カテゴリー: 小説

  • 闇の果て (十二)

     ここは弥平さんのお家じゃなかったですかね。
     夜になっても熱気が納まらず、開け放したままの戸から見知らぬ男が顔を覗かせていった。
     弥平は私の父ですが二年前に亡くなりました。
     それじゃ、おまえは誰だ、弥助かい、突然、男はぞんざいな口をきいた。
     怪訝に首を傾げる弥助に男は頓着しなかった。
     おれだよ、おれさ、おまえの兄の精次郎だよ。
     勧めもしないのに男はどかどかと土間に入ると、上り框に腰を下して草履の紐を解き始めた。
     しかし、あいかわらずしけた暮しをしてやがるなぁ、どうだ、そろそろ食い物にも不自由するだろう。

     弥助は最初から精次郎と名のった男にいい印象は持たなかった。
     青白い顔には身を持ち崩した遊び人特有の険がある。こんな時季に村に現れるもの女衒の真似事でもやろうという魂胆ではないか。
     口が妙に軽いのはどこかに本音を読まれたくない意図を匿すからだろう。この男はそうやって世間の裏道を歩いてきたのだ。
     村を飛び出した若者が辿る一つの典型のようなもので弥助もそんな男を幾人も見ていた。
     これはもう人間のくずだ。そうして俺にも同じ血が流れている。

     おい弥助、そんな仏頂面をしていねえで、早く茶碗を持ってこい。俺ぁ今夜、泊るつもりで酒を買ってきたんだ。
     弥助があわてて茶碗を二つ拵えると歯で貧乏徳利の栓を抜いて男はなみなみと酒を注いだ。
     飲め、俺のおごりだ、もうどちらが主人かわからなかった。
     若衆宿を抜けてから、酒を口にする機会がなかった弥助は一杯の酒をもてあました。
     男は手酌でぐいぐいと飲み、勝手に酔っておだをあげた。
     聞くに耐えない法螺話に弥助は半分眠りながらつきあっていた。
     兄というからには兄なのだろう。心の中には多少なりとも肉親に対する思いがあり、それが弥助の感情の歯止めになっていた。
     夜半を過ぎても暑さはいっこうに衰えず弥助の背中にもたえず汗が流れていた。

     朝早く弥助は目覚めた。
     旱魃のせいでこれといった仕事がなくなった今も、やっぱり朝は早くから起きる。それは百姓の習性のようなものだ。
     となりでは男が肌をはだけていぎたなく寝入っていた。
     酒くさい息があたりに充満して胸苦しい程だった。
     一つ屋根の下に男といるのがいかにもうっとうしくて弥助は外に出た。
     ぶらぶらと川まで歩いてみよう。
     夜は目に見えるように明けてきた。
     枯色に乾いた田の稲が一面に広がっている。
     わずかに青味を残すのは雑草ばかりで空さえ枯色に染まっていた。
     
     一生懸命働いてこれがその様だった。
     短かくたっていいじゃねえか、面白ろおかしく暮そうぜ、そう言って、兄は昨夜、弥助をしつこく仲間にさそったのだ。
     それもたしかに一理はある。

     ふと弥助は思いあたることがあって、あわてて家に引き返した。
     あの男、なにをやらかすかわかったものじゃない。
     弥助が土間に駆け込むと部屋の中央に蹲っていた男がぎょっとして振り向いた。
     案の定、片手には外した床板が握られていた。
     兄さん、兄さんは女衒だけじゃすまなくて、こそ泥もやるのかい。
     男は床板を投げ棄てると後へ飛び退いて懐から匕首を引き抜いた。
     弥助もすばやく土間の隅の鎌を掴んだ。
     これで五分と五分、いや体力なら間違いなく俺の方が上だろう、この状態の中で弥助はけして怯えてはいなかった。
     そうしてどれぐらいの時間、睨みあっていたことだろう。
     男は弥助の方からは仕掛けるつもりがないことを見てとると幾分余裕が出たようだった。

     弥助よ、弥助、弥助さん、男は唄うようにいった。
     こんな目腐れ金でおまえは兄さんを殺ろうっていうのかい。
     弥助は答えなかったがその言葉は意外に胸に響いていた。
     ここで兄まで殺したら俺は本当の畜生になる。
     男は一瞬の隙を見逃さなかった。
     身体を丸めると獲物を襲う猫のように飛び込んできた。
     匕首が弥助の体を貫いていた。
     相討ちに持ち込む余裕は充分あった。
    しかし弥助は手の鎌を振り下ろそうとはしなかった。
     せめて兄殺しの汚名だけは避けたかったのだ。
     金はやるがつるの分ぐらいは残しておきな、獄門台もけっこう酷いそうだぜ。
     身体を離して見下す男に弥助がいったそれが最後の言葉だった。

                       完

  • 闇の果て (十)

     半夏生の小祝いが終わると、それを待ってでもいたかのようにぴたりと雨が上がった。
     梅雨明けには早いように思われたが作物は例年になく順調に生育していたし、その時点では誰もがいかほどの不安も感じてはいなかった。
     だがそれ以来、まったく雨は降らなくなった。
     人間とは勝手なもので好天も十日も続くと空を見上げ、そろそろ一雨ほしいものだとつぶやいたりする。
     そんな人情を嘲笑うかのように雲一つない青空の真ん中で依怙地に太陽は照り続けていた。
     気温も鰻昇りでいつの間にかもうすっかり真夏の様相だった。

     稲は田に水気があるうちはとりあえずもつ。しかし、青々と葉を繁らせていた畑のものは見る見るうちに縮んでいった。
     最初のうち村人たちはそれでも川の水を撒くなどしがない努力を試みたのだがそれこそまったく焼け石に水というものだった。
     水を掛けた一瞬だけかすかに生気を取り戻すようにみえる作物だがすぐに以前にも増して萎れていく。
     人々は徒労に絶望して大地にへたりこむしかなかった。
     あれ程、順調だったのにこれはいったいなんの祟りだ。
     杉蔵の祟りかもしれないとは誰も口に出しては言わなかった。
     二十日もすると、溜池の水も底をつき、田にも水が廻らなくなった。
     田が乾き罅割れると、それに引きずられて稲の根も断ち切られる。そうなると田も全滅だ。
     右往左往するだけだった農民も今ははっきりと危機感を抱いていた。

     村役たちが集まり、その場で雨乞いの祈祷の話が纏った。
     村のお祓い事に呼ばれる巫女は決まっていて、四つ先の村まで世話役が馬を仕立てて迎えにいく。
     あんなお祓いなどとてんから否定するものもいたが馬鹿にできない霊験があってころりの時も婆あの祈祷でとにもかくにも収まったのだ。
     真白な髪を伸び放題にのばした顔も姿もまるで猿のような老婆で歯はすべて抜け落ている。
     なにかというと村に来て、護摩を焚き、御幣を振って口寄せをしたから弥助も子供の頃から見知っていた。
     それにしても昔からいっこう姿形が変わらないのが不思議だった。

     触れがあって、鎮守の杜の境内に村人たちは集められた。
     しばらく待つと、夕陽の中、世話役に手を引かれて巫女が、やってきた。
     最前から昂奮した子供たちが人垣のまわりを駆け回っていたがふいに現れた奇態な老婆に愕いたのだろう、そのうちの一人が前のめりにつんのめって、地面にしたたか顔をうちつけると大声で泣きだした。
     ちょうど目の前の出来事でやむをえず子供を抱き起そうと弥助が立ち上がったとき、ふと老婆と目が合った。
     そのとたんだった。
     ぎゃあと叫んで今度は老婆が腰を抜かした。
     なんじゃい、われは。肩に死霊を背負いよってからに。
     指差す手がぶるぶると震えていた。あまりの剣幕に一瞬子供が泣き止んだ程だった。
     まわりの人々は集中を乱された巫女の腹いせぐらいに聞流したかもしれない。
     苦笑を浮べた世話役が老婆をかかえ起すと先をせかした。
     恐ろしや、恐ろしや、呪文でもとなえるようにくりかえしながら老婆が遠ざかるとすぐにまわりは平静をとりもどした。
     ただ弥助の動悸だけはなかなか鎮まらなかった。

     弥助には巫女の言葉が単なる出まかせとは思えなかった。
     視える者には視えるのだ。
     俺にはあの日、峠で殺した女がまちがいなく憑いている。
     そうしておそらく復讐の機会をうかがっているのだろう。
     俺のまわりで人間たちが次々に死んでいくのもあるいはその女のせいだったかもしれない。

  • 闇の果て (十一)

     どこでどう聞きつけるのか村に飢饉の噂が立つとまずやってくるのが女衒たちだ。
     わずかな金で村中の娘を買い漁っていく。
     飢えて死ぬのと体を売って生きるのと、どちらが切ないか判断の難しいところだが、少なくとも親にとっては目の前で子供が瘦せ衰えて死んでいくのを見るのは耐えがたいことかもしれない。
     畔の向うから子供二人をせかせながらやってきたのも商売をうまくまとめて都にもどる女衒の一人にちがいなかった。
     娘二人は姉妹なのか、見知った顔ではなかったが上の方でもまだ十才にはなっていないだろう。
     泣きながら追い立てられていくのを、弥助は眉を顰めて見送った。

     それでなくても弥助の心には不愉快なものが蠢いていた。
     あの日、巫女に言われた言葉が忘れられず考えあぐねた末、とうとう今日、寺に教えを乞うたのだ。
     人は犯した罪を許されることがないのだろうか。
     弥助は人並の信仰心しか持ち合わせなかったがそれでも宗教をまるで無視できる程、無神経ではなかった。
     それなりの修業を積んだ者なのだから、それなりの答は出すだろう。
     しかし思いあまった末の弥助の質問はみごとにはぐらかされてしまった。
     弥助はにがく、寺でのいきさつを思いかえした。

     人目を憚って弥助は村から離れた寺を探したのだ。
     一刻も歩くと見栄えのする寺を見つけたので苔むした山門を潜っておとないをいれた。
     大きな声の返事があって、やがて血色のいい大男が現れた。
     なにか御用かな、和尚の声は鷹揚で人を安堵させるものがあった。
     一つ教えいただきたい、弥助は膝を折って頭を下げた。
     犯した罪はいかようにすれば許されるのですか。それとも許されることはないのですか。
     しばらく、弥助を見下ろしていた和尚がおもむろにいった。
     そうさな、ありがたいお経がある。どんな罪でも許されるというお経じゃ。お布施を持っていらっしゃい。
     拙僧がその経を読んで進ぜよう。

     要は金を持って来いという話なのだということは弥助にも理解できた。
     金か、金なら腐る程あるが、おまえに恵むつもりはないよ、喉まで出かかった言葉をのんで、わかりました、布施を用意して出直しましょう、弥助はもう一度慇懃に頭を下げた。
     馬鹿にした話さ、と弥助は思った。
     金ですむ話なら俺はなにも苦しまないのだ。
     熱風が一吹き頬を嬲った。
     目を上げると女衒の一行は村のはずれに消えようとしていた。

  • 闇の果て (九)

     弥助は夕方になってようやく家にたどりつくとそのまま蒲団に倒れこんだ。
     弥助の症状がなんだったのかは解らない。
     過労か、風邪か、それとも本当に怨霊にとりつかれたものか、とにかく傷を負った獣がひたすら寝て回復を待つように弥助は眠った。
     そうして、弥助の若さはそれに打ち勝った。
     二日目に目を覚ますと、今度は耐えきれぬ程の空腹が襲ってきた。
     弥助は家を飛び出すと裏の畑から大根だの人参だのを手当りしだい引き抜いてむしゃぶりついた。
     どれも喰いごたえのあるものではなかったがそれでもやがて腹はふくれた。
     人ごこちがつくにしたがって意識も正常にもどってくる。
     杉蔵はもうこの世にはいないのだということがしみじみと思われた。
     杉蔵…。
     
     するとそれに引きだされるように杉蔵とかわした最後の約束が蘇がえってきた。
     およねをたのむと杉蔵はいったのだ。
     あの状態で是非がいえるわけもない。
     弥助は引き受けざるをえなかった。
     およねという女を弥助は知らなかった。およねは杉蔵の子を孕んでいるという。
     牛や馬なら仔を孕んだ牝はむしろ儲けものといえるかもしれないが人間の子となると、そんなふうには簡単に割りきれないものがある。
     無責任に引き受けたわけではなかったが忘れていられるものなら忘れていたいところだった。
     しかし思い出した以上もう、そういうわけにはいかなかった。
     およねに会わなくてはならない。
     
