カテゴリー: ⑥片山一の文章

  • 40年ののち 2

     私は佐伯の絵に納得し、幸福な蜜月は続いた。
     佐伯のすべては書物として手の内にある。目をつむれば記憶に残る絵は容易に脳裏に浮かんだ。
     私は佐伯のパリ以前初期の絵が好きだ。秀才らしい端正な絵。
     自画像が多いのは自意識が過剰だったせいか。
     自画像をじいっと見ているとやがて佐伯が語りだす。
     才能に溢れ、自信に溢れ、未来への夢に溢れた佐伯。
     そうしていると私も勇気づけられるような気持になれた。
     私はそのように現実をまぎらわし、まぎらわしながら生きのびてきた。
     
     大正12年(1923年)3月、25才の佐伯は東京美術学校西洋画科を卒業する。前年、長い交際を経て池田米子と結婚、日をおかず長女彌智子が誕生している。
     関東大震災をおして渡欧、翌年早々、ついにパリに立つ。
     佐伯とパリを切り離して考えることは出来ないが実際の滞在は前後あわせてもたかだか三年だ。
     ヨーロッパの洗礼をまともに受けて、それを消化しきるにはあまりにも短いといわねばならない。
     まさに佐伯の内外は疾風怒涛のごとくであったことだろう。
     選ばれてあることの恍惚と不安、佐伯は真摯なゆえに精神を蝕まれていかねばならなかったのだ。

     私はゴッホやベラマンク、エコール・ド・パリの連中がひよいと顔を出したりする第一次パリ滞在中の絵も好きだ。
     一時帰国中の滞船や汽船の一連のシリーズもいい。人物や静物もけして片手間の仕事とかたずけられるようなものではない。
     だがパリに魅せられた佐伯は憑かれたように風景を描くことに没頭する。
     最後の三ヶ月、モランから始まる一連の絵は恐い。
     一人の人間が生命を賭けたその狂気と気魄。
     昭和3年(1928)、8月16日、午前11時10分、パリ郊外のヴィル・エヴラール精神病院で佐伯は死ぬ。
     前夜、泣きあかしたという佐伯、エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ、佐伯は神の仕打ちに承諾できぬ恨みを残したか。

     ともかく。
     札幌に佐伯が来ていると思うと私は落着けなかった。
     いかねばならない。
     雨の日だった。会期末近く、その日しか時間がとれなくて私はいくつか仕事をつくるとついでのように息子の運転する車ででかけた。
     旭川も雨、札幌も雨、しかし雨ならば会場はおそらくすいていることだろう。

     しかし、予想に反して会場は混んでいた。人がきの外から垣間見て、私はそれでも一瞬に了解した。
     かって、恋こがれた女でも40年ののちに再会すればこんな感情にもなるのだろうか。
     絵も老ける。すっかり老けて歴史的な価値になり下がった絵はそれでも人たちを魅了するようだった。

     白いライフ・マスクがあの日と同じように目の前にあった。
     佐伯は狂気に満ちて人を威圧するのに目を閉じるとなんとおだやかな顔になるのだろう。
     私も老いた。老いて緊張を失った感性が感動をにぶらせているのかもしれないと自省する。
     時をおこう。時をおいて考えてみよう。私の内なる佐伯はいつだって私と共にいるのだから。
     まだそのぐらいの時間は私にも残っていると思う。

  • 40年ののち(佐伯祐三展で思い出したことなど) 1

     佐伯祐三全画集という本を持っている。朝日新聞社が1200部限定、番号入りで出した。私の本は553番だ。
     昭和54年11月の発行だから私は32才、当時私には本屋に友人がいて、ほしいと思えばいくらでもつけで買えた。そんな事情もあったわけだけれど買ったものはいずれ支払わなくてはならず1冊10万円の本代は相当な無理が必要だった。
     自慢話がしたいわけではない。それくらい佐伯にのめり込んでいた。

     どのようにして私は佐伯祐三に出会ったのだろう。
     おそらく高校の美術のテキストで立てる自画像を観たのが最初だと思う。パレットと絵筆を左右に持ってだらりと力なく下げられた手と削りとられた顔、一見子供落書きといったらそれでもとおりそうなこの絵のいったいなにが評価されるのか、興味を覚えて評伝をあさると、30才、パリ、狂死、天才、そんなキーワードが乱舞していた。

     美術至上主義という生き方はそれでなくとも若い魂を揺振るものだ。
     なろうことならそのような生き方をしてみたい。
     もし、メフィストフェレスが耳元でおまえの総てと引きかえに一片の芸術をとさゝやいたなら、私は迷うことなくその契約にとびついただろう。
     私は一年間の入院生活のあと復学はしたものの学業には身が入らず、生きる目的すら見失しなって、ひたすら読書に耽溺する17才だった。

     クタバルナ×今に見ろ×水ゴリしてもやりぬく、きっと俺はやりぬく、やりぬかねばをくものか。
     死-病-仕事-愛-生活、21才の佐伯はそう書いている。
     しかし私はそれだけの才能、意志、体力の欠如を自覚していた。

     おれはインポな豚だ、一世を風靡していた青年作家が小説の主人公に語らせるそんな科白がいつか私の口ぐせになっていた。
     死-病-仕事-愛-生活、考えれば考える程、いきつく先は自死しかないような気がする。
     そんな私は佐伯の生涯におのれを重ねて、つかの間、天才の白日夢に溺れていたのかもしれない。

     だいたい日本人には自分の想い入れを制作者の生きざまに重ね作品を鑑賞しようとする傾向がある。
     短歌、俳句など極端に語数の少ない詩型の味わいを深めるための工夫だったのかもしれない。
     石川啄木にしろ、太宰治にしろ、そのようにして読む。青木繁の生涯を重ねることで海の幸はいかに奥ゆきを深めることか。
     佐伯の絵もそのようにして評価を高めることもあっただろう。

     実作を初めて観たのは昭和43年、横浜、年譜によれば神奈川県立近代美術館で4月6日から5月19日まで第三回、佐伯祐三展が開かれている。
     うつうつと東京で学生生活を送っていた私がどんな想いで出かけていったか、今考えても胸が詰まる。
     暗い色調の中にも佐伯の怨念が血油のように浮き出した絵にははげしく訴えてくるものがあって、しっかり足をふみしめて対峙しないとその圧力に身体がゆらぎそうだった。
     会場全体を妙な妖気が支配していたような気がする。

  • グラン・トリノ、あるいはクリント・イーストウッドについて

     映画のタイトルにもなったグラン・トリノはフォード社製の大型セダン、スポーティな装いで人気があった。
     しかしそれも一昔前の話だ。
     クラシック・カー、訳すると骨董品だろう。それに主人公ウオルトが重なる。
     老いたるアメリカ、しかしグラン・トリノもウオルトもまだしっかりと機能している。
     かってケネディは言った。我々がアメリカに何が出来るか、問おうではないかと。そういう意味ではウオルトの双肩にもアメリカの未来はたくされている。
     ウオルトはすでに血を吐くような重い病気におかされている。
     死を目前にしてウオルトがアメリカに出来ること、それが映画、グラン・トリノの主要なテーマだ。

     クリント・イーストウッドは妙な男で一見、映画職人にしか見えない風貌の奥におそろしく的確な予知能力を隠している。
     この映画の公開のあと黒人大統領が出現した。アメリカ繁栄の象徴だった自動車産業のビック3、そのうちの2社が倒産した。
     経済破綻の泥沼の中でアメリカはあがいている。もうかってのアメリカの栄光はない。
     イーストウッドはアメリカ再生の夢をグラン・トリノにかけて語りたかったのかもしれない。傲慢になりすぎたアメリカ人に対する自ずからの反省もあるのだろう。
     
     正直にいうとクリント・イーストーウッドはあまり好きな役者ではなかった。最初にお目にかかったのはやはり荒野の用心棒だったろうか。ひょっとすると夕陽のガンマンかもしれない。似たような映画で今ではなにがなんだかわからなくなっている。いずれにしろ封切りで観たわけではなく数年後、場末の三番館あたりだったはずだから、それに続夕陽のガンマンもついた三本立ての可能性だってある。当時テレビは持たなかったから三本とも劇場で観たのはたしかだ。

