カテゴリー: エッセイ

  • 夫唱不随?

     「何で『ムショ』か知っていたか」と私。
     「ケームショの略でしょ」と女房。
     「大概の人は、そう思っている。けど、あれはやくざの隠語だ。刑務所ではコメと麦とが『6対4』の飯を食わせる。この6・4でムショになったということだ」
     さっき読んだ安部譲二の「ぼくのムショ修行」で覚えたてのネタなのに、「ふうん」と女房は実にそっけない。だから、何なのという顔をする。
     「本を読んでも利口になるわけではない」とは誰が言った言葉だったろう。それでももしかしてと思った時期がなかったわけではない。
     しかし、眼から血の涙を流す程、読みに読んでも、たいして代わり映えはしなかった。
     もっとも、くだらない知識はたまる。仕込んだものは、ひけらかしたくなるのが人情だ。だが、さすがに誰かれ構わずともいかなくて、つまるところは女房が相手になる。
     「上野の西郷さんが連れている犬。あの名前、知ってたか」。丸谷才一の「軽いつづら」に書いていたことを思い出して言ってみた。
     機嫌の悪い時の女房は返事もしない。
     「あれって『ツン』て言うんだ。まるで今のおまえみたいだ」
     ひょっとすると、私は結構寂しい男なのかもしれない。

    (北海道新聞 「朝の食卓」 2009年7月1日掲載)

  • グラン・トリノ、あるいはクリント・イーストウッドについて

     映画のタイトルにもなったグラン・トリノはフォード社製の大型セダン、スポーティな装いで人気があった。
     しかしそれも一昔前の話だ。
     クラシック・カー、訳すると骨董品だろう。それに主人公ウオルトが重なる。
     老いたるアメリカ、しかしグラン・トリノもウオルトもまだしっかりと機能している。
     かってケネディは言った。我々がアメリカに何が出来るか、問おうではないかと。そういう意味ではウオルトの双肩にもアメリカの未来はたくされている。
     ウオルトはすでに血を吐くような重い病気におかされている。
     死を目前にしてウオルトがアメリカに出来ること、それが映画、グラン・トリノの主要なテーマだ。

     クリント・イーストウッドは妙な男で一見、映画職人にしか見えない風貌の奥におそろしく的確な予知能力を隠している。
     この映画の公開のあと黒人大統領が出現した。アメリカ繁栄の象徴だった自動車産業のビック3、そのうちの2社が倒産した。
     経済破綻の泥沼の中でアメリカはあがいている。もうかってのアメリカの栄光はない。
     イーストウッドはアメリカ再生の夢をグラン・トリノにかけて語りたかったのかもしれない。傲慢になりすぎたアメリカ人に対する自ずからの反省もあるのだろう。
     
     正直にいうとクリント・イーストーウッドはあまり好きな役者ではなかった。最初にお目にかかったのはやはり荒野の用心棒だったろうか。ひょっとすると夕陽のガンマンかもしれない。似たような映画で今ではなにがなんだかわからなくなっている。いずれにしろ封切りで観たわけではなく数年後、場末の三番館あたりだったはずだから、それに続夕陽のガンマンもついた三本立ての可能性だってある。当時テレビは持たなかったから三本とも劇場で観たのはたしかだ。

     で、面白かった。大衆の眼のたしかさにおどろかされた記憶がある。
     今にして思えばセルジオ・レオーネは一世を風靡するだけの才能だったと認めざるをえないがなにせはやりものには生理的な拒否が働くのですぐにはとびつけなかった。
     しかし、あの時のイーストウッドの印象はいかにも二流映画の主役が似合いの役者というにつきる。
     ちびた葉巻をくわえ眉間にしわをよせてぬすっとつっ立つ、のっぽの男。
     今日の大成を誰が予想できただろう。

     ダーティ・ハリーシリーズでも世評に踊らされることはなかった。なにかとの併映で偶然観ることになった一本が当人の演出だったことはあとで知った。
     大口径の輪胴式拳銃とキャデラック、いかにも狭視野的な正義が、カルフォルニアの突き抜けるような青空の下でなんとも空虚だった。しかし、映像がかもし出すその雰囲気がむしろ演出の意図するところだったのかもしれない。映像作家としてのイーストウッドをなめてかかるわけにはいかない。

     許されざる者はたしかに出来のよい作品だった。
     しかし、私が本当に兜をぬいだのはミリオンダラーベイビー、ひさしぶりに映画を堪能した。煮詰めるだけ話を煮詰めて、最後の最後にぽっと結論を個々人にゆだねる演出もこの場合、効果的で成功していたと思う。

     俳優の余技ではなく、すでにイーストウッドは一流中の一流監督になっていた。

     2008年、グラン・トリノ制作時、イーストウッドはすでに78才だった。
     出演しながら当人もこれが最後の映画になるかもしれないという意識はあっただろう。
     そんな目で見るせいか、物語の展開は性急だし思わせぶりのシーンも多い。
     棺桶におさまってイーストウッドは皮肉屋らしく、にやりと笑ってみせたりする。
     少年少女とのかかわりあいをもう少し丁寧に描いていたら三度目のオスカーもありえただけにファンとしてはいささか、残念な気がする。

     ウオルトからグラン・トリノを託された少年、タオが沿岸の道路を走っていく。
     海岸線のむこうには希望があるようにして終わるのがハリウッド映画の定石だ。
     しかし、本当にその先にアメリカの未来はあるのだろうか。

  • 息子

     息子にあとをつぎたいと切り出された時には本当に動揺した。
     まったく想定外のことで、私は息子が大学に残ることを希望していた。
     こんな仕事では食っていけないと思っても私自身がまがいなりにも暮らしてきたのだから、説得力にはかけるだろうと頭をかかえる。
     息子とうまくやっていく自信もなかった。せっかくあとつぎが入っても、親子げんかのあげく、子供が飛び出す話はこのあたりにもはいてすてる程、ある。そうはなりたくない。
     女房にしりをたたかれて、しぶしぶ息子と話し合い、結局同意させられた。
     今日からは親子じゃないぞとけじめをつけると、それじゃ、おやじさん、おかみさんと呼べばいいんですねなどと、生意気な口をききやがって・・・あれから七年になる。
     私たちはずうっと一つの作品を二人で造ってきた。デザインを二人で考え、たとえば私がロクロを挽くと絵付は息子といった具合だ。
     私はおとろえる一方だが、息子は最近とみに自信と力をつけてきた。
     ここ数年はアイヌ文様をモチーフに取り組んでいるが、なんとか人にみてもらえるまでになったのは息子に負うところが大きい。
     二十七日(注:2009年5月27日、すでに終了しました)から丸井今井札幌展で私たちの展示会が開かれる。
     はりきる息子を見ていると、親ばかと笑われそうだが感慨無量だ。

    (2009年5月21日北海道新聞「朝の食卓」に掲載)

