カテゴリー: エッセイ

  • パッチ

     標準的にはメンコが正しいのだろうが、バッタ、ツタンケなど各地方ごとに独特の呼び方もあったという。
     私たちはパッチといった。
     北海道は広いからどこでもそうだとはいいきれないが居酒屋で雑談の合間に聞き及んだかぎりでは北見でも余市でもやっぱりそう呼んでいたそうだ。
     黄ボール紙に武者絵などを印刷した薄紙を貼って、丸く切り抜いたもので、直径20cmに及ぶものから、3cmぐらいまで7、8種類もあったろうか。
     しかし10cm前後のものが扱い具合もよく、もっとも使われたと思われる。
     それを釘や蝋石で四角い囲みを切った地面において、交互にうちあい相手のものを裏返したり、その枠からはじき出したりして取る。
     その折、下手をして自分のパッチが裏返ったり、枠から出るとそれは相手のものになったのではなかったか。
     敷石の上や、当時は木製だったりんご箱をさかさにした、急造の台などもさかんに使った。
     粘り強く相手を打ち負かしていくお気に入りのパッチがあって、ここ一番という時には、それを使いたいのだが、相手に取られるとその分打撃も大きい。
     そこらあたり子供心にも大いに悩むところだった。
     小学生ぐらいのこどもの遊びで中学生になるともう見向きもしなくなるのだが男の子なら誰もが一時は夢中になったことがあるはずだ。
     どういうわけか季節の変り目になるとはやっていたような気がする。夏には夏の、冬には冬の遊びがごまんとあったせいかもしれない。
     秋口や春先、鼻水を啜りながら興じたものだ。
     俺たちは家の中で座ぶとんの上でやったとがんばる友もいたがそんな時代もあったのだろうか。彼は私よりも一周りも若い。
     私たちには普段、子供が家に集まって遊ぶなど考えられないことだった。
     単純なだけに技術の優劣が如実に出た。
     おこしという背負い投げのような恰好から手の掌ほどのパッチを勢いよくうちつけて顔ほどもある大型のものをひらりと返す、そんな大技を見せつけられて呆然としたこともある。
     水で濡らして、張りをとったり、まわりを折り崩したり、それぞれに工夫があったし、人知れず練習などもしたものだ。
     ばふらだのてっぱだの微妙なずるも当然のように存在した。
     ちなみにばふらとは上着の裾のボタンを2つ3つはずしておいて手をうち下す時その風も利用しようというもの、てっぱとは一瞬の隙をついて、パッチのかわりに指先ではらうことをいった。
     ばふらなし、てっぱなしと、事前に宣言して、勝負を始めるのだがどちらの技も巧妙に操る者がいて、ぼやぼやしているといいようにしてやられる。
     私はこういった遊びにはからっきし才能がなく、親から買い与えられたパッチを右から左に供給する役目だったからこういったインチキにもどれ程カモられていたかしれない。
     そういえば身代ぼろという取決めもあった。
     どちらかの手持ちのパッチがなくなるまで勝負を続けるという約束で、普通に相手をするのには私はあまりにも手ごたえがなかったのだろう、身代ぼろでなら遊んでやると挑まれて、泣く泣く身を引いた記憶もある。
     身代ぼろ、たいしていい思い出でもないはずなのに口にすると鼻の奥がつんと痛む。
     もうかれこれ60年も昔の話だ。

  • 新年

     どうしてこの日を年の始めと定めたのかといったことを考えている。
     とりあえず掃除をすませ、鏡餅も飾った。風呂に入って髭もあたった。
     いささか腹もへったし年越しの小宴が待ち遠しい。
     しかし女房は依然、気忙しく立働いている。思いどおりに事が運んでいない苛立ちが身体中から放出されているようだ。
     こういう時にはじっと身をちぢめているのにかぎる。
     おかしく目についてからまれたりするとおもしろくないことになる。

     そういうことはもう充分承知しているのだが気になりだすと止まらない。
     女房の目を盗みながら書棚のまわりをうろついて、あっちの書物、こっちの辞典と、とっかえひっかえ引っぱり出しては調べている。
     まさに親の目を盗んでいたずらをする幼児のような心境だ。
     おかげで暦法については蘊蓄が増えた。
     太陽が春分点を一順するのを以って一年とする、これが今日の暦の基準になっているらしい。
     新月から新月までの月の満ち欠けを一ト月としたのが太陰暦、こちらの方が古代人には理解しやすかったのは納得がいく。
     なんと四千年も以前から暦は存在したというのだから人類の叡智も大したものだ。
     しかし、その日を正月とする、その謂れはどこにも出ていない。
     つまらない情報ばかりが増えてくる。
     どうも年の始めの規準は、時代や地域でまちまちであったらしい。
     旧正月という言葉はいまでも使われるが、実際、中国やベトナムではこの日を年の始めとしているようだ。
     春分や秋分、冬至や夏至を正月とする国もあったというが、これはこれで理論的なものだろう。
     そもそもは冬至をもって一月一日としていたと考える人もいる。それが閏を入れなかったから数千年の間にずれたのだと説明する。なるほど。
     今はおしゃか様の花まつりということになっているが、古い日本では四月八日を年の始めとしていたという説もあった。
     農耕の民族が新春のその日を選んだその心もわかるような気がする。
     気分一新、さぞさわやかな気持で農作業にも取り掛かれたことだろう。
     おまたせ、おまたせ、ふいに女房ができたての茶碗蒸しを運んできて、いつの間にか食卓もおゝよそ斉ったようだ。
     私もあわてて本を閉じると本棚に押し込んだ。
     今年は本当にいろいろなことがあったがなんとか無事にすごすことが出来た。
     新しい年にはどんなことが起るのだろう。

    2011年の総括&年末年始のご挨拶

  • 「棚ぼた」顛末記

     それであんたは綾子とは親しいのかと男はいった。
     いきつけの居酒屋だった。
     男とも目顔で挨拶を交す程の面識はあった。
     だが三浦先生をいきなり綾子などと呼び棄てにするとはなんだ。
     私は不快な感情を露骨に顔に出したかもしれない。

     作品展の案内葉書を店に置いてもらうのが目的で、しかし手ぶらで帰るのも不調法な気がしたから、とりあえずカウンターに座ってビールを頼んだところだった。
     私が渡す葉書の束を見ていたのだろう。
     手を出してマスターに所望すると一瞥して先生の推薦文に目を止めたらしい。
     マスターとのやりとりの途中で腰を折られた私は無視して話を続けようとしたがすでにいい具合に酔った男には頓着なかった。
     なあ、あんた、そんなに綾子と親しいんなら、俺に色紙を一枚書いてもらってやってくれよ。

     この手の話にはうんざりしていた。
     先生の知遇をうけるようになって、私にもそんな依頼がときどき舞い込むことがある。
     大方は間髪を容れずにお断りするがなかにはやんことない事情というのもあって、引き受けざるをえない場合もあった。
     そんな時は本当に困った。
     先生は無作法を嫌われる。
     特別な因縁があるわけでもない私を、先生がもし心安く思っておられるとしたら、それは分を弁えた対応をしてきたからにちがいなかった。
     その先生が作品展のたびに推薦文を書いて下さっている。
     望外の幸せというべきでそれがどれ程私の活動の助けになっていることか、経済効果だって馬鹿にならない。
     それ以上を欲張って、すべてを失うような真似はしたくなかった。
     余計なことに首を突っ込むべきではない、それは人生の知恵のようなものだ。

     なんだって、またそんなに三浦綾子なんだろうね、マスターが場を繋ぐようなことをいった。
     だってよう、おまえ、氷点なんか泣くぜ。
     氷点という言葉は思いがけなく胸に反響した。
     先生のあまりにも有名なデビュー作、だけど私はまだ読んでいない。
     案外、こいつ、すごい本読みだったりして、私は密かに聞耳をたてた。
     大手スーパーで鮮魚を担当しているという男はいつも、正面に入場証のタグを貼りつけた軍式キャップを被っている。その帽子がなかったら、人はおそらくその筋の者だとして敬して近づくことはなかっただろう。
     酒焼けした赤ら顔からはどう見ても文学的な雰囲気はただよってはこない…、しかし人は見掛けによらないともいう。
     だがやっぱり、そういう恐ろしい話にはならなかった。

     小説は長いからな、長すぎて読みきれなかったが、テレビで観た、かゝさず観たぜ、島田陽子がとにかくかわいかった。
     映画の内藤洋子の方がすれていない感じでもっとよかったんじゃないですか、マスターが調子を合わす。
     白けていないでおまえも飲めよ、そういって男にビールを注がれたのはその時だった。

