうして、かくのごとく志は正しく高かったのである。しかし、その方法において私は決定的なあやまちを犯した。
     すなわち受験勉強方式に植物図鑑の丸暗記をこころみたのだ。
     そのようにして覚えた英単語が実際にはなんの役にもたたなかったように私の知識は野山に出るとほとんど用をなさなかった。そのトラウマがある。野花を見てパッと名前をいえる人には年がいもなく嫉妬する。
     女房は朝昼のワイドショーにしか興味がないのかと思っていたら近年、フィールド派に変身した。庭に出て汗だくで土を耕し草花を植えたりしている。それが楽しくてたまらなくなったという。
     「お父さん、これ、これね、おみなえし」
     私は暇にまかせて知識を蓄積すること半世紀、すでに雑学百般、人後に落ちることはないと自負していた。
     それを今更、なぜ、こうして女房の後塵を拝さなければならないのだろう。
     深く天を恨むしかない。

    (北海道新聞 朝の食卓 2009年9月25日掲載)

  • 靴のことなど

     靴を選ぶ女房の姿を見るのが好きだ。
     履きごこちをたしかめたり、鏡に写して様子を見たり、色の違うもの、型の違うもの、あれこれととっかえひっかえ迷う姿を見ているのが好きだ。
     私自身がそんなふうにして靴を買うことが出来ないせいもあるかもしれない。無心に靴を選ぶ女房の姿は好ましい。
     女房にうまく取り入りながら店員がちらりと流し目で私の足元を見る。それもいつものことだ。靴屋としての本性が働くのだろう。この亭主はどんな靴を履いているのか、あわよくばもう一足と、そうして見てはいけないものを見たようにあわてて目を逸らし、一呼吸おいて、もう一度私の足元をたしかめたりする。
     私の靴は左右非対称、普通の靴屋ではけして手に入らないものだから店員のおもわくはみごとにはずれ、密かに落胆する様子を確認して私はほくそえむ。
     たしかに私も意地が悪い。靴にはそれだけ苦労してきた。

     靴らしい靴がなんとか手に入るようになったのはここ10年ぐらいのことだ。
     16才、高校生のころから、それまでの間、私はサンダルか、バスケットシューズの後を踏み潰したものを履いてすごした。
     雨の日、雪の日などはいやおうなく踵が濡れて、みじめだったが、それも宿命と思えば甘受できた。うがった見方をすればマゾイズムの影が発見できるだろうか。
     もともと私は小児麻痺の後遺症で右足の第2関節から下に障害があった。それでも指先や足首の機能は不完全ながら残っていて、とりあえず普通に市販の靴を履いて生活していた。
     それが16才の時に受けた矯正手術の失敗でそれらの機能も全廃してしまい、エル字型の棒きれのようにかたまった足を、鉄筋入りの補装具でおゝわなくては歩くことも出来なくなった。

     補装具は義足屋の範疇だが病院で医師の指導のもとで作る。
     高価なもので普通の勤め人の給料、一ヶ月分ぐらいもする。もっとも公的な助成があって当人に金銭的な負担はない。
     しかし、それがよかったかどうか。
     おしきせで与えられる補装具は半年もしないうちにかならず鉄筋が折れてへたをすると修理に1週間もかゝったりする。その間、私は身動きが出来ない。
     靴は靴で補装具の上にしゃにむに履くと足が締めつけられて30分とがまんできないしろものだった。
     これをたいして文句もいわず受領したのは結局、自分の腹が痛むわけではないからだ。

     義足屋に補装具の鉄筋を倍の太さにし、底にも鉄板を張って、補強してくれと注文をつけたのは10年も過ぎてからだ。
     それじゃ重くて使えませんよと義足屋は反撥した。金額は国がきめた額に決まっているし、細工もこちらが想像する以上に大変になるのだろう。
     それを使うのは私だ、私のいいようにやってくれと押しきるにはそれなりの年令も必要だった。
     だがそう改造するとうそのように破損は止まった。ようやく使用と強度のバランスがとれたということだろう。
     30年も使うとさすがに他の部分の劣化がはげしくて、4,5年前、新しいものにとりかえたが鉄筋と底の鉄板はまだびくともしていなかった。