     翌朝、弥助は川下をゆっくりとくだっていった。
     おだやかな風が病上がりの頬にここちよかった。
     梅雨晴れのやさしい日差しに稲の葉がそよいでいる。
     今年はどこの田もみな出来が良いようだった。 
     畔の向うでは子供たちが一塊になって喚声を上げていた。鮒でも釣っているのだろうか。
     つかの間の日差しは大人だって嬉しい。
     野良に人影がないのは、どうせ雨と決め込んで、朝寝でもしているか、嬶でもかかえこんでいるか、この時季、百姓はどうしても一息つきたい気持になる。
     仕事はかぎりなくあったが、今すまさなければならないというほどのものもない。
     およねが住むという部落はちょうど村の反対側に位置したからゆっくりと歩くと半刻程かゝる。
     とりあえず会ってみての話だと弥助は思っていた。
     相手が望むなら嫁にするのも止むを得ないだろう。
     どうせ、俺の人生、そんなところだ。
     杉蔵のたのみだといえばおよねは心を動かすだろうか。
     だが、二人の間にいつも杉蔵が介在するのも億劫だ。
     まあ会いもしないうちからあれこれ算段したところで始まらない。
     ここらあたりがおよねの住む部落だろうと見当をつけて近づいていくとうまい具合に家の外に女が立っていた。
     吉兵衛さんのお宅はこの辺ではないでしょうか、弥助はおよねの父親の名前を出して尋ねた。
     背伸びするようにして、先方を窺っていた女はそれでようやく気付いたように今度は弥助に目を移した。
     お弔いのお客さんかいと女はいった。
     おそいねえ、今、お棺が出るところだよ。
     ほら、あそこの人だかりが見えるだろう。
     吉兵衛さんのところで、どなたか亡くなられたんで、弥助は気忙しく聞いた。
     およねちゃんさ、若い身空で因果なことだ、石見銀山、呻ったそうだよ。
     
     笹ヶ谷鉱山の砒石で製した殺鼠剤を俗に石見銀山と呼ぶが闇では堕胎薬としても用いられていた。
     しかるべき医師がしかるべき時期にしかるべき量を処方すればあるいはそれなりの効果が望めることもあったのだろう。
     しかし、素人が訳も解らずに飲むのは自殺行為にほかならなかった。
     およねは子を堕したかったのか、それとも死にたかったのか、あるいはもう、どうでもよかったのか。
     俺がもし寝込まなかったら、あるいは事態は変わったものになっていたかもしれない。
     弥助はついに会うことのなかった杉蔵の女を思った。

  • 闇の果て (八)

     刑場を出ると弥助はひたすら帰路を急いだ。
     とにかく一刻も早く家に帰りたかった。
     家に帰って眠りたい。
     しかし気は急くのだが足は思うようには運ばなかった。
     どうしたことだろう。一歩一歩が宙を踏むように心許無く身体は一向に前には進まないのだ。
     いいようにない無力感が弥助に伸し掛かっていた。
     体力には自信がある弥助が初めて経験する感覚だった。
     疲れたのだ。少し疲れ過ぎたのに違いない。
     丸一日、雨の中を歩きまわったようなものだ。知らない町をあちらこちら訪ねて歩く気苦労も馬鹿にならない。
     そうして杉蔵との対面ではどれ程、緊張したことか。

     雨は夜が明けるにしたがって、幾分小降りになってきたようだがそれでも濡れそばった衣服が乾くというわけではない。
     ふいに寒さを感じると思わずくしゃみが出た。
     続けてもう一つ大きなくしゃみをすると弥助は鼻をすゝった。
     そうだ、風邪をひいたのだろう。
     杉蔵とどれ程の時間じっと雨に打たれていたことか。
     あの時は寒さを感じる余裕もなかったがやっぱり身体は冷えていたのだ。
     冷えと疲れでどうやら風邪をひいたようだ。
     弥助はもう一度、くしゃみをすると鼻をすゝった。

     しかし意識は避けようとする方向へ結局、引き寄せられていくようだった。
     俺は怨霊にとりつかれたのではないか。
     あの河原には不本意に生命を断れた人間たちの怨念が満々ているはずだ。
     人が近づきたがらないのはやっぱり、それなりの理由があるからだろう。
     怨霊にとりつかれる話は弥助のまわりにも掃いて捨てるほどある。
     そんなおどろおどろしい話は聞き流すことにしていた。自分には関係なかった。
     気の小さい奴、体力の弱った者がとりつかれるものだと思っていたのだがなにせ、俺はあの場所に長く居すぎた。
     すると俺もじきに死なねばならないのだろうか。
     そうなっても仕方無いだけの経緯はある。
     弥助は自分が手がけた女の死顔を思い出そうとした。
     目を剥いて死んでいたはずだ。
     せめて俺は目を閉じて、手を組ませてやってもよかったはずなのに、そんな余裕はまるでなかった。
     いつか涙がにじみ出ていた。
     かわいそうだ。あの女も俺もみんなかわいそうだ。

     だが弥助のまとまった思考はその辺までだった。
     あとはとりとめのない想念が断片的に浮ぶばかりでそれも長くは意識に残らなかった。
     ふわふわと弥助は前のめりに泳ぐように歩いていた。
     小雨の中、ぼちぼちと人が往来に現れ始め、町は目覚めようとしていた。
     職人たちが足早く往きかい、物売りは声を張り上げている。
     だが弥助を見ると誰もがあわてて路をあけた。
     人は引かれ者でも見たようなつもりだったかもしれない。
     弥助はうすく笑うような反応をした。
     それさえも意識にはない状態だった。
     泣きながらうす笑いを浮べ弥助は歩いていく。
     ただ帰巣本能のようなものだけが弥助を前に進めていた。

  • 闇の果て (五)

     弥助は十九才になっていた。
     春、畔の縁の雪が融け、桜が散り、郭公が鳴き始めると百姓の血は騒ぐ。
     待ちに待った田植えの季節だ。
     夕暮れどきなど、すでに目の前に海とみまごうばかりの景色が広がっている。
     秋の実りを思い描いて気がはやるのはなにも弥助にかぎってのことではない。
     水を張った田はおだやかに輝き、蛙の声も夜毎に大きくなっていた。
     もう少し、水が温るむといよいよ苗取りも始まるだろう。

     そんな矢先のことだった。
     城下から役人が配下を引きつれてやってくると庄屋の屋敷に陣どった。
     先だって峠で起った殺人の取り調べだという。
     さすがに弥助の心もざわめいたがそれはほんの一時のことだった。
     あれはもうずいぶん昔の出来事だ。そもそもが誰も知らない。じっとしていればそれですむのだ。
     もっとも弥助は自分が人を殺したことを忘れていはいなかった。
     なにかの折、それは突然甦って、弥助を嘖んだが、じっと静かに暮らしていると、その波紋は小さく間遠くなることをいつか経験的に知っていた。
     そうして、目立たぬようにひっそりと暮らすのは弥助の性格にも合っていたのだ。
     傍らで眺めていればみなやがては過ぎていく。

     役人が事件について、おざなりなことは弥助はよく知っている。
     しかしこの度はどうも本気のようだ。
     一罰百戒のつもりかどうか、たまに役人はこんな大鉈を振ってみせる。
     なに殺されたのがたまたま隣藩の御用商人だったからさとしたり顔で話す者もいた。
     隣藩から事件の解明をせかされて巳を得ず奉行所も重い腰を上げたのだという。
     殺された男は伴を連れずに歩きまわるのを癖にしていたがなんでも藩の懐具合を左右する程の大物だったそうだ。だからうとましく思う対立派に殺されたという噂もまんざらでまかせでもなかったかもしれない。
     たしかに帯刀した壮年の男を村の者が襲うなどとは考えづらいことだった。
     だが役人たちは村に乗り込んできたのだ。

     翌日、村人たちは呼び出されて一人ずつ庄屋の庭先で尋問を受けた。
     当然、弥助も例外ではなかった。
     襷、鉢巻に棒、刺股をかまえた捕方に周囲をかこまれ弥助もさすがに緊張したが、吟味そのものはむしろ気抜けする程ゆるやかなものだった。
     もっとも一ト月も前の行動を克明に覚えている方が不思議なくらいのものだ。
     弥助はこの件には関わりがなく、その意味では気持にもゆとりがあったがしかしこんな調子でらちがあくのかという疑問は残った。
     だがそれで農作業はほぼ一日遅れたわけだ。

     二度目の呼び出しを受けたのは中一日おいてのことだったがその時、集められた農民たちはあきらかにいらだちを匿さなかった。
     仕事の予定は狂うばかりだ。
     百姓に米を作らせないのなら死ねというのと同じことだろう。
     役人はそうやってゆるゆるとかまえていてもなんとかなる。
     しかし役人たちの食事や接待もみな村の掛りだから貧しい村では馬鹿にならない負担だった。
     弥助にはようやく役人たちの魂胆が透けて見えたような気がした。
     こうして、百姓たちを追い詰めれば仲間うちの結束は崩れやがて密告者の一人や二人、現れるに違いない。
     密告、この言葉が思い浮かぶと、弥助は落着きを失った。

     あれはいくつの時だったろう。
     親たちがはばかるようにひそひそ声で話していたのをふと目を醒した寝床で聞いた記憶がある。
     子供心にも衝撃だったから弥助は今も覚えていた。
     村の為だ、かわいそうだがしかたがない、そう父親ははっきりといった。そうして翌日、たしかに村の男が一人、城下に引かれていったのだ。
     罪のない者に罪を着せる、ひょっとすると今度もそんなことが起きるかもしれない。
     いざとなれば真犯人などどうでもいいのだ。
     いったん犯人と目星をつければあとはどうにでもなる。
     逆さ吊り、石抱き、水責め、過酷な拷問に耐えきれず誰れもが身に覚えのない罪を白状することになる。
     とにかく犯人さえ挙れば役所の面目はたち、村には平静が戻るのだ。
    そこにまで考えが及ぶと弥助はいかに自分がこころもとない立場にいるかを思いしって怯えずにはいられなかった。

     親も嫁も子もいない自分を犠牲にしたところで、誰に不都合があるはずもない。まして俺は嫌われものだ。まんざら身に覚えのないわけでもない。
     皆の心にそういう思惑がわくだろう。誰かが一言口走ればそれで決まりだ。
     今ごろはそんな讒訴が庄屋の庭先で行われているかもしれない、そう思うと弥助はいてもたってもいられない気持だった。
     二晩、三晩と、眠むれぬ夜が続いた。
     眼を真赤に充血させて、いっそ自分から罪をかぶって出てやろうかと弥助は思ったりした。
     その方がどれだけ楽になることか。
     そんな時だった。
     犯人が捕まったと弥助は知った。
     人の目も憚らず、弥助はその場にへたりこんだ。

  • 闇の果て (六)

    (六)
     杉蔵は川向うの部落の小作農家の次男だが、身体が弱いこともあって、ずっと親元を離れずにきた。
     長男がすでに嫁をとって、親のあとをついでいたから、さぞ肩身のせまい思いで暮らしていただろうことは想像がつく。
     弥助は杉蔵のうらなりのような青白い顔を思い浮べた。
     たしか、年は一つ二つ上ではなかったか。
     部落は子供にとっても一つの集団でなにかというと他部落の子供たちとは反発しあっていた。
     一人で他所の部落を通り抜けるの憚られたし、まず無事ですむことはなかった。よくてなにかをゆすり取られる、悪くすれば袋叩きにあってもおかしくなかった。だから益々、仲間内の結束は強くなる。

     川向うといえば恰好の喧嘩相手で川をはさんでよく石合戦などやったものだ。
     互いに悪口を囃しながら石をぶつけあう。
     目を逸さなければめったに当ることはないが、だからといって油断するとひどい目にあう。
     弥助の後頭部には今でも削ぎ取ったような小さな禿が残るがそれは石を食らってできた傷だ。
     あの時は一瞬、死ぬかと思った。尋常な痛さではなかった。
     おびただしい血が吹き出したからまわりの子供たちも度肝を抜かれた。
     誰かが親を呼びに走り、あわてた親が駆けてきて、しかし布切れで傷口をかたく縛って、一晩眠るとそれですんだ。
     頭部の出血は見掛けほど怖れることはないのかもしれない。
     その頃の印象がまるでないのは杉蔵はよほど目立たない子供だったからだろう。
     大きくなるに随って、さすがに顔を合わせると啀み合うということもなくなったが杉蔵は人を認めると遠くから脇に寄って、伏目がちに擦違うのを常とした。
     声をかけると愕いたふうに目を見張っておどおどと返事をかえす。面白半分に大声をかけて杉蔵を愕ろかせては喜んでいた自分がにがにがしく思い返された。
     あの杉蔵に人殺しなど出来るはずがない。それは弥助の確信だった。
     
