カテゴリー: ⑥片山一の文章

  • マンマ・ミーアについて少々

     女房のリクエストでマンマ・ミーアなる映画を観に行って来た。
     1999年、ロンドンで初演以来、全世界170都市で上演、3000万人以上を動員したという大ヒットミュージカルの映画化だったらしい。
     息子はこの人らしく降りると一言、大勢に流されないところを見せたが、それでも健気に送り迎えはかって出てくれたから、私は晩酌も出来て上機嫌だった。夕食後にほろ酔い気分で女房と出掛けるのも乙なものだ。

     映画は歌って、踊って、はじけて、御年60才のメリル・ストリープのまさに一人舞台だった。これだけ目立って鼻につかないところが大女優の大女優たるゆえんだろうか。普通、スターと呼ばれる人でも年齢とともにだんだん脇役にまわるものだが、この人はいまだに主役級を張り続けている。そもそも美人で売ったわけではないのでこの先、当分活躍は続くだろう。立派なものだ。

     エーゲ海に浮かぶ小島、カロカイリで民宿を営むシングル・マザーのドナがメリル・ストリープの役どころ。結婚式をひかえた娘ソフィはぬすみ見た母親の日記から、父親の可能性のある三人にドナの名で招待状を出す。そしてやってくる男たち。
     結婚式の前日と当日の二日間のドタバタがディスコ・ミュージックにのって、繰り広げられる。

     恥ずかしながらアバをTシャツのロゴでしか識らなかった私だが、聞いた覚えのある曲がいくつもあって今更ながらその存在の大きさを知った。しばらくは鼻唄にでも歌って若いふりをしてみよう。

     ミュージカルといえばウエスト・サイト物語の整然としたダンス・シーンが思い出されるが今回のような一見、雑然とした群舞も違和感なく没入できてなかなかよかった。試行錯誤しながらミュージカルも間違いなく進歩している。

     ともかく、何といっても女性の映画だ。主演はもとより、製作、監督、脚本までもがみな女性。だから女性の好きこと、うれしいことが次から次へと目白押し、007あり海賊あり絵描きあり、いずれ劣らぬいい男たちをかしずかせて悦にいったり、まあやりたい放題といったところ。最後のカーテンコール代わりのヒット・パレードのコスプレなどへきへきする男性たちを尻目に女性たちのなんと生き生きと輝いていたことか。マンマ・ミーア!…なんと、まあ!少々の涙と少々の下品さをほどよくきかせて、さああなたももうひと花、咲かせましょうよ、初老の女性に贈るオマージュだ。
     当然、女房も御満悦。女房が満足してくれたなら亭主としてもいうことはない。マンマ・ミーア…おかあちゃん!!

  • ショートストリィ 酒場にてⅢ

     誰だってそうは思うが、誰もがそういうふうにいくってわけにはいかないものだとおっしゃいますか。
     そうですね、死ぬときまで運、不運ってやつはつきまとうんですかね。
     しかし“運”っていったいなんなんでしょう。
     運、不運といっても、当人の性格やら生き様がそういうものを必然的に引き寄せている場合も少なくないですね。しかし、私はあの戦争を識っています。道路を挟んで向側の町内が全焼して、こちらの町内は無傷だったなんてことも経験しています。昨日、手を振って別れて、それっきりという友達もいた。あれはやっぱり運でしょう。
     えっ、運でなく、ただの偶然だと。偶然を理屈で説明しようとするから運という言葉も出てくるんだと、なる程、私にもそっちの方が飲み込みがいいか。

     不幸なことに私には神仏を信じることが出来ませんでした。けして馬鹿にしたわけではないのです。信仰を持てる人がうらやましいとしばしば思うことがあります。
     私のおふくろは熱心な法華経信徒で朝晩は決まって団扇太鼓をどんどんやった。おやじが無事、戦地から戻れたのも法華さんのおかげ、お前が大病をせずに一人前に育ったのも法華さんのおかげ、あの朝晩のどんどんには最後までなじめなかったが、ああして、おふくろは自分の一番核の部分を仏に仮託することでどれ程、安堵を得ていたかと思うとありがたいことだったという他はない。

     私はね、不遜というか、驕慢というか、牧師なり坊主なりがしたり顔で騙るでしょう。あれを聞くともう駄目なんですね。人格と言葉の乖離しか感じない。聖書や仏典を読むのは嫌いではないんです。だけどそれも文学作品としてとらえてしまうから手を合わせる気持ちにはなれない。
     困ったもんです。戦前と戦後の一瞬に人はくるりと一回りして、口をぬぐって、手のひらを返したでしょう。人格形成の最中にああいう姿を見せられてしまったせいでしょうか。

     だから死ねば死にきり。あの世なんてことは考えたこともない。
     死の恐怖、それは当然あります。生きものである以上、それは本能に刷り込まれたものかもしれない。だけどどんなにずるい奴でも、卑怯な奴でも、やっぱりきちんと死んでいる。だったら自分だって越えられないはずはない、そう言い聞かせています。
     案外、抜歯の前の心理に似ているのかなと思ったりします。あれこれ考えていると恐ろしさは増大するが、いざ始まってしまえばそれ程、大したこともない。
     まあいずれ、近いうちに経験することになるんでしょうが。

     やあ、もうこんな時間か。
     そろそろ帰って娘に説教されなきゃいかんな。
     くだらないことを長々と話してしまって、申し訳ありません。
     じゃ、最後に熱燗をもう一本お願いします。

  • ショート・ストリィ 酒場にてⅡ

     先客がいました。
     小さな女の子とその弟らしい男の子が動かない遊具にまたがってきゃっきゃとはしゃいでいる。母親なのだろう、まだ若い女がベンチに腰かけて、膝にたてた腕に顎をのせてそんな二人を眺めていた。
     この女も今、決して幸せではないなと直感しました。夫との別れを考えているのか、金の心配か、そこまではわからないが、人生の岐路で迷っていることは確かだと思いました。

     私は離れたベンチに腰を下ろして金網越しに町を見た。現実であるくせに非現実にしか感じられない眺望が目の下に拡がっていた。
     この薄汚れた、雑駁とした町の隅々に数十万という人々が暮らしている。今、この瞬間にも誰かが死に誰かが生まれようとしているかもしれない。抱擁する恋人たちもあれば別れ話の最中の夫婦もあるだろう。一人一人が皆、それぞれの事情を抱えて、しかし町はそんなことにまったくおかまいなく、昨日も、今日も、明日も何も変わらずあるのだろう------そんなことを考えていると何か憑きものでも落ちるように気持ちが落ち着いてきました。

     これでよかったのかもしれない。これが私の望んだ結末だったかもしれないという想いがだんだんと強くなっていました。
     女房は死ぬ二年程前から急に認知症が進んで一人では何も出来なくなりましてね。私は年金生活を始めたところで、別にこれといってやることもなかったからよかったといえばちょうどよかった。炊事、洗濯、掃除、何でもやりました。下の世話や入浴も。一緒に風呂に入って、身体を洗ってやって、湯につけるときには数を数える代わりに古い童謡なんか唄ってやると何か感じるものがあるのでしょうかね、めそめそ泣き出したりして。
     私は女房の介護を大変だなどと思ったことはありません。今、思い返すと、むしろ楽しい日々だったような気がするぐらいです。

     だけど私がぼけても、娘夫婦の手を煩わすわけにはいかない。娘はまだ子供たちが小さいし、それだけでてんてこまいしています。今以上に負担をかけたら壊れてしまうかもしれません。
     いずれ施設に入れられるしかないんだろうが、あれは嫌ですね。見も知らない他人の、薄汚い年寄りの、下の世話など誰がすすんでやりたいものですか。手を抜いて済むんなら誰だって手を抜きたい。それが人情ってもんですよ。
     殺さぬように囲っておいて、金を生ませ続ける。介護施設なんて、言っちゃ悪いが鶏卵生産工場と変わらないんじゃないですか。
     ぼけないうちに死にたいもんだと私はずうっとそう願っていました。