     靴の改善にはその先、さらに20年近くの歳月がかゝった。
     当初、靴も義足屋で作っていると思い込んだのがそもそもの間違いで、それこそ隔靴掻痒、そのものの話だった。ずうっと長い間、こちらの意見が作り手にはうまく伝わっていなかったのだ。
     靴は外注していると知って、相手と直接交渉させてくれとたのんだ。
     すでに私は文句の多いうるさい客になっていたから義足屋はわりとすんなり諒承してくれた。

     その道、その道にはそれぞれに約束事があってそれを破るには非常な抵抗感があるものだ。同じ職人仕事をしているからそこらあたりは私にもよくわかる。
     靴屋にはどうも左右対称に作りたいという無意識が働くもののようだった。

     公的助成でやるのだから何年かに一遍忘れかけた記憶をよびもどしながら微々たる改善を重ねていくしかない。直接注文を付けても、なかなか思うような履ごこちの靴は出来なかった。
     これでは生涯かゝっても納得のいくものは出来ないだろうとあきらめかけてふと思いつくまゝ靴じゃなくていいんだ、この足が入るバックを作ってくれ、バックの底に靴底をはってくれゝばいいんだといってみた。

     実に厭な顔をする靴屋をなんとか説得して仕事にとりかゝらせたがやっぱり靴の概念は棄てられないようだった。
     それでも私の意見を本格的にとり上げてみる気持にはなったようだった。
     今度はうまくいくかもしれないという予感があった。
     そうして予感は適中した。
     あなたの為に木型を一つ造らされてしまいましたよ。
     靴は木型がなくては作れないものなのだそうだ。しかし、なぜそんな話をあえて私にしたのだろう。木型は靴屋にとってそれ程大仰なものなのだろうか。
     それで出来きるなら、もう少し早くそうしてくれていたらよかったじゃないかというがこちらの気持だった。
     
     新しい靴が手に入ったときにはさすがにうれしかった。
     なんども女房や子供たちにどうだと声をかけてしまいにはうるさがられたりした。
     私としてはなかなかいいよといってほしかったのだ。
     なんどでもそんな言葉が聞きたかった。
     靴が一足、二足と増え、夏用だの冬用だののほかに作業用までがあるようになると、さすがに最初の感動はない。
     それでも履く靴がなかった雨の日、冬の日をしばしば思いだす。いつも靴下のかゝとを濡し時にはしらぬまに穴もあいていた・・・。
     靴は男の人格を現すなどと知ったようなことをいったのはいったい誰だったろう。
     私はいまでも 女房が靴を選ぶ姿を見ているのが好きだ。
     迷いに迷ったあげく、最後にこれと決めた靴を履いてどおっとたずねる女房にはうん、とてもいいよと即座に答えることにしている。

  • 雨蕭蕭

     9月。英語を母国語にする人たちでも、やっぱりセプテンバーという言葉にはある種の哀愁を感じるものなのか。
     それとも、親の親の代あたりが初めて聞く異国の言葉にセンチメンタルな想いを仮託した、それを引きずるこの国特有の現象か。
     長月とはいったものだ。たしかに日、一日と夜は長くなっていく。
     またたく間に月も中端、もう夏の気配はない。上着をはおったまま、身体を動かすとさすがにまだ汗ばむが手だけですむ作業を続けていては肌寒い。
     朝のうちは気持のよい青空だったものが、昼を過ぎたあたりから、いつの間にか雨が降り出して空もどす黒い雲におゝわれている。
     息子は商工会・青年部の研修とかで朝から出掛け、女房もついさっき、習い事に出て行った。
     孤り、工房で仕事をしながら、妙に自省的な気分になっている。
     人生。その終盤を可もなく不可もなく過している。
     特にやりそこねたとも思わないが、別のやりようもあったかもしれない。そういう思いはこの先も最後の最後までまとわりついてくるのだろうか。
     未練ともいえぬ程の未練だ。かきまわすとまだほかにもいろいろな澱が浮きあがってくるのだろうがとりあえず、そういう状況にはない。
     晩飯にはちょっとうまいものが食いたい。結局、思考ははそういうところに収斂していく。
     窓の外。目をこらさないと確認できないような細かな雨が、しかししつかりと腰をすえて降っている。
     ガラスに平行して張られた蜘蛛の巣が主の不在のまま水滴を無数にはらんでわずかな風にふるえている。
     遠く深い空の奥を飛行機が飛ぶくぐもった音がしている。
     今日はことさら夜が早いようだ。