     で、面白かった。大衆の眼のたしかさにおどろかされた記憶がある。
     今にして思えばセルジオ・レオーネは一世を風靡するだけの才能だったと認めざるをえないがなにせはやりものには生理的な拒否が働くのですぐにはとびつけなかった。
     しかし、あの時のイーストウッドの印象はいかにも二流映画の主役が似合いの役者というにつきる。
     ちびた葉巻をくわえ眉間にしわをよせてぬすっとつっ立つ、のっぽの男。
     今日の大成を誰が予想できただろう。

     ダーティ・ハリーシリーズでも世評に踊らされることはなかった。なにかとの併映で偶然観ることになった一本が当人の演出だったことはあとで知った。
     大口径の輪胴式拳銃とキャデラック、いかにも狭視野的な正義が、カルフォルニアの突き抜けるような青空の下でなんとも空虚だった。しかし、映像がかもし出すその雰囲気がむしろ演出の意図するところだったのかもしれない。映像作家としてのイーストウッドをなめてかかるわけにはいかない。

     許されざる者はたしかに出来のよい作品だった。
     しかし、私が本当に兜をぬいだのはミリオンダラーベイビー、ひさしぶりに映画を堪能した。煮詰めるだけ話を煮詰めて、最後の最後にぽっと結論を個々人にゆだねる演出もこの場合、効果的で成功していたと思う。

     俳優の余技ではなく、すでにイーストウッドは一流中の一流監督になっていた。

     2008年、グラン・トリノ制作時、イーストウッドはすでに78才だった。
     出演しながら当人もこれが最後の映画になるかもしれないという意識はあっただろう。
     そんな目で見るせいか、物語の展開は性急だし思わせぶりのシーンも多い。
     棺桶におさまってイーストウッドは皮肉屋らしく、にやりと笑ってみせたりする。
     少年少女とのかかわりあいをもう少し丁寧に描いていたら三度目のオスカーもありえただけにファンとしてはいささか、残念な気がする。

     ウオルトからグラン・トリノを託された少年、タオが沿岸の道路を走っていく。
     海岸線のむこうには希望があるようにして終わるのがハリウッド映画の定石だ。
     しかし、本当にその先にアメリカの未来はあるのだろうか。

  • 息子

     息子にあとをつぎたいと切り出された時には本当に動揺した。
     まったく想定外のことで、私は息子が大学に残ることを希望していた。
     こんな仕事では食っていけないと思っても私自身がまがいなりにも暮らしてきたのだから、説得力にはかけるだろうと頭をかかえる。
     息子とうまくやっていく自信もなかった。せっかくあとつぎが入っても、親子げんかのあげく、子供が飛び出す話はこのあたりにもはいてすてる程、ある。そうはなりたくない。
     女房にしりをたたかれて、しぶしぶ息子と話し合い、結局同意させられた。
     今日からは親子じゃないぞとけじめをつけると、それじゃ、おやじさん、おかみさんと呼べばいいんですねなどと、生意気な口をききやがって・・・あれから七年になる。
     私たちはずうっと一つの作品を二人で造ってきた。デザインを二人で考え、たとえば私がロクロを挽くと絵付は息子といった具合だ。
     私はおとろえる一方だが、息子は最近とみに自信と力をつけてきた。
     ここ数年はアイヌ文様をモチーフに取り組んでいるが、なんとか人にみてもらえるまでになったのは息子に負うところが大きい。
     二十七日(注:2009年5月27日、すでに終了しました)から丸井今井札幌展で私たちの展示会が開かれる。
     はりきる息子を見ていると、親ばかと笑われそうだが感慨無量だ。

    (2009年5月21日北海道新聞「朝の食卓」に掲載)

  • 希望ヶ丘まで 3

     てんやわんやでひと月やふた月はたちまち過ぎる。
     私もとりあえず荷物は運び込んだものの整理がまるでつかず、なかなか仕事再開のめどが立たなくて苛立っていた。
     周囲の農家も思いもかけない災害にその手当てでおおわらわだったのだろう。その間、幾度か歓迎会の話が出たがどちらかの都合がつかず、結局、年の暮れの忘年会と一緒になった。

     集落の人との初顔合わせだ。指定された時間に赴くと会館はすでに人で溢れかえっていた。当時はまだ三十戸を越えていたはずだ。
     挨拶もそこそこに宴会が始まった。
     大薬缶に一升瓶の酒があけられストーブで直燗がつけられると、それがあっという間に空になる。再び一升瓶が注ぎ足され、そうしてそれもみるまに空になった。
     集まった男衆は皆が働き盛りの年頃で勢いがいい。はなからこちらは気圧されていた。
     それにしても最初の乾杯のビールが注がれたあとはそれっきり誰もかまってくれず、いきなり手酌で飲むわけにもいかないから、私は無聊をかこっていた。
     とんでもないところに来てしまったのじゃないか、そんな思いは引越し以来ときどき心をよぎっている。
     しかしほどなく私は攻め立てられ、守勢にまわり、陥落寸前まで押し込まれることになった。
     やあ、先生、ごめん、ごめん、気が利かなくて悪かったね、まあ飲んでくれや、最初の人がそんなことを言いながら前に来て酒を注いでくれたのがきっかけだった。次から次から入れ替わり立ち替り、私も飲めない方とはいわないが、こう攻め立てられては身がもたぬとちょっとでも拒むと、あいつの酒は飲めて俺の酒は飲めぬのかと絡まれる。

     まあ飲めや、せかされて、一口、なめるようにすする。
     もう少し飲めや、なんぼ凶作だって、先生に飲ますぐらいの酒はあるぞ。
     仕方なしにもう一口すする。まあ、仲良くやろうや、先生ももうこの部落の住人だもんな、頭を下げているうちに横で待ち構えていた人が入れ替わる。
     そうして、まあ、飲んでくれやということになる。
     私は一応は上座に座らされてはいるのだが最前から歓待されているのかいじめられているのか、わからないような心境になっていた。
     ひょっとしてとんでもないところに越してきてしまったんじゃないだろうか……。

     鷹栖町十六線十五号、そう所・番地をいえば味も素っ気もあったものではないが、このあたりを希望ヶ丘と呼ぶ。国土地理院の五万分の一の地図にもはっきりとそう出ているから俗称ではない。
     若い人たちが集い、学んで巣立っていった土地の名にふさわしかったと思う。私もその呼び名が気に入っている。
     希望ヶ丘、鎮守の想いも熱かったのだろう。
     新しい住人となった私たちも充分の祝福と加護を受けた。
     あれから二十五年が過ぎる。

  • 希望ヶ丘まで 2

     鷹栖町は人口およそ7600人、旭川市に隣接する広大な土地で、上川百万石の中核となる米作地帯だ。
     鷹栖の縁をたどれば多少はないわけでもなかった。
     私は春になれば山菜採りにこの町の奥に入り込んでいたし、仲間と畑を借りてとうもろこしを作ったりしたこともある。
     越して来いといわれている中学校にはかつて特殊学級があって、そこには二度か三度、陶芸の指導に行っている。なかんずく、この学校の最後の校長だった人の娘を、今、まさに私は高校で教えていた。しかしだからと言われればどれもこれといって取り立てて言える程の縁とも思えない。
     どうして私に白羽の矢が立ったものか、このあたりの事情はいまだによくわからない。

     女房に相談するとそれもいいんじゃないという答だった。私は長男で折があれば親の世話もしなければならないと思っていた。ちょうど住める家が二つある。そんなことも含めて親にも話した。親も迷わずに移るという。

     家族以外はみな反対だった。義父は土地、建物の名義をお前に書き替えてやるからそのままいろと引き止めた。方々に事業を展開している人だったから血縁につながる者を手元から失いたくはなかったのだろう。
     友人たちは異口同音に食えるならそんなど田舎に都落ちはやめろと言った。
     悪友の一人が目の前から消えるのが寂しかったのかもしれない。

     しかし話は動き始めていた。
     役場は思いの外積極的だった。
     金の手当てがつかないと泣きを入れれば借りられるように算段はつける、引越しにも手を貸すから心配するなという話だった。
     とにかく雪が降るまでには移れと、その一点張りだ。
     校長住宅と教頭住宅は私の家族と親たちがそのまま使う。一棟二戸の教員住宅は中を取り払って倍に建てまして工房にしたい、計画を話すと次の日には業者が来て、一週間後には工事が始まるといった按排だった。
     役場の窓口だった企画課には今の町長や副町長がいたのだが、ここまできたら何が何でもやり遂げるという気概に満ちていて私ももうぼやぼやしているわけにはいかなかった。