  • ショートストリィ 酒場にてⅠ

     私、実は今日、癌だと宣告されました。一瞬でも愕然としたのは我ながら情けない。そうじゃないかと覚悟は決めていたつもりだったんですけどねぇ。

     どうも下腹がしくしくする。耐えられない程、痛むわけじゃないが不愉快な感じがずうっと続いていた。手で押さえると変に張りがあって、いけないなと思っていたんです。しかし食欲は落ちないし、酒も飲める。まあもう少し時間はあるかなって勝手に決めて放っておいた。
     だけどどういうわけか突然、娘が一度病院に行って診察を受けて来いとうるさく言い始めましてね。ああ、私、三年前に女房を亡くしまして、今は娘夫婦と同居しています。一人娘なんですがよくしてくれますよ。私も年金は手つかずのまま渡していますが。
     なんなんですかねぇ、あれは。女の勘っていうやつかな。

     で、今日、内科の診察を受けて、一発でした。レントゲンでもわかるのはけっこう進行しているってことですかね。膵臓なんとかかんとかと説明されました。
     とりあえず入院して下さい、このまま放っておくと三ヶ月ですよと医者はおどかした。
     ちょっと待って下さい、今すぐって言われてもこっちにもこっちの都合があると私はとりあえず今日は帰してもらいました。

     妙なものですね、いずれは死ぬってことはわかっているんです。私、去年七十才を越しました。だからそれもそんなに先の話ではないとわかっているのに、とりあえず、明日じゃない、明後日でもない、しばらくまあなさそうだと先延ばしに死と真正面から向き合うのを避けてきた。
     そんなんで死が突然目の前に出現すると、やっぱり動転してしまいました。

     どうやって支払いを済ませて病院を出たものか、まるで記憶がない。夢遊病者みたいなものだったのでしょう。まっすぐ家に帰る気にもなれず、あっちこっち歩き回りました。
     そして、いつか吹き寄せられるようにデパートに入っていた。デパートなんて本当に久しぶりでした。屋上にあがると小遊園地とでもいうのかな、小銭を入れると子供を乗せてしばらく前後に揺れる遊具があるでしょう、きりんだとかぞうだとかを型どった、それが数台並んでいて、うさぎだのハムスターだのの飼育小屋、飲料水の自販機に固定式の双眼鏡、ベンチやテントもみな退色して、いつか、どこかで見たような、一時代前にタイム・スリップしたような気持ちだった。
     拡声器からはすりきれてかろうじて高音だけが聞き取れる音楽がタン、タン、タン、タン、タン、タン、と繰り返している。

     タン、タン、タン。タン、タン、タン。

  • ちょっと夫婦で

     札幌に用事が出来て、女房と出掛けることになった。
     以前なら迷わず車ですっ飛んで行くところだが最近は運転が億劫になっている。
     雪道だしな、高速料金もなあとぼやいてみせて都市間高速バスなるものに乗ることにした。JRに比べて時間は多少かかるが近間の停留所からも乗ることが出来るし料金は安いし、これは便利だ。時間など本があれば何も気にすることはない。冬季は遅れることが多いと聞いたから余裕をみたが、かえって予定より早目に着いて、デパートで時間つぶしをしなければならなかった。

     それ程久しぶりというわけでもないのだが車に乗っている時とは目線が違うせいだろうか、どうもいまひとつ地理がしっくりこない。
     地下鉄はあっちだったよな、女房に確認すると、さあという返事。
     さあと言われれば心もとなくなって、案内板はないかと二人できょろきょろ辺りを見回す。何か、やっていて自分でも小津安二郎の映画の老夫婦みたいな気がするから妙だ。

     それにしてもやたらと階段の上り下りが多い。階段を下りて歩いて、下りて歩いて、地下鉄を降りると今度は階段を上って歩いて、上って歩いて、駅から徒歩八分と聞いていたが構内を歩くだけでもう八分はかかっているのではないか。
     札幌は美しい町なのに、こうして地下になってしまえば全国どの都市ともそれ程変わりばえはなく、もったいないことだ。
     田舎の人は日頃歩くから足腰が丈夫で、というのが常識かと思っていたが、どうして、今日では都会の人の方がはるかに足腰を鍛えているかもしれない。

     用件は二時間あまり、心楽しく済んだ。
     時間が早かったから、どうすると女房に聞く。どうすると言ったって食品街をひやかすか、本屋に入るしかないわけだけど、もういいわと女房が言う。私も同じ気持ちだったから缶ビールを一本買ってもらってほどなく出発するバスに乗った。
     何か、俺たちすっかり田舎のねずみになったようだなと言うと、声をたてずに女房が笑った。

  • 釉薬(くすり)掛けなど

     釉薬掛けは裏場仕事などと呼ばれる地味なものだが製品の出来を左右する重要な仕事だ。
     雑器を焼いて暮らしを立てる小規模な工場では通常、裏手に陣取ったおかみさんや近所のおばちゃん達が日がな一日釉がめをかきまわしながら素焼をくぐらせては高台を拭くという一連の動作を繰り返している。
     手際のいい職人仕事は見ていて気持ちのいいものだがこれが無造作のようでいてけっこう熟練を要するのだ。
     素人がやるとまず厚さむらをつくる。べたべたと余計なところを触りまくって指のあとをつける。周囲は汚すし、時間はかかるしで焦るとますますうまくいかない。
     よい裏場師のいる工場は栄えるというのもわかる。

     うちの工房では釉薬掛けはいまだに私の仕事だ。もう息子にまかせてしまいたいのだが、そっちはそっちで自分の持ち分をこなすのにふうふういっているところだから、なかなかそういう訳にもいかない。
     手は荒れるし、服は汚れる。移動運搬はけっこう重労働だ。冬場などいったんあかぎれをつくると下手したら春まで治らない。年をとると手の脂も切れてくるものだろうか。若い頃にはそれ程気にしなかったように思うがともかく細心の注意で手は守る。やればまだまだ人後に落ちないという自負が何とか私を支えている。

     こんなにきれいに釉薬を掛けるのには何かこつでもあるのでしょうか、窯を持ったばかりの人が訪ねて来て、そんな質問をすることがある。
     こつは約束事を一つ一つききちんと守ること、数をこなすこと、そうしていれば誰だってそのうち上手くなります、愛想のない返答のようだが、実際これがすべてだと思う。

     釉薬は必ずバケツの中に手を入れて底からきちんと溶きましょう。
     だまが手にあたるようだったら大儀がらずフルイに二度、三度通しましょう。
     濃度計を使って適正な濃度に調整しましょう。すぐに使うためには多めに水をきって、少しずつ水を足してやる微調整がいいでしょう。
     ハンドクリームなどを塗った手で素焼を触ってはいけません。
     素焼を点検して削りくずやごみを落とし、丁寧にはたきをかけましょう。
     どれもこれも当たり前のことで、私自身が釉薬掛けをする際にも必ずこういった手順は踏む。
     しかし素人は実にしばしば横着をする。柄杓で二、三度バケツをかき回したぐらいで釉溶きを済ます。はたきはかけない。これでは誰がどうしたって上手くいくわけがない。
     好きでやっていて肝心かなめのところで手を抜くと言う心境がどうしても私には理解できない。