  • 名刺

     好きで持ち歩くわけではないがないとやはり不都合な場合があるのが名刺だろう。一方的に渡されることもないわけではないが交換が原則だから相手から差し出されて、こちらはないですますには、けっこうしどろもどろの対応をしいられる。それが億劫で外出の際はつとめて持参するようにしている。
     家にいなければ仕事にならないのだし、私などが年間に必要とするのはせいぜい百枚程度だがほぼ同数の名刺がたまる。
     付き合いの程度に応じて数種のホルダーを使い分けるがいただいたものは大切に保管する。
     長い年月には同じ人と違う場面ででくわすことがままあって、世間は狭いと思わざるをえない。会社が違っていたり、地位が変わっていたり、なにかその人の人生が想像されて感慨が深い。
     たかが名刺といってしまえばそれまでだが、いかに相手に印象づけるか皆が工夫し趣向をこらす。台紙、活字、組み方、あんな小さなものなのにいじればいじれ、こればこったできりがない。
     おしきせのものにだって、それなりの手がかかっているはずだが、自身の裁量しだいとなればとくだん費用がふえるわけではなし、ここが腕のみせどころと張り切る気持はわからないでもない。それにしても名前を反転させた名刺をもらった時は驚いた。とまどう私に相手はいかにも得意気だったが、やりすぎというか、悪趣味というか、それでもいまだに記憶に残るぐらいだから、当初の目的は充分はたしたというべきか。私もひととおりのことはやってみて、今はごく平凡に落ち着いている。
     普通、いただいた名刺をうたがうことなどしないだろうが、そこらあたりに目をつけた詐欺も横行するのだから、世の中は怖ろしい。
     たとえば飲み屋で請求された金額の半分程の現金を出して、悪いけどこれだけしか持ち合わせがなかった、二、三日中に払いにくるからと他人の名刺を差し出す手口、そこそこの肩書であれば、まさかうたがいもしないだろう。
     どこでそんな話を聞きかじったか、知人が出張先でそれをやって、コートのネームから足がついて、ひどい目にあった話もある。
     当人はぼられた分を値切りかえすぐらいの気持でやったのだろうが生兵法は大怪我のもと。こんな御時世では顔写真入りの名刺がそのうち定番ということになるかもしれない。

  • 医者嫌い

     医者は嫌いだ。
     大上段にかまえれば人が人に対してあたかも生殺与奪の権限を持つかのようにふるまう様が不愉快だ。
     技術を提供して報酬を受けるのだから医者だってしょせんサービス業ではないか。
     てめえ、人から金を取っておいてなんだ、その態度は、となじる患者がもっと、もっと多くてもいいはずなのに、倶梨迦羅紋紋を背ったいっぱしのおっさんだって、それで直りますかね、なんて追従笑いを浮かべながら、下手に出るものだから相手はますます勘違いする。
     そこらあたりの道徳というか、倫理というか、ルールが確立しないまま、医学が先端化し、肥大したものだから手に負えなくなっている・・・・・・。
     小さな声でいえば、そこまでのことをいつもいつも考えているわけではない。
     ただ医者は嫌いだ。
     蕁麻疹が出たとか歯茎がはれたとか、やむをえず医者にかかる場合はあるが定期検診など痛くもない腹を探らせようとは思わない。
     私は六十二才だがこの年まで胃カメラも内視鏡検査も受けたことがないというとけげんな顔をされる。だいたいが血圧も血糖値も知らない。いまどき日本ではそういう人間はめずらしいのだろうか。
     それは無茶ですよと真顔で心配してくれる年下の友人もいる。
     無茶だろうがなんだろうがとにかく、そうして今日まで暮らしてきた。
     調べればその場で病名がついて病人にされるかもしれないが酒が飲めて食欲があって、あたりまえに働けるのだからあえて病気を探す必要もないと思っている。
     似たような年恰好の連中が集まると、つい、このあいだまでは孫自慢だったものが今では病気自慢でもりあがる。
     俺はこのあいだ白内障の手術をしたと一人がいうと、俺は大腸のポリープを取ったともう一方も負けてはいない。あげくには、カプセルに錠剤に粉ぐすりを取り出して、俺はもう日本酒は駄目だなどとほざく。
     遅かれ、早かれ、いずれみんな死ぬんですよ、君たち、ちまちま生きたってこの先、知れてるじゃないか、もっともそういう憎まれ口をたたかずにすますほどの分別はもっている。そうか、そうかと私はだまって盃を口にはこぶ。
     なにはともあれここまではたどりついた。あとはおまけの人生だ。
     いやな目、つらい目にだけは合いたくない。
     ぴんぴんころりといきたいなあ。それなら、多少早くても文句はない。

  • 隣りの芝生

     家の廻りだけ春が遅いような気がする。
     日陰には分厚く雪が残るし、クロッカスも一塊、二塊がようやく紫色の花をつけたところだ。
     初夏ともなると、あたり一面、蕗の葉でおおわれて法螺吹き屋敷の面目躍如といった具合になるのだが今はふきのとうもまばらで勢いがない。
     今どきの車には温度計を内蔵したものがあって、それでみると旭川市内とくらべてここらあたりはどうも常時五度ぐらい温度が低いようだ。
     北海道といっても旭川は盆地のせいか夏の暑さは馬鹿にできない。その日の全国最高気温を記録することだってあるぐらいだ。
     冬、きびしい分、夏は過しやすいわけで差し引きすると零かと普段は思っているがこの季節にかぎってはそんな鷹揚ではいられない。
     北国に暮らす者にはなんとも春は待ち遠しい。
     周辺の農家だって、同じ気持で融雪剤をまくのだろう。
     融雪剤の効果はめざましく、まいたところの雪だけが底が抜けたように消える。しかしあんな煤のできそこないのようなもの、きたならしくてとても家の廻りにまく気にはなれない。
     隣りとくらべても春が遅いのはそのせいかと理性では納得しても気分は今一つ釈然としない。
     去年の葭が倒れたまま、ひからびて、ちぎれた葉があたりを転がっている。
     木瓜もつつじも冬の間に野ねずみにかじられて白骨のような茎を曝す。これではとても花はつけないだろう。
     どうもなにか面白くない。なにもかにもがみすぼらしく、うすぎたない。
     雪がとけて、若芽がふきだすまでのこのはざかいの時間は見ないですませたらそれにこしたことはないのだが、身体が勝手に庭にいく。
     隣りの庭がどうにもよく見えてしかたがない。

