投稿者: 片山一

  • 闇の果て (四)

     弥助には兄弟が四人いた。
     一番上に姉、中二人に兄、そして妹だ。
     しかし弥助に上、三人の記憶はほとんどなかった。
     すぐ前に育たなかった兄と姉が一人ずついて、それで年が離れている。
     姉は早くに商家に奉公に出て、そのうち同じ店の奉公人の一人と結婚するとそのまま城下に居付いてしまった。
     二人目の子は女だったとか、手代の連れあいが番頭に出世したという話をたまに風のたよりが運んでいた。
     しかし十里の道を越えて姉がやってくることはなかった。
     姉には農家の暮しは二度と目にしたくないものだったのかもしれない。
     二人の兄もやっぱり百姓の仕事が身に付かなかった。
     ある日、ふらっと村を出て、それっきり、戻らなかったという。
     死んだものか、生きているのか、兄たちの話はまるで親の口にのぼることはなかった。

     老いの目立ち始めた親たちはいきおい、弥助を頼るようになる。
     弥助も親の期待を裏切らなかった。
     背は伸びなかったが肩幅の広い牛のような体格でいつの間にか一人前の仕事をこなすようになっていた。
     弥助は野良の仕事が厭ではなかった。
     同じ種をまくにしても、手のかけかた一つでまるで違う結果になる。そういう工夫が面白かった。
     芽が出ると嬉しかったし、花が咲くと心がなごんだ。
     身体中の汗を絞り出すようにして働いたあとのすがすがしさを魂の悦びとして感じとることもできた。
     心の底にはけして人には明かせない重い秘密があって、時々それが意識されると殻に閉じ籠って、やりすごさなければならなかったが普段の弥助は働きものの気持のいい青年だった。
     年がいってからの子は可愛いいと世間はいうが、弥助の親たちもやっぱりそのようだった。
     親たちは五つ下の妹にはなにをさせようというつもりもないようだった。
     仔犬でも飼うように好き勝手に遊ばせていた。
     それをいいことに妹はいくつになっても家のまわりを跳びはねていた。
     少し知恵がたりないようにもみえたがあるいは無意識のうちに、いつまでも子供でいたいと願ったのかもしれない。
     甲高い声でよく笑った。
     弥助も妹の笑い声を聞くのが好きだった。

     弥助が十七才の年、このあたり一帯にころりが大流行した。
     村からもずいぶん死者が出たが弥助の親や妹もそれであっけなく死んだ。
     一人残された弥助は陥穽に落ちた野獣のように暗闇でもがいた。
     なぜ、こんな目にあわなければならないのか、祟りという言葉が浮んだがそれならばなぜ直接自分に祟らないのか、自分の想いを表現する的確な語彙を持たなかったから、その分弥助は苦しんだといえるかもしれない。
     なにをする意欲も起きなかったが二、三日が過ぎると、しかしそれでも腹はへった。
     食うことのために気がまわりだすとその分哀しみは確実に薄らぐ。そうしていつだって、食い物は安易に入手できるものではなかった。
     食い物を求めて足掻くことで弥助はいつか絶望の陥穽を抜け出していた。

     しばらくすると部落の世話役が二人、連れだってやってきて、嫁をとれと弥助に推めた。
     隣の部落にやっぱりころりで亭主を亡した十九才の嫁が乳飲み児をかゝえて難儀しているという。
     ぬいというその女は弥助も知っていた。
     近くにぬいの父親の妹がいて、ときどき泊まりがけできていたからいっしょに花を摘んだり蜻蛉を追いかけたりして遊んだ記憶もある。
     おまえだって急に一人になって、大変だろう、年上の世話役が諭すようにいった。
     多少の無理はあるが、こんな際だ、人助けだよ、そういわれると弥助の気持も動かないわけではなかった。
     他人の子を育てることが贖罪になるとしたらそれもいいことかもしれない。それにぬいは悪い女ではなかった。
     おまえだって、もう、せんずりこかないですむしなあ、しかし若い方の世話役のいった科白が弥助の癇に障わった。
     いや、やっぱり無理でしょう、一言いうと、それっきり弥助は押し黙まった。
     弥助がまわりから、厄介者のように扱かわれだしたのは、それからのことだ。

     ぬいが子を抱えて、川に身を投げたという話を聞いたのはしばらくあとのことだ。
     弥助にも少なからぬ衝撃があった。
     俺には係りがないという想いとぬいを殺したのは俺だという想いが鬩ぎ合った。
     幼い弥助の手を引いていっしょに駆けてくれたぬいの掌の温もりがふと蘇った。
     俺はぬいを助けてやれなかったのだ、弥助はもう一つ、重い荷物を背負わされたような気がして身振いした。

  • 闇の果て (二)

     家に逃げ帰ってからも、弥助の心は鎮まらなかった。
     いずれ悪事は露顕する、そんな確信めいたものがあって、自分で自分を嘖なまなければなかなかった。
     馬鹿なことをしたものだという想いとあれは事故で責任はないという言訳が胸の内で鬩ぎ合う。そうして結論はけして都合のよい方には落着かないのだ。
     罪は認めるとしても死にたくはなかった。
     生きるためには事が表だってはならないのだ。とにかくなんとしても匿し通さなければならなかった。
     落着かぬ不安な日々が続いた。
     道で村人たちと擦れ違うと、そのあと噂をされはしまいか振返って、確かめずにはいられなかったし、夜、なにかの加減で戸が音をたてようものなら、すわ捕手に襲われたかと心臓が止まるような思いもした。