  • あの頃の酒Ⅲ

     あの頃はまだ女の子たちには飲酒に対する罪悪感や警戒感があったと思う。戦前の教育の残滓のようなものだが、今日のようにいくら飲んでもけろっとしているうわばみみたいな女性ばかりが増えるとそんな時代が懐かしい。
     コンパと称して男女同席の飲み会もしばしば行われたが、たとえ出席してきても仲間同士でかたまって、酒を口にする者はめったにいなかった。
     もっともみゆき族やフーテンもいたわけだから、中には今しがた人でも食ってきたような真赤な唇をしてグラスを片手に煙草を吹かすけばいおネエちゃんたちもいないわけではなかったが、他の女の子たちからは完全に浮き上がっていたし男子だってあえて近寄ろうとする者はいなかった。
     だからこそ誘ってOKをもらった時にはやったねと思ったと当時の友人は今でも語る。一対一ではちょっときどってカクテルなんかをご馳走したらしい。
     当時は何度目かのカクテル・ブームで私たちは競ってそのうんちくを仕込んだものだ。創刊されたばかりの男性週刊誌が牽引役を果たしていたのだろうか。ちょうどイアン・フレーミングの007・ジェームズ・ボンドシリーズの映画が大ヒットしていて主人公がウォッカベースのマティーニをドライで、なんてキザにきめていた。その影響も少なくなかったと思う。
     ブラッディー・メアリーだのスクリュードライバーだのといった恐ろしいカクテルを飲まされて、そのあとひよこちゃんはどうなったのだろう。

     ウイスキー・ソーダもカクテルというらしいからコーク・ハイも当然カクテルということになる。男同士では居酒屋で日本酒が多かったが、女の子が混じると決まってバーに繰り出してコーク・ハイを飲んだものだ。ウイスキーのコーラ割り、あれも恐ろしい飲み物で口当たりはほとんどコーラと変わらないからぐびぐび飲める。しかし、いい気になって飲んでいると、突然、ガクッと酔いがくる。
     私は日本人の約半数がそうだというアルデヒド脱水素酵素2型の部分欠損者だから好きなくせに酒には弱い。そうしてひどい二日酔いをする。自己嫌悪にかられてうんうん唸りながら一日、布団から抜け出せない。

     飲む度にそんなことをやっていたが酒には人生の機微も随分と教えてもらった。
     
     ある時、五、六人で居酒屋に入り、飲んだものの、飲み足りなくてどうだ有り金をはたいてもう少し飲むかと衆議一致した。千円、二千円、とそれぞれがポケットを裏返すようにして金を出してさらに飲んだ。
     じゃあな、いいかげん酔って皆と機嫌よく別れたものの無一文の私はそれからアパートまで小一時間程歩かなくてはならない。歩くのは苦手だが自業自得だ。
     二、三町ふらふらと歩いて、赤信号で立ち止まっているとすらっと通り過ぎたタクシーのうしろにさっき別れた仲間の一人が乗っていた。
     あれを晴天の霹靂というのだろう。腹が立つよりも自分と自分以外の存在との距離を改めて考えらせられた。
     人づきあいが悪いのは生まれついてのものではない。

  • あの頃の酒Ⅱ

     幸か不幸か、私たち団塊の世代は赤線や青線にお世話になる機会はなかった。もっともバクダンだとかカストリという怪しげな酒で目がつぶれたり死んだりすることもなかったから差し引きは零か。
     高度成長に比例するように酒の品質もどんどんよくなっていた。
     ビール大瓶一本百二十七円、缶ビールなどという気の利いたものはまだなかった。日本酒二級一升五百五十円、清水崑のカッパの絵が頭に刷り込まれていて、何かとこのメーカーのものを買った。
     トリスを飲んでハワイに行こうというコピイが大流行だったが一本三百八十円のトリスはあまり飲まなかった。悪くてもその一ランク上のレッド。レッドはまだ丸ビンで五百円だった。
     大衆の酒、焼酎は……と唄いはしたが焼酎も飲んだ記憶がない。ちなみに煙草も新生を吸う奴はいなかった。みんな、ハイライトかセブンスター、馬鹿が一人いきがってゴールデン・バットを吸っていた。一箱二十本入り三十円、とんとんと詰めると上の方三分の一程が空になる。火をつけるとパチッパチット爆ぜて、下手をするとズボンを焼いた。中也はこんな煙草のどこがよかったのか。
     ともかく、学生はけっこう贅沢だった。昭和元禄と揶揄される所以だろう。

     なにかというとすぐ酒になる。本当によく飲んだ。アルバイトの帰りがけ居酒屋に流れることも少なくなかったけれど、大概は誰かかれかのアパートに集まって車座になって飲んだ。
     親元を離れて、一人立ちしたものの、まだ一人は心もとなく、とりあえず群がったのだろう。私も構えていた割には誘われると断らなかった。
     そんな席に女の子が混じることはまずなかったと思う。下卑た猥談で盛り上がるなんてこともなかった。まあ、ほらを吹ける程の経験もなかったのかもしれないが、酒にほてった頭で声高にけっこう高級な議論を闘わせたものだ。政治、文學、人生、気の合う奴も合わぬ奴もごったごたで、みんな、それぞれ勝手なことをしゃべっているようでそれなりにけじめもあったから、めったなことではけんかにもならなかった。
     そして、お決まりのように誰かが酔いつぶれ、誰かが吐く。妙なもので介抱にまわると酔いは醒める。肩を貸して外に連れ出す奴、手際よく後始末をつける奴。
     ほてった頬を風にさらしながら夜道を帰ると金鳳花の匂いが鼻をくすぐったりして青春だった。
     あれは今、思い出しても懐かしい青春だった。

  • あの頃の酒Ⅰ

     昭和四十二年の春、私は東京の小さな末流の大学にもぐり込んで家を出た。私は拗ねた十九才で斜に構えることでかろうじて自分の矜持を失わずにいたが、すでに夢だの希望だのがかなう立場にないことは承知していた。いや、そう言いながらパンドラの棺のたとえのようにポケットのすみには羽虫が一羽、ひっそりと息づいていたのだったろうか。
     ともかく閉塞状況から解放されたのはうれしかった。
     
     時は昭和元禄のまっただ中、GNPは世界第二位に迫る勢いで伸びていたが、当然、その負の半面、公害や薬害だの都市問題も顕在化していた。喉元を過ぎて、笑って見ているが、現在の中国、北京の状態とそれ程変わらなかったのではないかと思う。

     アングラ酒場、フォークゲリラ、フーテン、情報はリアルタイムで地方にも届いていたが、しかしなんといってもここにはその実体があった。
     街を歩けば髪も髭も伸ばし放題の若者たちがビルの脇にけだるそうに寝そべっていた。ギターを抱えて大声で唄う若者がいた。膝を抱えて聞き惚れる少女がいた。そういう存在をまるで無視して忙しく行きかう人、人、人の波があった。
     階段を上がっていて、ふと目を上げるとミニスカートの奥がまる見えだった。慌てて視線をずらす間もなく罵声をあびていた。どぎもを抜かれて腹が立つまでには時間がかかったが、馬鹿はどっちだ。
     そうして革命という緊張はなかったが実にしばしば暴動が起きていた。
     よくも悪くも東京だった。

     大学はどこでも学園紛争を抱えて混乱していた。赤だの青だの白だののヘルメットをかぶり、タオルで顔を覆った連中が三分角の角材を片手に集団ヒステリーで熱くなっていた。
     それはそれでノンポリと呼ばれた私たちのような存在にはありがたいことだった。授業がサボれるというより学校が機能不全に陥って授業そのものが成立していなかった。
     早々に大学に見切りをつけると、私はアルバイトとおぼえたての酒に関心を集中していった。
     自分でも意外だったのは私には妙にセールスの才能があったことだ。
     出来たての友人に誘われて始めた日給プラス歩合の訪問販売の仕事では常に上位の成績だった。二万とか三万という当時の金額は今日だったらおよそ三倍程の値打ちにもなるだろうか。日雇労働者(ヨイトマケ)の日当が千二百三十六円の頃だ。毎月のようにそれぐらいの歩合があった。
     そっちの方の才能を伸ばしていれば、また別の人生だったかもしれない。