     そうして、-----十月十日、体育の日にまず親たちが引越した。約束どおり役場の連中がおんぶにだっこで面倒をみてくれた。
     十月二十日に私たちの家の引越し、二十三日が工房、窯や土練機など重量物はすでに業者の手で運び終えていたが、それでもよくもまあこれ程というぐらい物があった。自分でもいやになったぐらいだから役場の連中もよく最後までつき合ってくれたものだと思う。

     この年はこうして私にとっては忘れがたいものとなったが周囲の農家にとっても、また別の意味で生涯、記憶に刻み込まれることとなった。
     私たちの引越しの合い間を狙ったように二度、三度と大雪が降って刈取り前の稲をなぎ倒していた。田んぼはほぼ全滅の状態で近来まれにみる大凶作の年になってしまった。引越しで大汗をかいた連中も息をつく間もなく今度は援農にかり出されて、青田刈りの手伝いをさせられたはずだ。
     厄病神呼ばわりされずに済んだのは幸いというべきだろう。

  • 希望ヶ丘まで 1

     昭和五十八年六月のことだ。当時、私は旭川市豊岡に工房を構えていたが、ある日そこに突然、男が飛び込んできて興信所の名刺を差し出すと悪いようにはしないから、少し内容を教えてくれと言った。

     私の仕事は陶芸家、このあたりでは一般的なものではないから、隣近所を聞き回ってもこれという実態が浮かび上がってこなかったのだろう。
     私は茨城県笠間市の荒田耕治の元で修行したあと北海道に戻って義父の所有する空家を借りて独立、七年目を迎えたところだった。三十六才になっていた。
     作品を制作する本業の部分ではまだ暮らしていくのが心もとなかったが、それでも市内の教材屋と組んで道北の小中学校が授業で造らせた陶芸作品の焼成を一手に引き受けていて、これが思いのほか忙しかった。第二次ベビーブームの最中で学習指導要領には陶芸が入っていた。本当に何の面白みもない仕事だったが金の為と割り切れば金にはなった。
     もう一つ、数年前から高校の講師として週八時間工芸の授業を持つようになっていた。若い連中に囲まれるのは刺激になったし、固定的な収入もありがたかった。
     市内のデパートでも商品を扱ってくれるようになって、年に一回の個展も開いていた。とりあえず順調といってもいいのではないかと自分では思っていた。

     女房がいて子供がいて家庭は平穏だった。今、何かを始めようという計画はなかったし、探られて困るようなことがあるはずもなかった。
     だから、なぜと当然、私は聞き返したと思う。

     悪い話ではない、さすがにそれ以上は口を割らなかったが興信所もけっこういいかげんなものだ。探る当人から話を聞いてどうするのだろう。
     まだ今日ほど個人情報の保護にも過敏ではなかった。腹をくくって私は問われるままに吹けるほらは吹き、読めるサバは読んで答えることにした。きっと暇な時間帯だったのだ。

     それからちょうど二週間後、今度は鷹栖の役場から人が訪ねて来て統廃合で空いた校舎が一つあるが、そこに越して来る気はないかという話だった。無償、無期限、無条件で貸すという。
     私は今の義父の家屋がそのままいつまでも借り続けられるとは思っていなかった。なにせ坪十七万円の土地が三百坪に敷地八十四坪のコンクリートブロックの工場だ。もともとは洗車場だったものだが営業不振で止めてしまった。次いで何をしようという予定がなかったからとりあえず貸してくれたが誰がどう考えたって、焼きもの屋風情には贅沢すぎる。
     そのあたりまで調べがついていたものかどうか、たしかに悪い話でもなさそうだが即答できることでもなく、考える時間をもらう事でその日は終わった。

  • 名刺

     好きで持ち歩くわけではないがないとやはり不都合な場合があるのが名刺だろう。一方的に渡されることもないわけではないが交換が原則だから相手から差し出されて、こちらはないですますには、けっこうしどろもどろの対応をしいられる。それが億劫で外出の際はつとめて持参するようにしている。
     家にいなければ仕事にならないのだし、私などが年間に必要とするのはせいぜい百枚程度だがほぼ同数の名刺がたまる。
     付き合いの程度に応じて数種のホルダーを使い分けるがいただいたものは大切に保管する。
     長い年月には同じ人と違う場面ででくわすことがままあって、世間は狭いと思わざるをえない。会社が違っていたり、地位が変わっていたり、なにかその人の人生が想像されて感慨が深い。
     たかが名刺といってしまえばそれまでだが、いかに相手に印象づけるか皆が工夫し趣向をこらす。台紙、活字、組み方、あんな小さなものなのにいじればいじれ、こればこったできりがない。
     おしきせのものにだって、それなりの手がかかっているはずだが、自身の裁量しだいとなればとくだん費用がふえるわけではなし、ここが腕のみせどころと張り切る気持はわからないでもない。それにしても名前を反転させた名刺をもらった時は驚いた。とまどう私に相手はいかにも得意気だったが、やりすぎというか、悪趣味というか、それでもいまだに記憶に残るぐらいだから、当初の目的は充分はたしたというべきか。私もひととおりのことはやってみて、今はごく平凡に落ち着いている。
     普通、いただいた名刺をうたがうことなどしないだろうが、そこらあたりに目をつけた詐欺も横行するのだから、世の中は怖ろしい。
     たとえば飲み屋で請求された金額の半分程の現金を出して、悪いけどこれだけしか持ち合わせがなかった、二、三日中に払いにくるからと他人の名刺を差し出す手口、そこそこの肩書であれば、まさかうたがいもしないだろう。
     どこでそんな話を聞きかじったか、知人が出張先でそれをやって、コートのネームから足がついて、ひどい目にあった話もある。
     当人はぼられた分を値切りかえすぐらいの気持でやったのだろうが生兵法は大怪我のもと。こんな御時世では顔写真入りの名刺がそのうち定番ということになるかもしれない。

  • 医者嫌い

     医者は嫌いだ。
     大上段にかまえれば人が人に対してあたかも生殺与奪の権限を持つかのようにふるまう様が不愉快だ。
     技術を提供して報酬を受けるのだから医者だってしょせんサービス業ではないか。
     てめえ、人から金を取っておいてなんだ、その態度は、となじる患者がもっと、もっと多くてもいいはずなのに、倶梨迦羅紋紋を背ったいっぱしのおっさんだって、それで直りますかね、なんて追従笑いを浮かべながら、下手に出るものだから相手はますます勘違いする。
     そこらあたりの道徳というか、倫理というか、ルールが確立しないまま、医学が先端化し、肥大したものだから手に負えなくなっている・・・・・・。
     小さな声でいえば、そこまでのことをいつもいつも考えているわけではない。
     ただ医者は嫌いだ。
     蕁麻疹が出たとか歯茎がはれたとか、やむをえず医者にかかる場合はあるが定期検診など痛くもない腹を探らせようとは思わない。
     私は六十二才だがこの年まで胃カメラも内視鏡検査も受けたことがないというとけげんな顔をされる。だいたいが血圧も血糖値も知らない。いまどき日本ではそういう人間はめずらしいのだろうか。
     それは無茶ですよと真顔で心配してくれる年下の友人もいる。
     無茶だろうがなんだろうがとにかく、そうして今日まで暮らしてきた。
     調べればその場で病名がついて病人にされるかもしれないが酒が飲めて食欲があって、あたりまえに働けるのだからあえて病気を探す必要もないと思っている。
     似たような年恰好の連中が集まると、つい、このあいだまでは孫自慢だったものが今では病気自慢でもりあがる。
     俺はこのあいだ白内障の手術をしたと一人がいうと、俺は大腸のポリープを取ったともう一方も負けてはいない。あげくには、カプセルに錠剤に粉ぐすりを取り出して、俺はもう日本酒は駄目だなどとほざく。
     遅かれ、早かれ、いずれみんな死ぬんですよ、君たち、ちまちま生きたってこの先、知れてるじゃないか、もっともそういう憎まれ口をたたかずにすますほどの分別はもっている。そうか、そうかと私はだまって盃を口にはこぶ。
     なにはともあれここまではたどりついた。あとはおまけの人生だ。
     いやな目、つらい目にだけは合いたくない。
     ぴんぴんころりといきたいなあ。それなら、多少早くても文句はない。