     しかし、なんだな、旭川のあたりまえの風景でもテレビを通すとちょっと違って見えるから不思議なものだな。
     席を立つのならこのあたりが潮時だったのだろう。
     なのに私は話の成行きが気になって店を出そびれてしまった。
     別に難しい注文がつくわけではなかったら色紙の一枚や二枚、手に入らないこともないのだ、注がれたビールに口を接けながら、私はそんなことも考えていた。
     私は聖書の言葉を書きつけた先生の色紙を秘書の八柳さんが管理しているのを知っていた。
     突然やってくるファンや教会のバザー用に先生は色紙を書き溜めておく必要がおありだったのだろう。
     八柳さんにたのめば直接、自分でお願いしなくてもきっとなんとかしてくれるはずだ。
     それはすごく気持が軽くなる思いつきだった。
     私はぐいとビールを呷った。

     しかし、俺は仏教徒だからな、耶蘇の言葉じゃありがたくもなんともねえや、そういって、男はだだをこねるのだった。
     どうせなら、男は度胸とでも書いてもらってくれや。
     私が頭を抱えるとマスターは大笑いをした。
     それからも私は男を説得しようと努力をしたのだ。 
     しかし男はどうしてもうんとはいわなかった。
     ただ酒を飲んだ分、私の方に分が悪かった。
     なに、いくつも逃げはうってきたんだ、いよいよになれば握り潰したってかまわないんだ、私は酔った頭で自分に都合のいい言訳を考えていた。

     誰がどう考えたって、三浦先生に“男は度胸”はないだろう。
     先生には何にも伝えることはない。しばらく一人の胸にしまっておいて、ころあいをみて、やっぱり駄目だったと頭を下げる、厭味の一つくらいはいわれるかもしれないが、それで万事収まるはずだ。
     そう心を決めるともう私は悩まなかった。
     だからあの時、なぜぽろっとそんな話を先生にしてしまったのだろう。

     先生は私の工房で寛がれて、とりとめのない雑談に興じられていた。
     その折だった。自分でもまったく思いがけず“男は度胸”の一件が私の口からこぼれ出してしまった。
     心理学的には説明がつきやすい行動なのかもしれない。
     私はずるいが小心者でもある。
     あら、と先生は気にとめられて、なんだったら、私、書いてあげましょうかと続けて、おっしゃった。
     先生には、そういう茶目っ気たっぷりな一面がある。

     ひょうたんから駒というべきか、はたまた棚からぼた餅とでもいうべきか、とりあえず、おいしそうな話になった。
     おいしい話ならじっくり味わうにこしたことはない。

     先生の色紙を仰々しく差し出しながら私はたっぷりと尾鰭をつけて手柄話を語った。
     それでお礼はどうしたらいいんだ、うろたえ気味に男がきいた。
     一升下げて挨拶にいくか。
     先生はお酒はたしなまないから、と今度は私があわてる番だった。

     なんてったって特別なものだからね、横からマスターが煽るようなことをいう。
     十万といや十万、いや金で買えるものじゃない。
     あゝだこうだと悩む男に私はただ酒を飲みながらつきあって、労働奉仕なんてことを先生は喜ばれるなどと知恵をつけたりした。
     それでその冬、男は先生のお宅の屋根の雪下しをすることになった。
     私までも先生や八柳さんに感謝されて、ずいぶんとおもはゆい思いをしたものだ。

     男は家宝にするといっていたがその後、色紙はどうなったことだろう。あれから四半世紀が過ぎる。
     そのうち、なんとか鑑定団に、先生の筆なる男は度胸の色紙が出品されてその真贋が問われたりすることもあるかもしれない。

  • 三浦先生のロクロ

     綾子先生は本当のところ、どれぐらい焼きものに関心がありだったのだろう。
     思いがけない知遇を得るきっかけもおそらく私が陶芸家であったことと無関係ではなかったと思う。
     私が義父の土地を借りて独立したのは昭和51年6月のことだが、工房が先生のお宅から歩いて五分もかゝらない場所であったのはまったくの偶然だ。
     その偶然に私はどれ程感謝したかわからない。

     6月14日、パリ祭の日に私は開窯した。別にそれに特別な意味があったわけではないがちょっと気取ってみたかった。
     しかし不思議なものだ。いったん気に入ってもらえるとそんなことさえ大いに先生を喜ばせることになった。
     
     開窯といっても、その日に窯に火が入るわけではなく、まず中に詰める作品から造らなくてはならない。
     最初からけっこう大きな窯を据えたから、その分、作品造りも大変だった。
     先生がいらっしゃった時もやっぱり私は一心にロクロを引いていたような気がする。

     先生はすでに流行作家としての地位を確立なさっておられて、私もそのお顔は存じあげていた。思いの外、小柄な方だというのはその時の印象だ。ついでに言っておけば私は文学青年の成れの果だがまだ先生の作品は読んだことがなかった。29歳、小難しい、生意気盛りの青年だった。
     その時は、なにか時代小説を書いているのだが、その中に焼きものの話がしばしば出てくる、ついては焼き物にかゝわる職人の特殊な言葉のようなものがあったら教えてほしいというようなお話ではなかったろうか。
     ぼろが降る、とか窯きずが出るとかそんな言葉をお教えしたような気がする。

     私は人生最初の著名人との邂逅に舞い上がっていた。それを態度に表わさないよう苦労した記憶がある。
     先生は話の合間には手を止めるな、仕事を続けろというようなことを仰った。
     仕事の邪魔をしたくない、そんな思い遣りもおありだったことと思うが作家としての好奇心もほのみえていた。
     そうして物造りはそんな眼差には過剰に反応してしまう。だいたい初対面の相手に平気で仕事姿を見せる職人などまずいない。
     なんなのかと思惑だけが先走るぎこちない対応だったにちがいない。

     そのなにがよかったのか、それをきっかけに先生はしばしば工房を訪れて下さるようになった。
     たまに光世さんがごいっしょの時もあったが先生がお一人のことの方がはるかに多かった。
     光世さんは焼きものより将棋やカラオケの方に興味がおありだったのだろう。

     本当に先生は好奇心の塊のような方だった。
     粘土のこと、窯のこと、道具のこと、時にはノートを片手に次々と質問を浴せられた。
     いいかげんな返答などしようものならたちまち鋭い突込みが入る。
     私は口頭試問を受けているような錯覚さえ覚えたものだ。
     
     しかし先生が実際に粘土を触れられるまでにはさらにしばらく時間がかゝった。
     私には妙な遠慮があった。
     先生はすでに充分おいそがしく、取巻きの人たちもいて、新参の私が独占する時間などありそうにも思えなかった。
     先生も積極的な姿勢をお見せにならなかったのは似たような理由からだったろう。
     だから先生がすでに焼きものの道具一式をお持ちであったことを知った時の驚きは小さくなかった。

     私が先生のお宅に出入りを許されたのは最初の出会いから三ヶ月もあとのことだったろうか。
     導かれるまゝ付いていた物置の奥に立派な窯やロクロがでんと居座ていた。
     立派とは金をかけたというほどのことで、なにをどう造りたいのか、そんな意志がまるで伝わらない品拵えだった。
     しかもまったく手が付けられた形跡がない。
     だいたい窯を売ったら、一度、二度、焚いてみせるのは業者の側の責任だ。
     素人をだますような真似をしやがってと腹が立ったがこれがもし先生の御意志で集められたものだとしたら、それはもうだまってうなずくしかないことだった。
     畏れ多くてたしかめることはできなかったが実際のところはどうだったのだろう。

     使えそうですか、小さなお声で先生はたずねられた。もっとも先生のお声はもともと小さい。
     先生、こんな道具を使う、使わないより、それならまず粘土をいじってみましょうよ、恫喝するつもりはなかったが、私の地声はとにかく大きい。

     それからしばらく先生は工房に通ってこられて、小さな作品をいくつか作られた。
     しかしお仕事はますます、いそがしく、やがて、御病気を得られるに及んで、いつか先生の作陶は立ち消えになってしまった。
     焼きものの道具を始末したいむねの意向は秘書の八柳洋子さんから伝えられたのだったろうか。
     みな差し上げるというお話はお断りして、とりあえずロクロだけお預かりすることにした。

     この話は先生がお書きになることはなかったし、洋子さんもお亡くなりになり、光世さんの記憶がおぼつかなくなった今では八柳務さんが唯一の証人ということになるだろうか。
     先生のロクロは今も私の工房にある。