     役人が得意気に杉蔵を引っ立てて城下に帰っていき、村にはようやく平静が戻ってきた。
     遅れた農作業を取り戻そうと皆が必死だった。
     米作りには仕事が遅れると、その分、刈入れが遅れるというだけではすまないところに難しさがある。
     たとえば苗は梅雨前にはきちんと根を張っていなくてはならない。
     そうでなければ雨に叩かれた苗は浮き上がり、横に倒れ、やがて腐る。
     そんな知識は当然、弥助にもあったが今一つ仕事に集中できないのは杉蔵のことが頭を離れないせいだ。

     自分の身代わりにされたのだという思いはむしろ、日を追うごとに強くなっていた。
     そういえば杉蔵は笛が上手な男だったと、そんなことがふいに思い出された。どこで覚えたか知らないが神楽の囃方には欠すことができなかった。
     ころりが流行ったあと神楽の囃方も補充しなくてはならなくなって弥助も世話役に拝み倒されて、一、二度その練習に顔を出したことがある。
     杉蔵は若い娘たちに囲まれて、楽し気に篠笛を吹いていた。
     弥助は誰が見ても笛に向くとは思えなかったようで最初から太鼓方に回されたのだがそれにもまったく関心が持てなくて、ほうほうの手で逃げ出した。
     その後、二度とお呼びがかゝらなかったのは誰れもが弥助にそれ以上の期待は持たなかったせいだろう。
     杉蔵の奴、と弥助は思った。
     今ごろは過酷な責めに泣き明かしているではないだろうか。

     杉蔵の処刑が決まったという噂がぱっと村中に拡がったのはようやく田植えがすんで一息ついたころのことだ。
     死罪は免れられないとは、当初から誰もが思っていたが鋸引きとは極刑だった。
     かっては実際に首を鋸で引き落としたこともあったという。
     だがその凄惨な刑罰はさすがに長くは続かなかった。
     今は極刑として名前を残すのみだ。
     後手に縛ったまま、罪人を檻に入れ、目の前に竹で造った鋸の見立てを置いて三日晒す。そののち磔、極門というのがきまりだった。
     本物の鋸から玩具のような代物に替わったのも、あえて檻に入れるのも無惨な悪戯から罪人を守る為の処置だということは知る人は知る。
     それでも処刑されるものは三日間、死の恐怖におびえながら縛めの苦痛に耐えなければならない。

     杉蔵の奴と弥助は思わずにはいられなかった。
     今ごろは身の置きどころもなくへたり込んでいるに違いない。
     あいつがつるなんて気のきいたものを隠していったはずもない、だがつるという言葉に思い至ったとき、弥助にはひらめくものがあった。
     そうだ、せめて俺がつるをとどけてやろう。金ならある。けして手をつけようとはしなかった金だが今こそ使うべき時だろう。あの時の金がこんなふうに役立つ皮肉を弥助は複雑な気持で思った。

  • 闇の果て (四)

     弥助には兄弟が四人いた。
     一番上に姉、中二人に兄、そして妹だ。
     しかし弥助に上、三人の記憶はほとんどなかった。
     すぐ前に育たなかった兄と姉が一人ずついて、それで年が離れている。
     姉は早くに商家に奉公に出て、そのうち同じ店の奉公人の一人と結婚するとそのまま城下に居付いてしまった。
     二人目の子は女だったとか、手代の連れあいが番頭に出世したという話をたまに風のたよりが運んでいた。
     しかし十里の道を越えて姉がやってくることはなかった。
     姉には農家の暮しは二度と目にしたくないものだったのかもしれない。
     二人の兄もやっぱり百姓の仕事が身に付かなかった。
     ある日、ふらっと村を出て、それっきり、戻らなかったという。
     死んだものか、生きているのか、兄たちの話はまるで親の口にのぼることはなかった。

     老いの目立ち始めた親たちはいきおい、弥助を頼るようになる。
     弥助も親の期待を裏切らなかった。
     背は伸びなかったが肩幅の広い牛のような体格でいつの間にか一人前の仕事をこなすようになっていた。
     弥助は野良の仕事が厭ではなかった。
     同じ種をまくにしても、手のかけかた一つでまるで違う結果になる。そういう工夫が面白かった。
     芽が出ると嬉しかったし、花が咲くと心がなごんだ。
     身体中の汗を絞り出すようにして働いたあとのすがすがしさを魂の悦びとして感じとることもできた。
     心の底にはけして人には明かせない重い秘密があって、時々それが意識されると殻に閉じ籠って、やりすごさなければならなかったが普段の弥助は働きものの気持のいい青年だった。
     年がいってからの子は可愛いいと世間はいうが、弥助の親たちもやっぱりそのようだった。
     親たちは五つ下の妹にはなにをさせようというつもりもないようだった。
     仔犬でも飼うように好き勝手に遊ばせていた。
     それをいいことに妹はいくつになっても家のまわりを跳びはねていた。
     少し知恵がたりないようにもみえたがあるいは無意識のうちに、いつまでも子供でいたいと願ったのかもしれない。
     甲高い声でよく笑った。
     弥助も妹の笑い声を聞くのが好きだった。

     弥助が十七才の年、このあたり一帯にころりが大流行した。
     村からもずいぶん死者が出たが弥助の親や妹もそれであっけなく死んだ。
     一人残された弥助は陥穽に落ちた野獣のように暗闇でもがいた。
     なぜ、こんな目にあわなければならないのか、祟りという言葉が浮んだがそれならばなぜ直接自分に祟らないのか、自分の想いを表現する的確な語彙を持たなかったから、その分弥助は苦しんだといえるかもしれない。
     なにをする意欲も起きなかったが二、三日が過ぎると、しかしそれでも腹はへった。
     食うことのために気がまわりだすとその分哀しみは確実に薄らぐ。そうしていつだって、食い物は安易に入手できるものではなかった。
     食い物を求めて足掻くことで弥助はいつか絶望の陥穽を抜け出していた。

     しばらくすると部落の世話役が二人、連れだってやってきて、嫁をとれと弥助に推めた。
     隣の部落にやっぱりころりで亭主を亡した十九才の嫁が乳飲み児をかゝえて難儀しているという。
     ぬいというその女は弥助も知っていた。
     近くにぬいの父親の妹がいて、ときどき泊まりがけできていたからいっしょに花を摘んだり蜻蛉を追いかけたりして遊んだ記憶もある。
     おまえだって急に一人になって、大変だろう、年上の世話役が諭すようにいった。
     多少の無理はあるが、こんな際だ、人助けだよ、そういわれると弥助の気持も動かないわけではなかった。
     他人の子を育てることが贖罪になるとしたらそれもいいことかもしれない。それにぬいは悪い女ではなかった。
     おまえだって、もう、せんずりこかないですむしなあ、しかし若い方の世話役のいった科白が弥助の癇に障わった。
     いや、やっぱり無理でしょう、一言いうと、それっきり弥助は押し黙まった。
     弥助がまわりから、厄介者のように扱かわれだしたのは、それからのことだ。

     ぬいが子を抱えて、川に身を投げたという話を聞いたのはしばらくあとのことだ。
     弥助にも少なからぬ衝撃があった。
     俺には係りがないという想いとぬいを殺したのは俺だという想いが鬩ぎ合った。
     幼い弥助の手を引いていっしょに駆けてくれたぬいの掌の温もりがふと蘇った。
     俺はぬいを助けてやれなかったのだ、弥助はもう一つ、重い荷物を背負わされたような気がして身振いした。

  • 闇の果て (二)

     家に逃げ帰ってからも、弥助の心は鎮まらなかった。
     いずれ悪事は露顕する、そんな確信めいたものがあって、自分で自分を嘖なまなければなかなかった。
     馬鹿なことをしたものだという想いとあれは事故で責任はないという言訳が胸の内で鬩ぎ合う。そうして結論はけして都合のよい方には落着かないのだ。
     罪は認めるとしても死にたくはなかった。
     生きるためには事が表だってはならないのだ。とにかくなんとしても匿し通さなければならなかった。
     落着かぬ不安な日々が続いた。
     道で村人たちと擦れ違うと、そのあと噂をされはしまいか振返って、確かめずにはいられなかったし、夜、なにかの加減で戸が音をたてようものなら、すわ捕手に襲われたかと心臓が止まるような思いもした。

     恐ろし気な夢をみて大声を上げて目を覚すこともたびたびだった。
     いつもいつも目を剥いた女が襲いかかってくるわけではなかったが得体のしれないものがその都度、弥助を追いかけることにかわりはなかった。
     夢の中のつもりだったが実際にも声を張り上げていたのかもしれない。
     家の者などどのように感じていたことだろう。
     弥助自身も自分がこれ程小心者だとは思ってもみないことだった。

     弥助は元来が慎重な質だったから死んだ女が身に付けていたものを持ち帰ろうとはしなかった。
     着物も帯もよいもので古手屋に持ち込めば金になることはわかっていたがそんな危険を冒すつもりは毛頭なかった。
     簪、櫛といった、妹にでもやったらいかにも喜びそうな小物も惜し気もなく棄てた。
     ただ銅乱の中の巾着には弥助が一生かゝっても手にすることが出来ない程の金子があって、それはやっぱり、どうしても見棄ることが出来なかった。 
     小さな金の一粒、一粒に自分たちはどれ程、翻弄されてきたことだろう。
     これが命とりになるかも知れぬという予感が働かないではなかったがやっぱりあきらめることは出来なかった。
     死んだ女のかたみではないか。まったく意味のない人殺しをして一生を棒にふるというのも納得のいかないことだった。
     思案の末、中味だけを褌に包んで持ち帰るととりあえず納屋の隅に深く埋めた。
     これで弥助は心の内と外とに大きな秘密を抱えたことになる。

     無口な弥助はますます無口になり、自分からは人と付き合うこともしなくなった。
     若衆宿への出入りも止めて、いかにもひっそりと身を潜めた。
     そうして、親の目、妹の目、村人たちの目に気を配った。
     役人は遣ってこないか、神経をいらだたせ、全身を耳にして弥助は一刻、一刻をやりすごしていった。
     役人が遣ってきたらその時はもう御仕舞だ。
     奴らが来たら手ぶらで帰ることがない。

     しかし奇妙なことに峠での人殺しの話はまったく噂にものぼらなかった。
     人が一人消えたのは誰よりもよく弥助が承知している。
     女にも家や家族はあったはずなのにこれはいったい、どうしたことだ。
     どこへ行くつもりだったか知らないが、女の一人歩きだ、それ程遠くから来たわけではないだろう。そのぐらいの見当はついたが訝ぶしんであれこれ考えてみても結局、答えが出るはずもなかった。
     だがそれは弥助にとっては都合のいいことには違いなかった。
     時候も弥助に味方をしていた。
     炎天下の野良仕事に皆が疲れきっていた。
     そんな時には他人のことにあれこれ気をまわすより、とにかく身体を休めることが優先する。
     間怠るく、しかし確実に時は過ぎた。
     そうして、稲が穂を垂れ刈入れが始まる頃には弥助の緊張もずいぶんと緩和されたようだった。
     もっとも十五才の若者の脳裏から殺人の記憶を拭い去るのは不可能なことだ。

  • 闇の果て (三)

     秋が立ち、村祭りの日が来た。
     その村の祭りは俗に種付け祭りとも呼ばれ、三日三晩を騒ぎ狂う。若者も大っぴらに娘を誘ってまぐわうことを許される年に一度の無礼講だった。
     娘たちに異存があったかどうか、少なくとも親に有無はなかった。
     下手に拒むと、家の戸に肥溜めの糞を掛けられたり、ひどい嫌がらせを受ける。
     万が一、身籠らせた場合には身に覚えのある若者たちが娘の前で籤を引き、当てた者が夫婦になる決まりもあった。
     だから他所の村の者が忍び込んで捕りでもしたら生やさしい制裁ではすまぬことになる。
     それでも男とは馬鹿なものだ。どんな目に会わされようと懲りずにやってくる者がいる。
     そうして毎年、一人二人はかならずといっていい程、血祭りにあげられる。それがまた村の若者たちの血をいやがうえにも騒がせるのだ。
     その年は好天に恵まれ、例年になく田畑の実りがよかったから祭りもおもいきり派手になるはずだった。