  • 隣りの芝生

     家の廻りだけ春が遅いような気がする。
     日陰には分厚く雪が残るし、クロッカスも一塊、二塊がようやく紫色の花をつけたところだ。
     初夏ともなると、あたり一面、蕗の葉でおおわれて法螺吹き屋敷の面目躍如といった具合になるのだが今はふきのとうもまばらで勢いがない。
     今どきの車には温度計を内蔵したものがあって、それでみると旭川市内とくらべてここらあたりはどうも常時五度ぐらい温度が低いようだ。
     北海道といっても旭川は盆地のせいか夏の暑さは馬鹿にできない。その日の全国最高気温を記録することだってあるぐらいだ。
     冬、きびしい分、夏は過しやすいわけで差し引きすると零かと普段は思っているがこの季節にかぎってはそんな鷹揚ではいられない。
     北国に暮らす者にはなんとも春は待ち遠しい。
     周辺の農家だって、同じ気持で融雪剤をまくのだろう。
     融雪剤の効果はめざましく、まいたところの雪だけが底が抜けたように消える。しかしあんな煤のできそこないのようなもの、きたならしくてとても家の廻りにまく気にはなれない。
     隣りとくらべても春が遅いのはそのせいかと理性では納得しても気分は今一つ釈然としない。
     去年の葭が倒れたまま、ひからびて、ちぎれた葉があたりを転がっている。
     木瓜もつつじも冬の間に野ねずみにかじられて白骨のような茎を曝す。これではとても花はつけないだろう。
     どうもなにか面白くない。なにもかにもがみすぼらしく、うすぎたない。
     雪がとけて、若芽がふきだすまでのこのはざかいの時間は見ないですませたらそれにこしたことはないのだが、身体が勝手に庭にいく。
     隣りの庭がどうにもよく見えてしかたがない。

  • ライター

     煙草が今日ほど嫌悪されなかった時代、ライターはちょっと気をそそる小道具だった。海外旅行のみやげとしても、洋酒と人気を二分していたのではなかったか。
     デュポンとかダンヒルとか高級なライターは蓋をあける音からして違う。なんといおうか、軽やかな量感が音叉のように響いて、傍にいると見るまでもなくいいものを使っているなとうらやましかったものだ。手が出ないほどの価格でないところも憎い。なんどか手を出しかけて結局あきらめたのは我ながら身のほどを知っていたということか。
     費用対効果ではなんといっても使い棄ての百円ライターはすぐれものだ。以前にはマッチのラベルを集める趣味だって、あったものだが世の中からサービスマッチを駆除してしまった。
     マッチといえば握ったマッチ箱から軸を一本取り出して火を点けて相手に差し出すまでを片手だけの一連の動作でする仕方が学生時代にはやったことがある。くだらないことに奇妙に熟練の技をみせる者がどこにでもいるものだがまるで手なれた手品でもみるようで記憶に残る。
     実用性はみとめながらその安っぽさに抵抗感があった私が愛用したのはジッポーのオイルライター。オイルの臭いが煙草の香りにまじるのを我慢しながらちょっと長めに心を出して炎をたてる。あれは煙草をくわえた顔を炎にもっていかなくてはさまにならないんだよね。そうでなければまつ毛をこがす。
     ジッポーが高級品でないことはたしかだがこれもピンからキリまでで上は銀張り、金張りのものまである。底にローマ数字でグレードが刻印してあって“Ⅰ”が最下級品。ベトナム戦争でマリファナを吸うアメリカ兵が使ったのはもっぱらこれだ。当時は千円前後で市販されていたと思う。
     胴と蓋との蝶番の部分の細工が雑でひどいのは最初からガタついていた。選ぶと嫌な顔をされるが納得のいく品に出会うまで店をまわり、手に入れたそれを大事に大事に使う。落としたりして蝶番がゆるむと小さな時計屋を探して絞直してもらう。五百円はとられたから安くはなかったが昔の職人にはそれぐらいの技術はあった。
     傷一つつけずに使い込むのは大変だが私はしつこい。
     そうやって何年か使うとメッキが剥げて真鍮の地金が出てくる。おかしなもので無理に紙ヤスリをかけたりしたんではこの風格はない。
     私はそんなライターで両切りのピースを吸っていた。
     けっこう気障だったんだ。
     煙草を止めて十年が過ぎた。
     あのライターはどこへいったんだろう。

  • レッドクリフⅡについて少々

     失敗のしようがない映画というのがあるような気がする。
     たとえば日本でなら忠臣蔵。あらすじは皆が知っている。皆が好きで映像で観たい気持もある。今度の吉良はあの役者かなどと出来る前から盛り上がる。金をかければかけるだけ大作にもなるだろう。
     しかし物語から大きく逸脱できない枷がある。お約束を守って、エピソードを網羅して、だから当然評論家の高い評価は受けがたい。
     中国人にとっての三国志演義もおそらくそのようなものなのだろう。赤壁の戦いはそのエピソードも含めて、すでに頭の中にすりこまれている。孔明はここで、こうやって、周瑜はこうしたはずだ、その分、脚本、演出の裁量は狭められる。
     そういう制約の中でジョン・ウーはよく健闘したと思う。
     二時間半近く中だるみもせずに観せきる力量はたいしたものだ。

     前半をヴィッキー・チャオの尚香、後半をリン・チーリンの小喬とタイプの違う二人の美女を狂言まわしに使うことで殺伐とした物語に余韻ができた。おかげで名にし負う英雄、豪傑たちがいまひとつ精彩をかく面も否定できないが、その分、リン・チーリンの美しさをたっぷりおがませてもらったのだから文句はない。

     トニー・レオンも金城武もどちらかというと、受けの役者さんだ。本来は主演の横にいて、輝く人たちだと思う。顔のアップがやたら多いのはジョン・ウーもその辺を意識してのことだろうか。

     火薬を使わせたら、ジョン・ウーはさすがにうまい。本人もそれは充分承知しているはずだ。後半の大戦闘シーンなど図にのってたたみかけてくる。私などはいささか食傷気味だった。
     
     残念なことの一つはレンズの解析度がよすぎるせいか、軍船などいかにもミニチュアと思わせる場面が少なくない。谷崎潤一郎の陰翳礼讚ではないがかっての映画は不鮮明な映像がかえってリアリティをかもし出していた。七人の侍、しかり、ゴジラ、しかり。そのあたりを検討してみる必要はあると思う。

     終盤、主役級の男たちが顔をそろえて三巴、四巴のバトルをくりひろげる。ジョン・ウーの自己主張だろう。砲煙の中から立あらわれる男たちの姿は自作へのオマージュだったかもしれない。

     男くさい活劇を得意としてきたジョン・ウーだが今回の作品を観ていて、案外、女性映画をとらせても上手にこなすのではないかという印象をうけた。
     リン・チーリンを主役に使ったしっとりとしたメロドラマなど観てみたいものだ。

  • あな恐ろしや

     「俺が浮気をするのはおまえが悪いからだ。」とあろうことか、妻を前にそう高言した男がいた。
     いやおうなくその場に立ち会わざるえなかった私は驚愕し、以来その男を畏敬している。
     男児かくあるべし。
     それで家庭が崩壊しないのだから見上げたものだ。
     小心者の私には口が裂けてもそんな言葉は吐けそうもない。
     自分の意志を貫く為には面倒、煩わしさ、なにするものぞと立ち向かう、ううん、立派。
    だけどと私は思う。体力、気力に余裕のあるうちはとりあえず力でおさえこめるとしても、たとえばいくさき、脳溢血で倒れたりすることもあるだろう。そんなとき、どの面さげて妻の介護を受けるつもりか。多少なりと想像力があれば考えの及ぶところだ。私など、そんなことを考えているうちに身動きが出来なくなってしまったが熟年離婚をもちだされて寝耳に水とあわてるのは自分の不始末を都合よく忘れるからだと思っている。
     女というのは執念深いぞ。プライドをずたずたにされて笑ってすますはずがない。面従腹背、じいっと復讐の機会をうかがっていてチャンスとみれば牙をむく。
     聞いた話だ。道楽者だったおじいちゃんが倒れて老妻が付き添った。生命はかなくおじいちゃんはそのまま意識を回復することなく亡くなったそうだが、下半身にはつねりあげられた紫色の痣が無数についていたということだ。
     あな、恐ろしや。
     おとぎ話もたいていは因果応報で終わっている。
     杞憂ですめばそれにこしたことはないのだが……。