  • “偕老同穴”余話

     偕老同穴と題した文章が新聞に掲載されたのが一月三日でそれから二日後のことだ。
     電話が鳴ったのは昼近い時間だった。家では電話はまず女房がとることになっている。その件でお話がと聞いた途端、どういうわけか女房はクレームだと思い込んだらしい。そうささやかれて替った私もだから当然そのつもりでいる。あの文章は二重、三重のチェックが入っていたはずだが、上手の手から水が漏るということもないとはいえない。しかしどこが問題なのだろう。
     とある神社の公司だと名乗った相手は静かな口調で読後感などを述べている。一見悪意などありそうにも思えないが、けなすなら褒めろというのは大宅壮一以来、知る人は知る批評の必殺技だ。こういうのが一番手強い。私は短く返事を返しながら相手の出方をうかがった。
     -----それで偕老同穴をご覧になったことはおありですか。
     そうか。そこか。そこを突かれると弱い。私は実際の偕老同穴は知らない。東京大学総合研究博物館が所蔵するガラス容器に入ったホルマリン漬のものを写真をみただけだ。でたらめな受け答えで話をこじらせるのもいやだったから私はその旨を正直に話した。
     そうでか、それでは-----と、しかし話は突然、予期せぬ方向に急展開した。その神社に寄贈を受けた偕老同穴があるのでよろしかったらお見せするとのことだった。ありがたいお話でありがたくお受けしたが、私の態度の豹変ぶりは自分ながら情けない。相手の方もさぞかし、不審に思われたことだろう。
     それにしても、女房のやつ。
     女房の早とちりには今さら大して驚きはしないが憮然たる想いは残る。正月早々つきつめるとドウケツエビに笑われそうだから我慢はするが、これって私の書くことをまるで信用していないことではないか。
     とりあえず、横で心配げに聞き耳を立てていた息子にだけは大いに受けた。
     とんだ初笑いを提供したものだ。

  • ショート・ストリィ “風子”Ⅰ 後編

     家って人がいなくなると、何でこんなにガランと冷え込んでしまうのだろう。まるでしおれた花、置き忘れられた人形、もう拗ねてなくたっていいんだよ、風子は言い聞かせるようにわざと足音を響かせて家に飛び込んだ。
     越してきた当初はせまくって、古くって、大嫌いだったけれど、いつの間にか慣れてしまった。いまはもう私の家の匂いがしている。
     風子は手を洗うと冷蔵庫から牛乳とジャムパンを出して卓袱台の前に座った。
     いただきまーす、誰が聞いているわけでもないのだけれど、いつものように声を出して、風子はおやつを食べ始めた。

     風子はあまりテレビが好きではない。あれっと思って確かめようとしても前に戻ることが出来ない。次から次に場面が進んで考えがまとまらないうちに終わってしまう。その点、本はいい。いつだって思った場面に戻ることが出来る。
     風子はカバンの中から読みかけの長くつ下のピッピを取り出して読み始めた。
     ピッピは今日もさるや馬といっしょに大活躍だった。なんてったってピッピは世界一強い女の子なんだ。
     ピッピはいいなあ、だけど私はそんなに強くなれそうもない。

     本を読み終えると風子はしようこともなく、出窓に肘をついて外を眺めだした。
     みるみるうちに夜が来る。一センチ、一センチと四方八方から夜の闇が迫ってくるのが目に見えるような気がする。
     降っているのかいないのか、わからない程の雨だけれど、それでも硝子窓には水滴が丸くかたまり、下の水滴に飲み込まれたり、となりの水滴とくっついたりしながら、大きくふくらむと急にすべり始める。すうっとまっすぐ下に落ちたり、ぎざぎざと斜に走ったり。これって何かの法則でもあるのだろうか。まるで音楽にうかれてはしゃいでいるようにしか見えないけれど。

     遠くで街灯が光っている。雨の粒の中ではくっきりと、さかさまに。
     あれはもう別世界のことだ。私たちとは別に生きているさかさまの世界。
     雨の粒が流れたあとではぼわっと大きく、街灯はにじんでみえる。
     お父さんとお兄ちゃん。
     だけどお父さんとお兄ちゃんのことを考えては駄目だ。

     がたんと玄関の戸があいて、ビニールの傘をすぼめながらおかあさんが入ってきた。
     ただいまあ、何かとっても機嫌のよい声。大きな紙袋をかかえたおかあさんは上気した顔をして、まるでたぬきみたい。ちょっとお酒でも飲んで来たのかな。きつねになったり、たぬきになったり、おかあさんも忙しい。そんなにぐるぐる気持ちが変わるようなことが起こっているのだろうか。

     ごめんね、さびしかったでしょう。おなかすいたよね、おかあさんの声を聞いていると風子はなぜだか急にかなしくなって、飛んでいくとおかあさんの服に顔を押しつけると泣いてしまった。雨に湿った服の内側から、おかあさんのあたたかさがにじみ出てきて、今はこのぬくもりさえあればそれでいいと風子は泣きながら思っていた。

  • ショート・ストリィ “風子”Ⅰ 前編

     自動車の前の方って、やっぱりなんだか顔に見えると思う。動物の顔だったり、人間の顔だったりはするけれど、大きなライトは二つの目だし、銀色のバンパーは口、ラジエーターグリルは鼻で、そうやって見るとけっこうみんな個性的な顔をしている、、、。
     
     直前まで来て止まった車の顔が蛙みたいに見えたので気を取られていると、降りてきたおじさんはもっと蛙みたいだったので吹き出すのをこらえて下を向いた風子だったけれど、尋ねられたところが自分の家だったので笑いはそのまま凍りついて、不安の表情だけが残った。
     指さした方向に歩いていくおじさんの後姿を見送りながら、今度は何なんだろうと風子は思案する。
     ここずうっと、いいことなんてない。昨夜もおかあさんは私が寝入ったのを見定めるようにして泣いていた。あのおじさんは何かもっと悪い話を持ち込んできたのだろうか。

     風ちゃん、御飯の支度、出来た、ケイちゃんにうながされて風子は我にかえる。
     いつものようにケイちゃんの家の玄関先、道路のすぐ横にシートを広げて風子はミイちゃん、ケイちゃんと三人でおままごとの最中だった。
     今日はミイちゃんの誕生日で風子はちらし寿司を作ることになっている。ねえ、イチゴと栗とどっちが好き、とケイちゃんがミイちゃんに尋ねている。ケイちゃんはケーキを作っているところだけれどイチゴケーキかマロンケーキのどっちがいいかということなのだろう。
     やっぱりイチゴ、ミイちゃんのおだった大声を聞きながら、去年はみんなでイチゴ狩りに行ったけれど今年はどうなるのだろうと風子は思った。
     お兄ちゃんは去年、いい気になってイチゴを食べ過ぎてお腹をこわして大騒ぎだった。

     蛙のおじさんについて出てきたおかあさんは何かきつねのお面をかぶったみたいにつんと目をつり上がらせて真っ白い顔をしていた。
     ちょっとお出かけしてくるけれど、いい子でおるす番していてね、おかあさんがおじさんと蛙の車で行ってしまうと急におままごとにも身が入らなくなってしまった。何となくそんな気分が伝わったのかもしれない。
     もう止めようか、ケイちゃんが言って、そうね、ミイちゃんが相槌をうつ。
     後片付けを始めると、ふいに風が一吹き、雨の匂いと思う間もなくパラパラと雨が降り出した。
     じゃあね。
     またね。
     三人はそれぞれに声をかけあって、家に駆け戻った。