     若衆宿でも今は祭りの話題でもちきりだろう。
     若いうちとにかく数を競う。
     村中の娘とやったと法螺を吹くものが皆の羨望の的になりしばらくは英雄として崇められたりする。
     例年なら弥助も仲間にまじってあっちこっちを跳び回ったりするのだが今年はどうもそんな気分にはなれそうもなかった。
     おそののことを考えてもまるで気持は高揚してこない。
     むしろ、その度に殺した女のことが思い浮かんで気がめいるくらいだ。
     おそのという名前を聞いただけで目が冴えて夜も眠られなかった去年のことが嘘のようだった。
     あのころ、おそのは弥助にとって命と同じぐらいかけがえのない存在だった。
     おそのはもう俺の心がわりに気付いているだろうか。

     弥助の親たち、小作の小さな家が五軒程点在する先に佐五郎という庄屋の分家の自作農がいる。
     屋根はやっぱり藁葺きだが門がわりに植えた欅が人目を引く、そこらでは裕福な家だった。
     女ばかりが五人いて、上の二人はすでに嫁に出ていたが十五才になる三番目の娘がおそのだった。
     おそのは色の黒い瘦せぎすな娘で背だけが高かった。
     美人とはいえないが目が大きいから、その分たしかに目立つところはある。
     しかし、おそのが関心を集める最大の理由はもっと別なことだった。
     いずれ佐五郎はおそのに入り婿をとって跡を継がせるだろう。土地を持たない若者には目の眩むような話だった。
     誰がおそのを射止めるか、ここ数年、村中の関心が集まっていた。
     そのおそのから好いていると告白されたのは去年の村祭りの直前のことだ。
     あの、天にも昇るような気持を忘れてしまったわけではない。
     だが、今の弥助にはそんな皆の羨望の的になるような真似は極力、避けなければならない。
     人の怨みを買えばそれだけ足をすくわれる機会も増る。

     陽が落ちる前から祭囃子は始まった。
     賑やかな笛や太鼓の音色が風に乗って意外な近さで聞こえている。
     ふて腐った気持で横になっていて、いつの間にか居眠ってしまったらしい。
     その音で弥助も目が覚めた。
     親たちはいつの間にか、もういない。おゝかた近所のどこかに集って酒でも飲耋けているのだろう。妹はまだ夜祭りにくり出す年ではなかったから、飴でもしゃぶらされて、子守りを押しつけられているのに違いなかった。

     普段は狭苦しい家が妙に広く感じられる。
     弥助は所在なげに寝返りをうった。
     聞きたくもない笛の音が耳に刺ってくる。
     杉蔵の笛か、杉蔵は仕事より笛が好きだという男だからこんな時には得意気に吹きまくっていることだろう。
     そうして、やりそこねた俺は、こうして一生、人目を避けて暮らすのだ……、ふと弥助は繰り言をやめてきき耳をたてた。
     小さな足音が近づいてきて、家の前で止まったような気がする。
     一瞬、どきりとして、そんな馬鹿なことはないとあわてて打消して、そのとたん、弥助は確信した。
     おそのだろう。
     おそのが俺を誘いにきたのだ。
     ためらいがちに戸が敲かれ弥助は息をのんだ。
     今、飛び出していって、おそのを家に引きずりこめたらどんなにかいいだろう。
     しかし弥助は膝をかかえたままじっとしていた。
     もう一度、戸が敲かれやがて足音が遠ざかっていった時、弥助は泣いた。
     もうこれっきり、おそのは俺のもとにくることはないと思った。

  • 闇の果て (一)

     弥助が十五才の時だ。
     その年の盛夏のある日のことだった。
     じっとしていても汗ばむ程の陽気で日はまだ中天にぎらついていた。
     野良で雑草を刈っていた弥助がふと顔を上げると女が一人、街道筋を北に向って急ぎ足で通り過ぎるのが目についた。
     町娘ふうの若い女だった。 
     女の一人旅か、思わずこらす目に着物の紅が染みた。
     注意して様子を窺っても、やっぱり連れは見あたらないようだ。
     村を抜けるとやがて嶮しい峠がある。昔から鬼が出ると恐れられるところで、いまだに夜には男でもめったなことでは歩かない。
     しかし、この街道のそれが一本道なので日中、人の往来はある。
     それにしても若い女の一人旅は尋常ではなかった。どんな仔細があるのか知らないが無用心にもほどがある。
     弥助はすばやくあたりを見回した。
     すでに村の誰かが目をつけているかもしれない。
     だが畔の向うに一心に草を刈る母親の姿が見えるばかりで他の人影はないようだった。
     それならば俺がやってやろう。

     旅人を峠のどこかで脅かして金品を揺り取る、そんなことを男たちが時々やっているのは村の誰もが知っていた。
     若衆宿でも年嵩の若者たちが得意気に吹聴する。夜は長い。盗み出した酒に酔い、顔を真赤にして、微に入り細をうがった仕方話は神楽でも観るようで弥助たち年少のものの心をいたく刺激した。
     土下座して泣くものがあると一人がいうと女ならたいてい自分から帯を解くぜともう一人が話をついで、どこまでが本当でどこからがまやかしか判らないような話が延々と続く。
     普段、虐げられるだけの百姓が束の間、主役を演じるのだ。こんな痛快なことはない。
     いずれ機会があれば自分もと考えるのはなにも弥助にかぎったことではないだろう。

     念には念をということもある。さらにしばらくようすを見極めてようやく得心がいくとやおら弥助は峠へ走った。
     女の足だ。いくら急いだにしろ多寡が知れている。
     案の定、峠の中腹あたりで追い付くと即かず離れず弥助は女の様子を窺った。
     白足袋に包んだ小さな足が健気に坂道を踏み締めていく。
     帯の結び方一つにも村娘とは違った華やぎがあるようで、弥助は目の前の獲物にほくそ笑んだ。
     いざとなるとやっぱりこの女も自分から帯を解くのだろうか。

     待つほどもなく機会はきた。
     小用でも催したか女がふいに道を逸れて、下草を払った杉木立の中に入ったのだ。
     あたりを見まわして人気のないのを確めると、すかさず弥助も後に続いた。
     目算通りに事が運べばなんの問題もないはずだった。女は跪いて拝むように金品を差し出すだろう。
     しかし裾を捲ってしゃがもうとした女は弥助に気がつくと、ありったけの声で叫んだ。
     思いがけない大声が森中に反響して、弥助を動顚させた。
     とにかく黙らせなくてはならない。
     あわてて跳びついた弥助に女はさらに激しく抵抗した。
     揉み合いながら弥助も腕や肩を引っ掻かれ噛み付かれて幾度となく呻き声を上げた。
     汗とまじった濃厚な女の体臭がますます、弥助の正気を奪っていった。
     それ程長い時間ではなかったような気がする。
     ふいに女の体から力が失せた。洩れ出た小便が弥助の着物の裾やはだけた足を濡らしていた。
     殺したという意識はまるでなかった。
     だが女は目を剥いて死んでいた。

     呆然自失の態でしばらく立竦んだあと、ようやく我に返った弥助は自分が今、どんでもないへまをやらかしたことを悟らなければならなかった。
     この先どうすればいいか、すぐには判断もつきかねた。
     それにしても人間がこんなにあっけなく死ぬとは思いもしなかった。
     これでは鶏よりも簡単ではないか。
     弥助は子供の頃、父親に鶏を殺すように命じられた時のことを思い出していた。
     言われたとおり首を刎ねて放るとなんと鶏はそれでも五尺も跳ね上がり弥助を驚愕させたものだ。
     以来、弥助はずうっと生き物を殺すという行為を心のどこかで恐れてきた。
     それがなんとしたことだろう、今こうして人を殺してしまったのだ。
     さっきまでの軽薄に高揚した気分はあっけなくしぼんで、ただ詮方無い悔恨が身を攻めていた。
     人を殺すと殺されるというのが弥助が持つ素朴な常識だった。
     悪いことをすればそれなりの罪を受けるのは当然だ。
     しかし俺には殺す気なんてまるでなかった、弥助は泣きたいような気持で思った。
     なんとしてもまだ死にたくはなかった。
     どうかして助かる手立てはないものだろうか。

     もし助かる道があるとすれば今、この事実をなかったことにするしかない。幸い人には姿を見られていないはずだった。
     とにかく女を葬ろう。
     弥助は手近の柴を拾うと女の傍らに穴を掘り始めた。
     腐葉土が堆積した地面を掘るのは存外、たやすかった。
     それでも女を埋め終るには一刻程もかかったろうか。
     天からも地からも蝉しぐれがわきかえっていた。

  • 仔ぎつね、おコン 【5】

     お紺の母親というのが源次の仕事上りの時刻を見はからって浅草、三間町の裏店を訪ねてきたのはそれからさらに二、三日あとのことだ。
     「上州屋の家内、お栄ともうします」 駕籠を戸口に待たせて入ってくるといきなり切口上の挨拶だった。
     ちょうど卓袱台に晩飯をととのえていた源次はあわてて出ていき上がり框に膝を揃えてとりあえず上がるように推めたのだがお栄は三和土に仁王立ちになったまま動こうとはしなかった。
     「このたびは娘が大変お世話をかけました」
     「へい」と受け答えながら源次は言葉のいい様に棘や厭味を感じずにはいられなかった。
     またなにかを誤解して、腹を立てているのだろう。
     姉に吊し上げを食ったのもつい昨日のことだ。

     「なんなの、あの女」とやってきた姉も最初から喧嘩腰だった。
     愛想一ついえず突っ立ったままの女がよほど腹に据えかねたらしい。
     二つ違いの姉は子供の頃から源次には差し手がましい口をきく。たしかにその分、よく面倒もみてくれるのだがこの年にもなればさすがに多少はけむったい。左官職の亭主は数年前にうまく親方株を手に入れたというから、今は徒弟の世話、子育てと自分のことだけでも目が回る程忙しいはずなのにやっぱり源次のことも放ってはおけないようだ。
     「お前も見境いなく女を銜え込んでいるとそのうち酷い目に合うよ」
     人の弁解にはまったく耳を貸そうとせず持ってきた大根の煮付を皿に移すと姉は帰っていったのだがその後姿を見送りながら、思わず源次にも溜息が出た。
     「まったく、女って奴は…」

     吊り上がった目はお紺と似ていた。背はお紺の方が首一つ高いかもしれない。
     板につかない化粧と高価な着物をとればこの長屋にでも住んでいそうな女だった。
     道々練上げてきた口上を一気に吐き出したとでもいうように肩で小さく息を入れると、手にしていた菓子折りをお栄は源次に押しつけた。
     そんなものを貰ういわれはないがあえて突っ返す程のこともない。明日にでも長屋の子供たちに振る舞えばどれほどの喚声がわくことだろう。
     しかし、つづけてお栄が懐から袱紗に包んだ切餅をとりだした時にはさすがに源次も顔色を変えた。

     「それじゃ、なんですか、そちらにはあっしにしゃべれたくないなにかがあって、それをこれで口を閉じろとおっしゃりたいんですか」
     「はばかりながら、あっしはこんなことをしてもらわなくてもあることねえことぺらぺらしゃべってまわる程、口は軽くねえつもりですがね」
     不請不請、お栄は一度出したものをもう一度、懐におさめ直すと帰っていった。
     不愉快なものが源次に残った。
     「金なんざ、必要な時に必要なだけ稼いでみせらあ」
     それは職人の誇りだった。
     誇りを貶められて、源次は傷ついていた。
     商家ではこんな時に塩でも撒くのだろうか。
     「まったく女ってやつは…」

     「実はおまえに入り婿の話がきているんだが」
     茶の間の長火鉢の奥のきまりの場所にどっかと腰を据るとさっそく親方は話を切り出した。
     十年過して、我家のようになった家だから源次も厨に声を掛けるとそのまま上がって長火鉢を挟んで親方の向いに座ったわけだが話の意味がすんなりとは飲み込めなかった。
     嫁のことなら一度ならず聞かされたが、婿の話は初めてだ。しかも、今、一人立ちしたやさきに入り婿というのはないだろう。
     茶をはこんできたおかみさんもどこまで話を知っているのか、
     「ついでだから、晩ごはんも食べておいき」 妙に愛想がいい。