  • 鳥を見る

     家の屋根にコンクリートの煙突が立つ。とうに本来の役目は終え、今は絶好のバードテーブルだ。屋根を汚すと女房には不評だが、隣の工房の窓から集まる鳥を見ていると、時を忘れる。
     バード・ウオッチングが流行し始めたころには「そんなこと、人にやってみろ、気味が悪い」と斜に構えたものだった。そういう決めつけが私の悪い癖だ。今ならバード・ウオッチングに夢中になる人の気持ちも分かる。
     カラスが来る。横柄な態度で振る舞っている。自分が一番偉いと思っているのかもしれない。
     トビも来る。近くで見ると、なかなか見栄えがする。「鳶(とび)の子、鷹(たか)ならず」なんて嫌な言葉があるように、タカと比べられたのは不幸だが、カラスでさえ、目前に迫られると二歩三歩と退く。
     ハトは夫婦で来る。夫婦かどうか確かめるすべはないが、そう見える。ハトの夫婦は、どうように結びつき、どれほどの期間を共に過ごすのだろう。むつみあう様子に、そんなことを考える。
     だが、実のところトビもハトもどうでもいい。作品展が近いのに、いいアイデアが浮かばない。カラスにばかにされているように感じるのも、きっとそのせいだ。
     まさか、鳥に悩みはないだろう。「鳥はいいなあ」と、また窓の外を見る。

    (2009年4月11日 北海道新聞 朝の食卓に掲載)

  • 一日

     朝は八時過ぎに起きる。七分か十分過ぎ、目は八時前に醒めている。まだ少し早いと思いながら、ふとんの中でぐずぐず、今日の予定や段取りなどを算段する。その時間がいい。
     ごくまれに寝入ってしまい三十分前後になってあわてて飛び起きる。するとそのあとがせわしない。トイレに行き洗顔、ストレッチをすませて朝食をとり、なにがなんでも九時までには工場にかけつける。
     それが自分に課したけじめだ。
     夫婦二人の時にはけっこういいかげんで十時近くになって家を出ることも少なくなかった。
     他人に使われているわけじゃない、その分、遅くまでやればいいじゃないかなどと思っていた。
     息子と仕事をするようになって、ずいぶんいろいろなことが変わったが、もっとも大きく変わったことの一つだろう。
     それで午前は十二時半まで仕事。
     一時半までが昼食、三十分ぐらい本が読める。
     それから八時まで、一切、飲みもせず食いもせず休みもせずに仕事。仕事が趣味か、趣味が仕事かわからないところがあるからやっていられるのかもしれない。
     息子は四時から五時まで、犬の散歩とおやつの時間をとる。
     一時、いっしょになっておやつを食べていたら、ぶくぶくと太り始めた。
     減量よりはおやつをひかえる方がいい。
     八時すぎから九時半までが晩酌と晩飯。ビール大ビン一本、そのあと日本酒一合を飲む。これがうまい、この為に生きているのかもしれないと思う。ずうっといっしょだった女房が最近検診でメタボだのコレステロールだのとおどかされてきて付き合わなくなった。なんとか、ひきずりもどそうと手をつくすが、けっこう意志が堅い。おかげで楽しいはずのひとときがもりあがらなくなってしまった。つまらない。この時間帯にもひょっとすると三十分ぐらい本が読める。
     九時半から十二時まで娘の部屋だった書斎で書きもの、原稿用紙二枚をめどに日記か遺書でも書いてるつもり。
     万が一、本の一冊でも出せれば望外の幸せというべきか。
     それから風呂が小一時間。汗がひき髪が乾くまで読書、二時前には必ずふとんに入る。
     飲酒、映画鑑賞、来客、体調不良などでごくたまに予定はくるうが三百六十五日、ほぼこういう生活をしている。欲をいえばあと一時間、読書の時間がほしいと思うがそれは無理か。
     こうしてみるとけっこう余裕がないから、強制されてなら一週間ともたないだろう。
     人生、遊び半分。寝る間をおしんで趣味に生きる人もいることを思えば私の生き方も多少は了解してもらえるだろうか。

  • 苦しい時は神だのみ

     どうしようもない状況におちいった時には神に縋る。
     「神さま、助けて下さい。私はなにも悪くはありません。」まさかそう声に出すわけではないがけっこう真剣に祈る。
     すると神助がある。おかげでなんとか無難に切り抜けてこられたのだと思っている。
     物心がついて以来、ずっとそうしてきた。
     私は虚弱児で、苛められっ子で、無力だった。
     しかし理不尽な状況を前にした時、どうして突然、神が出現することになったものか、私にもわからない。神の、神たる由縁というべきか。
     親たちに信仰はなかった。正月、鏡もちを飾るのは、風習とみるべきだろう。
     今も窯を焚く前には家族が揃って拍手を打つ。かしこまって仏壇に手を合わせもする。だけどそれは儀式であって信じているかと問われればごめんと頭を下げるしかない。
     女房は私が不信心なのを知っている。「今さらなんのかみ。」などと白ける。
     私は「うちのかみさんさ。」ととぼけるが、しかし苦しまぎれの時、助けてくれる神さまはたしかにいるのだ。
     神さまというからには仏さまではなないなと思われるかもしれないが、そうともいえない。神道は語る程、知らないがキリスト教でいう神ともちょっと違う。だけど、みなどこかに通じるものがあるような気がするのは人間が最初に「神」と名付けたものがそういう存在であったかもしれないからだと思う。
     宇宙の原理。宿命を司る摂理。どれもまだ少し、私の神さまをいいあらわすには言葉が足りない。きっといいあらせないところにある程のものなのだろう。
     そこで私はこのごろ祈る。
     「神さま、お願いします・・・・・・。」
     きっと目かけはあるはずだ。

  • 春遠からず

     東京に住む娘が電話をかけてきて「会ってほしい人がいる」と言った。
     とうとう来たかと思いながら平静を装い「いいよ」と答える。「じゃあ予定を立てるね」と娘。
     「だけど、そんなに急がなくちゃならない理由でもあるのか」という私の声は、いささかうわずったかもしれない。「いや、そんなことはないんだけど」という娘に私はいくらか安堵(あんど)する。「それじゃあ春になってからにしよう。何もこんな寒いときに…」と日のべさせたが、その春が近づいてくる。

     「大きくなったらお父さんと結婚する」とチューをしてくれたのが、昨日のことのようだが、もう二十八歳だ。理性の部分では十分承知しているが、「どうしようもないバカ男がやって来たらどうしよう」などと考え出すと感情は千々に乱れる。相手の男は一応、職はあるようだが、「それだって次の日には平気で辞めたりするからな」と、どうも愉快な想像が浮かんでこない。
     草葉の陰で義父が笑った気がする。私が女房の家を最初にたずねた時のことを
    義父の身になって考えてみたりする。あの時、義父はどう自分を納得させたのだ
    ろう。

     「お父さんが一生懸命育てた娘なんだから、信じてやらなくちゃ」などとした
    り顔で言う女房がうるさい。春なんて来なければいい。だけど、ちょっと待ち遠
    しい気もする。

    (2009年3月2日 北海道新聞 朝の食卓に掲載)

  • タケⅧ 終章

     トマス・ハーディなんて聞いたこともない。時間と資料さえあれば何とでも出来ると思うが、明日というわけにはいかない。現実的な話をしようと私はいった。
     若い女のむせかえるような匂いのこもった部屋で私たちは膝をつきあわせていた。
     それであんた、その教授との関係はどうなんだ。
     女は一瞬、考えるふうをして次いで大口をあけて笑いころけた。
     関係だなんて、国立大を停年で退官した七十過ぎのおじいちゃんよ。
     私の吹き出す番だった。
     俺は何もそんなことを聞いたんじゃない、人間関係は良好かどうかってことだ。
     お前の頭の中にはそういうことしか詰まってないのかという言葉は棚沢の手前飲み込んだ。
     あっ、そういうことね、悪くないと思うわよ、だからこうしてチャンスをくれたんじゃない。
     じゃ、こういうのはどうだろう、それはさておきというんだが。
     私は旧制の中学や高校でまかりとおったというそれはさておきについて語った。
     自分に回答するだけの用意のない課題に対して、それはさておきとまったく無関係の論旨を展開する。うければそれで及第点がついたという伝説もある。
     私は馬鹿だからトマス・ハーディについてなにか考えようとがんばったけれど何も書けなかった、だけど親にはもう迷惑はかけられないからなんとしても卒業したい、それでとりあえず学生生活の反省を書いた、これでなんとかゆるしてほしい、というような内容でどうだと私はいった。
     女はしばらくしぶった。馬鹿は馬鹿という言葉に異常反応するものか。
     それで本当にだいじょうぶかしら。
     駄目なら最後の手段で上着を脱いできゃあっと大声をあげて教授室をとび出すんだな。