     恐ろし気な夢をみて大声を上げて目を覚すこともたびたびだった。
     いつもいつも目を剥いた女が襲いかかってくるわけではなかったが得体のしれないものがその都度、弥助を追いかけることにかわりはなかった。
     夢の中のつもりだったが実際にも声を張り上げていたのかもしれない。
     家の者などどのように感じていたことだろう。
     弥助自身も自分がこれ程小心者だとは思ってもみないことだった。

     弥助は元来が慎重な質だったから死んだ女が身に付けていたものを持ち帰ろうとはしなかった。
     着物も帯もよいもので古手屋に持ち込めば金になることはわかっていたがそんな危険を冒すつもりは毛頭なかった。
     簪、櫛といった、妹にでもやったらいかにも喜びそうな小物も惜し気もなく棄てた。
     ただ銅乱の中の巾着には弥助が一生かゝっても手にすることが出来ない程の金子があって、それはやっぱり、どうしても見棄ることが出来なかった。 
     小さな金の一粒、一粒に自分たちはどれ程、翻弄されてきたことだろう。
     これが命とりになるかも知れぬという予感が働かないではなかったがやっぱりあきらめることは出来なかった。
     死んだ女のかたみではないか。まったく意味のない人殺しをして一生を棒にふるというのも納得のいかないことだった。
     思案の末、中味だけを褌に包んで持ち帰るととりあえず納屋の隅に深く埋めた。
     これで弥助は心の内と外とに大きな秘密を抱えたことになる。

     無口な弥助はますます無口になり、自分からは人と付き合うこともしなくなった。
     若衆宿への出入りも止めて、いかにもひっそりと身を潜めた。
     そうして、親の目、妹の目、村人たちの目に気を配った。
     役人は遣ってこないか、神経をいらだたせ、全身を耳にして弥助は一刻、一刻をやりすごしていった。
     役人が遣ってきたらその時はもう御仕舞だ。
     奴らが来たら手ぶらで帰ることがない。

     しかし奇妙なことに峠での人殺しの話はまったく噂にものぼらなかった。
     人が一人消えたのは誰よりもよく弥助が承知している。
     女にも家や家族はあったはずなのにこれはいったい、どうしたことだ。
     どこへ行くつもりだったか知らないが、女の一人歩きだ、それ程遠くから来たわけではないだろう。そのぐらいの見当はついたが訝ぶしんであれこれ考えてみても結局、答えが出るはずもなかった。
     だがそれは弥助にとっては都合のいいことには違いなかった。
     時候も弥助に味方をしていた。
     炎天下の野良仕事に皆が疲れきっていた。
     そんな時には他人のことにあれこれ気をまわすより、とにかく身体を休めることが優先する。
     間怠るく、しかし確実に時は過ぎた。
     そうして、稲が穂を垂れ刈入れが始まる頃には弥助の緊張もずいぶんと緩和されたようだった。
     もっとも十五才の若者の脳裏から殺人の記憶を拭い去るのは不可能なことだ。

  • 闇の果て (三)

     秋が立ち、村祭りの日が来た。
     その村の祭りは俗に種付け祭りとも呼ばれ、三日三晩を騒ぎ狂う。若者も大っぴらに娘を誘ってまぐわうことを許される年に一度の無礼講だった。
     娘たちに異存があったかどうか、少なくとも親に有無はなかった。
     下手に拒むと、家の戸に肥溜めの糞を掛けられたり、ひどい嫌がらせを受ける。
     万が一、身籠らせた場合には身に覚えのある若者たちが娘の前で籤を引き、当てた者が夫婦になる決まりもあった。
     だから他所の村の者が忍び込んで捕りでもしたら生やさしい制裁ではすまぬことになる。
     それでも男とは馬鹿なものだ。どんな目に会わされようと懲りずにやってくる者がいる。
     そうして毎年、一人二人はかならずといっていい程、血祭りにあげられる。それがまた村の若者たちの血をいやがうえにも騒がせるのだ。
     その年は好天に恵まれ、例年になく田畑の実りがよかったから祭りもおもいきり派手になるはずだった。

     若衆宿でも今は祭りの話題でもちきりだろう。
     若いうちとにかく数を競う。
     村中の娘とやったと法螺を吹くものが皆の羨望の的になりしばらくは英雄として崇められたりする。
     例年なら弥助も仲間にまじってあっちこっちを跳び回ったりするのだが今年はどうもそんな気分にはなれそうもなかった。
     おそののことを考えてもまるで気持は高揚してこない。
     むしろ、その度に殺した女のことが思い浮かんで気がめいるくらいだ。
     おそのという名前を聞いただけで目が冴えて夜も眠られなかった去年のことが嘘のようだった。
     あのころ、おそのは弥助にとって命と同じぐらいかけがえのない存在だった。
     おそのはもう俺の心がわりに気付いているだろうか。

     弥助の親たち、小作の小さな家が五軒程点在する先に佐五郎という庄屋の分家の自作農がいる。
     屋根はやっぱり藁葺きだが門がわりに植えた欅が人目を引く、そこらでは裕福な家だった。
     女ばかりが五人いて、上の二人はすでに嫁に出ていたが十五才になる三番目の娘がおそのだった。
     おそのは色の黒い瘦せぎすな娘で背だけが高かった。
     美人とはいえないが目が大きいから、その分たしかに目立つところはある。
     しかし、おそのが関心を集める最大の理由はもっと別なことだった。
     いずれ佐五郎はおそのに入り婿をとって跡を継がせるだろう。土地を持たない若者には目の眩むような話だった。
     誰がおそのを射止めるか、ここ数年、村中の関心が集まっていた。
     そのおそのから好いていると告白されたのは去年の村祭りの直前のことだ。
     あの、天にも昇るような気持を忘れてしまったわけではない。
     だが、今の弥助にはそんな皆の羨望の的になるような真似は極力、避けなければならない。
     人の怨みを買えばそれだけ足をすくわれる機会も増る。