  • あな恐ろしや

     「俺が浮気をするのはおまえが悪いからだ。」とあろうことか、妻を前にそう高言した男がいた。
     いやおうなくその場に立ち会わざるえなかった私は驚愕し、以来その男を畏敬している。
     男児かくあるべし。
     それで家庭が崩壊しないのだから見上げたものだ。
     小心者の私には口が裂けてもそんな言葉は吐けそうもない。
     自分の意志を貫く為には面倒、煩わしさ、なにするものぞと立ち向かう、ううん、立派。
    だけどと私は思う。体力、気力に余裕のあるうちはとりあえず力でおさえこめるとしても、たとえばいくさき、脳溢血で倒れたりすることもあるだろう。そんなとき、どの面さげて妻の介護を受けるつもりか。多少なりと想像力があれば考えの及ぶところだ。私など、そんなことを考えているうちに身動きが出来なくなってしまったが熟年離婚をもちだされて寝耳に水とあわてるのは自分の不始末を都合よく忘れるからだと思っている。
     女というのは執念深いぞ。プライドをずたずたにされて笑ってすますはずがない。面従腹背、じいっと復讐の機会をうかがっていてチャンスとみれば牙をむく。
     聞いた話だ。道楽者だったおじいちゃんが倒れて老妻が付き添った。生命はかなくおじいちゃんはそのまま意識を回復することなく亡くなったそうだが、下半身にはつねりあげられた紫色の痣が無数についていたということだ。
     あな、恐ろしや。
     おとぎ話もたいていは因果応報で終わっている。
     杞憂ですめばそれにこしたことはないのだが……。

  • 鳥を見る

     家の屋根にコンクリートの煙突が立つ。とうに本来の役目は終え、今は絶好のバードテーブルだ。屋根を汚すと女房には不評だが、隣の工房の窓から集まる鳥を見ていると、時を忘れる。
     バード・ウオッチングが流行し始めたころには「そんなこと、人にやってみろ、気味が悪い」と斜に構えたものだった。そういう決めつけが私の悪い癖だ。今ならバード・ウオッチングに夢中になる人の気持ちも分かる。
     カラスが来る。横柄な態度で振る舞っている。自分が一番偉いと思っているのかもしれない。
     トビも来る。近くで見ると、なかなか見栄えがする。「鳶(とび)の子、鷹(たか)ならず」なんて嫌な言葉があるように、タカと比べられたのは不幸だが、カラスでさえ、目前に迫られると二歩三歩と退く。
     ハトは夫婦で来る。夫婦かどうか確かめるすべはないが、そう見える。ハトの夫婦は、どうように結びつき、どれほどの期間を共に過ごすのだろう。むつみあう様子に、そんなことを考える。
     だが、実のところトビもハトもどうでもいい。作品展が近いのに、いいアイデアが浮かばない。カラスにばかにされているように感じるのも、きっとそのせいだ。
     まさか、鳥に悩みはないだろう。「鳥はいいなあ」と、また窓の外を見る。

    (2009年4月11日 北海道新聞 朝の食卓に掲載)

  • 一日

     朝は八時過ぎに起きる。七分か十分過ぎ、目は八時前に醒めている。まだ少し早いと思いながら、ふとんの中でぐずぐず、今日の予定や段取りなどを算段する。その時間がいい。
     ごくまれに寝入ってしまい三十分前後になってあわてて飛び起きる。するとそのあとがせわしない。トイレに行き洗顔、ストレッチをすませて朝食をとり、なにがなんでも九時までには工場にかけつける。
     それが自分に課したけじめだ。
     夫婦二人の時にはけっこういいかげんで十時近くになって家を出ることも少なくなかった。
     他人に使われているわけじゃない、その分、遅くまでやればいいじゃないかなどと思っていた。
     息子と仕事をするようになって、ずいぶんいろいろなことが変わったが、もっとも大きく変わったことの一つだろう。
     それで午前は十二時半まで仕事。
     一時半までが昼食、三十分ぐらい本が読める。
     それから八時まで、一切、飲みもせず食いもせず休みもせずに仕事。仕事が趣味か、趣味が仕事かわからないところがあるからやっていられるのかもしれない。
     息子は四時から五時まで、犬の散歩とおやつの時間をとる。
     一時、いっしょになっておやつを食べていたら、ぶくぶくと太り始めた。
     減量よりはおやつをひかえる方がいい。
     八時すぎから九時半までが晩酌と晩飯。ビール大ビン一本、そのあと日本酒一合を飲む。これがうまい、この為に生きているのかもしれないと思う。ずうっといっしょだった女房が最近検診でメタボだのコレステロールだのとおどかされてきて付き合わなくなった。なんとか、ひきずりもどそうと手をつくすが、けっこう意志が堅い。おかげで楽しいはずのひとときがもりあがらなくなってしまった。つまらない。この時間帯にもひょっとすると三十分ぐらい本が読める。
     九時半から十二時まで娘の部屋だった書斎で書きもの、原稿用紙二枚をめどに日記か遺書でも書いてるつもり。
     万が一、本の一冊でも出せれば望外の幸せというべきか。
     それから風呂が小一時間。汗がひき髪が乾くまで読書、二時前には必ずふとんに入る。
     飲酒、映画鑑賞、来客、体調不良などでごくたまに予定はくるうが三百六十五日、ほぼこういう生活をしている。欲をいえばあと一時間、読書の時間がほしいと思うがそれは無理か。
     こうしてみるとけっこう余裕がないから、強制されてなら一週間ともたないだろう。
     人生、遊び半分。寝る間をおしんで趣味に生きる人もいることを思えば私の生き方も多少は了解してもらえるだろうか。

  • 苦しい時は神だのみ

     どうしようもない状況におちいった時には神に縋る。
     「神さま、助けて下さい。私はなにも悪くはありません。」まさかそう声に出すわけではないがけっこう真剣に祈る。
     すると神助がある。おかげでなんとか無難に切り抜けてこられたのだと思っている。
     物心がついて以来、ずっとそうしてきた。
     私は虚弱児で、苛められっ子で、無力だった。
     しかし理不尽な状況を前にした時、どうして突然、神が出現することになったものか、私にもわからない。神の、神たる由縁というべきか。
     親たちに信仰はなかった。正月、鏡もちを飾るのは、風習とみるべきだろう。
     今も窯を焚く前には家族が揃って拍手を打つ。かしこまって仏壇に手を合わせもする。だけどそれは儀式であって信じているかと問われればごめんと頭を下げるしかない。
     女房は私が不信心なのを知っている。「今さらなんのかみ。」などと白ける。
     私は「うちのかみさんさ。」ととぼけるが、しかし苦しまぎれの時、助けてくれる神さまはたしかにいるのだ。
     神さまというからには仏さまではなないなと思われるかもしれないが、そうともいえない。神道は語る程、知らないがキリスト教でいう神ともちょっと違う。だけど、みなどこかに通じるものがあるような気がするのは人間が最初に「神」と名付けたものがそういう存在であったかもしれないからだと思う。
     宇宙の原理。宿命を司る摂理。どれもまだ少し、私の神さまをいいあらわすには言葉が足りない。きっといいあらせないところにある程のものなのだろう。
     そこで私はこのごろ祈る。
     「神さま、お願いします・・・・・・。」
     きっと目かけはあるはずだ。

  • 春遠からず

     東京に住む娘が電話をかけてきて「会ってほしい人がいる」と言った。
     とうとう来たかと思いながら平静を装い「いいよ」と答える。「じゃあ予定を立てるね」と娘。
     「だけど、そんなに急がなくちゃならない理由でもあるのか」という私の声は、いささかうわずったかもしれない。「いや、そんなことはないんだけど」という娘に私はいくらか安堵(あんど)する。「それじゃあ春になってからにしよう。何もこんな寒いときに…」と日のべさせたが、その春が近づいてくる。