  • 闘いすんで…

     政治はショーだとは誰の言葉だったろう。
     へたな芝居よりもというがたとえ上手なものだとしてもこれを上まわる興趣を与えてくれるかどうか。
     心臓に毛を生やした先生としても予想外の危機ともなれば形振などかまってはおれぬのだろう。
     自分の娘のような年齢の対抗馬を口ぎたなく誹謗する元首相。
     日頃の横柄な態度を一変させて泣きに徹する党首もいる。原爆投下もやむなしと宣もうた元防衛大臣を追い詰めるのは薬害肝炎のうら若き女性だ。
     判官びいきの国民の感情をくすぐって、視聴率を稼ぐマスコミのあざとい演出と承知しながらつい引きずられるのは敵役の面々のいかにも小狡そうなつらがまえのせいかもしれない。
     その合間、合間に開票速報が挿入される。展開は速いし密度は濃い。どんなドラマよりドラマチックだ。
     ひさしぶりにだらだらとテレビを観て、はずかしながら翌日の仕事にも影響が出た。

     やれ官僚主導の打破だ、大企業優先政治からの脱却だとかしましいがとりあえず政権が交替するのはよいことだ。
     権力がかならず腐敗するものだとすれば民主主義を担保する上で適当な政権の交替は不可避だろう。
     戦後の日本の発展に自民党の功績がなかったとは思わないが森政権以降のていたらくは目をおヽうばかりだった。
     小泉の目くらましに皆が騙されたときにはこの国の政治感覚に絶望したがどうしてどうして国民もなかなかしたたかなものだ。

     マニフェスト選挙もだいぶ定着してきたようだ。
     あれもやります、これもやりますと今回もずいぶんうたったが政権をとっておいて、選挙が終われば知らぬそぶりはもう通用しないだろう。

     民主党がどこまでやれるか不安がないわけではないが、ただ一つ、首相を止めたら政界を引退するという鳩山由起夫の言葉は評価に値する。
     自民党など子分もたいして残っていないのに元首相ばかりごろごろいてみっともないかぎりだ。これでどうやって解党的出直しができるのだろう。
     小泉はどうしても好きになれない男だったが風の吹きかげんの見きわめはさすがにみごとだった。これだけ日本をがたがたにしておいて、いまだに人気が高いのはひとえに時をえたけじめにあるのだろう。
     そういう点ではご当地の杉村太蔵君も若いに似あわずなかなか鼻のきく政治家なのかもしれない。

  • ちょっと冴えないホラ話

     アルゼンチン。ブエノス・アイレスの街角では花売りや新聞売りにまじってりんご売りが軒を連ねている。
     木工ロクロのできそこないのような妙な機械にりんごをはさんでくるくるまわすと面白いように皮がむけていく。
     ふうん、りんごの皮むきにはいささか自信のある私は目を奪われた。
     しかし近寄ってよく見ると果肉の方も3分の1ぐらいそぎとっている。
     なんじゃい、これは、と思ううちにみるみる対抗心がわいてきた。
     気配を察して袖を引く女房をふりきって1歩、2歩近づくと、おれにナイフを貸してみろ、もちろんスペイン語でそう言った。
     りんごは逆さにして、尻からむく。私が左手にりんごをとって、右手のナイフで皮をむき始めると見る間に黒山の人だかり。ナイフを進めるのではなく刃は軽くたてて。りんごをまわすように、皮を引くように。もっともそこいらはあうんの呼吸だ。
     さすがに緊張はしたが一度も途切らずに皮をむき終えるとやんやの拍手、口笛さえもまじるではないか。
     おっ日本人、すごい、これ手品か、
     手品じゃないよ、日本人、だれでもこれぐらいのことはする、だから、ラジオ、テレビ、車、手で作るものはみんなすばらしいだろ。
     外国に出ると人は愛国者に変わるようだ。
     差し出される手に皮をむいた方をわたして、再びりんごを左手にとる。
     むき始めると皆が息を呑むのがわかる。2個目は緊張もほぐれ最初よりもずうっと手早く、上手にむけた。
     女房が目顔で制止するのを無視してさらに3個目、4個目、そうやって30分も遊んだろうか。
     大喝采の中、屋台を離れようとするとりんご売りがあわてて肩をたたく。
     もういいだろう、礼はいらないぜ、だがよく聞くとりんご代を払えということだった。それにしてもいったい何個分の代金を請求されたことだろう。どさくさにまぎれてずいぶんぼられたような気がする。
     プッタケテパリオ、これは馬鹿野郎というより、もっとひどい悪口だがあえて訳はつけない。
     さすが地球のうら側では常識も違う。
     あとから女房には怒られるやら笑われるやら。
     おかげで今日までどうにも頭があがらない。