  • 偕老同穴

     「ねえ、偕老同穴(かいろうどうけつ)って知ってた?」と聞くから「一緒に年をとって最後には同じ穴に眠る、だったかな。夫婦仲むつまじいという意味の言葉だったと思うよ」と答えながら、ふと見ると女房は笑っている。
     どうも、いつもの知ったかぶりを試されたようだ。「カイロウドウケツ」という生物がいるのだという。早速調べた。
     深海にすむ海綿動物の一種で、西洋では「ビーナスの花かご」と呼ぶ。ヘチマ型の竹かごみたいに空洞になっている。その中に「ドウケツエビ」という雌雄一対のエビがすむ。利口なエビだ。敵から襲われる心配もせず、夫婦水入らずで一生過ごす。それで、この故事成語をたまわったらしい。
     子供ができたらどうするのかな、なんてちょっといらぬ心配もしないわけではない。ごくまれに一匹ということもあるらしいから、やっぱり連れ合いを失うこともあるんだろう、自然界も厳しい。
     エビは世界で三千種、日本には六百種ほどいる。日本人は無類のエビ好きで、世界中のエビを集めている。だったら、このエビの存在だって、もう少し知られてもいい。
     「熟年離婚なんて言っていると、ドウケツエビに笑われるぞ」と、この正月、女房を相手に一杯やりながら盛り上がってみよう。 (北海道新聞「朝の食卓」2009年1月3日掲載)

  • 雑煮雑感

     女房の実家で最初にその雑煮を出された時にはさすがに当惑した。
     煮崩れたどろどろの野菜の中にもちが見えかくれしている。頭もしっぽもついただしこもそのままで二、三匹は入っているようだ。どこぞの郷土料理なのだろうか。それにしても御馳走の体裁がない。
     正月、義父や義兄と屠蘇をいただいていささか高揚の状態にあったから箸が出たが素面であれば口に出来たかどうか。私は案外目で食べる方だ。
     それがうまかった。義母は婿が上手を言っていると思ったかもしれないが本心うまかった。
     以来、それが我が家の雑煮になった。家の伝統などという意識をまったく持たない若い頃だったから、迷いも何もなかったが、今、考えると私の方の親たちにはちょっと悪かったかなという気もする。
     子供の頃の雑煮はしょうゆ味の澄まし汁に焼きもちと薄く切ったダイコン、ニンジン、しいたけ、ミツバなどが色どりを添える程度に入る。父親は宇和島の生まれだからおそらくその地方のごく一般的なものなのだろう。子供心にはうまくも何ともなかった。儀式として食するといった感じだった。
     母は帯広の生まれだがその父親は大阪の人だったからおそらく、大阪風のお雑煮を作っていたに違いないが、これは残念ながら食する機会がなかった。
     雑煮については民俗学的、歴史学的な研究から、料理のレシピに至るまで相当量の書物が出版されている。それだけ地方地方の特色が今もはっきり残っているということだろうか。
     だけどちょっと考えただけでも角もち、丸もち、焼くの焼かないのから始まって、塩味、しょうゆ味、みそ味、そして具材を変えればそれはもう無限に派生していく。中にはあんもちを使うものやもち抜きという変り種もあって、さらに種類は増える。極言すれば一家に一種、雑煮あるといってもいいだろう。
     それ程の種類がありながら、よほど決心してかからなければめったによそ様のところのものを口にする機会がないのもまた雑煮の目立った特色だ。
     少なくとも私は自分の育った家のものと今は自分の家にも引き継がれた女房の実家のものと、この二種類しか食べたことはない。
     それでも私は自分の家のものが一番美味しいと思うし、隣は隣でやっぱりそう思っているのだろう。こういう平穏を人はもっと信じた方がいいのかもしれない。 

  • 幕あい

     突然書こうと思った。十月の初めのことだ。どうして今どき、そんな気持ちになったものか、天命などを持ち出すとやっぱり笑われるのだろうか。

     私は自他共に認める文学青年で、若い頃には当然詩や文章も書いていたわけでそれは当時、それなりの評価も受けた。小さな雑誌だったが数年にわたって連載もしていたからひょっとすると思い出してくれる人がいつかもしれない。
     しかし筆を折るという意識もないままに仕事や生活にかまけて、何となく書く世界から遠ざかった。子供の作文に手を加えたりあいさつ文をひねったり、年に数回、そんなことで文章をいじくるのが関の山だった。相変わらず本は読み続けていたが気楽な立場で他人の文章にけちをつけて、うさを晴らしていた。
     まあ、ほとんどの文学青年がたどる道でなれの果てというみじめな自覚も持たなかった。

     小さな種火がついたのは、六ヶ月前、町に頼まれて広報に六百字あまりの文章を書いたことだ。実に久しぶりに活字になる文章だった。けっこうしっかりしたものに仕上がったように思われて自分を見直していた。
     やれば出来るかもしれない、しかしそれは多かれ少なかれ今までもずうっと持ち続けてきた気持ちであって、実際に始めるにはそこからさらに大きな力でもう一押し二押しが必要なこともわかっていた。

     そんな折、新聞のコラムの執筆者に選ばれる可能性が出てきた。
     ブログという発表の場所を見つけたのも大きい。誰に読まれるあてもなく書き続けるのはつらい。結局、書かなくなった原因はそれだ。
     子供たちのあと押しも大きかった。
     「もし、今、思いきってやらなかったら、おまえはけちなごみくずなんだし、いつまでだって、けちなごみくずのまんまだぞ—-。」
     こうなれば書くしかない。

     一篇六百字あまりを週二篇書く、最初にそう決めた。プライドはある。書くからにはそれなりのものを書かなければならない。書き始めた以上、書き続ける。
     そして三ヶ月、夢中で書いた。誰かれが読んでくれている、それが大きなはげみだった。けっこうきつかったがやれば出来た。約二十篇、五十枚程の原稿用紙を消費したことになるだろうか。私は古い人間なので何かというと原稿用紙に換算して量を計る。
     千枚も書きためたらものになるものならものになるだろう、かってこの世界の末端につながる人にしたり顔で言われた言葉だ。言わんとするところはわかるがやり遂げるには大変だ。
     とりあえず来年は百篇、原稿用紙で二百枚程度を目標にする。
     書くことはある。しかし書くものがみな女房への恋文のようになってしまうのはどうしたものだろう。反省する必要があるのかないのか、これは問題だ。

  • サボるⅢ

     三年の三学期なんて十日も登校日があっただろうか。もう行かなくてもいいようなものだと思われたけれど最後の最後におかしなチャンをつけられるのも嫌だったからとりあえず登校すると待ってましたとばかりに担任から呼び出しがかかった。
     職員室に顔を出すとお前ちょっと休みすぎだなといきなり言われた。はあとあいまいに答えるしかない。まだ状況が飲み込めていなかった。
     それでだ、もう一年、やってもらわんとならんことになったから、一年間目をつぶって泳がせた私に決定的な一撃を食らわせて担任はさぞ溜飲を下げたことだろう。自分はどのような反応をしたものか、青菜に塩、そんなもので済んだのならまだいい、思うだに情けない。
     -----しかし、先生、八割ということでよかったんじゃないですか。
     -----そうだよ、でもお前はどの教科も八割には足りないな。
     -----そんな。ちゃんと計算して……。
     -----残念だったな、お前、学校があってもだよ、授業がつぶれるとそれは授業があったことにはならないんだ。学校祭だろ、体育祭もあるわな、中間試験に期末試験、けっこう授業はつぶれているんだぞ、そういうの、みんな計算に入っていたか、えっ。

     いわれて見れば確かにそうだ。弁解の余地もない。進退にきわまるとはこのことか。ああ、もう一年。しかし、そんなことは死んだって嫌だ。
     -----なんとかなる方法なんてないもんでしょうか、言いながら担任を盗み見る。
     -----お前が勝手にやったことだ。おれは同情なんてする気はないぞ。自分で始末をつけるんだな、だが担任にはどこか、とりつく島がありそうな気配だった。
     