  • 浮気の愉しみ

     浮気は文化などと居直るつもりはない。
     残された時間もそれ程、多いわけではなく、今、予定している計画だって、おそらくその半分も達成できずに終るだろう。
     時間の貴重さは身に浸みてわかっている。
     年齢相応の分別も弁えているつもりなのだが、どういう加減か、そういうことになってしまうわけで無駄に時間を過したと忸怩たる思いで反省することも少なくないのだ。
     しかし、性懲りもなくつい手を出してしまうのは新しい出会いのときめき感が忘れられないせいかもしれない。
     なかには、もう少し若かったら、どれ程、深入りすることになっただろうと怖気をふるうこともある。
     麻薬のようなとでも表現すればいいのだろうか、これを理性で止められる人はよほど意志が強いに違いない。
     関心のない人にはバカばかしいかぎりかもしれないがこの人生それではいったいなにがどれほど意味のあることだというのだろう。
     ひととき、なにもかにもをうちすてて夢中になることができるというのはやっぱり幸せなことだと思う。

     自分を浮気者と規定して、特段、恥じるところはない。
     だが、それにはそれなりの費用がかゝるものだと覚悟していたが最近、それがきわめて安価にすむようになった。
     喜んでいいのか、どうか、おかげでしばしば本筋をはずしそうになる。
     かっては一冊の本を入手しょうと思えばけっこう吟味してかかったわけでおのずから守備範囲も狭く構えざるをえなかった。
     手を出さない分野はけっこうあったし、初見の著者はよほどのことがないかぎり無視していた。
     しかし最近のように文庫本一冊分の価格で単行本が何冊も手に入るとなると話はずいぶん違ってくる。
     今、押えておかないとそれきりもう二度と手に入らないかもしれないという条件も微妙に心理に作用するのだろう。
     とにかく買う。ちょっとでも興味があればとりあえず買っておく。
     どうせ読めもしないのにといわれればたしかにそうで、今の私の読書力では手に入れた本をすべて読破することは不可能だ。
     パラパラとめくって一行でも気を入くものがあればそれはとりあえず読む。
     そうでないものはいずれまたということで部屋の隅に積み上げる。
     そうして読む本の中におもいがけない発見がある。
     ああ本の世界はすごいとためいきでもつくしかない。

     昨日、私が買ってきた本。
     1)くちなしの花、ある戦没学生の手記 宅島徳光 1600 光文社
     2)招かれざる仲間たち 源次鶏太 980 新潮社
     3)満身これ学究 古筆学の創始者、小松茂美の闘い 吉村 克己 1900 文藝春秋
     4)算私語録 安野光雅 1200 朝日新聞社
     5)真剣師 小池重明“新宿の殺し屋”と呼ばれた将棋ギャンブラーの生涯 団鬼六 1800 イーストプレス
     この五冊を525円で購入した。
     定価ではけして買わないような本ばかりだが、この価格だともうしわけないような気がする。
     そうして、私は真剣師 小池重明にはまって、一晩寝そびれた。
     小池重明という存在は知っていた。
     私は一時、将棋に狂ったことがある。
     もともと真剣師として伝説の男だから話がおもしろくないはずはない。
     団鬼六を読むのは初めてだった。女体を縛ったりする方面専門の人だと思っていたから縁がなかった。
     しかし熟練の職人技というか、なかなかしっかりした文章でおどろいた。
     2、3ページ、のぞくつもりで手にとって、そのまま、目が離せなくなってしまった。
     手に入れば、団鬼六はもう二三冊、読んでもいい、こんなふうに浮気は始まるのだ。
     
     私は年に百冊ほどの本を読む。
     六十才になった時、こんなふうに本が読めるのもあと十年かと思った。
     十年、千冊、あれは読みたい、あれももう一度読もうとあげていくと、とても千冊ではすまなくなった。
     計画をたてて、ノートをとってきちんと、読もう、浮気なんてしている場合ではないぞとあの時の誓いはどこへいってしまったのだろう。
     私は人生をもう一度やり直したいなどと思ったりすることはないのだが、本だけはもう少し読んでいたい。

  • 春の愁い

     工房の周りにはかなり広い土地がある。
     いつか、木を植えよう、花でもいいと思いながら結局、手を付けることはなかったからおそらくこれからもそのままだ。
     もう30年を過ぎたが毎春、先住者が残した福寿草、野良生えの水仙がわずかに顔を出す。
     庭というにはあまりにもおそまつだから、とりあえず地所と呼ぼう。
     その地所の隅に火山灰が小山程に積んである。
     これはうちの釉薬の基本原料で年間、けっこうな量を消費する。
     庭土がわりに播いたりするようなもので値段など高のしれたようなものだが20目のフルイを過すと排棄する方がはるかに多い。1年分を賄うのには延べで2週間もかかるだろうか。
     夏場、好天が続くのを見計らって採集している。
     ゴーグルやマスクをしても全身灰まみれになる、あまりありがたくない仕事だ。
     数年に一度、ダンプ1台分を運んでもらう。
     それで小山はその都度大きくなったり、小さくなったりを繰り返すがそのてっぺんあたりに柳が芽吹いたのはいつのことだったろう。
     年をとると歳月の流れは早い。つい2、3年前のように思っていたことが実は10年も昔の出来事だったりする。だからあまりあてにはならないのだがそれでも5年はたっていないような気がする。
     最初はスギナにまじって見分けがつかなかった。
     しかし、すぐにあきらかに木とわかる様相を呈してきた。
     雑草と変わらず引き抜けそうなほどのものだが、それはやっぱり木なのだった。
     いつでも引き抜けると思いながらそうしなかったのは、健気なという意識が心のどこかで働いたせいかもしれない。1度や2度はその芽をさけて荷を下ろすよう運転手にも頼んだものだ。
     それが今では家の廂を越える程に育ってしまった。
     雪が融けかけて、あたりが薄穢なく見え始めたやさきには邪魔臭く思えてしかたがない。
     いっそ切ってしまおうかと近づいてみる。
     息子にいえばその場で始末がつくだろう。
     だが見上げると、枝の先々にはすでにびっしりと赤い蕾がついている。
     若い木だ。肌はつややかに輝くようだ。
     しゃあないな。そんな不決断が、女一人も棄てきれず、ついにはこんな人生を送らせたのだと思いながら花はいつ咲くのだろうと、すでに関心は別の方に移っている。
     春愁という季語があって、それに沿ったことを書くつもりでとんだ駄文を労してしまった。

  • 東日本大震災

     3月15日、火曜日、夜。
     比較的おだやかな気候だが気持は落着かない。
     東北地方は今夜あたりから冷え込むという。
     地震発生から5日、被災地ではいまだ茫然自失の状態が続いているようだ。
     体験の過酷さを思えば無理のないことかもしれない。
     それにしてもこの科学の時代に数日にわたって接触不能な地域が存在するとはちょっと信じがたい気がする。
     行方不明者も依然として厖大な数にのぼる。しかしその割に生存者救出の話が聞かれないのも今回の地震の特徴だろう。
     瓦礫におさえつけられた人たちは津波で息の根を止められてしまったか、考えるだにおぞましい。
     テレビ局好みの感動的な映像が少ないせいか、あるいは過熱報道に疲れたか、ぼつぼつ通常の番組にもどるチャンネルも現れてきた。
     しかし事態はけして一段落したわけではない。
     福島第一原発では休止中だった4号機にまで飛び火し最悪の様相を呈しつつある。
     避難指示も半径10kmから20km、30kmと拡大する一方だがすでに100km先の放射能レベルが異常に上昇したとの報道もあり、真相はどんなことになっているのか、想像すると恐ろしい。
     日本の原発技術は世界最高水準にあると自負するがそういう評価に胡坐をかいた慢心が後手、後手にまわらせついにこの事態を招いたのだとしたら、政府、及び関係諸機構の責任は重大だ。
     現場の作業員たちがそれこそ必死の活動を続けていることはうたがうべくもない。
     それを統括し、指導する立場の者の為体(ていたらく)をいっている。
     息をためて推移を見守る国民の眼をどうか意識してほしい。

     さて。石原都知事は今回の災害を天罰だと断罪したという。
     個々人がそのような意識を持って反省するのはいい。
     あるいはそのような自省が必要な時期であったかもしれない。
     しかしこのような、死者に対する礼を失した発言が公的な立場でなされていいはずがない。罹災した人たちをいったいなんと思っているのだ。
     中国では古来、天命説なるものをとく。
     易姓革命。首長が正しく政治を行わなければ天は怒って災難を下すという。
     おのれが4選出馬を表明したやさきの出来事だ。
     胸に手を当てれば思い当たる節もあるだろう。
     猛省をうながしたい。

     日本人について考えている。
     南北に細長く伸びた4つの島、火山と海とにはさまれた狭い土地にへばりつくように生きてきた人々。
     この小さな民族がどうして世界の第一線を歩み続けていられるのだろう。
     実にしばしば台風に叩かれ、地震に潰され、津波に呑み込まれながら、その度、きっと唇をかみしめて立ち向かった私たちの祖先。
     不幸を自己に収斂しようとじっと耐える人々の姿は時に神神しい。
     そして、きっと人々はまた立ち上がるのだ。
     今、私たちが直面する試練もいずれ、まちがいなく乗り越えるだろう。
     なんといっても、私たちは日本人なのだから。