     夕方のことだ。帰り仕度をしていると「話がある、ちょっと寄れ」と突然、親方から声がかかった。
     今の仕事はもうじき終るが親方は嘘のない性格で腕もよかったから仕事が断えたことはない。
     大方、次の段取りだろうと源次はふんで福井町の家まで親方の後についてきた。
     帰りの道々、親方はわざとのようにたわいのない世間話しかしないから妙だとは思ったのだが、まったく狐にでも抓まれたような話だった。

     「それがあの上州屋なのだ」 芝居気たっぷりに親方は声をひそめた。
     「まさか」 思わず源次はうめいた。
     「このあいだ、上州屋のおかみさんてえ人が訪ねてきましたがね、まるであっしのことを蛇蠍でも見るように睨めまわしていきましたぜ」
     「おめえ、最後に金を突っ返したろう、あれがどういうわけか先方には受けたらしいや」

     「それまで反対していたおかみさんがそれでころっと手の掌を返えしたからあとはもうお前しだいだ。上州屋は材木問屋の中ではけして大きい方とはいえないが勢いのある先のたのしみな店だ」と親方はいった。
     「お紺というのが一人娘でそろそろ婿をってえやさきのこの騒動だ。そのお紺がお前にぞっこんで、もう離れられないなんてさわいでいるそうだぜ」
     「お前も案外、隅に置けないんだねえ」 いつの間にか横に座ったおかみさんが源次の顔を覗きみながら半畳を入れた。

     「親方」 源次はもう半分泣きたいような気持だった。
     「親方はいいましたよね、立てる気がなくたって立つものもあるが男気ってやるはしっかり立てる気でなきゃ立たないんだって、俺は本当にあの娘には指一本ふれちゃいないんですぜ」
     「源次、おめえも気の仂かねえやろうだな、おめえが指一本ふれてこようとしなかったからお紺はおめえに惚れたんじゃねえか、おめえといっしょになりたい一心で生娘がつく嘘のせつなさがおめえには斟酌できねえのかい」

     「しかし親方、それじゃあっしの十年の修行はどうなるんですかい、あっしの十年の辛抱を無駄にしろといいなさるんですかい」 さすがにそこまでいわれると親方も腕をかかえてうなるしかなかった。
     ううんとしばらくうなってから、「よしわかった、それじゃ、おめえ、残りの御礼奉公はちゃらにしてやるから明日にでも道具箱を担いで旅に出な、一人前の大工になるにゃ、他人の飯を食うっていうのも必要なことだぜ」
     思いがけない方向に話が跳んで今度は源次が腕をかゝえて唸る番だった。
     お紺の顔が一瞬、心の中を横切った。
     「子狐め、どこまで俺を虚仮にする気だ」
     するともう一度舞い戻ってきたお紺がぺろりと赤い舌を出した。   〈完〉

  • 仔ぎつね、おコン 【4】

     「三間町の源次って大工はおめえかい」 突然声をかけられて、あわてて顔を上げると図体の馬鹿でかい男がぬっくと突立っていた。
     「俺ぁ、入舟町の甚六ってえ目明しだ。ちょっと聞きてえことがあるんだが、ここでいいけえ、なんならこの先の自身番でもかまわねえんだが…」
     鉋がけに集中していた源次はすぐには目の前の状況が呑み込めなかった。
     「十日ぐれえ前に、お前さん上州屋のお紺てえ娘を二三日家に泊めたな」
     源次が棒立ちのまま、目を白黒させているとそれを了解の合図ととったのか甚六がいった。

     「へえ、いえ、上州屋のお紺てえ女は存じませんがたしかに上州から出てきたっていうおゆきって女なら泊めました」
     「なにもおかしなことはしていないのだからと思いつつ、源次はどうしても気圧されて、相手をうかがうふうになる自分がはがゆかった。
     甚六にもその気配は伝わったのだろう、にやりと笑うととりなすような調子に変わった。
     「話がもう終ったのは承知してるんだが先方から訴えが出ていたもんでその始末をつけなきゃならねえ、一応裏をとりにきただけだから、心配しねえで話を聞かせてくんな」

     甚六は細かいことをいくつか聞きだして、一人でうなずいたりしたあと、「おめえ、大川のふもとの稲荷の前で声をかけたんだってな、そんなこといつもやっていると、しめえには本当に勾引で捕まることになるぜ」 最後にはきちんと釘を挿した。
     それでどうやら甚六の用というのはすんだらしかったがしかし源次にはこの機会にどうしても質しておかなければならない話が残っていた。
     「それで、その上州屋お紺が女狐お今てえことになるんですかね」
     とたん甚六は目を剥くと上から下、下から上へと源次を睨め回した。
     「俺あ、女狐お今なんて話は一言もしてねえよ」

     「それともなにかい、お前さん、女狐お今となにか、やんことねえ因縁でもあるっていうのかい」
     「めっそうもねえ、親分」 源次はあわてた。
     どうも話がどっかで少々ずれてしまっているようだ。
     気まずい間がしばらくあったが、甚六は源次にそれ程悪い印象は持っていないようだった。
     「あれは上州屋の一人娘でなんにも知らねえねんねだよ」
     「しかしあの娘、とてもそんないいところの子には見えなかった、けっこうな啖呵も切っていましたからねえ」
     甚六が鼻で笑った。
     「おめえ、木場の先は辰巳芸者の巣なんだぜ、あのあたりではおむつの取れねえガキだって、見よう見まねで啖呵の一つや二つ切るだろうぜ、おまけに上州屋はおやじもかゝあも木場人足からの叩き上げだ、口がよかろうはずがなかろうが」

     甚六が帰っていくと、皆がすぐに源次のまわりに集まってきた。どうも仕事の手を止めて、それぞれに聞耳をたてていたらしい。
     「大人の世界を覗き見たくてうずうずしている小娘に体よくあしらわれるなんざ、源次兄いもざまがねえな、え」 兄弟子の与三郎が棘のある言葉でからかった。
     「まあ、おかしな成行きになってあわてさせられるよりはよっぽどましだがな」 親方が話をとりあげた。
     「さあ、仕事だ、仕事だ、いそがねえと、日が暮れてしまうぜ」

  • 仔ぎつね、おコン 【3】

     源次は一心に鉋の刃を研いでいる。
     大村産の仕上砥は赤子の肌のように艶やかにぬめり、刃はぴったりと吸いつくようだ。このまま手を止めると刃は二度と剝がれなくなるかもしれない。
     規則的に水を打ちながら源次の手はさっきから、まったく同じ角度、同じ調子ですべっている。
     気持ももうすっかり落ち着いていた。
     刃物を研ぐことで気を鎮めるという知恵を源次が身につけたのはいつだったろう。

     徒弟に入って、二年、びっちり家事まわりの雑用をさせられたあと、ようやく仕事場に出ることを許されてからも、一年は材木運びだの跡かたずけばかりだった。
     だから三年目、親方から一通りの道具を贈られて刃物の研ぎを教わった時はうれしかった。
     「道具は手入れだ。暇がありゃあ道具の手入れをするんだな。仕事の途中で砥石を持ち出すような大工にだけはなるんじゃねえぞ」

     その時、親方にいわれた言葉を源次は後生大事に胸にしまった。
     寝る前にはかならず道具の手入れをする。
     大工の道具はほとんど刃物だ。
     鋸は歪を正して刃を鑢でたてる。
     鉋、鑿の類も、刃毀れがあればやっぱり荒砥で刃を落すところからかゝらなければならない。
     一刻はたっぷりかゝる仕事だった。
     疲れきってからの一刻は辛い。
     しかしそれをやらなければ翌日の仕事に如実に響く。
     切れない刃物を無理に使うと時間はかゝるし見栄えも悪い。
     そうわかってからは源次はそれをやり通してきた。
     それが今の源次の大きな支えになっている。

     一通り、仕末を終えて手をぬぐうと待っていたように四つの鐘が遠くで鳴った。
     女はもどらなかったがいずれ帰ってくるだろう。
     あいつにはこの江戸でたよれるものといったら俺しかいないのだ。
     「もう寝なきゃな 明日も仕事だ」 女の為に布団を残すと源次はまた半天をかぶって、板の間で横になった。
     
     一日が過ぎ、二日が過ぎた。
     最初、源次には女はかならず戻ってくるという確信があったが今ではそれも泡かなにかのように消えてしまった。
     心にぽっかりと穴があいて、そこを風が勝手に通り抜けていた。 
     仕事をしているときだけはかろうじてそんな気持を忘れることができた。
     女のことを考えまいとできるだけ長く、できるだけ熱心に仕事をした。
     「おめえ、このごろ、なんかつきものにでもつかれたみてえだな、身体を壊すなよ」 事情を知らない親方はただ目を細めるだけだった。
     
     その日の昼飯どきのことだ。
     天気がいいので外に皆が車座に集まっていた。
     「そういやあ、二、三日前女狐お今とかいう掏摸が捕まったって噂ですがね」 先に弁当を食べ終わった兄弟子の与三郎が茶を啜りながらふといった。
     源次は飯をかっこみながら聞くともなしに聞いていた。
     「なんでも通りすがりに男の褌まですっちゃうていう凄腕だったらしいんでね」
     「野郎、よっぽどゆったり締めてやがったな」 弟弟子の庄太がまぜっかえしたが、与三郎はとりあわなかった。
     「まだ焼きが回る年でもねえのになんでそんなドジを踏んだか、町じゃもっぱら男出入りかなんかのせいじゃ、ねえかって、首をかしげているところです」
     「まあ死罪にはならねえな、しかし遠島は逃れられめえよ、残りの人生、島暮しあつれえなあ、それでその女いったい、いくつぐれえになるんだい」
     莨を吸いつけて煙りを吐きながら親方がいった。
     「へえ二十四、五だっていうんですがね、それがどう見たって二十前にしか見えねえらしい。目がきゅっと吊り上ってるから女狐なんて通り名がついたようですが小股の切れ上がっためっぽういい女だってことですぜ」
     途中から源次は箸を止めて聞耳をたてていた。
     ひょっとしたら、あいつのことかもしれない。いや、あいつのことに違いない。
     「あの女、ゆきだのなんのって、さんざん人を虚仮にしやがって、挙句の果てにドジを踏んでりゃ世話ねえや」 源次は腹の中で毒ずいたがしかし、悲しみはむしろ深まったようだった。

  • 仔ぎつね、おコン 【2】

     翌朝も源次は仕事で早くから出掛けなければならなかった。
     女のことが気にかゝったが別に盗られるものもないと腹を括ることにした。
     女に目を覚す気配はさらになかった。朝の光でみる、女の寝姿は夕べ灯火で見たよりもさらに子供のように見える。
     ふいに源次は十才で死んだ妹のことを思い出した。
     あれは源次が徒弟に入る少し前の出来事だった。
     昼間いっしょに表の露地で大さわぎしていた妹が家に帰るなり、ふらふらっと倒れると動けなくなってしまった。
     夜中には火のような熱が出て、あわてた親父が布団にくるんで医者に駆けつけたが、それっきり妹は生きて戻ってはこなかった。
     ころころと太った妹はいつも源次に纏わりついて片時さえ離れようとはしなかったものだ…湿っぽい感傷がすうっと源次の鬢をなぞった。
     この女ともきっともうこれっきり会わないのだ。

     だが仕事に入るともう源次は女のことは考えなかった。
     今、源次たちが手掛けているのは深川の大店の主人夫婦の隠居所で三十坪の平屋というのは大きくも小さくもない寸法だが材料や間取りは凝りに凝ったものだったから大工の腕も試されるやりがいのある仕事だった。
     親方、兄弟子、弟弟子、手許と、それに源次の五人の呼吸はぴたりと合い、弾むように一日が過ぎていく。
     源次には今、仕事が楽しくてしかたなかった。
     しかし、夕方、ここちよく疲れて戻るとなんと女はまだ家にいた。
     しかも、晩飯なんかこしらえている。