     その日、私たちは遊び人風の男たちにとりこまれ面白くもないマージャンを打っていた。横柄な態度を見逃すとさらにつけあがるといった感じで、最前から少しずつ圧迫が強くなっていた。
     すでに勝とうという気持はなく、いかに少ない負けでこの場を切り抜けるかが問題だった。
     タケもおそらく同じ考えでいたことだろう。
     二人組の一方、顔に険のある痩せた男がツモの途中で牌山をくずした。
     わざとそうしたとしか思えない。
     やれやれという気持で私が目を上げ、上げた目が偶然、タケの目と合った。

     その瞬間だった。
     てめえら、通したな、牌山をくずした男がそう怒鳴るといきなり雀卓を蹴飛ばしてタケにとびかかった。胸元を握られ顔を殴られるタケの影像が目に定着するかしないうちに私も椅子を蹴倒され、もんどりうって床に突っ伏していた。最初の痛さを感じる間にも尻や背中や腹をいくど蹴られたことだろう。襟首をつかまえて立上がらせられると身体中がしびれるように痛んだ。

     事情はよくのみこめなかったが私たちは填められたのだ。
     左右を男たちに抱えられて、店を引きずり出されると私たちはそのまま道路をなん間かへだてた男たちの事務所に連れ込まれてしまった。
     両腕を抱えられたままそこでもう一度、私は顔と腹を殴られた。口が切れ、口中に血の味が拡がり、鼻血がふき出して、両足の間の床にぼたぼたとはねかえつて、ようやく男たちの手は止まった。
     
     椅子に坐らされたタケは動きをおさえられて、左手をテーブルの上にのせられた。血まみれのタケはそれでも一、二度身震いをこころみたが男たちは手なれた屠殺人のように動きを完全に制止していた。
     ああ、そういうことが始まるのだなと私はまるで他人事のように思った。
     しかし私の想像とは違って、男たちが始めたのは小指の第一関節に綿糸のようなものをきりきりと巻きつけることだった。
     しばらくすると小指の先が真黒に変色するのが見えた。
     窓を背に、机に両足をあげて煙草をくゆらしていた男が首をふった。
     あれはペンチだ。
     男の一人がどこからか出したペンチを当て、コクッとひねると指先はたいして血も出さずに簡単に取れた。電線を切るようなものだった。
     戒めをとかれたタケはのろのろと立ちあがるともういいかとくぐもった声できいた。窓側の男が首をふった。
     出口にむかいかけたタケに男がいった。
     そんな小汚ねえ指を置いていかれたってしょうがねえ、持っていけや、いい医者に駆け込めばくっつけてくれるかもしれねえぜ。
     タケは大儀そうにテーブルにもどると右手でテーブルに転がっていた左指先をつまみあげた。そうしてつぶれた目の上にかざしてしばらくみつめるとふいにそれを口にほおりこんだ。
     男たちが気をのまれたのが私にもはっきりとわかった。タケの逆転というべきだろう。
     タケは私の方に目をむけると首をしゃくった。私はおずおずとタケにしたがった。
     おい、跛、おまえもいい気になって、ちょろちょろやっているとそのうち同じ目にあうぞ、その罵声が男たちのせめてもの虚勢だった。
     
     おう、ずいぶん男前になったじゃないか、入口で棚沢がひやかした。
     身体を動かすとまだあちこちがずきずきと痛む。
     どのようにしてタケと別れ、どのように部屋にもどったものだったか。ともかく三日間、私は部屋でふとんをかぶって過した。
     身体も痛んだが心も痛んだ。
     まあ、そのくらいですんでめっけもんだぜ、棚沢のいうこともわかる。
     おまえのおかげで助かった、レポート意外にうけたっていうぜ、これはレポート代とそれにお礼だってよ。
     あれからタケは拳銃を持って引きかえして、男の一人を射殺したあと自首したという。
     本当かと問い質す私に嘘をついてなんになると棚沢はいった。
     それよりな、おまえ伊藤さんの卒論、引きうけてるんだろう、いいかげんになんとかしてやれよ、伊藤さん焦ってたぜ。
     ああ、そんなこともあったなあと私は思った。
     大学三年の秋が過ぎようとしていた。

  • タケⅥ

    半荘四回の約束で私たちのゲームが始まった。
     場が変わっても男はそのままツキを持ち込んで一荘、二荘とらくらくトップを取った。
     私とタケはしのぎにしのいでようやく二着、三着にすべり込んだ。山崎と呼ばれた分厚い眼鏡の男も一人で雀荘に出入りするだけの腕はもっているのだろうが何せ相手がツキすぎている。

     三荘目、南場の三局、オーラス前でタケの親の時にようやくサインが来た。二筒待ち、うまく男をはめろということだ。六筒を切るとタケはリーチをかけた。山崎は無難に現物を切る。私は三筒、とりあえずスジだ。男も現物切り。男はすでにトップを確信しておりベタ死にで降りているという様子だった。
     次のツモ、タケは七筒をツモ切りした。四筒がスジになって切りやすくなった。男もすかさず四筒を切る。これを見て私は男が罠にはまったと確信した。

     タケが南をツモ切りして、山崎は七筒。私の番、私は五筒を通すとリーチをコールした。手のうちはぐずぐずの空リーチだった。
     追いかけリーチと五筒と、さあ仕掛は整った。案の定男は一瞬、考えた。出ろ、出せ、そして切ったのが二筒、一呼吸おいて、ロン、タケがコールした。
     リーチ、一盃口、ドラドラ、バンバン、親満だった。
     タケと男が点棒をやりとりする隙に私は何気ないふりで手牌を崩すと河に投げ込んだ。山崎のおやっという気配を感じたので、しかしあなたはかたいですねぇ、声をかけて気をそらした。
     ひょっとすると、あなたも打ちまわしながら聴牌とってたんじゃないんですか。
     正式のルールではリーチの場合上がれなくても開いて見せて聴牌の確認を受けなければならないことになっている。

     死に打ちはきつい。男のツキもそれで落ちた。
     トップが入れ替わり、勢いづいたタケが連荘して、それを確実にした。
     最後、ザン・キュウで上がって私も何とか浮く。
     四荘目はタケの一人舞台になった。私は目立たぬよう、沈まぬように気を付けて最初から手を造らないことも多かった。
     もう半荘つきあえ、清算をすませながら男が泣いた。
     深みにはまるだけだぜ、言いたかったがよした。
     見事に相手ははまったが、思ったような快感はなかった。

     博奕で勝ち続けるには結局、いかさましかない。一通り、マージャンを覚えた学生が次に考えることはほぼ同じだろう。だから私たちのような二人連れもけっこういたと思う。
     その日、私たちが卓を囲んだのはそんな感じの二人連れだった。意地の張り合いのようなガチンコ勝負で互いに牽制するから勝負は動かない。
     普段、私たちは半荘四回までと決めていた。集中力と注意力は三、四時間が限度だからだ。それを半荘、延長したのは私たちの若さだった。何の得にもならないことは皆がわかっていた。そして結局疲労が倍増しただけで雀荘のおやじが少し儲けた。

     終電車に乗り遅れた客を方向別にまとめて、乗り合わせでタクシーを出すというシステムが成立しているとは知らなかった。さすがは東京だ。単純計算で四分の一、電車よりははるかに高いが一人でタクシーに乗ることを考えるとはるかに安い。
     おかげで、かろうじてアパートに戻ると入り口前に赤い車が停まっていた。
     運転席をのぞくと棚沢が眠っている。かかわるのは大儀だったが、この状況ではやり過ごしたからといってそのまま見逃してくれるはずもない。覚悟を決めて、ガラスを叩くとおうと棚沢は飛び起きた。