  • 東日本大震災

     最初は東北大地震といっていたはずだ。
     東日本大震災と東北・関東大震災、呼称がいまだ統一されず、報道機関の好みで使いわけられているようだが、どう落ち着くのだろう。
     3月11日、金曜日、時おりふぶいたりするものの、気温はむしろ暖かめだったかもしれない。
     その午後も私たちはいつものように工房で仕事をしていた。
     もう一人、陶芸教室の生徒がいっしょに作業しており、ラジオでは軽妙なニュース・ジョッキーが展開中でおや地震かな、揺れてますねとキャスターの男性がおもわず口走った一言が発端だった。
     2時45分頃のことである。私たちは感じなかったが旭川でも震度3程度の揺れがあったようだ。
     一瞬、二瞬ののち、番組は中断されて、アナウンサーが東北地方にマグニチュード8.4の地震が発生したと報道した。
     震度7は並たいていの地震ではないというぐらいの知識はあった。これは大変なことだ。
     用事があり、家にもどったついでにテレビを入れると各チャンネルはすでに一斉に地震報道に切り替わっていた。
     その対応の早さには驚かされたがまだ現地の情報は思うように入ってこないようだった。
     それでも細々と伝えられる状況からはとてもこれほどの大災害は予測できなかった。

     3月14日、月曜日、今日もほとんどのテレビ局が終日、地震関係のニュースを流し続けている。
     マグニチュードの数値は8.8、さらに9.0に修正された。
     これは世界歴代4位の規模だ。
     三陸海岸沿いの市、町、村はその後の大津波でほぼ壊滅、死者が1万人を超えるのは確実のようで3万人に達するのではないかとの憶測もある。
     福島第一原発では1号機、3号機に続いて2号機でも炉心溶融が始まった。正確な情報が伏せられるから、わからないがこれはそうとう深刻な事態だと思わざるをえない。
     停電、断水、交通麻痺、ライフ・ラインはことごとく死に体である。
     罹災し避難する者、55万人、まさに未曾有の大惨事というべきだろう。
     大津波が車を、船を、家屋を、弄び、呑み込んでいく、安手のCGのような光景がくりかえし放映される。
     しかし、これは現実なのだ。暗澹とした気分にならざるをえない。
     なぜ人はかくも残酷な仕打ちを受けなければならないのだろう。
     どの宗教のどんな言葉がそれを人に納得させえるのか。

  •  おじさん、これなんて読むかわかる?中学生になったばかりの姪に紙片をつきつけられた。
     海という漢字が5つ並んでいる。
     法事の席でひととおり酒がまわってようやく場がくつろぎ、雑談にも興が乗ってきたところだった。
     親戚の間では私はもの知りで通っている。日頃くだらない知識を披瀝しては周りを煙にまいてきた。
     どうもそのあだうちを姪がやろうということらしい。
     それにしても突然のことだから面くらう。
     海が5つだからゴ・カ・イなんて、まあ小学校低学年レベルの解答では納得しないんだろうなと思いながらとりあえず口に出してみる。
     当然言下に否定された。
     私の困惑をまわりは皆んな愉しみ始めている。
     だが、うん、うんとうなってみせたのは単にうけを狙ったわけではない。
     こういう問題を考えるのは大好きだし、時間が許せば一晩だってつきあえる。
     私は相当に本当だったのだ。
     もっともこの雰囲気では、そう長い時間をとるわけにもいかないだろう。
     ごめんなさい、わかりません、教えて下さい。
     私はおどけながら頭を下げた。
     海、5つ、こえをあ・い・う・え・おと読むそうな。
     あは海女(あま)、いは海豚(いるか)、うは海胆(うに)、えは海老(えび)、おは海髪(おご)。
     ううんとうなった。なるほどなあ。
     おごとはなんだと小意地の悪い突込みはさすがに思いとどまった。
     あとで調べると海草のことらしい。
     姪のオリジナルとは思わないがこんな言葉遊びが中学生の間にはやっているのなら日本語の将来にそれ程不安はない、負け惜しみでなくそう思う。
     今度、会ったら姪に海を5つ書いて同じ質問をしてやろう。
     どうもその手でいくと、か・き・く・け・こともさ・し・す・せ・そとも呼べるようだ。
     ここら辺、おじさんはやっぱりすごいんだよ。

  • ケータイ

     携帯電話は持つことがあたりまえの時代になったようだ。
     かっては町のいたるところにあふれかえっていた公衆電話がどんどん姿を消しているのも結局利用者がいないからだろう。
     おかげで私などがこうむる迷惑は計りしれない。家にちょっと連絡をとりたいと思ってもおいそれとはいかなくなった。
     知らない町ではキヨスクあたりで尋ねるのがてっとり早いがつっけんどんな対応をされるとけっこう心に傷がつく。
     そこの出口を左に曲がって少しいくとなどと教えられてようやくたどりつくと小銭がなかったりする。
     親しい友人がいっしょなら拝借することもないわけではないがあれも案外、肩身が狭い思いをするものだ。
     貸せというと相手が一瞬身構えるのがわかる。
     ケータイがすでに脳の一部を代行する機能を持っているからだろう。
     妻に覗かれて浮気がばれたなどという話は掃いて棄てるほど転がっている。

     電話番号を聞かれて固定機のものを教えるとずいぶんガードの固い人だなという顔をされることがある。
     できればケータイもと重ねて要求されることもある。
     ケータイは持っていないと答えるとけげんそうにする。どうして持たないんですかとさらに追求されることも少なくない。
     そういう場合は貧乏なものでといってすますことにしている。
     そう答えるとまさかと笑いながら、この人には持たないだけの主義・主張があるのだろうと納得してくれるようだ。
     これを逆に主義・主張を話すとうなずきながらも心の中ではケチか貧乏なんだと合点するに違いない。
     人間とはそういうもののような気がする。

     私はあんなもので四六時中、所在を管理されることに生理的な嫌悪を感じる。
     私は今、女房に秘密らしい秘密は持たないがそれにしたって、なにからなにまで知られていいとは思わない。
     シャメと呼ぶのだろうか、なにかというとすぐに写真におさめるシュウカンもあまりすきなものではない。記憶から消えていくものはしかたがないしそれでいいと思っている。
     いい年をしたジジ・ババがまちうけ画面とやらにまごの写真を入れて、やにさがって見せ合う姿など馬鹿馬鹿しくて、つきあいきれない。
     ケータイを持つ人は皆、一様にそういう中毒症状を呈するようだから持たずにすますのが一番よいと私は思っている。
     きっとケータイにはそういう恐ろしい魔力があるのだろう。
     バスに乗ってあたりを見まわすと全員が右手にかざしてケータイを睨んでいる。集団洗脳でもされているようで気持の悪いことといったらない。
     こうしてやがて世の中は私にとって場違いな場所になっていくのだろうか。

  • 風邪のことなど

     牛と風邪は引くなという。
     牛は依怙地で引かれると突っ張る。下手をすると後退さる。
     牛を歩ませるには尻の方から宥めすかすように追ってやる。
     牛追いと呼ぶ所以だ。
     牛にはまったく関わりないがこの感じはなんとなくわかる気がする。
     風邪の場合も引くという。数多い疾病の中でもこの動詞が付くのはこれぐらいのものだがなぜだろう。
     広辞苑に当ると、かっては息をする意味にも使われていたらしい。息を引きとるなどのいい方が今日でも残る。
     それにしても風邪が呼吸器から伝染するらしいことを当時すでに知っていたのだからたいしたものだ。
     好きこのんでかゝりたいと思うものなどいるはずもないが、それでも子供の頃はしょっちゅう風邪を引いていた。
     発育が悪かったか、栄養のせいか、あるいはその相乗効果だったかもしれない。1950年、朝鮮戦争の前後のことで町の奥に入った開拓民の子供たちはまだ昼食時教室から抜け出したりしていた。
     鼻水だの咳だののまえにとにかく喉の奥が腫れた。
     まずものが食べられなくなる。やがて唾を飲み込むのさえ苦痛になって症状は悪くなる一方のような気さえしてくる。
     熱でふやけた頭は不平と不満でいっぱいになり、私は部屋の隅のふとんの中で世の総てを呪うのだった。
     私の性格の大部分はそんな体験が醸成したものではないかと思っている。
     年がいくにしたがって喉を腫らすことも少なくなったがそのせいかどうか、他人との折合もとりあえず無難につけられている。
     気が張っていれば風邪は引かないとよくいうが、あれは本当のことだろうか。
     ともかくかゝれば気がゆるんでいたことにされてしまうのだから真偽のほどをたしかめるすべはない。
     私は最近、外に出歩くことがめっきり減っているからたいがい家族の誰れから外から持ち込んだものでやられる。
     この間は息子が持ち込み女房にうつり、やがて当然のように私がかゝった。
     息子はちょっとおかしいとなると即、大量の薬剤を買い求めしゃにむに風邪をおさえこむ。
     女房は息子の指南と薬剤のおこぼれで、それ程大さわぎにならずにすむ。 
     私は薬剤を拒否して二日寝た。
     熱はたいしたことがなかったが鼻水と咳は出た。
     おかげで風邪のことなどあれこれ考えた。
     咳は今も残っている。 