     「どうなってるんだ」 思わず大きな声を出した源次に女は舌を出してみせた。
     「隣のおかみさんがなんだかんだと親切にしてくれるもんだから」
     源次はあわてた。一つ間違うとどんな噂を立てられるかしれたものではない。たしかに隣のかみさんは人はいいかもしれないがまた他人の詮索が何より好きだときている。
     「しかしなんのかんのと根掘り葉堀り聞かれただろう」
     「うん上州から奉公先探して出てきたいとこだっていっておいた、しばらくいるって」

     「俺は一晩って、いったはずだぜ」 仏頂面で源次がいった。
     「出ていけっていうんなら、出ていくけど、いくところはない」
     女は俯いてちぢこまっていたがやがてベソをかき始めた。
     「別に叩き出そうってわけじゃないんだが、しかし、俺も猫の仔一匹拾ってきたってわけにもいくまいからよ」
     結局、源次がおれるしかなかった。

     女は本当に上州、前橋の生まれで十四才だといった。
     中に立ってくれる人がいて一ト月程前、日本橋の越後屋に奉公に上がったが、主人に手籠にされそうになって、思わず店を飛び出してしまったのだという。
     右も左もわからぬまゝ、途方にくれて歩いているうちにあの鳥居の前に出ていたらしい。
     話を聞いて、すっかり同情した源次はこれは俺が一肌脱ぐしかないなと思ったものだ。
     しかし一肌脱ぐといったところで今の源次にはなにほどの算段がつけられるわけでもない。
     結局、親方か大家に相談するのが関の山だ。
     「まあ、俺にまかせておけ、なんとかしてやらあ」 それでも源次はそう見得を切ったのだった。

  • 仔ぎつね、おコン

     「あんたなんか大嫌いだ」 戸口で振り返ると女は捨台詞を吐いた。
     「上等だ、俺だって、てめえみたいなズベタ、二度と顔なんか見たくもねえや」 喉まで出かけた買い言葉をなんとか呑み込んだのは源次の未練だったのかもしれない。
     ぴしゃりと戸を閉めて女が走り去ると思いがけない静粛がきた。
     八月も下旬、もう秋だ。
     鳴りをひそめていた虫たちがまたいっせいに声を競いはじめた。虫さえなにか自分を嘲笑うようで源次はいらだたしげに踵を床にたたきつけた。一瞬、虫の声は止む。
     「くそ、おもしろくもねえ」 食べかけの晩飯の味噌汁の匂いがふいに鼻をついたが食事を続ける気にはなれなかった。
     「なんだ、あの女、早とちりしやがって」 両指を組んで枕をつくると源次は仰向けに寝転がった。
     おそらく、女は源次の帰りを見越して食事時にやってきた姉のことを誤解したにちがいない。
     応対に出た女と姉のちぐはぐなやりとりを思い出す。
     立上がっていく間もなくあわてた姉は帰ってしまい柳眉を逆立てた女はそれきり一切源次の話を聞こうとはしなかった。
     しかし、あの女、ここを飛び出して、いったいどうしようというのだろう。
     
     三日前のことになる。
     その日は棟上げで振舞酒が出た。
     源次もいい気分で酔った。
     だがこの辺がいいところなのだ。勧められるまま度を越すと酷い目にあう。
     翌日、親方に怒鳴られ、兄弟子にこずかれて、吐きながら仕事をする辛さを源次は何度か味わっていた。
     六つの鐘を潮に腰を上げると、源次はもう少し飲むという親方や兄弟子と別れて家に向った。
     しかし浮れた調子は続いていた。夜風が火照った頸筋にここちよかった。
     だから吾妻橋を渡った先の小さな稲荷の鳥居の前で所在なげに佇む女に思わず声をかけてしまったのだ。
     「ねえさん、いくところがねえんなら、ついてくるかい、一晩ぐれえなら泊めてやれるぜ」
     いたずら半分だった。
     源次は年季が明け、あと半年もすれば御礼奉公もすむという二十三才の孤りものの大工だが実は気の小さい律儀な男で普段ならとてもそんな軽口はたたけない。
     酒が源次を常になく昂揚させていた。
     「なにいってやがるんだ、あさってにしな」 もっともそんな啖呵で切り返されて、互いに舌を出して行きすぎるはずだったのだがなんと、女はついてきたのだ。
     
     「俺は源次っていうんだ、あんたも名前ぐれえはおしえてくれ」 家に上げてそう問うと、女は「ゆき」と名告った。
     うそか本当かわからねえなと思うぐらいの常識は源次にもあった。
     しかし暗闇ではすれっからしの中年増ぐらいに思えたものが灯火の下ではまだほんの小娘のようにも見える。身にまとうものもけして、粗末なものではない。
     どんな素性の女なのだろう、源次の頭にもそんな疑問が浮んだがどうせ一晩だと、あえてそれ以上は考えないことにした。
     「俺は馳走になってきたんだが、腹がへってるんなら、冷飯ならあるぜ」
     しかし女も食べ物はいいといった。
     「妙ないきがかりだが、言ったことは言ったことだ、今日はともかく泊っていってくれ」 源次が煎餅布団を敷きだすと「好きにしてくれていいんだよ、義理を金ですます持ち合わせもないからね」 居住いを正して女がいった。
     源次にもそんな下心がないわけではなかったが、面と向ってそう切り出されると男の面子を棄てるわけにもいかず、「馬鹿野郎、据え膳に飛びつく程、こっちとら飢えちゃいねえんだ。」と強がってみせるしかしかたがなかった。
     女もほっと息を抜いたように思ったが帯もとかずに横になると、やがて軽い寝息をたてはじめた。
     「いったい、この女はなんなんだ」 一つしかない布団をとられて、しかたなく源次は半天を肩からかけると、板の間に寝そべった。むしろその夜は、源次の方がよほど寝つきが悪かった。

  • その年の暮れ

    (八)
     
     寒いと思ったらいつの間にか雪が降り始めたようだった。
     向いの長屋の板葺きの屋根がうっすらと白い。
     寺の鐘がいつもよりはっきり聞こえるのもやっぱり空気が冷えているせいなのだろう。
     さっきまで大さわぎで煤をはらっていた隣の嬶も一区切りついたようだ。まるで嘘のように静かになった。
     与平は夜叉五倍子に染った指を火桶に翳した。火桶には今、夜叉五倍子を湯煎する為の炭が起きている。
     与平は煮汁についた天狗の面の根付をときどき裏返しながらこの十日ばかりの間のめくるめくような出来事をぼんやりと思い返していた。

     とにかく、お葉なんて女はそれ以前にはまったく念頭にもなかったのだ。
     それが今はあたり前の顔をして台所で野菜なんかきざんでいる。
     親方にはたしか猫の仔をもらうようなわけにはいかぬと啖呵をきったものだったがどうもお葉は猫の仔よりもすんなりと家に居着いてしまったようだ。
     まったく、女って奴は、月並な文句が頭に浮んでしかし、与平はその言葉に脂下がる自分を感じて一人で照れた。

     お葉の話では昨日は与平に晩飯でも作ろうと思って訪ねたのだという。
     住いをたしかめにわざわざ親方のところまでいったりしてそれなりに大変だったに違いない。
     助けてもらったお礼と赤くなったあたりはなかなか可憐だった。
     そこであの騒動に出くわした。
     お葉の機転で事無きを得たが一段落がついたのはもう暮れ六つに近かった。
     それでもお葉がなにか作るというものだから表へ買い物に出た。

     米屋はすでに閉っていたが賃餅屋はこの時期、夜鍋仕事だから切り餅は手に入った。
     隣に味噌を借りにいくと煮付の残りと漬物もくれた。
     それでお葉は小器用に雑煮のようなものをこしらえた。
     腹がへっていたせいもあっただろう、これがうまかった。
     疲れていた。腹が満たされるともう動く気にはなれなかった。
     一人で帰すわけにもいかないから泊れと誘うとお葉は拒ばなかった。

     それから起こったことを与平は考えている。
     最初は背中合せに寝たのだった。相手のぬくもりがここちよかった。
     そのまま、ひとときは眠っただろう。
     深夜に目が醒めた。
     ゆっくりと今、自分が置かれている立場が思い出されてきた。
     この女を俺は助け出し、この女に俺は助けられた。それはやっぱりただの偶然だとはいえないのではないか。
     背中に伝わるかすかな緊張感から相手も以前から目を醒ましていることが感じられた。
     お葉、起きているか、おもいきって与平は声をかけた。
     返事はなかったがうなずく気配はあった。
     俺は見たとおりの跛でそれにだいぶ臍も曲がっているかもしれねえが、おまえさえよけりゃ俺は所帯を持ってもかまわないんだぜ。
     深い沈黙の意味を与平は計りかねたが、ありがとう、やがて、くぐもった声でお葉はいった。
     もし与平さんがそういってくれなかったら私、妾奉公にでも出るところだった。
     くるりと身体をまわすとお葉がむしゃぶりついてきた。
     おもいがけぬ強い力だった。

     我にかえって、与平はこの瞬間にもまたお葉のぬくもりを恋しがっている自分を知って少なからずあわてるのだった。
     とにかく親方には一刻も早く報告すべきだ。
     その時はお葉をつれていくべきかどうか。
     引っ越しだってさせなくてはならない。
     まったく明日は除夜だというのにとんだことになったものだ、与平は照れかくしに一人ごちた。
     お葉が台所でなにかいっている。
     おゝかた食事の用意がととのったといでもいったのだろう。
     与平はもったいをつけて一呼吸おくとおうっと大きな声で返事をかえした。

  • その年の暮れ

    (七)
     清蔵、てめえ、年の暮れにこそこそと他人のシマ荒らしたぁよっぽど凌ぎに難儀してやがるな。
     突然、岡っ引きの文七の銅間声が轟いた。
     文七は赤ら顔の大柄な男だ。それが引き戸の敷居を跨いだところで仁王立ちになって吼えている。
     いささか芝居がかって見えたのはあるいは外で立ち聞きしながら飛び込む間合いを計っていたからなのかもしれない。
     助かったと思ったとたん、不覚にも与平の目には涙が滲んだ。
     それにしてもなぜ親分がここに、てんで訳は解らなかったが、いずれにせよ、地獄で仏とはこのことだ。
     文七は与平たちが子供のころからこの界隈の治安を取り仕切ってきた岡っ引きだが臍を曲げないかぎり、なかなか人情味のある筋の通った親分だ。
     清蔵と呼ばれた男たちのあわてぶりも見ものだった。
     すっかり度を失った清蔵を勝ち誇った文七が睨め付けた。

     清蔵、どうした、うんとかすんとかいってみろ、なんなら、そこの自身番でじっくり話を聞かせてもらったっていいんだぜ。鼓きゃおまえならいくらでも埃ぐらい出るだろう。
     文七は十手をもてあそびながら男たちの周りをゆっくりと廻って一人、一人を吟味していた。おゝかた御尋ね者でもまぎれ込んでいないか確認しているのだろう。
     皆が文七に気を取られている隙に入口からもう一人、背の高い、ほっそりとした女が忍び込んできた。お葉だった。
     お葉は辺りの状況が気になってしかたがない様子だったが与平の無事な姿を見て、とりあえず安堵したようだ。

     清蔵、おまえだって、わざわざここまで出ばってきたんだ、言い分の一つや二つ、あるだろう、ひとしきり、いたぶって溜飲を下げたか、突然文七の調子が変った。
     どうでい、それを黙って飲み込んで帰ってくれるんなら俺も今日のことはきっぱりなかったことにして忘れてやる。おたがいすっきりした気分で年を越さねえかい。
     落し所をこころえたみごとな文七の科白だった。
     この状態で清蔵に有無があるはずもない。
     願ったりだ、親分、清蔵も下手に出ていった。
     顎をしゃくって手下をうながして、出ていこうとする清蔵に、このガキどもにも今後、手出しは無用だぜ、文七が念を押した。

     やれやれと思ったとたんだった。
     与平と藤吉はいきなり文七に平手打ちを喰わされてよろめいた。
     てめいらもいいかげんにしねえと承知しねえぞ、文七は今、赤鬼のように居丈高に二人の前に立ちはだかっていた。
     いつもいつもこんなふうに調子よくものごとがかたづくたあ思うなよ。たまたまおめえの家を訪ねてきたこの娘さんが異変に気づいて、自身番に駆け込んだんだ。俺が自身番に居合わせたのもたまたまのことだぜ。一生の運をみんな使っちまったと思って今後身を慎むんだな、そうじゃなきゃ、てめえら、本当にいずれ簀巻で川に浮ぶぜ。
     与平、すまない、俺が馬鹿だった、突然、藤吉が泣き叫びだした。
     俺が馬鹿なばっかりに、いつもおまえには迷惑をかける、堰を切ったように言葉と涙があふれかえり、しばらくは誰にも手がつけられなかった。
     藤吉が少し落ち着いたところをみはからって与平はどうしてもとけない疑問をついに口に出した。
     だけど、どうしてお葉さんは、ここへ。
     するととたんにお葉は真っ赤になってうつむいた。