     「大きくなったらお父さんと結婚する」とチューをしてくれたのが、昨日のことのようだが、もう二十八歳だ。理性の部分では十分承知しているが、「どうしようもないバカ男がやって来たらどうしよう」などと考え出すと感情は千々に乱れる。相手の男は一応、職はあるようだが、「それだって次の日には平気で辞めたりするからな」と、どうも愉快な想像が浮かんでこない。
     草葉の陰で義父が笑った気がする。私が女房の家を最初にたずねた時のことを
    義父の身になって考えてみたりする。あの時、義父はどう自分を納得させたのだ
    ろう。

     「お父さんが一生懸命育てた娘なんだから、信じてやらなくちゃ」などとした
    り顔で言う女房がうるさい。春なんて来なければいい。だけど、ちょっと待ち遠
    しい気もする。

    (2009年3月2日 北海道新聞 朝の食卓に掲載)

  • ちょっと夫婦で

     札幌に用事が出来て、女房と出掛けることになった。
     以前なら迷わず車ですっ飛んで行くところだが最近は運転が億劫になっている。
     雪道だしな、高速料金もなあとぼやいてみせて都市間高速バスなるものに乗ることにした。JRに比べて時間は多少かかるが近間の停留所からも乗ることが出来るし料金は安いし、これは便利だ。時間など本があれば何も気にすることはない。冬季は遅れることが多いと聞いたから余裕をみたが、かえって予定より早目に着いて、デパートで時間つぶしをしなければならなかった。

     それ程久しぶりというわけでもないのだが車に乗っている時とは目線が違うせいだろうか、どうもいまひとつ地理がしっくりこない。
     地下鉄はあっちだったよな、女房に確認すると、さあという返事。
     さあと言われれば心もとなくなって、案内板はないかと二人できょろきょろ辺りを見回す。何か、やっていて自分でも小津安二郎の映画の老夫婦みたいな気がするから妙だ。

     それにしてもやたらと階段の上り下りが多い。階段を下りて歩いて、下りて歩いて、地下鉄を降りると今度は階段を上って歩いて、上って歩いて、駅から徒歩八分と聞いていたが構内を歩くだけでもう八分はかかっているのではないか。
     札幌は美しい町なのに、こうして地下になってしまえば全国どの都市ともそれ程変わりばえはなく、もったいないことだ。
     田舎の人は日頃歩くから足腰が丈夫で、というのが常識かと思っていたが、どうして、今日では都会の人の方がはるかに足腰を鍛えているかもしれない。

     用件は二時間あまり、心楽しく済んだ。
     時間が早かったから、どうすると女房に聞く。どうすると言ったって食品街をひやかすか、本屋に入るしかないわけだけど、もういいわと女房が言う。私も同じ気持ちだったから缶ビールを一本買ってもらってほどなく出発するバスに乗った。
     何か、俺たちすっかり田舎のねずみになったようだなと言うと、声をたてずに女房が笑った。

  • “偕老同穴”余話

     偕老同穴と題した文章が新聞に掲載されたのが一月三日でそれから二日後のことだ。
     電話が鳴ったのは昼近い時間だった。家では電話はまず女房がとることになっている。その件でお話がと聞いた途端、どういうわけか女房はクレームだと思い込んだらしい。そうささやかれて替った私もだから当然そのつもりでいる。あの文章は二重、三重のチェックが入っていたはずだが、上手の手から水が漏るということもないとはいえない。しかしどこが問題なのだろう。
     とある神社の公司だと名乗った相手は静かな口調で読後感などを述べている。一見悪意などありそうにも思えないが、けなすなら褒めろというのは大宅壮一以来、知る人は知る批評の必殺技だ。こういうのが一番手強い。私は短く返事を返しながら相手の出方をうかがった。
     -----それで偕老同穴をご覧になったことはおありですか。
     そうか。そこか。そこを突かれると弱い。私は実際の偕老同穴は知らない。東京大学総合研究博物館が所蔵するガラス容器に入ったホルマリン漬のものを写真をみただけだ。でたらめな受け答えで話をこじらせるのもいやだったから私はその旨を正直に話した。
     そうでか、それでは-----と、しかし話は突然、予期せぬ方向に急展開した。その神社に寄贈を受けた偕老同穴があるのでよろしかったらお見せするとのことだった。ありがたいお話でありがたくお受けしたが、私の態度の豹変ぶりは自分ながら情けない。相手の方もさぞかし、不審に思われたことだろう。
     それにしても、女房のやつ。
     女房の早とちりには今さら大して驚きはしないが憮然たる想いは残る。正月早々つきつめるとドウケツエビに笑われそうだから我慢はするが、これって私の書くことをまるで信用していないことではないか。
     とりあえず、横で心配げに聞き耳を立てていた息子にだけは大いに受けた。
     とんだ初笑いを提供したものだ。

  • 偕老同穴

     「ねえ、偕老同穴(かいろうどうけつ)って知ってた?」と聞くから「一緒に年をとって最後には同じ穴に眠る、だったかな。夫婦仲むつまじいという意味の言葉だったと思うよ」と答えながら、ふと見ると女房は笑っている。
     どうも、いつもの知ったかぶりを試されたようだ。「カイロウドウケツ」という生物がいるのだという。早速調べた。
     深海にすむ海綿動物の一種で、西洋では「ビーナスの花かご」と呼ぶ。ヘチマ型の竹かごみたいに空洞になっている。その中に「ドウケツエビ」という雌雄一対のエビがすむ。利口なエビだ。敵から襲われる心配もせず、夫婦水入らずで一生過ごす。それで、この故事成語をたまわったらしい。
     子供ができたらどうするのかな、なんてちょっといらぬ心配もしないわけではない。ごくまれに一匹ということもあるらしいから、やっぱり連れ合いを失うこともあるんだろう、自然界も厳しい。
     エビは世界で三千種、日本には六百種ほどいる。日本人は無類のエビ好きで、世界中のエビを集めている。だったら、このエビの存在だって、もう少し知られてもいい。
     「熟年離婚なんて言っていると、ドウケツエビに笑われるぞ」と、この正月、女房を相手に一杯やりながら盛り上がってみよう。 (北海道新聞「朝の食卓」2009年1月3日掲載)