  • 複本問題

     副本を広辞苑で引くと、①原本のうつし、そえしょ、複本 ②「法」正本と同一事項を記載した文書、正本の予備、または事務整理のために作成、と出ている。
     しかし、図書館用語として使う場合は複本とは同じ内容の本が重複して存在することをいう。
     昔から複本はよくやった。岩波の啄木歌集や牧水歌集は家におそらく5、6冊はあるはずだ。
     たとえば旅先で啄木が読みたいとなったら迷わず駅前の書店に飛込んで買う。喫茶店で飲むコーヒー一杯分と変わらなかったし、それが無駄づかいだとは思わなかった。
     そんなわけで朔太郎や道造もやっぱりなん冊かずつある。
     文庫本の活字が一まわり、二まわり大きくなったのはいつごろだったろう。
     ついでに文章も新かなに改まったりして、すると同じ作品が見違えるようにわかりやすくなったような気がして、つい手が出てしまう。諭吉の学問のすゝめとか、海舟座談とか、これも厳密にいえば複本になるに違いない。
     いささかいいわけがましいがさらにそこに亡くなった弟の書籍がまぎれこんだ。
     おかげで岩波の古典文学大系なども2セット揃っている。
     数年前、中程度の蔵書の整理をした。
     ちょうど帰省していた娘が手伝ってくれたが、複本の多さにはさすがにあきれたようだった。
     娘は図書館学の専門家である。
     今日、図書館における複本は看過できない問題なのだという。
     児童書の出版元は零細が多い。持っている玉をどれだけ転がすかも経営の知恵なのだろうか。
     表紙を変え、題名を変え、全集に組み込んでとあらゆる手段を使うらしい。
     かぎられた購入費の中ではたしかに複本が一冊ふえるごとに良書が一冊、排除される計算になるわけだが、なんのことはない、私に対するまわりくどい説教なのだった。
     それを横で聞いていた女房も鬼の首をとる勢いでせめたててきてものだ。
     たしかに長い年月、本を買い漁ってきたのだからあきらかに記憶違いで重複した場合もあるだろう。持っているはずなのにいくら探しても見つからず結局、もう一度買い直すというケースもないわけではなかった。
     だが、それぐらいとりたてて大さわぎするような話でもないではないか。
     私は恥じることも動じることもなかった。
     本を読む人なら私のいい分はわかるはずだ。
     しかし最近、私はしばしばいいわけのつかない複本をするようになった。
     古本屋の店頭にひと時代前、ふた時代前に話題になった書籍がどうみても人手に渡ってきたとは思えない状態で並ぶ。へたをすると腰巻までがしっかりついている。
     それがカンコーヒー1個とかわらない。
     まあ、とりあえずあってもいいかという気持になるのはやむをえないところだろう。
     そんなわけで時には10冊、20冊とまとめ買いしてくる。
     だがどうもそんな買い方をした本には愛着が欠けるようだ。
     情けないことだが、自分の所有する本の把握が出来なくなっていた。
     本を積み直そうとすると部屋のあっちとこっちから、片翼だけの天使が出てくる。生島治郎は、なんとなく気になる作家でいつも読んでみてもいいと思っているのだがそれにしたって2冊はいらない。
     フランク・ボームのサンタクロースの冒険などどういうわけか3冊もある。田村隆一訳というところがミソで見ると衝動的に手が伸びるのだろう。
     その心理は了解するが、なんともだらしないことになったものだ。
     娘や女房にはまだバレていないが本の神さまは先刻御承知のことだろう。
     天罰が下らないうちになんとか対応を考えなければならないと思っている。

  • なんと呼ぶ……?

     私は連れ合いを人に紹介する場合など、最初からごく自然に「女房」といってきた。
     それであたりまえだと思い込んでいたふしがある。
     しかし、そう呼ぶことがけして一般的ではないことを最近になって知った。
     いまさら心外だが、女房もあまり好きではなかったそうだ。
     そういえば父も母をそんな風には呼ばなかったような気がする。
     なんと言っていただろう。
     あるいは「うちの奴」だったろうか。
     どこで「女房」が出てきたものか、考えてみても中学の古典で習った弘徽殿の女御をにょうぼと読み違えて記憶したいたぐらいしか思いあたらない。
     もっとも私はこの言い方が気に入っているし、いまさら変えるつもりもないから、女房にも我慢してもらうしかないが、それでは世間一般ではなんと呼んでいるのだろう。
     ごく無難なところではやっぱり「妻」に軍配が上がるのか。
     これは老若、場所を選ばないから使い勝手はいいかもしれない。
     しかしいかにも優等生的で、いま一つ、工夫が足りない。
     偉そうなふうが抜けないじいさんがサイと音でいうのを聞いたことがあるが、これはやっぱりある程度貫禄が必要で若い人には無理かもしれない。
     「愚妻」なる言葉ももうほとんど死語だろう。
     女を後に傅かせてこう宣まえるような男はもういない。
     「家内」というのもよく耳にするが、これも若い人には使いきれないのではないか。
     「ウチのカミさん」は老若使って、違和感はないがくだけた感じがある分、正式の場面ではどうだろう。
     最近ときどき耳にする「うちの嫁」なる言い方は関西あたりの芸人が使い出して、テレビを通して全国に蔓延したもののようだが、これには私は生理的な嫌悪を感じる。
     だいたい嫁などとは舅、姑が使う言葉だったはずだ。
     そのうち嫁の方でも「うちの婿」などと言い出したりするかもしれない。
     「ワイフ」というのも戦後一時期、世間を席巻したものだが、どういうわけかパパやママほどには定着しなかった。
     英語つながりでいえば習い始めの頃ベターハーフなる言葉を知った。
     よい言い方だと記憶しているがこれは今日、本国でもあまり使われないそうだ。
     言葉の生命もわからない。
     中国では「老婆」「愛人」という。
     字面からするとまるで別のイメージが浮ぶ。
     同じ中国語を使う国でも台湾では「牽手」というそうだ。手をつなぐという意味で男女共にそう呼び合う。
     なにかちょっといい感じだなあと印象に残っている。
     近々、息子が結婚する。
     自分の連れ合いをなんと呼ぶようになるのだろう。
     ひそかな楽しみの一つではある。

  • 占い

     血液型占いというのが一時大流行した。
     多種多様の人間を4つに仕分けるのはいささか乱暴だがその単純明快さが受けたのかもしれない。
     当時、スナックなどで飲むときまって血液型を聞かれたものだ。
     何型だと思う?と逆に問い返すと待ってましたとばかり講釈が始まる。
     日に幾度も同じ話を繰り返すのだろう。
     それがちょっとした芸になっていて、外れることもあったが当たることも多かった。
     当てると為て遣ったりという顔をする。
     なにせ4分の1の確率だから当たる可能性も高い。
     それが進化なのだろうか、そのうち、何型の入った何型というようなバリエーションが登場するようになる。
     私はO型だがどうも血液型占い的にはA型の資質が多いようだ。
     だからずいぶんA型の入ったO型なのねと判断される。
     それで贋占い師は自己満足し占われた方もとりあえず了解するのだが、しかしこういうふうに細分化を始めるとやがてなんでもありになってしまって、占い本来の意味も失われるのではないだろうか。
     そんなこんなで血液型占いも一時の勢いはなくなったがいまだにしぶとく生き残っているところをみると人間はよほど占いが好きなものらしい。
     占いに頼る心理を分析すると現状に不満ということになるのだろうか。たしかにいつの時代でも、現実に満足している人間なんてほとんどいない。
     私も新しい高島暦を見つけると店頭で立ち読みする程には占いに関心がある。
     ここのところ、毎年のように喜しい言葉が並ぶのだが、なかなか事態はそのように発展しない。
     よほど前後の星の影響が入っているのだろう。