     陽が落ちる前から祭囃子は始まった。
     賑やかな笛や太鼓の音色が風に乗って意外な近さで聞こえている。
     ふて腐った気持で横になっていて、いつの間にか居眠ってしまったらしい。
     その音で弥助も目が覚めた。
     親たちはいつの間にか、もういない。おゝかた近所のどこかに集って酒でも飲耋けているのだろう。妹はまだ夜祭りにくり出す年ではなかったから、飴でもしゃぶらされて、子守りを押しつけられているのに違いなかった。

     普段は狭苦しい家が妙に広く感じられる。
     弥助は所在なげに寝返りをうった。
     聞きたくもない笛の音が耳に刺ってくる。
     杉蔵の笛か、杉蔵は仕事より笛が好きだという男だからこんな時には得意気に吹きまくっていることだろう。
     そうして、やりそこねた俺は、こうして一生、人目を避けて暮らすのだ……、ふと弥助は繰り言をやめてきき耳をたてた。
     小さな足音が近づいてきて、家の前で止まったような気がする。
     一瞬、どきりとして、そんな馬鹿なことはないとあわてて打消して、そのとたん、弥助は確信した。
     おそのだろう。
     おそのが俺を誘いにきたのだ。
     ためらいがちに戸が敲かれ弥助は息をのんだ。
     今、飛び出していって、おそのを家に引きずりこめたらどんなにかいいだろう。
     しかし弥助は膝をかかえたままじっとしていた。
     もう一度、戸が敲かれやがて足音が遠ざかっていった時、弥助は泣いた。
     もうこれっきり、おそのは俺のもとにくることはないと思った。

  • 闇の果て (一)

     弥助が十五才の時だ。
     その年の盛夏のある日のことだった。
     じっとしていても汗ばむ程の陽気で日はまだ中天にぎらついていた。
     野良で雑草を刈っていた弥助がふと顔を上げると女が一人、街道筋を北に向って急ぎ足で通り過ぎるのが目についた。
     町娘ふうの若い女だった。 
     女の一人旅か、思わずこらす目に着物の紅が染みた。
     注意して様子を窺っても、やっぱり連れは見あたらないようだ。
     村を抜けるとやがて嶮しい峠がある。昔から鬼が出ると恐れられるところで、いまだに夜には男でもめったなことでは歩かない。
     しかし、この街道のそれが一本道なので日中、人の往来はある。
     それにしても若い女の一人旅は尋常ではなかった。どんな仔細があるのか知らないが無用心にもほどがある。
     弥助はすばやくあたりを見回した。
     すでに村の誰かが目をつけているかもしれない。
     だが畔の向うに一心に草を刈る母親の姿が見えるばかりで他の人影はないようだった。
     それならば俺がやってやろう。

     旅人を峠のどこかで脅かして金品を揺り取る、そんなことを男たちが時々やっているのは村の誰もが知っていた。
     若衆宿でも年嵩の若者たちが得意気に吹聴する。夜は長い。盗み出した酒に酔い、顔を真赤にして、微に入り細をうがった仕方話は神楽でも観るようで弥助たち年少のものの心をいたく刺激した。
     土下座して泣くものがあると一人がいうと女ならたいてい自分から帯を解くぜともう一人が話をついで、どこまでが本当でどこからがまやかしか判らないような話が延々と続く。
     普段、虐げられるだけの百姓が束の間、主役を演じるのだ。こんな痛快なことはない。
     いずれ機会があれば自分もと考えるのはなにも弥助にかぎったことではないだろう。

     念には念をということもある。さらにしばらくようすを見極めてようやく得心がいくとやおら弥助は峠へ走った。
     女の足だ。いくら急いだにしろ多寡が知れている。
     案の定、峠の中腹あたりで追い付くと即かず離れず弥助は女の様子を窺った。
     白足袋に包んだ小さな足が健気に坂道を踏み締めていく。
     帯の結び方一つにも村娘とは違った華やぎがあるようで、弥助は目の前の獲物にほくそ笑んだ。
     いざとなるとやっぱりこの女も自分から帯を解くのだろうか。

     待つほどもなく機会はきた。
     小用でも催したか女がふいに道を逸れて、下草を払った杉木立の中に入ったのだ。
     あたりを見まわして人気のないのを確めると、すかさず弥助も後に続いた。
     目算通りに事が運べばなんの問題もないはずだった。女は跪いて拝むように金品を差し出すだろう。
     しかし裾を捲ってしゃがもうとした女は弥助に気がつくと、ありったけの声で叫んだ。
     思いがけない大声が森中に反響して、弥助を動顚させた。
     とにかく黙らせなくてはならない。
     あわてて跳びついた弥助に女はさらに激しく抵抗した。
     揉み合いながら弥助も腕や肩を引っ掻かれ噛み付かれて幾度となく呻き声を上げた。
     汗とまじった濃厚な女の体臭がますます、弥助の正気を奪っていった。
     それ程長い時間ではなかったような気がする。
     ふいに女の体から力が失せた。洩れ出た小便が弥助の着物の裾やはだけた足を濡らしていた。
     殺したという意識はまるでなかった。
     だが女は目を剥いて死んでいた。