     あれで執拗にいたぶられていたらやっぱり私は席を蹴っただろうし、学校も止めていただろう。当然、一頻り説教は喰ったが切り上げの間合いは見事だった。
     -----いいか、恭順の意だぞ、恭順の意。そんなだらしのない格好では駄目だ。服装を整えて、髪だって、さっぱりさせろ、おれからも頼んでおいてやるから、一人、一人、教科の先生に頭を下げて歩け。ひょっとすると、本当にひょっとするとだけだけどな、助けてもらえるかもしれないから。

     私たちの学校は丸刈りと決まっていたが三年の二学期終了時からは伸ばし始めてもよいと暗黙の了解があった。それを教師の目を盗んで少しでも前倒しする。皆が皆考えることだが私の髪もけっこう伸びていい感じになっていた。
     髪は女の命だなどという。男だって口にこそ出さないだけで命がけだったりするから高額のかつらをかぶったりするのだろう。
     未練がましく鏡をのぞいて溜息をついて、しかしそんなことをいっていられる場合ではなかった。

     私は青々とした坊主頭で、きちんと詰襟に白カラーを立てた学生服姿でしおらしく、教科の教師に頭を下げてまわり、どうにか卒業にこぎつけた。
     式の当日、担任が言った。
     -----お前、今夜、おれのところへ来い、お前とはもう少し話しておかなきゃならないことがあるみたいだ。
     私はその夜、図々しくも一升ビンを下げて担任の家に乗り込み、差し向かいで飲んだ。
     よかったなあと担任は幾度も繰り返す。そのあげく、今度はお前の家へ行って飲み直そう、と騒ぎだした。
     -----おれはお父さんやお母さんにも一言、よかったねって言って上げたい。
     だけどもう担任は足腰も立たない程酔っていた。
     よかったなあ、くずれた腰で担任は私の為に泣いてくれた。
     だから四半世紀を過ぎて担任は今も恩師なのだ。

     私はつい最近まで、高校を卒業できずに苦悶する夢を見た。だだっ広い教室に一人、丸刈りの私は立たされうなだれている。奇妙なことに私には、すでに妻や子がいるらしい。ここで卒業できなければどうにもならないということで焦っている。焦っているがどうにもできない。ぐっしょりと寝汗をかいて目を覚ます。うなされたような気もするが自分ではわからない。
     そうやって私は生きのびてきた。しかし生きのびたことに意味があったかどうか。
     朝、息子の顔を見ると生きのびた意味がなかったわけでもないような気もする。

  • サボるⅡ

     死後、自分の支配を離れた肉体の存在について私は苦慮していた。
     縊死にしろ、服毒死にしろ、死ぬと筋肉は弛緩する。すると鼻汁、唾液、大小便の類が体外に漏出する。
     目を見開き、唾液を垂らして、下半身を汚した私の死体。それは今、身を置くこの現実よりさらに醜悪な様相ではないか。
     不様な遺体を人目に晒すのは何としても避けたかったが、これといった適切な対処の方法がなかなか思い浮かばなかった。
     私が躊躇するのはそれだった。しかし本当は死なずに済ます口実を探していただけのことだったのかもしれない。

     そんな矢先、何気なく生徒手帳を見ていると八割の出席を要すという記述が目に入った。八割の出席、言い換えれば二割はサボっていいのだ、私はカレンダーを前に腕を組んだ。
     英語や数学は週三時間あったりする。美術は逆に二時間通しで週一回だ。複雑に考えればいくらでも複雑になりそうでこんがらがってくる。ふうむ。
     だが一瞬にひらめくものがあった。そうか、なんのことはない、五週に一週休めるということじゃないか。曜日をずらしていけば毎週一日サボれるのだ。
     これはまさに天の啓示だ。

     私はすでに学業は放棄していたが、出来ることなら卒業はしたいという俗っぽい希望も持っていた。そういう自己矛盾が当時の私で処理できずに抱え込んだ諸々に膨れ上がり、破裂寸前だったのだ。
     週一回サボって問題にされないのならこんなありがたいことはない。 
     わらを掴むような気持ちで実行にうつったものだったが、それは私の閉塞状態に見事に風穴を開けてくれた。このことがなかったら私はやっぱり持ちこたえられなかっただろう。

     天が恵んでくれた自由な一日。
     学校に行くようなそぶりで家を出て、公園で一日、寝転がっていたこともある。そのまま空に吸われてしまえばどんなによかったことだろう。
     映画にもよく行った。学割で入ってガラガラの席に座っているとモギリのおやじがやって来て、すみません、お客さん、この時間に学割ってわけにもいかないものですからと、一般料金をとられることもあったが別に学校に通報されるわけでもなかった。
     海が見たくなれば汽車にも乗った。帰りの汽車がなくて、さすがに途方に暮れていると見も知らぬ人が家に誘ってくれた。その人とは今でもつきあいがある。札幌で作品展を開くと必ず娘につきそわれてやって来て、私の手を握って泣いてくれる。もうそろそろ九十才になるんだったろうか。

  • サボるⅠ

     小学校は皆勤で通した。その年は五百人を越える卒業生の中でこの栄誉を受けたのは三人だけだったような記憶がある。母親の意地だったのかもしれない。熱があろうが腹が痛もうがとにかく学校へ叩き出された。登校拒否なんてことは思いもしなかった。ただいじめられにいくようなものだったが自殺も考えたことがない。
     中学は最後の最後、馬鹿なことをして大怪我をしたばかりに皆勤は逃したが、それでも三日と休みはしなかった。中学では学力が腕力とほぼ同等に評価されるようになったから私にはよほど居心地がよかった。
     サボることを覚えたのは高校に進学して、一年休学して、復学したあとからのことだ。

     その年の四月、私は一年下のクラスに編入された。それが嫌で嫌でたまらなかった。
     私は何も悪くない、私はむしろ被害者なのになぜ私だけが割りを食わなければならないのだろう、諦めてはいたが諦めきれない恨みだって残る。
     私は右足を一本駄目にして、人生に絶望していた。周囲はそれなりに気を使ってくれていたが、私はすでにこの世のどこにも身の置き場がないという気持ちになっていた。
     私は自分を殻に閉じ込め本を読み漁る合い間に死ぬことばかり考えていた。

     自分の為に多少弁解がましいことを言えば学習指導要綱が改定されて、一学年下からは教科書の内容も格段にに高度になっていた。例えば数学では私たちの年度までは幾何は高校の分野だったが、一つ下の学年では中学で終了していた。英語なども一気に数千という単位で単語数が増えて難解だった。
     一年間、全く学業を放棄した挙句、この端境にはまったわけだから授業についていけるわけがなかった。
     私の自分のプライドの為にも拗ねてみせるしかなかったのだ。
     それでも私の中にはどうしても棄てきれない常識というようなものがあって例えば学生服の中に煙草やナイフを忍ばせていたとしても粗暴にも不良にもなりきれなかった。
     どういうわけか女にだけはもてた。年上にも、年下にも。一生分もてたかもしれない。硝子の破片みたいでキラキラとかっこよかったと今でも女房は言う。女房は遅れたあとの高校の同級生だ。

  • 犬の名前(日本篇)

     日本人に最も膾炙した犬の名前と言えばやっぱりハチ、忠犬ハチ公だろうか。渋谷駅前にあるあの銅像の犬のことだ。東京帝国大學農学部教授上野英三郎とこの秋田犬の物語は本になったり映画になったりしているからあえて説明するまでもないだろう。文字通り喪家之狗となって人々の同情を誘った。
     銅像つながりで言うのだが上野公園の西郷隆盛が犬を連れているのはご存知だったろうか。西郷どんも無類の犬好きで、常に十数頭の犬を飼っていた。その中でも特にお気に入りだったこの犬はツン、薩摩犬の牡だとか。西郷隆盛の人気を考えればもう少し人に知られてもよい名前だと思う。
     タローとジローも忘れられないが、このカラフト犬たちの思い出にはやはりある種の感慨がつきまとう。人間の都合で南極に置き去りにして一年、よく生きていたと国中が沸いたが、いささか身勝手なはしゃぎ方だったような気もする。
     