  • 師匠

     師匠の釣りは世間一般の釣り好きとは少し違っていたかもしれない。
     釣りが出来ればそれでいいというようなところがあった。
     ちょうど釣りを覚えたての小学生が学校から帰ると玄関にカバンを投げ棄てて、あわてて一本竿とバケツをかゝえて川に駆けつける、そんな風情が師匠にはあった。
     本来、釣り好きとはそういうもののはずなのだがしかるべき年令になり、しかるべき地位を得ると人は趣味でも自分を飾るようになる。
     茅渟だ鮎だと小煩い御託を並べるのはそのせいだろう。
     師匠にはそういうこだわりがまるでなかった。
     道具にも凝ったふうはなかったし薀蓄を語ることもなかった。
     とりあえず水面に釣り糸を垂らしていればそれで満足そうだった。
     釣果を気にしないのも嬉しかった。
     幼い頃、お父上を亡されて、苦労に苦労を重ねた思い出話は直接師匠から聞く機会もあったわけだが、だからといってこのような釣りの好みをそれで説明できるわけでもない。
     突き詰めればやはり人のありかたの根元に近づく。
     
     私の父なども釣りは好きな方だったが結果次第では人格が変わるようなところがあった。
     私が釣りにあまり関心を持てなくなったのはそのせいもあるかもしれない。
     師匠運という言葉がもしあるならば私は運がよかったのだとつくづく思う。
     当時、私は内弟子として運転手を兼ね、外出の際は常にお供をする立場だった。
     作陶中のことも考えるとあるいは奥さまより、接触する時間は長かったかもしれない。
     窯をたきあげた翌日は釣りというのはほとんど決まりのようなものだった。
     意外にせっかちなところのある師匠はたきあげた窯が気になって、あれこれのぞいているうちに風を入れて、作品を駄目にした経験が一度ならずあったに違いない。
     陶芸家なら誰もが覚えのあることだと思う。
     いささか尾篭な話だが直りかけのできものをいじくるようなもので一度、気にしだすと瘡蓋をはがして血を出すまでは止められない。
     ここ一番と気合が入った時にかぎってそういうことになるのだから始末が悪い。
     私も師匠の教えを守って、そんな時はけして窯場に近寄らないよう気をつけている。
     
     舟宿に一泊して、翌朝早く沖に出てというようなことを私は給金をもらいながらやっていたわけで釣り好きにはよだれの出そうな話かもしれない。
     それをたいして感謝もせずにいたのだから、今から思えば私もけっこう横柄なものだった。
     もっとも最初の頃、竿を渡されて、師匠の横に座らされることがなかったわけではない。
     指摘されて竿を上げると糸の先に小魚がついていた時など、やっぱり少なからず心はどよめいた。
     しかし、私はかなり年がいってから陶芸の道に進んだので、それ自体がすでに道楽だと思っていた。
     それ以外の道楽を持つつもりも余裕もなかった。そういう私のおざなりの様子はどうもなんとなく師匠にも伝わったとみえて、じき、相手にされなくなったのは幸いだった。
     師匠が釣りをする間、私は自由を得たわけで、居眠ろうが本を読もうが、それは私の勝手だった。
     考えればもったいない話だ。師匠は密かにそんな弟子を物足りなく思うこともあったのだろうか。
     師匠のところではいつも数人の弟子を置いているのだがどういうわけか私のいた頃には一人だった。
     ちょうど作陶上の端境期にあたっていたのかもしれない。
     あからさまに較べられることのなかった私はその点でも幸せものだ。
     
     贅沢な時間は思い出になっても贅沢なものだ。
     雨の日、堤防の端、ぎりぎりに車を付けさせて後部のドアを張ね上げると、そこにどっかと腰を下してひがな一日、ポケットビンのウイスキーをちびりちびりと飲みながら浮子を見つめていた師匠の姿が目に浮ぶ。
     多少無理してでも時間を取ってやっぱり師匠に会いにいってこよう。

  • 級友再会

     思いがけなく東京の、それも表参道で作品を展示する機会を得た。地域力宣言2010という全国商工会連合会の催事で、全国から39社、私のところは北海道を代表する形で出品する。
     どのような基準で選考があったものか、ともかく望外のことだった。

     しかし落着くとその振り戻しもきた。
     はたして本当に日本の一流と肩を互してやれるのか。
     恥もかきたくないし、買り上げでも引けをとりたくはない。
     都内には賀状をやりとりする程の知人が数名住むだけでなんとも心もとない。
     あれこれ思案の果てに思い当たったのが高校の同級生だった。
     団塊の世代の私たちは昭和41年、高度経済成長期の入口で、就職するにも進学するにもとにかく東京を目指した。
     そのせいで今もクラスの3分の1近くは東京に住む。
     だがふてくされるだけ、ふてくされて過した自分の高校時代を思えば躊躇するものもあった。だいたい卒業以来、一度も顔を会わせたことがない。
     同じクラスメートを持つ女房にうながされて、とりあえず案内は出す。
     見かけによらず気が小さいんだからと女房にも揶揄されたが、出発の前々日には激痛が腹部を襲い病院に駆け込むような様だった。

     8月も末というのに東京は猛烈な暑さが続いていた。地表にいるとたちまち全身汗にまみれる。ただでさえ汗っかきの私には地獄以外のなにものでもなかった。
     原宿駅から歩いて7分、しかし表参道ヒルズは予想以上にすばらしい建物だった。
     会場の地下3階、スペース・O(オー)も申し分ない。
     もっともディスプレイやなにやかにや、無駄なお金をかけすぎではないかと貧乏性の私には思われた。

     人は入るが物は売れないという現象がたまにある。
     会場が出来すぎると、そんなことになると聞いたことがあるような気もする。
     皆が皆、同じようなものだったのだから、そう解釈しても間違いではないのかもしれない。あるいはこの異常ともいえる暑さが人の購買意欲を奪ってしまったのだろうか。
     勝ち負けの差がでないのはとりあえずありがたかったが、それにしてもなんともひどいありさまだった。
     
     ひやかしの客に対応するのもいいかげんうんざりして時計を見てもこういう時間は意地悪く進まない。
     そんな折だった。
     頭の禿げ上がった中背の男がおうっと脂臭い息を吹きかけてきた。
     私は愛想のよくない目を向けたはずだ。
     しかし相手は曰くありげな目線をはずそうとはしなかった。
     とりあえず元気そうでなにより___その中途半端なため口でさすがに私も目の前の状況を理解したが、相手の顔と名前を思い出すにはさらにもう少し時間が必要だった。
     
     それにしても不思議なものだ。
     特に親しく付き合った記憶もない45年前の級友となぜこのようになんの隔たりもなく向い合えるのだろう。
     私たちは年甲斐もなく興奮し、話題はとりとめもなく駆け回り、つきることがなかった。

     それで作品はわけてもらえるのかな、つきないなごりの終りに相手はそういい、無理につきあわなくてもいいよと私もいったはずだ。
     作品の何点かをかゝえて、皆んなも来るはずだぜ、帰りぎわの相手の言葉もうれしかった。

     来年、雪がとけたら最初で最後のクラス会をと誰がいいだしたのだったろう。
     一泊じゃもの足りないから、二泊か三泊でやろうと話は一人歩きを始め、なんの現実的な計画もないままに東京在住のクラスメートの脳裏にはその予定が組込まれてしまったようだ。
     それを地元に持ち帰って具体化させる役割を私は託された。
     連中がしてくれたことを思えばそれぐらいはやらなければ私も義理もたたないだろう。
     そして、その時には多少てれながらも級友を旧友と呼び直すことも出来るだろうか。

  • ピストル

     たしか巻玉といったような気がするがはっきりしない。
     少量の火薬を等間隔に埋めて、帯状に巻いたもので10円玉程の大きさがあったろうか。それ用のピストルに仕込んで撃つとパチッとはじけた小さな音が出た。
     引鉄に連動して帯を繰り出す仕掛けがあって、本来なら巻玉一つ撃ち尽くせていいはずなのだがちゃちなおもちゃのことでそんなことにはめったにならない。
     2手に別かれて撃ち合う場面では皆んながそれぞれ情けない思いをしていた。
     途中でちぎれた不発の帯を石でたたいて発火させてよく鬱憤を晴らしたものだ。

     それからすると平玉ははるかに迫力があった。
     火薬の量も10倍ぐらいはあったのだろうか。
     千代紙より2まわり程、小さな紙に上下、左右きちんと種が植えられている。
     横着して手でちぎろうとすると、種までさいて、もったいない思いをする。あれはきちんとはさみで切り揃えてマッチの空箱に入れて、大切に持ち歩くものだった。
     爆発力が増大した分、強度も必要になったのだろう。
     ピストルも巻玉のものより段違いにしっかりした造りになる。
     ただ残念なことにこれは連発式というわけにはいかなかった。
     撃鉄を起して、火皿にその都度、平玉をつめて撃つ。
     そのもたもた感は子供心にもなんとも恰好のつかないものだったが、しかし一度、平玉ピストルを手にすると、もう、強く握るとひしゃげそうな巻玉ピストルにはもどれなかった。
     撃鉄など粗悪ながら鋳物だったしグリップに木を使ったものまであった。だいたい手の内に残る重さが違う。
     意外に大きな爆発音と鼻をつく火薬の臭い、この先のそう遠くないところに存在するはずの本物が十分想像できて、私など恍惚としたものだ。