     遅いなあ、どこをほっつき歩いていたんだ。俺はずっと待っていたんだぜ。
     朝までに原稿用紙十枚分のレポートを書けと棚沢は言った。
     そんなこと無理だよ、無理に決まっているだろう、今、何時だと思っているんだ。だいたい俺はもう半分、死んでいる、だがそれで済むのなら、こんな時間まで待ってなんかいないだろう。
     頼むよ、頼む、恩に着る、明日、レポートを提出しなかったら出席日数が足りないから卒業できないって、泣いているんだ。
     お前の彼女か。
     いや俺の婚約者だ。
     とりあえず奴の家に行く、私を車に押し込むと棚沢は夜の街を疾走し始めた。
     深夜、さすがの東京もつかの間、眠りの中にある。
     お前最近、タケとつるんでいるのか、ふいに棚沢が聞いてきた。
     私は返事をためらった。
     あいつはよしとけ、お前にさばけるような相手じゃない。

  • タケⅤ

     よし、仕込みはこれぐれえでしめえだ、タケは言うとどこからかジョニ黒のビンを出してきて封を切った。
     前祝いだ、明日からは雀荘に出るぜ。
     たっぷり酒の注がれたグラスを私は感慨深く受け取った。生涯、こんなウイスキィーを口にする機会はあるまいと思っていた。サラリーマンの一ト月分の給料で買えたかどうか。いい酒は喉にもやさしい。

     今後勝手な小細工は一切するな、先ズモ、スリカエ、ツミコミ、ばれちゃただじゃすまねえからな、おれがサインを出した時だけ全力でサポートしてくれ、あとは好きに打ってりゃいいんだ、お前はけっこうやれるはずだぜ。
     ペンだこよりも目立つようになったパイだこがふと目に入った。私はたこが出来やすい体質なのだろうか。
     この子はがんばり屋なんだねえ、こんなにペンだこをこしらえて、そう小学生の私をほめてくれたのは大好きなおばだった。子供のいないおばは私がひいきで私のすることは何だってよいように解釈してくれた。
     今のこんな私を見てもやっぱりおばはほめてくれるものだろうか。

     マージャンが一般化したのは戦後のことだ。それもアメリカ経由のものの影響が強かったから本来の形とはいささか趣を異にする要素が加味された。七対子という役などその最たるものだろう。
     敗戦直後の混乱期にはよく小説などで語られるバイ人だのイカサマ師だのが跋扈したこともあったようだが世間が落ち着くにつれてそのような存在にしだいに淘汰されて、マージャンは大衆の娯楽として定着していった。
     昭和四十年代はマージャンの全盛期といってもいいだろう。さかり場にはマージャン荘が林立した。それ程費用がかからずに開店でき家族だけでも営業が出来る手軽さも雀荘経営が流行した一因であったかもしれない。
     それまで私は四人で入って卓を借りる以外、雀荘に足を踏み入れたことはなかったが、一人で行ってもおやじがメンバーを揃えてくれたりしてけっこう遊ばせてくれるという話は聞いていた。
     東京周辺では千点百円が通常のレートだった。二万七千点持ちの三万点返し、だから箱をかぶると三千円、それに総ウマがつくと最下位ならさらに三千円、別に裏ドラが二百円の一発倍、この程度でも半荘四回もすると二、三万の金は動いた。
     普通の生活者からみればやっぱりちょっと度が過ぎる遊びかもしれない。
     そんななかで私たちは悪さを企んでいた。

     私はタケの指示にしたがって都下のさかり場をあっちこっち訪ねまわるはめになった。一ヶ所で打っているといずれ私たちがグルであることはバレるだろうと思われたからだ。
     私たちは雀荘の出入りも別々にしたし、卓を囲んでも親しい口をきくことはなかった。
     タケからのサインプレイの要求もほとんどなかった。言われなくても状況を考え場を読むと自ずから打つ方向は決まっていた。同じような配慮がタケからも感じられ、その心強さがツキにつながっていたのかもしれない。 
     ビギナーズ・ラックという言葉があるぐらいだからそういうこともあしばしば起こるのだろう。
     私たちは勝ち続けていた。
     
     その日、私が店に入るといきなりその男と目線が合った。正面奥の卓でこちら向きに坐って打っていたが人の気配で反射的に目が動いたのだろう。一瞬に品定めを済ますと目線はすぐに牌に戻った。軽くみられたのがわかったが、それは望むところだ。
     ごめんなさい、少し遊ばさせて下さい、私は誰へともなく頭を下げて仁義を通すとそのまま奥にすすんで男の後側にまわった。
     いきなり肩越しに他人の手牌をのぞくのはかなり無礼な行為といえる。どなられるぐらいですめばめっけもんで、殴られたって文句はいえない。
     私はいちゃもんがつかないよう右左の卓の中間まで距離を取ると男の手牌をのぞきこんだ。旨い下手をいうレベルではなかった。この男はまだ点数計算さえ満足に出来ないようだった。それでも高目狙いの強引な手が面白いように決まる。とにかくツキにツイている様子で他の三人はなすすべもなく、すっかり白けて、終わりを急ぐ様子だった。
     そうこうする間にも、よし、きた、ロン、男は大声で叫ぶとごちゃごちゃ手牌をいじくりまわして、これって、なんだ、三色っていうんじゃなかった、三色なら満願はあるな、なんてやっている。
     いつの間にか、タケも来ていた。

     卓が一段落ついて男はしきりに再戦を誘ったが他の三人はさっさと清算を済ますと離れていった。
     さあ、続けるぞ、誰でもいい、誰かきてくれ、男がまたほえた。
     じゃ、遊んでもらおうかな、タケが最初に手を上げた。
     私も続いて卓についた。
     最後の一人が決まらないのをみて、雀荘のおやじが、おおい山崎さんと客の一人に声をかけた。

  • タケⅣ

     私たちが学生生活を送った昭和四十年代前半、大学はどこでも、騒然としていた。
     安保以後、一時停滞したかにみえた学生運動は細分化しながら盛り返し、内ゲバと称する内紛を繰り返していた。近親憎悪とでもいうのだろうか。その私闘は凄惨を極め、大学内にもしばしば死体が転がった。あの頃はやくざよりも学生の方がより多く殺されていたのではないかと思う。
     連中にはそれなりの理屈があったが真に明日の理想社会の実現に身命を賭す者はいったいどれ程いただろう。
     安逸な日常に退屈した若さが集団を頼りに凶暴化しただけではなかったか。
     私がタケの話に乗ったのも似たような心理だったかもしれない。
     平穏な現実に倦まなければならないのはなんと不幸なことだろう。
     
     私では自分でも驚く程熱心な生徒になった。タケの要求には素直に従ったし、技術の修得にも努力を惜しまなかった。
     たとえばサイコロの目を自在に扱う方法。タケは四六時中サイコロを二つ持ち歩いて、暇があったら転がせと言った。タケはかなりの確率でサイコロの目を操った。チンチロリン、すなわり、ドンブリにサイコロを三つ投げ込んで自由に目を出す男にむしられたことがある。そんなことが可能だと誰が思うだろう。出来ると信じるか、信じられないかの違いなのか、私が結局ものに出来なかった技術の一つだ。

     しっかり仕込んでかかるとタケは言った。
     私たちがやろうとしているのは通しといういかさまだ。四人で争うゲームでそのうちの二人が密かに融通し合えばまずこわいものはない。
     その為にはマージャンの本質を理解し共有する必要がある。
     その牌がなぜその場面で出てくるのか、相手の心理を演繹し、それに添って最良の支援を心がけなければならない。
     私は毎晩のようにタケのところへ押しかけた。
     学ぶことがあまりにも多かった。

     そんな私をタケはもう少し、皮肉な目で見ていたかもしれない。
     確かに私には麗花に会えることも大きな楽しみになっていた。
     私が一方的に言葉をかけるだけで返事が返ってくることはなかったが何かの折、目線が交わればやっぱり心はときめいた。
     すれちがいざまの香水の香り。無言で届けられる一杯の紅茶。
     夜になるといつの間にかいなくなって、タケの言葉を思い出させたが私にはそれが悪い冗談であってくれればと願わずにはいられなかった。

     壁を背にしたタケと入口を背に向けた私、対面に坐ると私たちは二人マージャンをする。
     牌をふせる。洗牌して交互に任意の十三枚を相手に配る。盲牌で配牌を確認すると勝負の開始だ。かたわらに寄せた牌山から盲牌で引き、不要牌を切る。ルールは通常のままだから当然、ポンもチーもリーチもある。早ければ三巡くらいで聴牌になる。しかし打ち込んではならないというのが私たちが付加した条件の一つだからそれからが大変だ。相手の河を読み、時には手を崩しながら組み立て直さなければならない。そして十巡、私たちはそこでとりあえず勝負を打ち切るとそれからは検討にうつる。
     手牌を表にさらして、切り間違いはなかったか、読みと実際は合致していたかどうか。自分の気づかない打ち癖を指摘されることもあった。相手につけこまれるような隙があってはならないのは当然のことだ。