     話の方向を変える。物語からも少し。
     おとぎ話、花咲じいさんのシロも子供の頃には幾度となく聞かされた名前のはずだ。シロ・ポチ論争なんておかしな騒動があったけれど、どう考えたってそんな昔、ポチなどというフランス風の小洒落た呼び方があったとは思われない。シロはやっぱりシロでいい。
     それにしてもこの話には妙に犬の生態がリアルに描かれていて驚かされる。ごはんを一杯食べたら一杯分、二杯食べたら二杯分といったあたりも仔犬から幼犬にかけての一時期はまさにそんな感じでぐんぐんと大きくなる。ものをくわえて運んできたり、ここ掘れわんわんといった仕草もよくみせる習性だ。粉にして撒くと花が咲くというのも骨はリン酸カルシウムなのだから理に適っている。犬と人の関係がよほど濃厚な地方で生まれた物語なのだろう。

     南総里見八犬伝の八房もぜひ覚えておいて欲しい名前だ。個人的にはこの物語が大好きで子供向けに書き直されたものから本格的なものまで何度読んだかわからない。今はもうすっかり忘れてしまったが八犬士の名前などそらで言えたものだった。
     昔、東映の八犬伝で中村錦之介の犬塚信乃と東千代ノ介の犬飼現八が芳流閣の楼上で大殺陣まわりを演じたシーンなど昨日のことに思い出される。
     
     日本の動物文学は世界的に見ても決して低い水準のものではないと思うのだがなにせ一般的には人気がない。チンだのマヤだのといきなり言われても面食らうだろうが、戸川幸夫の高安犬物語、椋鳩十の熊野犬の主人公の犬の名前だ。犬好きが読めば必ずはまる、犬はそれ程でもないという人でも犬好きになること請け合いだ。今日でも入手しやすい本だから、ぜひ一読を。

     子供の頃、世間ではジョンとかペスとか何か外国人めいた呼び名が流行っていた。私は長い間、それを進駐軍への意趣返しでジョンなんて呼んで寄って来ると頭をぽかりと叩いて溜飲を下げているのだと思っていたが、どうも深読みに過ぎたようだ。あれは外国名の犬の名を呼ぶことで、つかの間、自分自身も外国人になったような仮想に浸ったものなのだろう。日本人の性癖を考えるとこっちの方が正しい気がする。

     最近の犬の名前は、モモ、ナナ、サクラがベストスリーだという。
     人間の子供の名前と比較するとむしろ大人しい気がするが、これについてはどう考えればよいのだろうか。

  • 柿右衛門

     十四代柿右衛門の講演を聞く機会があって息子と出掛けた。
     開演十五分前に会場に入ったが、すでに満員、どうせ同業者か学生ばかりだとの思惑は外れて着飾った中年過ぎの女性がやたらに目につく。
     すごいな、これみんなファンかと息子にささやくと柿右衛門を持っているセレブな奥様たちなんじゃないのといたって冷静な返事。それならそれでなおすごい。
     出来れば最前列にと探したが二列目も三列目も満席、かろうじて七、八列目の中央に二つ続きの空席を見つけて座る。
     
     定刻に遅れること五分、主催者の挨拶があって柿右衛門が紹介される。人間国宝だ、三百年の伝統だと目くらましがかかるからどんなオーラに包まれているのだろうと思っていたが現れたのはごくごく普通の人だった。話しぶりにも何かいま一つ冴がない。あっちこっち引きずり回されて疲れてもいるのだろうが、何よりもこんな講演が嫌で嫌で仕方がないという気配だ。本当に物造りの人なのだろう。

     世間ではうちの品物が随分高いように言われているが私にすればまだ零がもう一つ二つ多くたっていいような気がする、土もいいものがなくなって探すのが大変だし、などとぶつぶつくどき始めた。いいぞ、いいぞ、もっと言ってくれと私は腹の中で手をたたく。
     顔料もなかなかいいものが手に入らなくなったしと“緑青”造りの苦労話。まったく私たち手仕事の職人には生きづらい世の中なのだ。
     
     職人が一人前になるには三十年はかかると話が続く。工程の一つを安心して任せられるにはうちに来て、やっぱり三十年はかかりますね、うちでは職人はみな道具から手作りします。話が微妙にずれて、ますます私には面白くなり始めた。

     木を曲げます、曲げた木が元に戻らないように添え木をして蔦や何かでぐるぐる巻きに締め上げます、それを沼に三年程沈めておく、するとしっかり癖がついてもう元には戻らない、それをガラスの破片で削って整える-----。牛ベロの作り方だなと思った。このコテは有田特有のものでかっては瀬戸以東では使われなかった。作り方がややこしいせいもあったのだろう。内弟子で修行した笠間でも使う職人さんはいなかった。それが陶芸ブームで機械的に量産されたものがあっという間に全国に拡がった。
     私も面白半分に使ってみて、すぐに納得、以来十年程愛用しているがすべてを手作りしたことはない。

     なるほど、そうか、そうするのか、何かすごく貴重なことを教えてもらったような気がしてありがたかった。決して上手とは言えないが柿右衛門は朴訥に己の内側を垣間見せてくれた。この人は仕事をさせてこそ輝くのだろう。いかに伝統とか権威に弱いとはいえ、またそれだけで済む世界ではない。
     ブランドを一身に背負うが故に残された貴重な時間をこんな営業・宣伝に割かなければならないこの人の切なさを思った。
     三十分も予定を余して終わる講演もあまり経験がないが、それでもよかった。とりあえず“牛ベロ”を作ってみよう。同じ話を聞いた息子もきっとそう思ったに違いない。

  • もしもピアノがひけたなら

     音楽はまるで駄目だ。演歌なら一、二曲は何とかはずさないで歌うことが出来る。どうしても人前で歌わなければならない時にはそのとっておきの一、二曲を使いまわす。調子に乗って他の歌に手を出すと周囲が露骨に白ける。それ程、場の空気が読めないわけではないからあとはひたすら手をたたく側にまわる。同じ金を払って馬鹿らしいと思うが仕方がない。

     父親は酒の飲めない人だったがそれでも酔うと軍歌をどなった。歌というものではないなと子供心にも思ったものだ。
     子守唄代わりに聞いた歌の記憶がある。それが“青葉の笛”だとわかったのは母親が死んでしばらくしてからだ。その時は泣いた。しかし私がものごころがついてからの母親は歌わなかった。たしなみもあったのだろうが、やっぱり自信もなかったのだろう。こんな具合で私は音楽には恵まれなかった。

     昭和二十年代後半から三十代前半の義務教育の音楽もかなりひどいものだった。一つ教室に六十人を超える生徒を詰め込んで教師の弾くオルガンに合わせて唱歌を歌う。週一度、毎度毎度がこれだった。妙に裏返った高い声で得意気に手本を示すいかにもうだつのあがらない中年の男をどうして尊敬できただろう。私たちはしばしば叩かれたり、立たされたりしたが、一度なめられたら、教師なんて憐れなものだ。

     しかし、音楽に才能のある者、好きな者、努力する者はそんな中からでもちゃんと芽を出してくる。小学校の五、六年生になるとぼつぼつハモニカを吹く少年たちが現れた。私たちはそんなハモニカ少年を囲んで草原にたむろして、うっとりと聞き惚れたり歌ったりしたものだ。今の小沢昭一よりどれ程、うまかったかしれないと思う。