  • 雑煮雑感

     女房の実家で最初にその雑煮を出された時にはさすがに当惑した。
     煮崩れたどろどろの野菜の中にもちが見えかくれしている。頭もしっぽもついただしこもそのままで二、三匹は入っているようだ。どこぞの郷土料理なのだろうか。それにしても御馳走の体裁がない。
     正月、義父や義兄と屠蘇をいただいていささか高揚の状態にあったから箸が出たが素面であれば口に出来たかどうか。私は案外目で食べる方だ。
     それがうまかった。義母は婿が上手を言っていると思ったかもしれないが本心うまかった。
     以来、それが我が家の雑煮になった。家の伝統などという意識をまったく持たない若い頃だったから、迷いも何もなかったが、今、考えると私の方の親たちにはちょっと悪かったかなという気もする。
     子供の頃の雑煮はしょうゆ味の澄まし汁に焼きもちと薄く切ったダイコン、ニンジン、しいたけ、ミツバなどが色どりを添える程度に入る。父親は宇和島の生まれだからおそらくその地方のごく一般的なものなのだろう。子供心にはうまくも何ともなかった。儀式として食するといった感じだった。
     母は帯広の生まれだがその父親は大阪の人だったからおそらく、大阪風のお雑煮を作っていたに違いないが、これは残念ながら食する機会がなかった。
     雑煮については民俗学的、歴史学的な研究から、料理のレシピに至るまで相当量の書物が出版されている。それだけ地方地方の特色が今もはっきり残っているということだろうか。
     だけどちょっと考えただけでも角もち、丸もち、焼くの焼かないのから始まって、塩味、しょうゆ味、みそ味、そして具材を変えればそれはもう無限に派生していく。中にはあんもちを使うものやもち抜きという変り種もあって、さらに種類は増える。極言すれば一家に一種、雑煮あるといってもいいだろう。
     それ程の種類がありながら、よほど決心してかからなければめったによそ様のところのものを口にする機会がないのもまた雑煮の目立った特色だ。
     少なくとも私は自分の育った家のものと今は自分の家にも引き継がれた女房の実家のものと、この二種類しか食べたことはない。
     それでも私は自分の家のものが一番美味しいと思うし、隣は隣でやっぱりそう思っているのだろう。こういう平穏を人はもっと信じた方がいいのかもしれない。 

  • 幕あい

     突然書こうと思った。十月の初めのことだ。どうして今どき、そんな気持ちになったものか、天命などを持ち出すとやっぱり笑われるのだろうか。

     私は自他共に認める文学青年で、若い頃には当然詩や文章も書いていたわけでそれは当時、それなりの評価も受けた。小さな雑誌だったが数年にわたって連載もしていたからひょっとすると思い出してくれる人がいつかもしれない。
     しかし筆を折るという意識もないままに仕事や生活にかまけて、何となく書く世界から遠ざかった。子供の作文に手を加えたりあいさつ文をひねったり、年に数回、そんなことで文章をいじくるのが関の山だった。相変わらず本は読み続けていたが気楽な立場で他人の文章にけちをつけて、うさを晴らしていた。
     まあ、ほとんどの文学青年がたどる道でなれの果てというみじめな自覚も持たなかった。

     小さな種火がついたのは、六ヶ月前、町に頼まれて広報に六百字あまりの文章を書いたことだ。実に久しぶりに活字になる文章だった。けっこうしっかりしたものに仕上がったように思われて自分を見直していた。
     やれば出来るかもしれない、しかしそれは多かれ少なかれ今までもずうっと持ち続けてきた気持ちであって、実際に始めるにはそこからさらに大きな力でもう一押し二押しが必要なこともわかっていた。

     そんな折、新聞のコラムの執筆者に選ばれる可能性が出てきた。
     ブログという発表の場所を見つけたのも大きい。誰に読まれるあてもなく書き続けるのはつらい。結局、書かなくなった原因はそれだ。
     子供たちのあと押しも大きかった。
     「もし、今、思いきってやらなかったら、おまえはけちなごみくずなんだし、いつまでだって、けちなごみくずのまんまだぞ—-。」
     こうなれば書くしかない。

     一篇六百字あまりを週二篇書く、最初にそう決めた。プライドはある。書くからにはそれなりのものを書かなければならない。書き始めた以上、書き続ける。
     そして三ヶ月、夢中で書いた。誰かれが読んでくれている、それが大きなはげみだった。けっこうきつかったがやれば出来た。約二十篇、五十枚程の原稿用紙を消費したことになるだろうか。私は古い人間なので何かというと原稿用紙に換算して量を計る。
     千枚も書きためたらものになるものならものになるだろう、かってこの世界の末端につながる人にしたり顔で言われた言葉だ。言わんとするところはわかるがやり遂げるには大変だ。
     とりあえず来年は百篇、原稿用紙で二百枚程度を目標にする。
     書くことはある。しかし書くものがみな女房への恋文のようになってしまうのはどうしたものだろう。反省する必要があるのかないのか、これは問題だ。

  • サボるⅢ

     三年の三学期なんて十日も登校日があっただろうか。もう行かなくてもいいようなものだと思われたけれど最後の最後におかしなチャンをつけられるのも嫌だったからとりあえず登校すると待ってましたとばかりに担任から呼び出しがかかった。
     職員室に顔を出すとお前ちょっと休みすぎだなといきなり言われた。はあとあいまいに答えるしかない。まだ状況が飲み込めていなかった。
     それでだ、もう一年、やってもらわんとならんことになったから、一年間目をつぶって泳がせた私に決定的な一撃を食らわせて担任はさぞ溜飲を下げたことだろう。自分はどのような反応をしたものか、青菜に塩、そんなもので済んだのならまだいい、思うだに情けない。
     -----しかし、先生、八割ということでよかったんじゃないですか。
     -----そうだよ、でもお前はどの教科も八割には足りないな。
     -----そんな。ちゃんと計算して……。
     -----残念だったな、お前、学校があってもだよ、授業がつぶれるとそれは授業があったことにはならないんだ。学校祭だろ、体育祭もあるわな、中間試験に期末試験、けっこう授業はつぶれているんだぞ、そういうの、みんな計算に入っていたか、えっ。

     いわれて見れば確かにそうだ。弁解の余地もない。進退にきわまるとはこのことか。ああ、もう一年。しかし、そんなことは死んだって嫌だ。
     -----なんとかなる方法なんてないもんでしょうか、言いながら担任を盗み見る。
     -----お前が勝手にやったことだ。おれは同情なんてする気はないぞ。自分で始末をつけるんだな、だが担任にはどこか、とりつく島がありそうな気配だった。
     
     あれで執拗にいたぶられていたらやっぱり私は席を蹴っただろうし、学校も止めていただろう。当然、一頻り説教は喰ったが切り上げの間合いは見事だった。
     -----いいか、恭順の意だぞ、恭順の意。そんなだらしのない格好では駄目だ。服装を整えて、髪だって、さっぱりさせろ、おれからも頼んでおいてやるから、一人、一人、教科の先生に頭を下げて歩け。ひょっとすると、本当にひょっとするとだけだけどな、助けてもらえるかもしれないから。

     私たちの学校は丸刈りと決まっていたが三年の二学期終了時からは伸ばし始めてもよいと暗黙の了解があった。それを教師の目を盗んで少しでも前倒しする。皆が皆考えることだが私の髪もけっこう伸びていい感じになっていた。
     髪は女の命だなどという。男だって口にこそ出さないだけで命がけだったりするから高額のかつらをかぶったりするのだろう。
     未練がましく鏡をのぞいて溜息をついて、しかしそんなことをいっていられる場合ではなかった。