     呆然自失の態でしばらく立竦んだあと、ようやく我に返った弥助は自分が今、どんでもないへまをやらかしたことを悟らなければならなかった。
     この先どうすればいいか、すぐには判断もつきかねた。
     それにしても人間がこんなにあっけなく死ぬとは思いもしなかった。
     これでは鶏よりも簡単ではないか。
     弥助は子供の頃、父親に鶏を殺すように命じられた時のことを思い出していた。
     言われたとおり首を刎ねて放るとなんと鶏はそれでも五尺も跳ね上がり弥助を驚愕させたものだ。
     以来、弥助はずうっと生き物を殺すという行為を心のどこかで恐れてきた。
     それがなんとしたことだろう、今こうして人を殺してしまったのだ。
     さっきまでの軽薄に高揚した気分はあっけなくしぼんで、ただ詮方無い悔恨が身を攻めていた。
     人を殺すと殺されるというのが弥助が持つ素朴な常識だった。
     悪いことをすればそれなりの罪を受けるのは当然だ。
     しかし俺には殺す気なんてまるでなかった、弥助は泣きたいような気持で思った。
     なんとしてもまだ死にたくはなかった。
     どうかして助かる手立てはないものだろうか。

     もし助かる道があるとすれば今、この事実をなかったことにするしかない。幸い人には姿を見られていないはずだった。
     とにかく女を葬ろう。
     弥助は手近の柴を拾うと女の傍らに穴を掘り始めた。
     腐葉土が堆積した地面を掘るのは存外、たやすかった。
     それでも女を埋め終るには一刻程もかかったろうか。
     天からも地からも蝉しぐれがわきかえっていた。

  • 仔ぎつね、おコン 【5】

     お紺の母親というのが源次の仕事上りの時刻を見はからって浅草、三間町の裏店を訪ねてきたのはそれからさらに二、三日あとのことだ。
     「上州屋の家内、お栄ともうします」 駕籠を戸口に待たせて入ってくるといきなり切口上の挨拶だった。
     ちょうど卓袱台に晩飯をととのえていた源次はあわてて出ていき上がり框に膝を揃えてとりあえず上がるように推めたのだがお栄は三和土に仁王立ちになったまま動こうとはしなかった。
     「このたびは娘が大変お世話をかけました」
     「へい」と受け答えながら源次は言葉のいい様に棘や厭味を感じずにはいられなかった。
     またなにかを誤解して、腹を立てているのだろう。
     姉に吊し上げを食ったのもつい昨日のことだ。

     「なんなの、あの女」とやってきた姉も最初から喧嘩腰だった。
     愛想一ついえず突っ立ったままの女がよほど腹に据えかねたらしい。
     二つ違いの姉は子供の頃から源次には差し手がましい口をきく。たしかにその分、よく面倒もみてくれるのだがこの年にもなればさすがに多少はけむったい。左官職の亭主は数年前にうまく親方株を手に入れたというから、今は徒弟の世話、子育てと自分のことだけでも目が回る程忙しいはずなのにやっぱり源次のことも放ってはおけないようだ。
     「お前も見境いなく女を銜え込んでいるとそのうち酷い目に合うよ」
     人の弁解にはまったく耳を貸そうとせず持ってきた大根の煮付を皿に移すと姉は帰っていったのだがその後姿を見送りながら、思わず源次にも溜息が出た。
     「まったく、女って奴は…」

     吊り上がった目はお紺と似ていた。背はお紺の方が首一つ高いかもしれない。
     板につかない化粧と高価な着物をとればこの長屋にでも住んでいそうな女だった。
     道々練上げてきた口上を一気に吐き出したとでもいうように肩で小さく息を入れると、手にしていた菓子折りをお栄は源次に押しつけた。
     そんなものを貰ういわれはないがあえて突っ返す程のこともない。明日にでも長屋の子供たちに振る舞えばどれほどの喚声がわくことだろう。
     しかし、つづけてお栄が懐から袱紗に包んだ切餅をとりだした時にはさすがに源次も顔色を変えた。

     「それじゃ、なんですか、そちらにはあっしにしゃべれたくないなにかがあって、それをこれで口を閉じろとおっしゃりたいんですか」
     「はばかりながら、あっしはこんなことをしてもらわなくてもあることねえことぺらぺらしゃべってまわる程、口は軽くねえつもりですがね」
     不請不請、お栄は一度出したものをもう一度、懐におさめ直すと帰っていった。
     不愉快なものが源次に残った。
     「金なんざ、必要な時に必要なだけ稼いでみせらあ」
     それは職人の誇りだった。
     誇りを貶められて、源次は傷ついていた。
     商家ではこんな時に塩でも撒くのだろうか。
     「まったく女ってやつは…」

     「実はおまえに入り婿の話がきているんだが」
     茶の間の長火鉢の奥のきまりの場所にどっかと腰を据るとさっそく親方は話を切り出した。
     十年過して、我家のようになった家だから源次も厨に声を掛けるとそのまま上がって長火鉢を挟んで親方の向いに座ったわけだが話の意味がすんなりとは飲み込めなかった。
     嫁のことなら一度ならず聞かされたが、婿の話は初めてだ。しかも、今、一人立ちしたやさきに入り婿というのはないだろう。
     茶をはこんできたおかみさんもどこまで話を知っているのか、
     「ついでだから、晩ごはんも食べておいき」 妙に愛想がいい。

     夕方のことだ。帰り仕度をしていると「話がある、ちょっと寄れ」と突然、親方から声がかかった。
     今の仕事はもうじき終るが親方は嘘のない性格で腕もよかったから仕事が断えたことはない。
     大方、次の段取りだろうと源次はふんで福井町の家まで親方の後についてきた。
     帰りの道々、親方はわざとのようにたわいのない世間話しかしないから妙だとは思ったのだが、まったく狐にでも抓まれたような話だった。