  • その年の暮れ

    (六)

     与平さんのお宅ですね、引き戸を開けて、どことなくねずみを思わせる小男が顔をのぞかせた。
     ついさっき七つの鐘を聞いたばかりのような気がするがあたりはすでに暮れかけている。
     与平は馬に向っていた手を止めると顔を上げた。
     今どき、誰が何の用だろう。
     しかし与平を認めると有無を言わさず、どっと男たちが土間に雪崩れ込んできた。
     五、六人もいただろうか、一目でまっとうな生活者でないとわかるような風体の男たちだった。
     最後に顔を腫れ上がらせ、鼻の周りに血をこびりつかせた藤吉がこずかれながら入ってきた。
     与平は一瞬にあらましを悟らないわけにはいかなかった。
     藤吉の馬鹿がと思った。またなにかしでかしやがった。

     あんたのお友達のこの人がね、妙なおもちゃでいたずらしていましてね、最初はうちの若いもんも面喰らったようですよ、たしかに面白いもんですな、これは、聞けばこちらさんのお仕事だとか、中から小肥りの男が一歩踏み出してくると上り椎に賽を二つ転がらせた。
     二つの賽はころっと転がると一と一の目をきちんと上に向けて止まった。
     案の定だ。与平は今、自分が否応無くやゝこしい騒動に巻き込まれてしまったのを感じていた。
     男ののぺらっとした無表情の顔からはなにも読みとれるものがなかったが場慣れした落着きが与平を威圧していた。
     どうですかね、一つ、私にもこんなおもちゃを作っちゃくれませんか。
     削り屑を払うと与平は躄りよって敷居に膝を揃えて座った。

     これはたしかに私の作ったものです。これと同じものを御所望ならお作りしましょう、多少なりとも自分の世界で話せることがわずかな与平の希望だった。
     しかし、これは象牙の芯と側の密度の違いを利用して作っています。このような都合のよい材が次に見つかるまでどれ程、待っていただかなければならないか、しかもせいぜいこの大きさが限度です。
     それは嘘だった。どうせこの男たちには象牙の知識などないと見越して与平は嘘をついた。
     雑な仕事では賽を二つに割って内を刳り貫くからよく見ると継目がわかる。
     与平は一の目を穿ってそこから掘り出し、鉛を仕込んで蓋をしたあと、さらに赤い色漆で被うという手のこんだ仕事をしているから、賽を潰しでもしないかぎり細工の跡はわからない。

     たしかにな、男は賽を手にとって、つくづくと眺めていった。
     そういわれりゃそんなもんかもしれねえが、俺のはもっとぞんざいでいいんだ、普通に遊べる大きさのやつでな、いつの間にか言葉づかいが変わっていた。
     それじゃ私にいかさま賽を作れっておっしゃるんですか、それは出来ません、与平はふんばった。
     なにを、てめえ、じゃあ、これはなんだ、男がいきりかえった。
     なにをどう工夫したかしらねえがこれだって立派ないかさま賽じゃねえか、なんならこれをおゝそれながらと、お上につきだしたっていいんだぜ。

     おそれいりますが、これは賽のように見えてそうではございません。賽は一の目と六の目を上下にとると、横に五、四、二、三と並ぶかと思います。これは五、四、三、二と作ってあります。賽とはいえません。
     藤吉だったらなにをやってもおかしくないというのが頭のどこかにあったから与平はそういう工作もしておいた。
     どうせ、一の目しか出ない賽ころだ。そこまでは気をつけて見ることはないとふんだのだ。
     その思わくは当ったようだった。
     えっという顔をして男が目をこらした。
     こんなんで遊ばれているようじゃ、うちの若いもんもていしたことはねえな、口元は笑ったようだったが目がつり上がった。
     兄さん、あんたはどうも頭は悪くなさそうだがそんな講釈で納得していたら俺たちも稼業が務まらねえんだ。
     やれっていったことはやってもらうぜ。それともてめえら二人、簀巻にしてそこらの川に潰けてやろうか。
     進退極まったと思った。結局こういうことになるのだ。
     与平は身体がこきざみに震えてくるのがわかった。

  • その年の暮れ

    (五)
     お菊の店はいつ行っても客で溢れかえっているな、壮太が感嘆したような声を洩した。
     お菊は昔から人あしらいはうまかったからな、藤吉がしたり顔であいづちをうつ。
     色気七分じゃねえのか、どの客もみなものほしそうな目でお菊の尻を追っていたじゃねえか、米次郎が余計なことを口走り、冗談じゃねえや、お菊はそんな女じゃねえぜ、留吉が口をとんがらせた。
     お前まだお菊と続いているのか、壮吉が信じられぬという顔で留吉を見た。

     お菊は今まで飲んでいた居酒屋の娘で与平達とは幼なじみだった。
     年忘れに一杯やらないかと音頭をとったのはやっぱりいつもの藤吉で幼なじみが五人、お菊のところで集まった。
     どうせ金を落とすならという頭が与平達にないわけではなかったし、幼なじみの気安さで気が置けないのもありがたかった。
     お菊も隙を見ては頼みもしない酒やさかなを運んできて一言、二言、口を挟んでいった。
     さっきは留吉にもお菊にもこれといった思わせ振りな態度は感じられなかったがと与平は思った。

     年季があけりゃ、俺も一丁前の大工だ、約束通りきちんとお菊をもらいに行くつもりだぜ。
     お菊と留吉が死ぬの生きるのと大騒ぎを仕出かしたのはもう三年も前の話だ。
     そのことは与平達みんなが知っている。
     留吉は年季があけるにはまだ間のある身体でお菊は十六才だった。
     誰が考えてもどうしようもない話に穏便に水を止したのはやっぱり周囲の大人の知恵だったろう。
     留吉の年季があける三年後まで話を棚上げにすることでとりあえず二人を納得させたが実際のところ誰もがそんな辛抱が出来るような恋だとは思っていなかった。
     それを二人は守り通していたのだった。
     ある種の感動が与平にもあった。
     お前たち、えらいな、壮吉は口に出したが与平も同じ思いだった。
     だけどお菊はあの店のかんばん娘だ、親がすんなり嫁に出すかな、米次郎がまた言わずもながのことをいい、壮太に脛をけとばされて顔をしかめた。

     こう寒くっちゃやりきれねえや、そこらで一杯飲み直そうぜ、藤吉が声高にいった。
     満月に近い月が寒々とした光を投げかけている。
     痩せた柳の枝が揺れた。
     たしかに掘割りを吹き上げてくる風は身に滲みる。
     誰もが藤吉の意見に異存はないようだった。
     その時だ。
     やめて下さい、女の悲鳴のような声がそう叫んだようだった。
     与平が周囲を窺うと横手の路地の奥で男と女が縺れあう気配があった。
     痴話喧嘩かと逸らそうとしかけた目を与平はもう一度、見据え直した。
     月明かりに取り囲むように後にまわるもう一人の男の姿が見えた。
     そうして、女はお葉だった。
     
     与平の動作が不振だったのだろう。
     どうしたと壮太が声をかけてきた。
     どうも知り合いが面倒に巻き込まれているようだ。
     しかしなぜ自分がそんな行動をとる気になったのかが与平にもわからなかった。
     与平は争い事は好まぬたちだ。できるなら見て見ぬふりをしたってさけて通りたい。それが今進んで渦中に入ろうとしている。
     酒のせいだったろうか。後に控えた四人の仲間はたしかに心強かったが留吉の心意気にあおられる程、うぶでもないはずだった。一度会ったきりのお葉をそれ程気に留めていたということもないのではなかったか。

     与平はためらわずに露地に入っていった。
     足は震えたがぞろぞろと後に続く人の気配が与平の背中を押していた。
     なんだ、てめえは、お葉に正対してなにかしゃべっていた痩せぎすの男が気配に気付いて振り返ると、すぐさま一歩踏み出してきた。
     目にけんのあるまだ若い男だった。
     なんだ、てめえは、それしか言葉がないように同じ科白をまた吐いた。
     本物のごろつきならここらで懐からドスでも出して脅したりするのだろうか。
     しかしこの男はもう少し分別を持ち合わせているようだった。
     人数を確め、力関係を忖度して一瞬に勝めがないとふんだようだ。
     なんだ、てめえは、さっきとはずいぶん違う低いひかえ目な啖呵だった。

     とんだ色男のおでましだってよ、けったくそ悪いや、行こうぜ、棄科白を残して男たちは露地の向うに消えた。ある意味、みごとな引き際だった。
     与平、やるじゃないか、にやにや笑いながら藤吉がいった。
     おまえはてっきり女嫌いだと思っていたんだがな。
     お葉は与平の背でちぢこまっている。
     ちっとは身体が暖まるかと思ったんだが、留吉が腕を拱ねいた。
     寒い、寒い、冷えた冷えた、さあ、さっさと飲み直そうぜ、米次郎が足踏みを始めた。
     与平、お前はここまでだ、その女を家まで送ってやりな、、壮太の言葉で進退を迷っていた与平にも踏ん切りがついた。

  • その年の暮れ

    (四)
     ここ数日、与平は忙しかった。
     桔梗屋の注文をなんとか年内に割入ませる為にはそれなりの遣り繰りはしなくてはならない。
     押木に向った与平は削り上げたばかりの三味線撥に椋の葉を当てて仕上げの磨きにかゝっていた。
     気を抜かずに磨く。根気よく磨いていくと象牙は内から輝いてくる。唐方の象牙はやっぱり肌理が違うと思う。
     火の気もないのに与平はうっすらと汗ばんでいた。
     そこへ与平さんと突然、声がかゝった。
     いつ入ったのだろう、土間に小僧が立っていた。
     親方がちょっと来てくれないかって。
     今までにもそんな具合に時々、源次の呼び出しはかかった。
     行くと酒の相手をさせられたり、急ぎの仕事を手伝わされたりする。
     よし、わかった、あと少しですむと思ったが与平は潔く手を止めた。

     おれの兄弟子の娘でお葉っていうんだ。これがガキの頃にはなんどか会っているはずだが覚えていねえかい。
     与平が入っていくと機嫌のいい顔で談笑していた源次が相手の娘をそういって紹介した。
     与平も昔、薄汚れた小娘がたまに親方の家にやってきて晩飯を食べたり泊っていったりしたことがあったのを覚えていた。
     あの娘がたしかお葉といったはずだ。
     父親が早死して大変なんだという話ではなかったろうか。
     会釈をすると視線を合わせることなくお葉は目を伏せたのでその分、与平には余裕を持って観察する時間があった。
     綺麗な女だった。綺麗なだけにその質素な身なりが妙にちぐはぐでこの女が今、けして幸せな生き方をしていないことがしのばれた。

     お葉はな、病気のおっかさんの世話をしていてすっかり婚期を逃しちまった。今23才だ。
     お前は27才だったな、ちょうど似合いの年恰好だ。
     こいつを嫁にもらってやってはくれまいか。
     お葉は身を堅くしてちぢこまっている。
     なんとなく、そんな話もあるかもしれないという予感はあったがいきなり源次にそう切り出されて、与平はあわてた。
     おやっさん、そちらさんにも思わくはおありでしょうし、あっしだって、猫の子をもらうようなわけにはいきません。少し時間をいただきてえもんだ。
     あわてた割にはうまいその場の言い逃れができた、と思った。

     ひとときの後、お葉は帰っていき、与平は奥に誘われて酒になった。
     あいつの父親は弥七といって、俺の兄弟子でずいぶん世話になったもんだ。
     源次は普段、昔話をするような男ではない。お葉の出現と酒の酔いが源次を感傷的にさせたらしかった。