     私は青々とした坊主頭で、きちんと詰襟に白カラーを立てた学生服姿でしおらしく、教科の教師に頭を下げてまわり、どうにか卒業にこぎつけた。
     式の当日、担任が言った。
     -----お前、今夜、おれのところへ来い、お前とはもう少し話しておかなきゃならないことがあるみたいだ。
     私はその夜、図々しくも一升ビンを下げて担任の家に乗り込み、差し向かいで飲んだ。
     よかったなあと担任は幾度も繰り返す。そのあげく、今度はお前の家へ行って飲み直そう、と騒ぎだした。
     -----おれはお父さんやお母さんにも一言、よかったねって言って上げたい。
     だけどもう担任は足腰も立たない程酔っていた。
     よかったなあ、くずれた腰で担任は私の為に泣いてくれた。
     だから四半世紀を過ぎて担任は今も恩師なのだ。

     私はつい最近まで、高校を卒業できずに苦悶する夢を見た。だだっ広い教室に一人、丸刈りの私は立たされうなだれている。奇妙なことに私には、すでに妻や子がいるらしい。ここで卒業できなければどうにもならないということで焦っている。焦っているがどうにもできない。ぐっしょりと寝汗をかいて目を覚ます。うなされたような気もするが自分ではわからない。
     そうやって私は生きのびてきた。しかし生きのびたことに意味があったかどうか。
     朝、息子の顔を見ると生きのびた意味がなかったわけでもないような気もする。

  • サボるⅡ

     死後、自分の支配を離れた肉体の存在について私は苦慮していた。
     縊死にしろ、服毒死にしろ、死ぬと筋肉は弛緩する。すると鼻汁、唾液、大小便の類が体外に漏出する。
     目を見開き、唾液を垂らして、下半身を汚した私の死体。それは今、身を置くこの現実よりさらに醜悪な様相ではないか。
     不様な遺体を人目に晒すのは何としても避けたかったが、これといった適切な対処の方法がなかなか思い浮かばなかった。
     私が躊躇するのはそれだった。しかし本当は死なずに済ます口実を探していただけのことだったのかもしれない。

     そんな矢先、何気なく生徒手帳を見ていると八割の出席を要すという記述が目に入った。八割の出席、言い換えれば二割はサボっていいのだ、私はカレンダーを前に腕を組んだ。
     英語や数学は週三時間あったりする。美術は逆に二時間通しで週一回だ。複雑に考えればいくらでも複雑になりそうでこんがらがってくる。ふうむ。
     だが一瞬にひらめくものがあった。そうか、なんのことはない、五週に一週休めるということじゃないか。曜日をずらしていけば毎週一日サボれるのだ。
     これはまさに天の啓示だ。

     私はすでに学業は放棄していたが、出来ることなら卒業はしたいという俗っぽい希望も持っていた。そういう自己矛盾が当時の私で処理できずに抱え込んだ諸々に膨れ上がり、破裂寸前だったのだ。
     週一回サボって問題にされないのならこんなありがたいことはない。 
     わらを掴むような気持ちで実行にうつったものだったが、それは私の閉塞状態に見事に風穴を開けてくれた。このことがなかったら私はやっぱり持ちこたえられなかっただろう。

     天が恵んでくれた自由な一日。
     学校に行くようなそぶりで家を出て、公園で一日、寝転がっていたこともある。そのまま空に吸われてしまえばどんなによかったことだろう。
     映画にもよく行った。学割で入ってガラガラの席に座っているとモギリのおやじがやって来て、すみません、お客さん、この時間に学割ってわけにもいかないものですからと、一般料金をとられることもあったが別に学校に通報されるわけでもなかった。
     海が見たくなれば汽車にも乗った。帰りの汽車がなくて、さすがに途方に暮れていると見も知らぬ人が家に誘ってくれた。その人とは今でもつきあいがある。札幌で作品展を開くと必ず娘につきそわれてやって来て、私の手を握って泣いてくれる。もうそろそろ九十才になるんだったろうか。

  • サボるⅠ

     小学校は皆勤で通した。その年は五百人を越える卒業生の中でこの栄誉を受けたのは三人だけだったような記憶がある。母親の意地だったのかもしれない。熱があろうが腹が痛もうがとにかく学校へ叩き出された。登校拒否なんてことは思いもしなかった。ただいじめられにいくようなものだったが自殺も考えたことがない。
     中学は最後の最後、馬鹿なことをして大怪我をしたばかりに皆勤は逃したが、それでも三日と休みはしなかった。中学では学力が腕力とほぼ同等に評価されるようになったから私にはよほど居心地がよかった。
     サボることを覚えたのは高校に進学して、一年休学して、復学したあとからのことだ。

     その年の四月、私は一年下のクラスに編入された。それが嫌で嫌でたまらなかった。
     私は何も悪くない、私はむしろ被害者なのになぜ私だけが割りを食わなければならないのだろう、諦めてはいたが諦めきれない恨みだって残る。
     私は右足を一本駄目にして、人生に絶望していた。周囲はそれなりに気を使ってくれていたが、私はすでにこの世のどこにも身の置き場がないという気持ちになっていた。
     私は自分を殻に閉じ込め本を読み漁る合い間に死ぬことばかり考えていた。

     自分の為に多少弁解がましいことを言えば学習指導要綱が改定されて、一学年下からは教科書の内容も格段にに高度になっていた。例えば数学では私たちの年度までは幾何は高校の分野だったが、一つ下の学年では中学で終了していた。英語なども一気に数千という単位で単語数が増えて難解だった。
     一年間、全く学業を放棄した挙句、この端境にはまったわけだから授業についていけるわけがなかった。
     私の自分のプライドの為にも拗ねてみせるしかなかったのだ。
     それでも私の中にはどうしても棄てきれない常識というようなものがあって例えば学生服の中に煙草やナイフを忍ばせていたとしても粗暴にも不良にもなりきれなかった。
     どういうわけか女にだけはもてた。年上にも、年下にも。一生分もてたかもしれない。硝子の破片みたいでキラキラとかっこよかったと今でも女房は言う。女房は遅れたあとの高校の同級生だ。

  • 犬の名前(日本篇)

     日本人に最も膾炙した犬の名前と言えばやっぱりハチ、忠犬ハチ公だろうか。渋谷駅前にあるあの銅像の犬のことだ。東京帝国大學農学部教授上野英三郎とこの秋田犬の物語は本になったり映画になったりしているからあえて説明するまでもないだろう。文字通り喪家之狗となって人々の同情を誘った。
     銅像つながりで言うのだが上野公園の西郷隆盛が犬を連れているのはご存知だったろうか。西郷どんも無類の犬好きで、常に十数頭の犬を飼っていた。その中でも特にお気に入りだったこの犬はツン、薩摩犬の牡だとか。西郷隆盛の人気を考えればもう少し人に知られてもよい名前だと思う。
     タローとジローも忘れられないが、このカラフト犬たちの思い出にはやはりある種の感慨がつきまとう。人間の都合で南極に置き去りにして一年、よく生きていたと国中が沸いたが、いささか身勝手なはしゃぎ方だったような気もする。
     