     「それがあの上州屋なのだ」 芝居気たっぷりに親方は声をひそめた。
     「まさか」 思わず源次はうめいた。
     「このあいだ、上州屋のおかみさんてえ人が訪ねてきましたがね、まるであっしのことを蛇蠍でも見るように睨めまわしていきましたぜ」
     「おめえ、最後に金を突っ返したろう、あれがどういうわけか先方には受けたらしいや」

     「それまで反対していたおかみさんがそれでころっと手の掌を返えしたからあとはもうお前しだいだ。上州屋は材木問屋の中ではけして大きい方とはいえないが勢いのある先のたのしみな店だ」と親方はいった。
     「お紺というのが一人娘でそろそろ婿をってえやさきのこの騒動だ。そのお紺がお前にぞっこんで、もう離れられないなんてさわいでいるそうだぜ」
     「お前も案外、隅に置けないんだねえ」 いつの間にか横に座ったおかみさんが源次の顔を覗きみながら半畳を入れた。

     「親方」 源次はもう半分泣きたいような気持だった。
     「親方はいいましたよね、立てる気がなくたって立つものもあるが男気ってやるはしっかり立てる気でなきゃ立たないんだって、俺は本当にあの娘には指一本ふれちゃいないんですぜ」
     「源次、おめえも気の仂かねえやろうだな、おめえが指一本ふれてこようとしなかったからお紺はおめえに惚れたんじゃねえか、おめえといっしょになりたい一心で生娘がつく嘘のせつなさがおめえには斟酌できねえのかい」

     「しかし親方、それじゃあっしの十年の修行はどうなるんですかい、あっしの十年の辛抱を無駄にしろといいなさるんですかい」 さすがにそこまでいわれると親方も腕をかかえてうなるしかなかった。
     ううんとしばらくうなってから、「よしわかった、それじゃ、おめえ、残りの御礼奉公はちゃらにしてやるから明日にでも道具箱を担いで旅に出な、一人前の大工になるにゃ、他人の飯を食うっていうのも必要なことだぜ」
     思いがけない方向に話が跳んで今度は源次が腕をかゝえて唸る番だった。
     お紺の顔が一瞬、心の中を横切った。
     「子狐め、どこまで俺を虚仮にする気だ」
     するともう一度舞い戻ってきたお紺がぺろりと赤い舌を出した。   〈完〉

  • 仔ぎつね、おコン 【4】

     「三間町の源次って大工はおめえかい」 突然声をかけられて、あわてて顔を上げると図体の馬鹿でかい男がぬっくと突立っていた。
     「俺ぁ、入舟町の甚六ってえ目明しだ。ちょっと聞きてえことがあるんだが、ここでいいけえ、なんならこの先の自身番でもかまわねえんだが…」
     鉋がけに集中していた源次はすぐには目の前の状況が呑み込めなかった。
     「十日ぐれえ前に、お前さん上州屋のお紺てえ娘を二三日家に泊めたな」
     源次が棒立ちのまま、目を白黒させているとそれを了解の合図ととったのか甚六がいった。

     「へえ、いえ、上州屋のお紺てえ女は存じませんがたしかに上州から出てきたっていうおゆきって女なら泊めました」
     「なにもおかしなことはしていないのだからと思いつつ、源次はどうしても気圧されて、相手をうかがうふうになる自分がはがゆかった。
     甚六にもその気配は伝わったのだろう、にやりと笑うととりなすような調子に変わった。
     「話がもう終ったのは承知してるんだが先方から訴えが出ていたもんでその始末をつけなきゃならねえ、一応裏をとりにきただけだから、心配しねえで話を聞かせてくんな」

     甚六は細かいことをいくつか聞きだして、一人でうなずいたりしたあと、「おめえ、大川のふもとの稲荷の前で声をかけたんだってな、そんなこといつもやっていると、しめえには本当に勾引で捕まることになるぜ」 最後にはきちんと釘を挿した。
     それでどうやら甚六の用というのはすんだらしかったがしかし源次にはこの機会にどうしても質しておかなければならない話が残っていた。
     「それで、その上州屋お紺が女狐お今てえことになるんですかね」
     とたん甚六は目を剥くと上から下、下から上へと源次を睨め回した。
     「俺あ、女狐お今なんて話は一言もしてねえよ」

     「それともなにかい、お前さん、女狐お今となにか、やんことねえ因縁でもあるっていうのかい」
     「めっそうもねえ、親分」 源次はあわてた。
     どうも話がどっかで少々ずれてしまっているようだ。
     気まずい間がしばらくあったが、甚六は源次にそれ程悪い印象は持っていないようだった。
     「あれは上州屋の一人娘でなんにも知らねえねんねだよ」
     「しかしあの娘、とてもそんないいところの子には見えなかった、けっこうな啖呵も切っていましたからねえ」
     甚六が鼻で笑った。
     「おめえ、木場の先は辰巳芸者の巣なんだぜ、あのあたりではおむつの取れねえガキだって、見よう見まねで啖呵の一つや二つ切るだろうぜ、おまけに上州屋はおやじもかゝあも木場人足からの叩き上げだ、口がよかろうはずがなかろうが」

     甚六が帰っていくと、皆がすぐに源次のまわりに集まってきた。どうも仕事の手を止めて、それぞれに聞耳をたてていたらしい。
     「大人の世界を覗き見たくてうずうずしている小娘に体よくあしらわれるなんざ、源次兄いもざまがねえな、え」 兄弟子の与三郎が棘のある言葉でからかった。
     「まあ、おかしな成行きになってあわてさせられるよりはよっぽどましだがな」 親方が話をとりあげた。
     「さあ、仕事だ、仕事だ、いそがねえと、日が暮れてしまうぜ」