     一玉打ちになれると、じき、私たちはダブルといって、平玉を2重にして打つことを始める。
     あぶないと親に見つかるとしかられたけれど、しかられないような遊びばかりでは子供だって退屈する。
     三つ重ねで打つと火花で灼かれる感じがあり、手がしびれて、どきっとする。だけど誰れもが一度や2度はやっているのではないだろうか。
     あの日、私には親をおどろかせてやろうというほかには、なんの思惑もなかったはずだ。
     買い物に出た母親の帰りを物置小屋に隠れて待ちうけると三つ重ねに仕込んだ平玉ピストルの引鉄を引いた。
     小屋に籠って音は予想外に反響したがそれよりも私を驚かせたのは母が大声を上げて腰を抜かしたことだった。
     一瞬、私はピストルが暴発して銃身が母を傷つけたものではないかと思ったほどだ。
     初めて見る母の醜態にむしろ私がひどく傷ついていた。
     そのあと、どのように始末がついたものだったろう。
     どのような目にあっても、しかたがないと覚悟はきめたはずなのだが、それ程、しかられた記憶もない。

     今だったらわかる。
     従軍看護婦として戦場を駆けまわっていた母の耳元で突然炸裂した銃声の意味。
     ピストルはいつか拳銃と呼び名を変えたが私がいまだに惹かれるのもそんな出来事と無関係ではないかもしれない。
     深夜、私は小型の拳銃で自分の頭を打ちぬく姿を夢想する。

  • オートバイ

     親父のオートバイはたしかメグロといったと思う。
     あれで250ccもあったのだろうか。
     古い、鉄の塊のような重く頑丈な造りだった。
     中古で手に入れた親父はピカピカに磨き上げ大事に大事に乗っていた。
     そのオートバイを夜中に引きずり出して乗り回す楽しみを覚えたのはいくつの頃だったろう。
     一人では扱いきれなかったから弟を抱きこみ親の寝入るのを待って、よく無人の国道をぶっとばしたものだ—といえば恰好がいいのだが扱い方が悪いのか、機械そのものに問題があったのか、エンジンはしばしば咳込み、停止して私たちはそれを再始動させるのに乗り回すよりもはるかに多くの時間を費やさなくてはならなかった。
     点火プラグを外し、カーボンを拭取るなど、よくやったものだ。

     駆っていないと倒れるところがオートバイ好きにはたまらないらしい。
     風との一体感がいいと気障なことをいう奴もいる。
     私は4輪が安心だと思うし、できれば風や雨から身を守ってもらえる方がありがたい。
     年を取っても卒業できないでいるオートバイマニアはたいてい常軌を逸している。
     古びたオートバイを見せられてこれはすごいんだぜというから、よく見るとB・M・Wのマークが付いていた。
     おゝドイツ製かとつい相手に迎合するような言辞を発したのがまずかった。
     そうとも、しかもこれはシャフト・ドライブだ、待ってましたとばかり、一時間もオートバイの薀蓄を聞かされる羽目になった。
     ハーレー・ダビットソンなどあんなもの外道だといわれれば、そうかと思うし、あれこそ究極のバイクだと聞けば、それもそうかと思う。
     私のオートバイに対する関心は所詮そんなものだ。
     
     人の運・不運はどんな都合で決められていくのだろう。
     霧だったか靄だったか、一寸先も見えないような夜更けの国道を突っ走っていて、カーブを曲がりきれず私たちはオートバイごと路肩に放り出されたことがある。
     しばらくは息も出来なかったが、立ち上がるとこれといった怪我はなかった。
     兄さんといって駆け寄ってきた弟にも別に異常はなく顔を見合わせて、大笑いして、事はすんだが一つ間違ったらと思うとさすがにぞっとする。
     私が死んでもおかしくはない状況だし弟を殺しても心の傷は一生つきまとったことだろう。
     オートバイを壊したことでこっぴどくしかられたのは、今ではなつかしい思い出だ。

  • 酒はそこそこ…

     酒はずいぶん飲んできたが本当に好きだったのかどうか、最近ちょっと疑問に思うことがある。
     どうも酒が好きなのではなくて、ただ酔って、少し軽くなった頭と口でだらだらととりとめもない会話を続けるのが楽しくて飲んできたのが真実ではないのだろうか。
     いまさらながらそんな気がする。
     元来、一人で飲むことはなかった。一人で飲み屋に入ったためしはないし、厭な気分のとき眠れない夜など、酒の力を借りようとしないわけではなかったがまったくはかがいかなくて往生したものだ。
     酒は強い方ではないという自覚は早くからあったが、それでも若い頃にはまわりに気を使い、場を盛り上げようと焦るあまり一人先走って悪酔いしたりしていた。
     
     寝て起きるともう前の夜のことはころりと忘れてしまう人がいる。あれは芸なのかと疑ってもみたがどうも嘘でもないらしい。なんともうらやましいかぎりだ。
     いかに深酒しようとそこで繰り広げた醜態はしっかり記憶に残ってしまうから翌朝は身体もつらいが精神的にも相当きつい。
     頭をかゝえて蒲団の中で悶々ともう酒は止めたと幾度思ったことだろう。
     それでもすぐに性懲りもなく飲みだすのだからやっぱり好きなのだと下戸には笑われそうだ。
     別に好きだと認めたところで構わないようなものだが、本心を吐露すればやっぱり少し違う。
     気分よく酔って会話の妙を楽しみたい、それだけで酒に主眼があるわけではない。
     落語の仕方咄ではないが、実にうまそうに酒を飲む人がいる。あんな飲み方をするのが、真の酒飲みだ。
     残念ながら私にはついにそんな真似は出来なかった。
     そこら辺の不徹底がよくも悪くも私の酒なのだろう。

     夏、私の工房がある山の中では誰に憚ることもなく気の合った仲間を呼び集めて、昼なかから酒が飲める。
     炭を起して、肉を焼き、酔うでもなく醒めるでもなく馬鹿っ話に大笑いしながら日を過す。
     それが楽しい。その為に日頃、働いているのだと思う。
     なろうことならこれから先も、それぐらいの酒は飲めるよう身体でありたいものだ。

  • 妄想片

     疲れているのだろう。
     このごろ“蒸発”に奇妙な魅力を感じている。
     ある日、突然、直面する現実を拒絶する。一切を棄てて身を隠す。
     死ねばそれまでだが死ねないところがいかにも人間臭くていい。
     この言葉に本来は無関係な失踪の意味が付加されたのはいつごろのことだったか。
     たしか一時はブームのような現象が起って、あっちこっちで蒸発さわぎが頻発した。
     実際には出来るはずもないのだがしたらどんなことになるか、現実がうっとうしいとしばし勝手な妄想にふけったりする。

     蒸発の所作、正しい蒸発などあるはずもないのだがそれでも綿密に計画を立て、次の落着きも用意の上ではどうも本来の趣旨とは違うような気がする。
     ある日、ふと思いたつ。積年の我慢がぷつんと音をたてて切れる。
     自己同一、俺の心で思うことと俺の身体がのぞむことをもう一度いっしょにしてやろう。
     所持する金も現在地を離れるために必要な切符を購入したら残るのは小銭ばかり。
     その夜は見知らぬ町の食堂でラーメンでもすゝって空腹を満たすとしても翌日からはさっそく浮浪者の生活が待っているのだ。

     今ならまだ引き返せるかもしれない。
     多少の後悔と未練を引きずりながら暖簾を押し分けて入ると閉店まぎわだったのか客もいない。
     カウンターの隅で煙草をふかしていた女主人がものといだけな視線をなげる。
     ラーメン、麺は少し硬めにしてくれ、私はぶっきらぼうに注文をすませるとしょうこともなく棚の上のテレビに目をこらす。
     すでに火を落していたのか意外に時間がかゝってようやくラーメンが運ばれてくる。
     最後の一仕事をおえて気が楽になったのだろう、お客さん、遠いところから来たみたいだけど、それにしちゃあ、出張にも観光にも見えないねぇ、女主人が無駄口をたたく。
     ほう、どういう推理か聞きたいな、私もどんぶりにコショウをふりかけながら軽くうけこたえる。

     このあたりからは妄想の妄想たる所以なのだが話はとんとんとはずみ、しまいには泊るあてがないんなら泊っていくかい、娘が出ていって、ちょうど部屋が空いているんだ、なんてことまでに発展していく。
     気がつくと私はそのラーメン屋のひもというか居候に収まっていて濡縁で足の爪を切りながらそろそろ見切りをつけなきゃなあなどと考えている。