     腕は良かったが手が遅かった。几帳面な男で手が抜けねえから仕事が遅れる。それを繕うために夜業を重ねる。廻りが悪いっていうやつだな。
     もともと線が細かったが胸をやられて、あっという間に逝っちまいやがった。残された女房、子供はみじめなもんだったぜ。下の娘はすぐに養女にもらわれてったがあいつは母親の傍を離れなかった。
     母親が小料理屋の下働きで稼ぐわずかな金でなんとか食いつないでいた。
     そのうちこんどは母親が倒れちまって、なんでも、かんでもがみんなあいつの肩にのしかゝった。
     俺も孤りだちしたばかりの頃でなんの力にもなってやれなかった。
     それをなんとか凌いできたんだ。あいつはたいした女だぜ。
     源次はげんこつで涙を拭った。親方も年を取ったのかもしれない。

     その母親がこのあいだ死んで今、あいつにはなにもなくなっちまった。張りもない。支えもない。放っておいたら、一年もしねえうちに岡場所に身を晒すか首を括るかわかったもんじゃねえ。
     俺にゃそれが心配でならないんだ。女なんてやつは誰か男がしっかり支えていてやらなきゃすぐにぐずぐずになっちまうもんだ。
     なあ、与平、嫁にもらってやれ、あれは本当にいい女だぜ。
     源次の口説きに心が動かされないわけではなかったが、与平の頭には跛という負目が常にこびりついている。
     俺の裸の不様さにきっと女は目を背けるだろう。
     いくら誘われてもけして悪所に出入りしなかったのは金を払って女に蔑すまれるんじゃ間尺に合わないと思うからだ。
     哀れみか蔑すみかを心の奥に密めた女などと暮らしていけるわけがない。
     相手が美しい女だと意識をすればそれだけ与平の確信は堅牢なものになった。

  • 待つ (二)

     日が翳って、庭の石組の陰が長い。
     申の刻は少し過ぎただろうか。
     蝉の声もいつか止んでいる。かすかな風が単衣の肌に心地好かった。
     つい、この間まではこうしていると藪蚊が執拗に襲ってきて閉口したものだが今日はもうそれもない。
     人間落目になると蚊も刺さないか、清次郎はつい自嘲的な気分になる。

     あの日、異変が突発したのは下城の触れが鳴って4半刻も過ぎたころだった。
     近習溜りには普段なら10人近い若侍が屯してにぎやかなのだがそのときは上司の田村右京之介と同輩の遠山猪一郎、それに清次郎の3人しかいなかった。
     要領のいい者たちは右京之介の不機嫌に愛想を尽かしてさっさと座をはずしていったようだ。太鼓の音を聞きつけてすでに帰途についた者もいるかもしれない。
     帰り仕度をととのえて清次郎は次の間に控えていた。
     最先に退室するのは憚られる。いまだに新参者という意識が抜けず、揚げ足を取られぬよう細心に気を配っていた。
     奥の間からは右京之介が猪一郎を叱罵するねちっこい声が漏れてくる。

     厭な奴だと清次郎も思う。
     右京之介は家老、田村帯刀の息子でいずれ藩の中枢に座ることが約束された男だった。30才前で近習の組頭はけして遅い出世ではない。その先には若年寄が見えている。
     しかし当人はそれでもなお満足がいかぬらしかった。
     なにかというと人を押し退けて目立とうとする。そうして、自分の意がかなわぬときには右の顬に太蚯蚓のような癇筋が走った。その傍若無人ぶりに眉をひそめはしてもあえて諫める人がいないのは一旦憎まれると後を引くからだった。誰れもが後難を怖れていた。
     妻女でももらえばもう少し落着くものをと考えるのが親心かもしれない。世話をやこうとする物好きもたまにはいるらしいのだが、断るのか、断られるのか、話はいつも途中でたち消える。
     すべて兵馬の受売りだが、右京之介には男の方が好きなのだという噂もあった。
     父とそっくりだとも親よりもさらに悪いとも人はいう。
     清次郎は垣間見るだけで帯刀の人となりは知らないが兵馬はつねづね似たもの親子だと吐き棄ていた。

     俺などまだ多少商人の飯を食っているせいで如才のないところがあるのだろう。それとも歯牙にかける程の相手ではないととっくに見透かされてしまったか、とくにひどい目にあわされたことはないが、いかにも気のきかぬふうな猪一郎にはなにかとつらく当るようだ。
     どうも下士の分際で藩中一、二を争う剣の使い手というのが面白くなくてしかたがないらしい。

     藩主、和泉守が御前試合の活躍ぶりに目を止めて、みずから声をかけて、とりたてたというのだから、猪一郎ももう少し毅然と構えていればよいものを人並に茶坊主の真似などしようとするから阻喪を犯す。
     望外の出世が猪一郎に自分を失わせてしまったらしい。
     今朝も拝領の茶碗の口を欠したとかで一騒動だった。
     今もおそらくその件を右京之介がぶりかえしたに違いない。

     それにしても右京之介はしつこい。
     猪一郎もたまらんだろうな、清次郎は年上の同僚に同情した。
     こんなことばかりやっていると、そのうち誰かに闇討でも仕掛けられるぞ、そう思ったやさきだった。
     突然、甲高い罵声が轟き絶叫が後に続いた。
     奥の間に飛込んだ清次郎は首根から血を吹き出させた右京之介がのけぞる姿に度肝を抜かれた。
     目を吊り上げた猪一郎の鬣は逆立ち、頬からは浴びた返血が汗のようにしたたり下ちている。
     血刀を下げて、立ちつくす猪一郎はすでに人間の姿には見えなかった。
     腥ぐさい臭いが鼻腔に充満して、清次郎は必死に嘔吐をこらえていた。

     猪一郎、かすれた声が出た。
     その声にようやく我に返ったように猪一郎は清次郎に目を向けた。
     狂気を消した猪一郎の目はかぎりなく哀しかった。
     その視線を受けとめたと清次郎は思ったが、しかし、今、なにを言えばいいのか、何をすればいいのか皆目、見当がつかなかった。
     一瞬の間があった。
     次の瞬間、すまぬ、迷惑をかける、叫ぶと猪一郎は下げていた刀をいきなり自分の腹に突立てた。

     猪一郎はめったやたらと刀で腹を突きまくったようだった。
     しかし死にきれず断末魔の唸り声を上げながら血の海の中をのたうちまわっていた。
     2人の体内から迸り出た血液は天井といわず、壁といわず、あたりを真赤に染め上げていた。
     血の臭いは部屋に横溢し、たまらずついに清次郎は嘔吐した。
     一度吐くと嘔吐は波のようにくりかえし襲ってきた。

     騒ぎを聞きつけた人々が部屋のまわりに駆つけ始めた。
     腰を抜かした清次郎は後手をついて、吐きながら、知らず知らず後退さっている。
     人垣を作った何方かの足に阻まれなかったら、そのまま廊下を越えて庭にころがり落ちていたかもしれない。
     ふいに人垣が割れる気配があり、今井清次郎、うろたえるな、頭上から大声の叱責がとんだ。

     大目付、牧民部はさすがに場なれていた。
     一声で清次郎を正気に戻すとそのまま奥に進んで総てを諒解したらしかった。
     のたうつ猪一郎の肩を膝で押えると、脇差を抜いて止めを刺し、右京之介の絶命をたしかめて、その目を閉じてやった。
     とりあえず一件は落着した。
     しかしこれが清次郎の生命を左右する大騒動の端緒でもあったのだ。

     武道不覚悟とはよくぞいったものだと清次郎は思う。
     もともと武道のこころえなどまるでないようなものだったがしかし、あの場面に誰が居合わせればどうなったというのだろう。
     たしかに醜態といわれればその通りだった。
     初めて人が殺されるのを見、人が死ぬさまを見て、俺は仰天してしまった。俺は腰を抜かし、嘔吐した。それをあえて弁解しようとは思わない。
     人に指さされ、嘲られるのなら、あまんじて受けよう。
     だがそれが腹を切らねばならぬ程の失態とはどうしても思えなかった。

     大目付の取調べは詳細をきわめ、その日、深更に及んだが清次郎にはそもそも隠し立てするいわれもなく、言葉のはしばしに猪一郎への同情は滲ませたかもしれないが知ることは総て正直に申しのべた。
     事件は右京之介に刀を抜いた形跡がないことから猪一郎の一方的な襲撃として処理されるようだった。
     遠山家が取り潰されるのはやむおえないとして、清次郎にまで累が及ぶとは、その時、その場に居合わせた者の誰れもが思いもしないことだったろう。
     二、三日家でおとなしくしておれ、いずれ、沙汰があろうがどうということもあるまい、牧民部もそういって清次郎を帰宅させたのだ
    った。

     しかし翌朝早々に田村家老の家人が清次郎宛に届けてきた書状は目を疑うものだった。
     それには武道不覚悟もはなはだしい。事が殿のお耳に入るのは必定、殿のお怒りをかって上意が下りてからでは遅い。すみやかに自裁せよ。それが今井家安堵の唯一の道だということが激烈な言葉でしたためられていた。
     
     千五百石取りの田村家はもともと藩主家とも血縁で繋がる由緒ある家柄で代々家老職を務めてきたが当代帯刀になって娘の浜路が和泉守の側室に上がるといよいよ権勢をほしいままにするようになった。
     暗愚の噂のたえぬ和泉守の陰で藩政を左右するのは帯刀だと城下では知らぬものはない。

     その帯刀の泣きどころが子の少ないことだった。どういうわけか帯刀には右京之介と浜路の一男、一女しか出来なかった。
     その宝のような一人息子が殺されたのだ。
     これで名家、田村の直系は絶える。
     帯刀の無念はわからぬでもない。
     しかし八つ当りされる清次郎もたまったものではなかった。
     常識では考えられない話なのだ。
     しかし、逆上した帯刀ならやりかねないと思わせるところが不気味なのだった。

  • くすぶり

     女を抱かせてとたしかに男は言ったのだった。
     酒を飲ませて、女を抱かせてようやく聞き出した話だ、間違いない。
     10才の牝馬の引退レースだ、花を持たせようとみんなで握っている、間違いない。
     それで50万貸せと男は言った。
     旭川で挽えい競馬がさかんだったころの話だ。
     私は小さな会社の責任者で多少の金は自由になったが土曜の午前中ではどうにもならない。
     20万円をなんとか工面して俺にも乗せろととりあえず10万円を相手に渡した。
     第10レース、8番、単勝、私たちはちょっとおそい昼食をラーメンをすゝってすますと口笛でも吹きたい気持で時を待った。
     第8レース、第9レース、勝った負けたと大騒ぎする奴らが馬鹿にみえてしかたがなかった。
     しかし第10レース、その馬は第2障害を最後まで越えられなかった。
     私のくすぶりはそこから始まった。

     ツキとはいったいなんなのだろう。
     運だのツキだのとそんなことを私は口にする程、信じてはいなかった。ただ人間関係に角をたてないための韜晦じゃないか。
     それがツキに見放されるとはこういうことかと思い知らされるような事態が招来した。
     賭け事はいうに及ばず仕事家庭すべてが裏目、裏目にまわる。
     もう一つへたをすれば女房に離縁を切り出されてもおかしくない状況だった。

     長い長いくすぶりが続いて、6ヵ月後、俺の女がな、費用は持つ、皆んなでぱっとやりたいと騒ぐんだと男の誘いがあった。
     当然、私たちは一も二もなく話に乗った。
     その女、小料理店の女主人が店をしまうまで私たちは奥の座敷で待つことになる。
     
     とりあえずマージャンでもしていよう、暇潰しで嘘のような低いレートで始めたマージャンでいきなり私は国士無双をつもあがりした。
     それからはゴト師がどんなうまい積み込みをしてもこうはうまくいくまいというような手が次々ときた。
     お前、何かやってるんじゃないだろうな、しまいにはそんな声がかヽった。
     こいつにそんな腕があるか、もう1人が嘲うとこんなレートでなきゃ勝てねえんだから、好きにやらしておけと残りの1人も言った。

     そろそろいいわよ、女主人が声をはずませたとき、実は私は九蓮宝燈をてんぱっていた。
     おう、これでしまいだ、言った男が切った牌が当りだった。
     ロンといいかけて私は息をのんだ。
     冗談のような勝負だとしてもこれで上がると生命を失うといわれる程の大役だ。
     私に上がりを躊躇させるものがあった。
     私が運命の神秘を信じた瞬間だったかもしれない。
     とりあえずそれで憑物でも落ちたように私のツキのなさは消滅した。

     あれでもし九蓮宝燈を上がっていたらどんなことになっていたのだろう。
     俺はあのツキをまだ手の内に残しているのだと時々思う。
     人生、まだ勝負が終ったわけではない。