    (北海道新聞・朝の食卓 2009年8月22日掲載ブログバージョン)

  • 振りさけ見れば

     陶芸家の看板のせいかどうか、たまに原稿の依頼がある。
     今回は人生をふりかえってというものだった。
     わかる人にはわかると思うが800字は本気で書こうと思えば短すぎ、適当にごまかすには長すぎる。しかしこれがコラムの基本的な字数なのだからしかたがない。

     よい思案もなく机に向う。コラムの場合は最後から始めるという人がけっこういるようだ。おちを決めてから書き出す方式、一瞬その気になって、自分にはそんな芸はないとすぐにあきらめた。

     800字、人生、62才だからすると私の1年は12,3字になるのだろうか。
     この思いつきが気に入って、20罫、20行の原稿用紙の上から13桁目に線を引いた。
     1行目に1月19日誕生と書くともう7文字だ。それで月日は棄てヽ、一、誕生、父美登、母御代子と書き直してなんとか納める。
     2行目、1才9ヶ月、小児麻痺に罹患、後遺症と書く余白はなかった。
     3行目 弟、格、誕生、3月24日、弟の場合は月日も入れる余裕がある。

     こうして書いてみて初めて気がついたことがいくつかある。
     私が高熱で生死の境をさまよっていた時、母は6ヶ月の身重だった。
     そうすると片輪になるぐらいなら死んでくれた方がいいという父の言葉もさらに実感を増す。

     私を養子に出す話もあったと聞いている。父と母の生活が子供をかヽえてなりたたないような状況だったのかもしれない。
     当然それも、病気にかヽる以前の話だったろう。なにも好きこのんで跛の子供をもらおうとする者はいない。

     それでもその人は終生、私を特別あつかいして可愛いがってくれた。私も北野のおっちゃんと呼んでなついたものだ。もし養子にいっていたらと思ったことがしばしばある・・・・・・。

     たった3行のあいだにも、これ程のことがらがあるのにいささかおどろいている。
     残り59行、完成させるとしたらどんなことになるだろう。
     
     800字の原稿は今日はもうあきらめて、4行目4才の自分を想い出すことにしよう。

  • 蜘蛛との闘い

     私はなによりも蜘蛛が嫌いだ。生理的に嫌悪を感じる。嫌悪ではなく恐怖かもしれない。実は蜘蛛という字を使う度に鳥肌が立つ。
     これはもう立派な神経症というべきだろう。
     スティーブン・キングの小説ではないが、前世では蜘蛛の糸に巻かれて生きながら餌にされたのかもしれない。
     
     小学生の頃、自己紹介で嫌いなものはと問われて正直に答えたら、数日後、背中に蜘蛛をのせられて、きゃあきゃあ女子が騒ぐものだから、ふと後を見て、目の先にそれが這っていたときには本当にもう少しで気絶するところだった。
     
     蜘蛛は害虫を取ってくれるのだし、人間には何も悪さをしませんよとしたり顔で意見をされたことがある。自分の異常が気になっていたところでもあり、たしかにその通りではあったのでなんとか蜘蛛と折り合いをつけたいと努力したこともある。