  • 仔ぎつね、おコン 【3】

     源次は一心に鉋の刃を研いでいる。
     大村産の仕上砥は赤子の肌のように艶やかにぬめり、刃はぴったりと吸いつくようだ。このまま手を止めると刃は二度と剝がれなくなるかもしれない。
     規則的に水を打ちながら源次の手はさっきから、まったく同じ角度、同じ調子ですべっている。
     気持ももうすっかり落ち着いていた。
     刃物を研ぐことで気を鎮めるという知恵を源次が身につけたのはいつだったろう。

     徒弟に入って、二年、びっちり家事まわりの雑用をさせられたあと、ようやく仕事場に出ることを許されてからも、一年は材木運びだの跡かたずけばかりだった。
     だから三年目、親方から一通りの道具を贈られて刃物の研ぎを教わった時はうれしかった。
     「道具は手入れだ。暇がありゃあ道具の手入れをするんだな。仕事の途中で砥石を持ち出すような大工にだけはなるんじゃねえぞ」

     その時、親方にいわれた言葉を源次は後生大事に胸にしまった。
     寝る前にはかならず道具の手入れをする。
     大工の道具はほとんど刃物だ。
     鋸は歪を正して刃を鑢でたてる。
     鉋、鑿の類も、刃毀れがあればやっぱり荒砥で刃を落すところからかゝらなければならない。
     一刻はたっぷりかゝる仕事だった。
     疲れきってからの一刻は辛い。
     しかしそれをやらなければ翌日の仕事に如実に響く。
     切れない刃物を無理に使うと時間はかゝるし見栄えも悪い。
     そうわかってからは源次はそれをやり通してきた。
     それが今の源次の大きな支えになっている。

     一通り、仕末を終えて手をぬぐうと待っていたように四つの鐘が遠くで鳴った。
     女はもどらなかったがいずれ帰ってくるだろう。
     あいつにはこの江戸でたよれるものといったら俺しかいないのだ。
     「もう寝なきゃな 明日も仕事だ」 女の為に布団を残すと源次はまた半天をかぶって、板の間で横になった。
     
     一日が過ぎ、二日が過ぎた。
     最初、源次には女はかならず戻ってくるという確信があったが今ではそれも泡かなにかのように消えてしまった。
     心にぽっかりと穴があいて、そこを風が勝手に通り抜けていた。 
     仕事をしているときだけはかろうじてそんな気持を忘れることができた。
     女のことを考えまいとできるだけ長く、できるだけ熱心に仕事をした。
     「おめえ、このごろ、なんかつきものにでもつかれたみてえだな、身体を壊すなよ」 事情を知らない親方はただ目を細めるだけだった。
     
     その日の昼飯どきのことだ。
     天気がいいので外に皆が車座に集まっていた。
     「そういやあ、二、三日前女狐お今とかいう掏摸が捕まったって噂ですがね」 先に弁当を食べ終わった兄弟子の与三郎が茶を啜りながらふといった。
     源次は飯をかっこみながら聞くともなしに聞いていた。
     「なんでも通りすがりに男の褌まですっちゃうていう凄腕だったらしいんでね」
     「野郎、よっぽどゆったり締めてやがったな」 弟弟子の庄太がまぜっかえしたが、与三郎はとりあわなかった。
     「まだ焼きが回る年でもねえのになんでそんなドジを踏んだか、町じゃもっぱら男出入りかなんかのせいじゃ、ねえかって、首をかしげているところです」
     「まあ死罪にはならねえな、しかし遠島は逃れられめえよ、残りの人生、島暮しあつれえなあ、それでその女いったい、いくつぐれえになるんだい」
     莨を吸いつけて煙りを吐きながら親方がいった。
     「へえ二十四、五だっていうんですがね、それがどう見たって二十前にしか見えねえらしい。目がきゅっと吊り上ってるから女狐なんて通り名がついたようですが小股の切れ上がっためっぽういい女だってことですぜ」
     途中から源次は箸を止めて聞耳をたてていた。
     ひょっとしたら、あいつのことかもしれない。いや、あいつのことに違いない。
     「あの女、ゆきだのなんのって、さんざん人を虚仮にしやがって、挙句の果てにドジを踏んでりゃ世話ねえや」 源次は腹の中で毒ずいたがしかし、悲しみはむしろ深まったようだった。

  • 仔ぎつね、おコン 【2】

     翌朝も源次は仕事で早くから出掛けなければならなかった。
     女のことが気にかゝったが別に盗られるものもないと腹を括ることにした。
     女に目を覚す気配はさらになかった。朝の光でみる、女の寝姿は夕べ灯火で見たよりもさらに子供のように見える。
     ふいに源次は十才で死んだ妹のことを思い出した。
     あれは源次が徒弟に入る少し前の出来事だった。
     昼間いっしょに表の露地で大さわぎしていた妹が家に帰るなり、ふらふらっと倒れると動けなくなってしまった。
     夜中には火のような熱が出て、あわてた親父が布団にくるんで医者に駆けつけたが、それっきり妹は生きて戻ってはこなかった。
     ころころと太った妹はいつも源次に纏わりついて片時さえ離れようとはしなかったものだ…湿っぽい感傷がすうっと源次の鬢をなぞった。
     この女ともきっともうこれっきり会わないのだ。

     だが仕事に入るともう源次は女のことは考えなかった。
     今、源次たちが手掛けているのは深川の大店の主人夫婦の隠居所で三十坪の平屋というのは大きくも小さくもない寸法だが材料や間取りは凝りに凝ったものだったから大工の腕も試されるやりがいのある仕事だった。
     親方、兄弟子、弟弟子、手許と、それに源次の五人の呼吸はぴたりと合い、弾むように一日が過ぎていく。
     源次には今、仕事が楽しくてしかたなかった。
     しかし、夕方、ここちよく疲れて戻るとなんと女はまだ家にいた。
     しかも、晩飯なんかこしらえている。