     世の中は敗戦のどさくさを過ぎて動き始めていた。すでに恵まれた家庭の子供たちはピアノやバイオリンを習ったりしていたことはもっと後になって知った。妻は同じ年だが琴を習っていたというから大したものだ。
     
     高校時代はフォークソングの大ブームだった。誰もかれもがギターを抱えて歌っていたような気がする。コードさえ覚えれば簡単なんだ、やってみろよと何度もすすめられたが、もうその頃には音痴というレッテルを自分でしっかりかかえ込んで音楽の話を人前でするなどまったくおよびもつかなかった。

     もしもピアノがひけたならという歌がある。才能もない、努力もしない、だけど音楽が嫌いだったわけではない、私のような団塊の世代の心情をうまくついた歌だと思う。西田敏行がそれ程上手でないのもいい。
     もしもピアノがひけたなら、やっぱり少し違った人生だったような気がする。

  • レッドクリフについて少々

     レッドクリフを観た。大ヒットだというが、さもありなん。封切3週間後の夜だったにも関わらず観客は少なくなかった。期待するとはずすジンクスを勝手に作ってしまったので気がもめたが杞憂だった。監督のジョン・ウーが自信たっぷりにゆったりと演出し堂々とした作品に仕上がっていた。大傑作とは言えないまでも標準ははるかに超える。ともかく2時間30分をだれないで観せきった。たいしたものだ。三国志演義と比べてどうのこうのとうるさい人には言わせておけばいい。これはレッドクリフなのだ。

     ジョン・ウーもそろそろ60歳になるのだろうか、かってはけれん味を照れることなく力技で押し切ると言う印象があって、出世作「男たちの挽歌」でも鼻につくような臭い芝居を銃弾でけむに巻いてみせた。そこが好き嫌いの分かれ目でもあるのだが、そもそも力のある監督だったからハリウッドでも成功したのだろう。97年の「フェイス/オフ」など脚本、出演者と三拍子揃った傑作だった。レッドクリフでも相変わらず白鳩は飛ぶが映像からはすでに巨匠の風格も漂う。

     主演は周瑜役のトニー・レオン。ほぼ同格の諸葛亮役の金城武ともにいささか線が弱い気がする。そこがいいのだと言われればそれまでだが八卦の陣の指揮をとるシーンなど大写しの顔貌がどんな感情を表現したいのかさっぱり読み取れなかった。大将軍、大軍師たるものそう軽々に表情を変えないという演出であったとしてももう少しめりはりがあってもいいような気がする。ファンに気を使うわけだが「LOVERS」の金城武、「インファナルアフェア」のトニー・レオンはよかった。役柄を理解しないはずはないのだからひょっとして見誤りだったら謝るのもやぶさかではない。

     小喬のリン・チーリンは映画初出演ということだがチャン・ツィイーの姉といった感じでなかなかよかった。往年の日活ロマンポルノにいたような女優さんだ。そう思って観ると何か濡れ場もロマンポルノ風で日本からの資金参加も多いことだしそんな意識もあったのかもしれない。
     
     趙雲の胡軍はもうけ役だ。冒頭、劉備の息子を単身、助け出す戦闘シーンのかっこよさと言ったらなかった。全編を通しても一、二を争う印象的なシーンではないだろうか。その他、ヴィッキー・チャオも元気でよかった。中村獅童は後編で活躍するはずの役どころだから期待したい。

     いずれにせよ赤壁の戦いがそっくり後編に持ち越されたわけだからこの前編はいわば壮大な予告編に過ぎない。
     ジョン・ウーの演出に不安はないし、作品自体にも力がある。
     来春が待たれるところだ。

  • 三つくり

     一土、二窯、三作り、と言う。よい焼き物が出来る条件を並べたものだ。窯屋は一窯、二土、三作りと言ったりする。焼きものだろう、何てったって焼く窯だろうなどと力む。
     作り手である私たちにはやっぱり作りが一番だと思うところがある。備前の土を使って、備前の窯で焼いたところで国宝になるものもあれば打ち捨てられるものもある。有田の土だって柿右衛門や今右衛門が作ればこその話だろう。
     しかし「つ・く・り」という三文字は悪い。一作り、二土・・・と言おうとしても最初でこけて格好がつかない。三土、二窯、一作りと順序を換えれば一応は納まるがやっぱりどこか無理がある。俚諺に語呂は大切だ。
     一、二、三は並列連記で順番ではないと言う辺りでとりあえず妥協したいと思うが客観的な立場の人にはわかってもらえるものだろうか。 
     炉材の進歩はめざましい。今日の陶芸ブームは断熱耐火レンガやカンタル線の開発で可能になった簡便な窯を抜きには考えられない。かっては熟練の職人の勘が頼りだった焼成もコンピューターを組み込んだ自動制御装置を使えばスイッチを入れるだけだ。
     土についていえば、有田も駄目、備前も駄目、瀬戸だって同じようなものだ。かって六古窯と呼ばれた名陶の産地ではよい土はほとんど掘り尽くされてしまった。今日、相当量の粘土が輸入されていることは知る人は知っている。よく耳にする信楽土など産地名だと思われがちだが歴としたブランド名だということだ。
     
     手先の器用さ、物造りの確かさではいまだ世界に冠たる日本だが私たち職人にとっては何とも生きづらい時代になっている。日本人は焼きもの好きで狭い国土に多様な産陶地を育んできたものだ。
     それが需要と供給のバランスが崩れてどこの窯場からも悲鳴があがる。人々の関心がバーチャルな世界に集中し食生活も変化した。そして人口そのものも減少している。とにかく日用雑器が売れない。人間国宝と言われる人たちにしたところで生活の基盤は日用雑器であったはずだ。
     戦後の復興から今日の隆盛まで日本を下支えしたのは江戸三百年で培われた職人技術ではなかったか。それをこのまま朽ち果てさせてどんな未来があるというのだ、仲間うちで酒を飲むといつもこんな大法螺で慷慨する。
     しかし、そんなのんきな話ではない。明日をどのように生き残るか、本気の模索がここしばらくは続くだろう。

  • 泣く

     年のせいかめっきり涙もろくなった。もともとそういう傾向があったところにもってきてこの老化現象だから実にしばしば泣く。
     新聞を読んでいて子供の事故死などという小さな記事に出会ったりするとぐっとくる。嘆き悲しむ親の姿が目に見えるような気がする。自分がもしその立場に置かれたらなどと想像する。とても正気ではいられないだろう。妄想癖も若い頃からあったもので、おかげで時間を持て余したという記憶がないが、これもどうやら真性の域に達しつつあるようだ。

     当然、テレビを観ても泣く。出来の悪いドラマだと思いながら突然つんと鼻をやられたりする。自分でもつまらないところで泣かされていると思うから、女房が一緒の時には気を使う。これ以上馬鹿にされたんじゃたまったものではない。
     その点、スポーツの国際試合の中継を見ている分には安心だ。夫婦して俄国粋主義者に変貌して、日本人がよいプレーをする度にうるうるし、勝てば泣く。まあ、大きな声では言えないが、けっこう女房もきてるのだ。
      
     俗に涙腺がゆるむと言うがやっぱり感情の回路もあっちこっち切断したり死滅したりで単純化されているのだろう。突き詰めて考えると気持ちが落ち込んでくるが考えても仕方がないことは考えないことにしよう。とりあえず年をとるのは初めての経験でそう思えばそれはそれで新鮮だ。
     還暦とはひとめぐりして元に戻るということらしい。そんな言葉を科学も医学もほとんど未発達の古代の人が発想した。しかもどうみたって若い人の思いつくようなことではない。だとしたら、この先だってけっこう馬鹿にしたものではないのかもしれないぞと思う。