     昆虫の総てが嫌いなわけではない。とんぼだって蝶だってそんな目で見ればけっこうグロテスクな顔をしている。とんぼや蝶には平気でふれられて、蜘蛛がさわられぬわけがない。理性ではそういうことになるのだが、駄目なものはやっぱり駄目だった。

     蜘蛛は夜行性だから、日中は巣を離れて近くの安全な場所に隠れて休む。寝込みを襲ったこともないわけではないがどうも空ふりが多いようでじきに止めた。
     夕方、薄暗くなり始めた頃に巣の中心にもどってくる、そこをみはからって殺虫剤を吹きつけ、昏倒して落下したところを踏つぶす。
     目につくかぎり始末していくと20匹前後にもなるだろうか。
     次の日にもまた同じぐらいの数の蜘蛛が出てきて同じことをくりかえす。
     一度息子にどうしてこうもきりもなく出てくるのだろうと嘆いたら、どこか奥に巨大な親蜘蛛がひそんでいたりするんじゃないかと逆に驚かされて、その夜、厭な夢をみた。
     巨大な蜘蛛が天井からつうっと糸を引いて襲ってくる。
     大声で叫んで女房に起こされて、あヽよかった、もうちょっとで蜘蛛に食われるところだったと話したらしい。
     おかげで夫の権威はますますあやうくなってしまった。

     今年は蜘蛛が少ないような気がしていたが糠喜びだったようでまたたく間に工房の軒は蜘蛛の巣におヽいつくされてしまった。
     4・5間しか離れていないのにどうも蜘蛛にも好みがあるらしく例年セラミックス・ブロック造りの家の方はそれ程でもないのだが、木材をフランス張りした工房の方はとんでもないことになる。
     虫よけに取らずにおいてあるんですかなどと来客にとぼけた質問をされたものだから、あわてて外に出てみて驚いた。
     ここ一両日の間にわくように出現したにちがいない。親戚の法事があってちょっと工房を空けた隙のことだ。
     まいった。これで今年も蜘蛛との闘いだ。
     これから木枯の吹き始める初冬まで蜘蛛の姿を見るかぎり闘いは続く。

  • 待たされ上手

     もしそんな言葉があるとしたら私はけっこう待たされ上手な方だろう。
     1時間ぐらいなら放っておかれてもたいして苦にはしない。
     本があればそれこそ御の字だがそうでなくても、妄想、空想をくりひろげていると時間は思いのほか、早く過ぎる。
     呼びかけられて、いいところだったのにと舌打ちしたくなるような気持で我にかえることさえある。
     時間をもてあますと子供の頃には手あそびを始めたらしい。指しゃぶりの変形でもあったのだろうか、やめろとたびたび親から注意された記憶が残る。
     そんな目に見える癖はいつか消えたが、思考回路でする一人遊びは大人になってむしろ増長したようなところがある。
     だいたいなんだって遊びになる。
     100から7を引いていくのは精神科医が脳軟化症の診断に使ったりするがこれだって、しばらく遊べる。7が終われば6でやっらり8でやったり、200からやったりといくらでも工夫はできるわけで頭をかゝえてうつろな表情をしているからといってかならずしも深刻な悩みがあるわけではない。
     このあいだはふと思いたってことわざとしりとりは出来ないものかとやってみた。
     —渡る世間に鬼はない—言いたい事は明日いえ—縁は異なもの—暖簾に腕押し—と意外に続く。
     しかし続けば続くなりにあきる。
     それで今度はことわざで言葉重ねをやってみた。
     —知らぬが仏—仏の顔も三度—三度目の正直—正直者は馬鹿を見る—知らぬが仏の顔も三度目の正直者は馬鹿を見るとつづけて悦に入ったところで名を呼ばれた。
     立ち上がった瞬間、見るは目の毒ということわざがぱっと浮んだ。
     そのあとにこれは続くと思ったが残念ながら思考は中断せざるを得なかった。
     ひょっとするとまだまだ続けていけたかもしれない。残念。