     「どうなってるんだ」 思わず大きな声を出した源次に女は舌を出してみせた。
     「隣のおかみさんがなんだかんだと親切にしてくれるもんだから」
     源次はあわてた。一つ間違うとどんな噂を立てられるかしれたものではない。たしかに隣のかみさんは人はいいかもしれないがまた他人の詮索が何より好きだときている。
     「しかしなんのかんのと根掘り葉堀り聞かれただろう」
     「うん上州から奉公先探して出てきたいとこだっていっておいた、しばらくいるって」

     「俺は一晩って、いったはずだぜ」 仏頂面で源次がいった。
     「出ていけっていうんなら、出ていくけど、いくところはない」
     女は俯いてちぢこまっていたがやがてベソをかき始めた。
     「別に叩き出そうってわけじゃないんだが、しかし、俺も猫の仔一匹拾ってきたってわけにもいくまいからよ」
     結局、源次がおれるしかなかった。

     女は本当に上州、前橋の生まれで十四才だといった。
     中に立ってくれる人がいて一ト月程前、日本橋の越後屋に奉公に上がったが、主人に手籠にされそうになって、思わず店を飛び出してしまったのだという。
     右も左もわからぬまゝ、途方にくれて歩いているうちにあの鳥居の前に出ていたらしい。
     話を聞いて、すっかり同情した源次はこれは俺が一肌脱ぐしかないなと思ったものだ。
     しかし一肌脱ぐといったところで今の源次にはなにほどの算段がつけられるわけでもない。
     結局、親方か大家に相談するのが関の山だ。
     「まあ、俺にまかせておけ、なんとかしてやらあ」 それでも源次はそう見得を切ったのだった。

  • 仔ぎつね、おコン

     「あんたなんか大嫌いだ」 戸口で振り返ると女は捨台詞を吐いた。
     「上等だ、俺だって、てめえみたいなズベタ、二度と顔なんか見たくもねえや」 喉まで出かけた買い言葉をなんとか呑み込んだのは源次の未練だったのかもしれない。
     ぴしゃりと戸を閉めて女が走り去ると思いがけない静粛がきた。
     八月も下旬、もう秋だ。
     鳴りをひそめていた虫たちがまたいっせいに声を競いはじめた。虫さえなにか自分を嘲笑うようで源次はいらだたしげに踵を床にたたきつけた。一瞬、虫の声は止む。
     「くそ、おもしろくもねえ」 食べかけの晩飯の味噌汁の匂いがふいに鼻をついたが食事を続ける気にはなれなかった。
     「なんだ、あの女、早とちりしやがって」 両指を組んで枕をつくると源次は仰向けに寝転がった。
     おそらく、女は源次の帰りを見越して食事時にやってきた姉のことを誤解したにちがいない。
     応対に出た女と姉のちぐはぐなやりとりを思い出す。
     立上がっていく間もなくあわてた姉は帰ってしまい柳眉を逆立てた女はそれきり一切源次の話を聞こうとはしなかった。
     しかし、あの女、ここを飛び出して、いったいどうしようというのだろう。
     
     三日前のことになる。
     その日は棟上げで振舞酒が出た。
     源次もいい気分で酔った。
     だがこの辺がいいところなのだ。勧められるまま度を越すと酷い目にあう。
     翌日、親方に怒鳴られ、兄弟子にこずかれて、吐きながら仕事をする辛さを源次は何度か味わっていた。
     六つの鐘を潮に腰を上げると、源次はもう少し飲むという親方や兄弟子と別れて家に向った。
     しかし浮れた調子は続いていた。夜風が火照った頸筋にここちよかった。
     だから吾妻橋を渡った先の小さな稲荷の鳥居の前で所在なげに佇む女に思わず声をかけてしまったのだ。
     「ねえさん、いくところがねえんなら、ついてくるかい、一晩ぐれえなら泊めてやれるぜ」
     いたずら半分だった。
     源次は年季が明け、あと半年もすれば御礼奉公もすむという二十三才の孤りものの大工だが実は気の小さい律儀な男で普段ならとてもそんな軽口はたたけない。
     酒が源次を常になく昂揚させていた。
     「なにいってやがるんだ、あさってにしな」 もっともそんな啖呵で切り返されて、互いに舌を出して行きすぎるはずだったのだがなんと、女はついてきたのだ。
     
     「俺は源次っていうんだ、あんたも名前ぐれえはおしえてくれ」 家に上げてそう問うと、女は「ゆき」と名告った。
     うそか本当かわからねえなと思うぐらいの常識は源次にもあった。
     しかし暗闇ではすれっからしの中年増ぐらいに思えたものが灯火の下ではまだほんの小娘のようにも見える。身にまとうものもけして、粗末なものではない。
     どんな素性の女なのだろう、源次の頭にもそんな疑問が浮んだがどうせ一晩だと、あえてそれ以上は考えないことにした。
     「俺は馳走になってきたんだが、腹がへってるんなら、冷飯ならあるぜ」
     しかし女も食べ物はいいといった。
     「妙ないきがかりだが、言ったことは言ったことだ、今日はともかく泊っていってくれ」 源次が煎餅布団を敷きだすと「好きにしてくれていいんだよ、義理を金ですます持ち合わせもないからね」 居住いを正して女がいった。
     源次にもそんな下心がないわけではなかったが、面と向ってそう切り出されると男の面子を棄てるわけにもいかず、「馬鹿野郎、据え膳に飛びつく程、こっちとら飢えちゃいねえんだ。」と強がってみせるしかしかたがなかった。
     女もほっと息を抜いたように思ったが帯もとかずに横になると、やがて軽い寝息をたてはじめた。
     「いったい、この女はなんなんだ」 一つしかない布団をとられて、しかたなく源次は半天を肩からかけると、板の間に寝そべった。むしろその夜は、源次の方がよほど寝つきが悪かった。