     話の方向を変える。物語からも少し。
     おとぎ話、花咲じいさんのシロも子供の頃には幾度となく聞かされた名前のはずだ。シロ・ポチ論争なんておかしな騒動があったけれど、どう考えたってそんな昔、ポチなどというフランス風の小洒落た呼び方があったとは思われない。シロはやっぱりシロでいい。
     それにしてもこの話には妙に犬の生態がリアルに描かれていて驚かされる。ごはんを一杯食べたら一杯分、二杯食べたら二杯分といったあたりも仔犬から幼犬にかけての一時期はまさにそんな感じでぐんぐんと大きくなる。ものをくわえて運んできたり、ここ掘れわんわんといった仕草もよくみせる習性だ。粉にして撒くと花が咲くというのも骨はリン酸カルシウムなのだから理に適っている。犬と人の関係がよほど濃厚な地方で生まれた物語なのだろう。

     南総里見八犬伝の八房もぜひ覚えておいて欲しい名前だ。個人的にはこの物語が大好きで子供向けに書き直されたものから本格的なものまで何度読んだかわからない。今はもうすっかり忘れてしまったが八犬士の名前などそらで言えたものだった。
     昔、東映の八犬伝で中村錦之介の犬塚信乃と東千代ノ介の犬飼現八が芳流閣の楼上で大殺陣まわりを演じたシーンなど昨日のことに思い出される。
     
     日本の動物文学は世界的に見ても決して低い水準のものではないと思うのだがなにせ一般的には人気がない。チンだのマヤだのといきなり言われても面食らうだろうが、戸川幸夫の高安犬物語、椋鳩十の熊野犬の主人公の犬の名前だ。犬好きが読めば必ずはまる、犬はそれ程でもないという人でも犬好きになること請け合いだ。今日でも入手しやすい本だから、ぜひ一読を。

     子供の頃、世間ではジョンとかペスとか何か外国人めいた呼び名が流行っていた。私は長い間、それを進駐軍への意趣返しでジョンなんて呼んで寄って来ると頭をぽかりと叩いて溜飲を下げているのだと思っていたが、どうも深読みに過ぎたようだ。あれは外国名の犬の名を呼ぶことで、つかの間、自分自身も外国人になったような仮想に浸ったものなのだろう。日本人の性癖を考えるとこっちの方が正しい気がする。

     最近の犬の名前は、モモ、ナナ、サクラがベストスリーだという。
     人間の子供の名前と比較するとむしろ大人しい気がするが、これについてはどう考えればよいのだろうか。

  • もしもピアノがひけたなら

     音楽はまるで駄目だ。演歌なら一、二曲は何とかはずさないで歌うことが出来る。どうしても人前で歌わなければならない時にはそのとっておきの一、二曲を使いまわす。調子に乗って他の歌に手を出すと周囲が露骨に白ける。それ程、場の空気が読めないわけではないからあとはひたすら手をたたく側にまわる。同じ金を払って馬鹿らしいと思うが仕方がない。

     父親は酒の飲めない人だったがそれでも酔うと軍歌をどなった。歌というものではないなと子供心にも思ったものだ。
     子守唄代わりに聞いた歌の記憶がある。それが“青葉の笛”だとわかったのは母親が死んでしばらくしてからだ。その時は泣いた。しかし私がものごころがついてからの母親は歌わなかった。たしなみもあったのだろうが、やっぱり自信もなかったのだろう。こんな具合で私は音楽には恵まれなかった。

     昭和二十年代後半から三十代前半の義務教育の音楽もかなりひどいものだった。一つ教室に六十人を超える生徒を詰め込んで教師の弾くオルガンに合わせて唱歌を歌う。週一度、毎度毎度がこれだった。妙に裏返った高い声で得意気に手本を示すいかにもうだつのあがらない中年の男をどうして尊敬できただろう。私たちはしばしば叩かれたり、立たされたりしたが、一度なめられたら、教師なんて憐れなものだ。

     しかし、音楽に才能のある者、好きな者、努力する者はそんな中からでもちゃんと芽を出してくる。小学校の五、六年生になるとぼつぼつハモニカを吹く少年たちが現れた。私たちはそんなハモニカ少年を囲んで草原にたむろして、うっとりと聞き惚れたり歌ったりしたものだ。今の小沢昭一よりどれ程、うまかったかしれないと思う。

     世の中は敗戦のどさくさを過ぎて動き始めていた。すでに恵まれた家庭の子供たちはピアノやバイオリンを習ったりしていたことはもっと後になって知った。妻は同じ年だが琴を習っていたというから大したものだ。
     
     高校時代はフォークソングの大ブームだった。誰もかれもがギターを抱えて歌っていたような気がする。コードさえ覚えれば簡単なんだ、やってみろよと何度もすすめられたが、もうその頃には音痴というレッテルを自分でしっかりかかえ込んで音楽の話を人前でするなどまったくおよびもつかなかった。

     もしもピアノがひけたならという歌がある。才能もない、努力もしない、だけど音楽が嫌いだったわけではない、私のような団塊の世代の心情をうまくついた歌だと思う。西田敏行がそれ程上手でないのもいい。
     もしもピアノがひけたなら、やっぱり少し違った人生だったような気がする。

  • 泣く

     年のせいかめっきり涙もろくなった。もともとそういう傾向があったところにもってきてこの老化現象だから実にしばしば泣く。
     新聞を読んでいて子供の事故死などという小さな記事に出会ったりするとぐっとくる。嘆き悲しむ親の姿が目に見えるような気がする。自分がもしその立場に置かれたらなどと想像する。とても正気ではいられないだろう。妄想癖も若い頃からあったもので、おかげで時間を持て余したという記憶がないが、これもどうやら真性の域に達しつつあるようだ。

     当然、テレビを観ても泣く。出来の悪いドラマだと思いながら突然つんと鼻をやられたりする。自分でもつまらないところで泣かされていると思うから、女房が一緒の時には気を使う。これ以上馬鹿にされたんじゃたまったものではない。
     その点、スポーツの国際試合の中継を見ている分には安心だ。夫婦して俄国粋主義者に変貌して、日本人がよいプレーをする度にうるうるし、勝てば泣く。まあ、大きな声では言えないが、けっこう女房もきてるのだ。
      
     俗に涙腺がゆるむと言うがやっぱり感情の回路もあっちこっち切断したり死滅したりで単純化されているのだろう。突き詰めて考えると気持ちが落ち込んでくるが考えても仕方がないことは考えないことにしよう。とりあえず年をとるのは初めての経験でそう思えばそれはそれで新鮮だ。
     還暦とはひとめぐりして元に戻るということらしい。そんな言葉を科学も医学もほとんど未発達の古代の人が発想した。しかもどうみたって若い人の思いつくようなことではない。だとしたら、この先だってけっこう馬鹿にしたものではないのかもしれないぞと思う。