     千に三つはそんな話もないわけではないだろうと思ってはみてもやはり蒸発の先にはホームレスの生活が待っているものと覚悟してかゝらなくてはならないだろう。
     ホームレス入門などというマニュアル本もおそらく出ているにはちがいないが見たことはないので手さぐりで始めることになる。

     ダンボール箱を集めて小屋を作る。ふと少年時代の冒険の思い出が心をよぎるかもしれない。
     近ごろの公衆便所は清潔だし、お湯も出たりするから入浴できないこともさほど苦痛には感じないですむだろうか。
     一番の難儀は食いもののことだ。
     多少なりとも収入があれば残飯を漁らなくてもすむはずだ。
     学生時代、くすねたコーラのびんを金にかえて飯を食ったことがあったが空カンひろいはそれ程の金にはならないのだろうか。

     とりあえず夏はいい。思いのほか快適な日々が過せるかもしれない。
     満天の星を見上げて、人生の意味を悟る瞬間に出会うこともあるはずだ。

     しかし。
     しかし、冬は寒いだろう。病気をしたって誰がかまってくれるわけでもない。
     イソップ物語のキリギリスのように無様に足を引きずって行くのだろうか。
     野たれ死。野たれ死ぬ決心と死にきれる幸運にめぐまれる自信がなければやはり妄想は妄想にとどめておくのが無難かもしれない。
     明日の仕事を考えればおのずから妄想も蒸発していく。

  • 自己啓発ごっこ

     自己啓発のワークショップなどでよくやらされるゲームのようなものの一つにきめられた時間内に自分のやれることをできるだけ沢山、書き出すというのがある。
     やれることならなんでもいい。
     立てる、歩ける、カーテンが引ける、電燈のスイッチがひねれる・・・そうやってあげていくと自分でもおどろく程、多くのことをあたりまえにやっている。
     人間はけっこうすごい。
     主宰者もこころえたものでころあいをみて、あなたたちにはこんなにも色々なことをやる力があるんですよなどともちあげてみせる。
     落込みかげんの人にはたしかにちょっとした立直りのきっかけにはなるかもしれない。
     私は本来ならこの手のセミナーには、まゆにつばをつけて敬遠する方なのだが関係していたボランティアの都合で幾度となく体験する機会があった。まあしかし、ふりかえってみて、無駄なことを学んだとも思わない。

     深夜、それを一人でやってみることがある。
     本を読みあきた時、日中の不快がおりのようにとどこおっている時、ちょっとうつ気味の時、もちろん多少自分の都合にあわせてルールは変更している。
     たとえば、人より自分の方がうまくやれると思うことといったふうにだ。
     ロクロが引ける、釉薬掛け、窯がたける・・・これは職業だから当然だろうが、そのほかにもいろいろある。
     整理整頓なら女房よりうまい、子そだてはその道の専門家よりもうまくやったといったぐわいだ。
     ことここにいたると本当にそうかと多少客観的な吟味も必要になる。と言っても自分でやることだからわきは甘い。
     そんなことをくりかえしていると自信が回復してくる。
     最後の仕上げに寝酒を一杯、それで次の日はきわめて壮快。
     子供だましと笑うことなかれ、これ、意外とききます。
     ただし真剣にとりくむことがこつ。

  • 厨房の誘惑

     学生のころはアパートに住んだから、当然、炊事、洗濯、掃除、なんでもやった。
     親は“男子…”と考えていたかどうか、とりあえず家で強いられることはなかった。見よう、見真似といっても特に関心があったわけではないから意識的に観察したこともない。
     貧すれば鈍す、必要にせまられてやったにすぎない。
     洗濯はちょっと油断するとたちまち溜る。
     替が底をついて使用済の中からましなものを探し出すこともやったけれど平均的な学生からみるとかなり几帳面にこなした方ではないか。
     看護婦だった母のすりこみで床や壁はクレゾール液で拭かなければ気がすまなかったし、庖丁拵きなど、ガールフレンドが溜息をついて見惚れたものだ。
     小器用だったのだろう。器用貧乏なんて私の為にある言葉だったかと思わないでもない。
     主夫という発想が当時あればあるいはそれが私に一番ふさわしい職業だったかもしれない。
     だから結婚したてのころは女房のやること、なすこと心もとなくてしかたなかった。
     他人のすることにはいちいち口をはさまない常識があったおかげで思いとどまったが女房がピーマンの種を抜かないできざみ始めたときにはさすがに唖然としたものだ。
     しかし歳月は人を変える。
     女房の手料理は今、どこのどんな喰い物より私の口に好ましいし、家事全般、とりたてて文句もない。
     私はといえば掃除機、洗濯機の操作もおぼつかなく、下着がどこにしまわれているのかさえ認知しない。
     このあいだなど女房の留守にやってきた集金人に印や小銭がみつからず出直しをおねがいする仕儀にいたった。
     まさに禁治産者にちかい。
     それでも果物の皮むきは依然、私の仕事だ。
     かって寿司職人と競ったかつらむきの技術はけして錆てはいない。
     料理を作って、自分の器で人を供応できたら、どれ程楽しいことだろう。
     暇があればと思う。
     家督を息子に譲ったあとは若い妾と別宅でというのは江戸時代の夢でそんなおそれ多いことはつゆとも考えないがそのうち料理には手を出してみたい。
     男の手料理など文化教室の案内にはつと食指が動く。

  • 尻の下

     尻に敷かれたふりをして遣り過ごせば家の中は万事、丸く納まる、結婚したてのころ、天啓のようにそう悟った。
     事実そうだった。
     入学のお祝いはいくら包む、香典はいくら、女房には女房の思わくもあるのだろう。まあ女房の思わくの通りでいい。
     子供の習い事、塾、どうぞ好きなようにやってくれ。
     任せっきりの知らんぷりでは時に逆鱗に触れる恐れがあるからとりあえずいっしょに考えるふうは装おうがけして主張はしない。
     大人の知恵とはこんなものではないのだろうかと思っていた。
     家に問題がなければ多少外で遊ぶ余裕だって出来る。
     そうやって私はけっこう上手にやってきたつもりでいた。
     だがある時、私は思い知る。
     ふりであったはずがいつか本当に尻に敷かれていた。
     今日、女房は上手に私を立てるふりをする。
     お父さん、お父さん、人前ではそれこそどんな名女優だって顔負けの演技をみせる。
     しかし、それに騙されて、いい気になると家に帰ってからひどい目に会わされるのがおちだ。
     今更どうしようもないから私は年老いた飼い犬のごとく、見えない鎖に引きずられて、女房の後ろに従がっていく。
     唯一つ心配なのは、それで飼い主が先に逝ったら、俺の餌は誰が按排してくれるのかということだけだ。

  • 大工の話

     子供の頃、近所で家の新築工事が始まると、私はもう忙しくて大変だった。
     学校から帰ると、なにをさておいても現場に駆けつけた。
     あたりには今までになかった活気が満ちている。
     香わしい木材の匂い。

     棟が今、上がるところだ。
     男が二人、左右から柱を担ぎ、もう一人が掛矢を打ち下ろす。
     掛声が響き、柄がくい込む音がきしみ、私はなにか酔ったような舞い上がった気分に浸る。

     大工仕事のどこがそれ程魅力的だったのだろう。
     まさか将来、自分がそんな職人の世界の片隅に身を置くとは想像もしていなかったがいくら見ていても飽きなかった。

     黒い腹掛けに向う鉢巻の棟梁が両手に唾をくれるとやおら片足を角材にかけ、鋸を引き始める。
     電動工具などまだない時代だったがそんなものがある必要もなかった。
     一引き、一引き、小気味よいテンポで鋸は確実に木を切り分けていく。
     傍では溝をほる鑿の音、釘を打つ金槌の音。
     私は鉋くずを鼻に押し当てて、木の香りを胸一杯吸い込んだり、切り棄てられた端材を貰い受けたり、それはもう幸せの絶頂だった。

     私は祖父に会うことはなかったが腕のいい大工だったと聞く。
     父も辛抱していたらきっといい大工に仕上がったことだろう。詳しいいきさつは知らないが半端で家を飛び出している。それでも戦後のどさくさのときには一軒、二軒、一人で家を建てたというから昔の徒弟制度というのはたいしたものだ。うらやましいぐらいの大工道具を一揃、後生大事にかゝえていた。
     いつか親と和解しようというような心づもりでもあったのだろうか。

     大工、諸職を統べるという、私は身体の都合で思いも及ばなかったがそうでなければ案外むいた職業だったのではないか。
     血とはおそろしいものだ。
     時間の余裕が出来たら息子をかたらって、ログ・ハウスでも自力で建ててみたいとけっこう真剣に考えている。