  • 春の愁い

     工房の周りにはかなり広い土地がある。
     いつか、木を植えよう、花でもいいと思いながら結局、手を付けることはなかったからおそらくこれからもそのままだ。
     もう30年を過ぎたが毎春、先住者が残した福寿草、野良生えの水仙がわずかに顔を出す。
     庭というにはあまりにもおそまつだから、とりあえず地所と呼ぼう。
     その地所の隅に火山灰が小山程に積んである。
     これはうちの釉薬の基本原料で年間、けっこうな量を消費する。
     庭土がわりに播いたりするようなもので値段など高のしれたようなものだが20目のフルイを過すと排棄する方がはるかに多い。1年分を賄うのには延べで2週間もかかるだろうか。
     夏場、好天が続くのを見計らって採集している。
     ゴーグルやマスクをしても全身灰まみれになる、あまりありがたくない仕事だ。
     数年に一度、ダンプ1台分を運んでもらう。
     それで小山はその都度大きくなったり、小さくなったりを繰り返すがそのてっぺんあたりに柳が芽吹いたのはいつのことだったろう。
     年をとると歳月の流れは早い。つい2、3年前のように思っていたことが実は10年も昔の出来事だったりする。だからあまりあてにはならないのだがそれでも5年はたっていないような気がする。
     最初はスギナにまじって見分けがつかなかった。
     しかし、すぐにあきらかに木とわかる様相を呈してきた。
     雑草と変わらず引き抜けそうなほどのものだが、それはやっぱり木なのだった。
     いつでも引き抜けると思いながらそうしなかったのは、健気なという意識が心のどこかで働いたせいかもしれない。1度や2度はその芽をさけて荷を下ろすよう運転手にも頼んだものだ。
     それが今では家の廂を越える程に育ってしまった。
     雪が融けかけて、あたりが薄穢なく見え始めたやさきには邪魔臭く思えてしかたがない。
     いっそ切ってしまおうかと近づいてみる。
     息子にいえばその場で始末がつくだろう。
     だが見上げると、枝の先々にはすでにびっしりと赤い蕾がついている。
     若い木だ。肌はつややかに輝くようだ。
     しゃあないな。そんな不決断が、女一人も棄てきれず、ついにはこんな人生を送らせたのだと思いながら花はいつ咲くのだろうと、すでに関心は別の方に移っている。
     春愁という季語があって、それに沿ったことを書くつもりでとんだ駄文を労してしまった。

  • 東日本大震災

     3月15日、火曜日、夜。
     比較的おだやかな気候だが気持は落着かない。
     東北地方は今夜あたりから冷え込むという。
     地震発生から5日、被災地ではいまだ茫然自失の状態が続いているようだ。
     体験の過酷さを思えば無理のないことかもしれない。
     それにしてもこの科学の時代に数日にわたって接触不能な地域が存在するとはちょっと信じがたい気がする。
     行方不明者も依然として厖大な数にのぼる。しかしその割に生存者救出の話が聞かれないのも今回の地震の特徴だろう。
     瓦礫におさえつけられた人たちは津波で息の根を止められてしまったか、考えるだにおぞましい。
     テレビ局好みの感動的な映像が少ないせいか、あるいは過熱報道に疲れたか、ぼつぼつ通常の番組にもどるチャンネルも現れてきた。
     しかし事態はけして一段落したわけではない。
     福島第一原発では休止中だった4号機にまで飛び火し最悪の様相を呈しつつある。
     避難指示も半径10kmから20km、30kmと拡大する一方だがすでに100km先の放射能レベルが異常に上昇したとの報道もあり、真相はどんなことになっているのか、想像すると恐ろしい。
     日本の原発技術は世界最高水準にあると自負するがそういう評価に胡坐をかいた慢心が後手、後手にまわらせついにこの事態を招いたのだとしたら、政府、及び関係諸機構の責任は重大だ。
     現場の作業員たちがそれこそ必死の活動を続けていることはうたがうべくもない。
     それを統括し、指導する立場の者の為体(ていたらく)をいっている。
     息をためて推移を見守る国民の眼をどうか意識してほしい。

     さて。石原都知事は今回の災害を天罰だと断罪したという。
     個々人がそのような意識を持って反省するのはいい。
     あるいはそのような自省が必要な時期であったかもしれない。
     しかしこのような、死者に対する礼を失した発言が公的な立場でなされていいはずがない。罹災した人たちをいったいなんと思っているのだ。
     中国では古来、天命説なるものをとく。
     易姓革命。首長が正しく政治を行わなければ天は怒って災難を下すという。
     おのれが4選出馬を表明したやさきの出来事だ。
     胸に手を当てれば思い当たる節もあるだろう。
     猛省をうながしたい。

     日本人について考えている。
     南北に細長く伸びた4つの島、火山と海とにはさまれた狭い土地にへばりつくように生きてきた人々。
     この小さな民族がどうして世界の第一線を歩み続けていられるのだろう。
     実にしばしば台風に叩かれ、地震に潰され、津波に呑み込まれながら、その度、きっと唇をかみしめて立ち向かった私たちの祖先。
     不幸を自己に収斂しようとじっと耐える人々の姿は時に神神しい。
     そして、きっと人々はまた立ち上がるのだ。
     今、私たちが直面する試練もいずれ、まちがいなく乗り越えるだろう。
     なんといっても、私たちは日本人なのだから。