  • 岡のけんちゃん 2

     犬がうまく納まったとわかるとけんちゃんは足繁く通って来るようになった。鎖で繋ぐような飼い方をしちゃだめだよ、これはいい犬なんだからさ。鎖でつなぐと首のまわりの毛がこすれて、みすぼらしくなる、骨格を狂わせる原因にもなる、そう言われれば言われるままに、私は檻を準備した。
     犬が生後六ヶ月を過ぎると品評会に出せとうるさくなった。私にもうちの犬が客観的に見てどの程度の評価を受けるのか、関心がないわけではなかった。
     
     背中を押されて地元の品評会に出すと優勝した。大きいもの小さいもの品評会はけっこうあったが出ると賞をとった。一時は夢中になって全道をかけずりまわった。安っぽいトロフィーが部屋に置ききれないぐらいたまった頃、ようやく少し熱が冷めたが、私も結局けんちゃんの術中にはまって踊らされていたのかも知れない。

     一千万の話はさておいて、けんちゃんがプードルではけっこう知られた存在であることは確からしかった。いつも五、六匹の子犬を抱えていてバンに乗せて連れ歩いていた。
     小型犬っていうのはね、サイズオーバーにうるさいの、だからさ、餌はあまり食わせられない、高蛋白、高脂肪のものをちょっと、食餌のバランスが悪いでしょ、するとこうやって目脂を出すんだ、目脂で目のまわりの毛が焼けるとかっこ悪いから、そんな愚痴をこぼしながら暇さえあれば子犬の目脂を拭いていた。
     ネクタイの幅やスカートの丈に流行があるように犬猫の世界にもはやりすたりがある。当時はプードルが全盛だった。ようやく一山当てたという感じがあったのか、いつも機嫌がよかった。
     おかげで私も怪我をしないで済んでいた。

     それにしてもやくざの女たち、水商売の女たちはどうしてあれ程、犬や猫に入れ込めるのだろう。その執着は異常だ。度を越したままごと遊び、まるで醜い自分やうつろな現実から目を背けるように架空の世界に没頭する。他人よりよいものを持ちたがり、自慢し、みせびらかし、何かというと周りを巻き込んで大騒ぎする。もっとも他人のことをとやかく言えた義理ではない。自分もまったく同じようなものだった。
     その間をうまく泳いで金を巻き上げるのが犬猫屋だ。

     けんちゃんはけっこう気まぐれで、来るとなったら毎日のように顔を見せたが一ヶ月以上足が途絶えることも珍しくなかったから私は気が付かなかったけれど何か事件が起こっていたのだ。
     しばらくして、猫でしくじって町を出たと人づてに聞いた。
     何でも弟分の女が三十万円で買った姉妹猫を兄貴分の女に五十万円で売ったのがばれたということらしい。うそか本当か、妹が三十万円なら姉が五十万円で何がおかしいとけんちゃんは啖呵を切ったというがやくざが出てきたらそんな話は屁のつっぱりだ。最後は兄貴分の兄貴分に泣きついてとりあえず指はつながったそうだけれど車の一台や二台分の金は使わされたことだろう。承知でやったのならけんちゃんも大したものだが猫の扱いはあまりやっていないみたいだったからひょっとするとはめられたのかもしれない。ちょっとはぶりが良くなりかけた矢先の事だからほらでも吹いて妬みを買ったとしてもおかしくはない。男の嫉妬ほどしようがないものもないのだ。

     それっきりけんちゃんには会っていない。けんちゃんとは二年足らずの付き合いだった。特に嫌な思い出はない。小博奕で小遣いをむしられたぐらいのものだ。こんな男にくっついていたっていいことないから俺と逃げようと女房にちょっかいをかけていたとはあとから聞いた。女房も男まさりの気の勝った女だから倶利伽羅紋紋を背負って極妻をやっても充分つとまったことだろう。
     人生は同時に二方向へ進めないがあっちへ行っていたらと考えることはある。
     けんちゃんがその後どんな人生を歩いたのか想像することはあるが会ってみたいわけではない。

  • 岡のけんちゃん 1

     岡のけんちゃんは犬猫屋だったがどう考えたってそれだけでは食べていけそうもないから他にもいろいろやっていたのだろう。だけど他のいろいろの事は知らない。犬を買いたいと思い知人たちのつてをたどっていたらやってきたのがけんちゃんだった。素人には見えなかったが、その筋の人の険もなかった。

     だけどアイヌ犬かとのっけからけんちゃんは言った。アイヌ犬なんてつまんないよ、今さ、アメリカからプードルのチャンピオン犬が入るんだ、その子なんかどう、儲かるよ。一千万もするプードルを輸入する話をけんちゃんは得得と始めたが、もちろん私はそんな話はてんから信じはしなかった。大体室内犬にはまるで興味がない。
     オスのアイヌ犬、赤毛の血統のいいやつと私は念をを押して手配が出来るようなら一度見せて欲しいと言った。

     ペットなどという言葉がまだ一般的でなく水商売かやくざ関係の女たちが主な顧客で当人たちも自嘲的に犬猫屋と称していた。私は純血種にこだわったから犬猫屋に頼ったけれど一般にはまだ犬や猫は買うものではなく貰うものだった時代のことだ。
     私は小さな会社をまかされていて多少の金なら自由になった。
     いい気になっていたのだろう。

     一ヵ月後、けんちゃんはやって来た。
     ちょっと話が違うんじゃない、私は露骨に不快な声を出したと思う。そんな私におかまいなく、こんなのめったに手に入らないんだぜ、けんちゃんは言った。けんちゃんの腕の中で子犬が震えていた。メス犬だった。
     室内犬の場合はメスが高い。子がとれるからだ。それで小遣い銭を稼ぐ飼い主も少なくない。しかし室外犬の場合は逆だ。管理が難しくなるからだ。そんな業界の裏情報めいた話を書いた本もあったはずだ。私には情報魔的なところがあって何かというと本をあさる。

     だけどあんたが飼ってやらなきゃこいつ明日にも殺されちゃうんだよ、かわいそうにな、室外犬の場合、生後45日から180日ぐらいまでが商品であって、それが過ぎると多くの場合、殺処分される。えさ代も馬鹿にならないし、飼う場所、運動、みな手に余る。価格を下げて無理に売りさばいても、値崩れを起して結局自分の首を絞めるだけだ。

     まあ二、三日預かってみてよ、嫌ならすぐに引き取るからさ、けんちゃんは子犬を押し付けると帰っていった。そこら辺の呼吸が犬猫屋の芸の見せ所なのか、情が移ればしめたものだ、けんちゃんの見込み以上だった。女房はたちまちこの犬に取り込まれその夜のうちに名前も決まった。
     
     日本犬の場合、ある時期になるとご飯を一杯食べると一杯分、二杯食べると二杯分、ぐんぐん大きくなるという形容が決して大げさに感じられないような成長の仕方をする。子犬はころころと順調に育って子供のいなかった私たち夫婦のかすがいの役も充分果たした。