     勝負は勝ち負けがわからねえが博奕は勝つだけの準備をしてかかるもんだ、タケがよく言ったことだ。
     サインは私たちの生命線だから特に時間をかけた。
     目立たず確実に伝わること、タケがボーイスカウトで覚えたという指信号を動きを小さくして左手だけで出せるように改造した。
     それにしてもタケがボーイスカウトだったなんてけっこう笑わせてくれるじゃないか。
     お前は半端なよた言葉を使わずに学生っぽくふるまえ、タケが言った。私がレツだと悟られないこと、それは大事な点だった。
     そんなことをしているうちに一ト月ぐらいはたちまちに過ぎた。

  • タケⅢ

     あんた自分ではうまいと思っているだろう、話の方向を変えてタケが言った。
     まあ、そこそこには打てるんじゃないか、言葉を選びながら私は答えた。
     そうだよな、だけど、今の打ち方じゃ、そこまでだ、それ以上には決してならねえぜ。
     なぜだという言葉を飲み込んで、私は目顔でタケをうながした。
     言ってやってもいいが、聞いてどうする。
     わかる話なら、修正するように努力するよ。
     それじゃ駄目だ、話がわかったら俺の下手にまわれ、俺が本当のマージャンを教えてやる。
     わかったとは私は答えなかったが、タケにはすでに獲物を手繰り寄せた感触があったことだろう。

     自分で見切れる範囲でしか遊ばねえんじゃ、今以上になれるわけがねえってことはお前さんだってわかってるんじゃねえか。何をビビッてるんだ、こっちへ来い、やりゃあやるほどマージャンてのはとことん面白えもんだぜ。
     タケは見るところは見ていた。私にはタケがじれるところが痛い程よくわかった。
     理性が勝つといえば聞えはいいが結局のところ臆病で度胸がないのだ。落ちる機会は今までにだって随分あった。それが出来なかったのは唯、逃げ足が利かないとわかっていたからだ。
     人生そうそう走って逃げなければならない場合があるとも思わないが最初から走れないと決まっているのも切ないものだ。

     どうせ、お前さんには決断がつかねえと思ってな、用意してきたんだ。俺と勝負しよう、言ってタケはジャケットのポケットから牌を四個取り出した。
     ここに二萬と八萬が二個ずつある。よく見ろ、ガンはついてねえぜ。俺はどっちか一方の単騎で待つ。放銃したらお前さんの負けだ。俺の言うことを聞け、私は二萬と八萬を一枚ずつ手にとった。
     タケは残りの二枚をポケットに戻すと、一枚を選び出して卓に伏せた。
     勝負だ。
     私が一瞬、逡巡すると、タケが言った。
     余計なことかもしれねえが、この選択ではおよそ七割が二萬を切る。
     心理学か、私が聞いた。
     いや、統計学だ。
     私は二萬を切った。
     どうしてそれを切った、いきあたりか、タケが言った。
     俺は八萬を切るつもりでいた、だけどあんたの話を聞いたらそういうわけにはいかないだろう。
     タケが牌を起した。二萬だった。
     読めば読むほど、はなに戻るってことだ、これは心理学だぜ。

     次の日の夕方、私は自分の住む町から二つ新宿寄りの駅で電車を降りると電話を入れた。
     待つほどもなくタケが現れた。徒歩五分とはこのぐらいの距離のことだろう。タケに連れていかれたのは駅のすぐ横の大きなマンションだった。最上階のつきあたりの部屋のドアを開けるとタケは振り向いてうながした。
     靴を脱いで一歩、部屋に足を踏み入れて、私は息を飲んだ。
     生きた人形がそこにいた。
     部屋に女がいるなどとは予測もしていなかったし、私の身動きが一瞬止まったのだろう。
     麗花だ、かまわないから、来い、タケが怒鳴った。
     一目見て目をそらし、もう一目みて目をそらした。正視出来ない程に美しかった。白磁で造った西洋人形、そういうものもやっぱり世の中にはあったのだ。
     どうした、惚れたか、抱きたかったら抱かしてやるぜ、二つ目の不意打ちがきた。その言葉を咀嚼するのにもちょっとした時間が必要だった。
     侮辱された怒りが徐徐に吹き上がってきた。
     抱きてえかって、あんたの女じゃないのか、声が震えているのが自分でもわかった。
     俺の女だよ、だけど抱きたかったら抱けるぜ。
     冗談を言うな、俺あ、そんな構われ方は大嫌いなんだ。
     タケは鼻で笑った。
     青臭くとんがるなよ、こいつは俺の女だが抱かれるのがこいつの商売だ。
     どういうことだ。
     だから抱かれるのがこいつの商売だっていうだ、サラリーマンがあくせく働いて一ト月にもらう給料分ぐらいこいつは一晩で軽く稼ぐぜ。
     次いて出る言葉がなかった。私は今、異次元に身を置いてしまったことを悟らされていた。

  • タケⅡ

     その時、雀荘で卓を囲んだその一人がタケだった。
     同級だと紹介されたが顔を見た記憶がない。けげんな気持ちが表情に出たのだろう。
     去年は一級上だったんだ、おととしは二級上か、来年は間違いなく後輩だ、すかさず棚沢が付け足した。
     大学に籍を置いてさえいりゃあ、とりあえず親は納得するからな、俺はぐずぐずいわれねえ時間さえあればそれでいいんだ、タケもそう吐き捨てた。
     こいつ、おとなしくやっていりゃあ、一生金に困ることなんてないのにマージャンに狂ったばかりに勘当寸前なんだ。黒くくすんだねずみのような顔貌からは想像もつかないが大金持ちのおぼっちゃんなのだという。どうしたって表舞台の金持ちの子には見えない。古紙や空ビンを取り仕切る乞食のような老人がそこら辺の公務員など足元にも及ばぬ豪勢な暮しをしていると聞いて目をむいたことがあるがその類なのだろうか。この大学には華僑とか、在日とかその他得体の知れない親を持つ学生が少なくなかった。ひょっとすると私の知らない世界の住人であったりする可能性は充分あった。
     少なくても二つ三つは年上に見えるが松木までもが気安くタケと呼び捨てるのもその辺の事情が絡んでいるのかもしれない。
     私も皆にならってタケさん、タケさんと言っているうちに正式な名前は聞きそびれた。

     私とタケは対面の席を引いた。偶然だが互いがもっとも意識しあう席順だ。
     強いと聞いたから私は当然タケの手元に注目した。圧力は感じさせなかったが手馴れた牌捌きだった。理牌しない打ち手に会うのは久しぶりだった。私も理牌を止めて盲牌だけで手牌の出し入れをし、目は河から動かさなかった。つまらぬ見栄だが久しぶりに自分の実力が評価されると思うと自然に力が入った。
     タケも私にターゲットを絞ったことが感じられた。
     棚沢と松木はノーテンキにビールを浴び、よた話に笑い転げながら牌をいじくっている。

     私は小学生の時からマージャンを仕込まれた。
     母はやっぱりマージャンが好きで仕方なかったのだ。
     大戦時、病院船で幾度も大陸を往復した従軍看護婦だった。尉官待遇というから少なくても二、三十名の部下を掌握していたはずだ。病院船は返りは蜂の巣をつついたような大騒動だが往きは呑気なもので母も軍医たちを相手に四六時中マージャンにほほけていたという。
     当時が母の一番、輝いていた時代だったのだと思う。よく想い出話を聞かされた。
     そういう過去を総て封印して、結婚したのだったがマージャンだけは捨て切れなかった。
     男だったらマージャンぐらい一人前に打てなくては、というのが母の言い分だったが実際には一人でもトイツが欲しかったのだろう。
     私は小学生で大人に混じってマージャンを打った。
     母は華やかなきれいなマージャンを打った。強かった。私はそんな母にほめられるよい弟子だった。
     マージャンの他に母が私に望んだのは読書することだった。本さえ手にしていたら安心しているふうがあった。そして私は性格的にも深くそれらに馴染んだのだ。
     文章はしょせん語彙がすべてだ。眼から血を流す程の読書を続ければ多少の文章など誰にだって書ける。私は作文でもちょっとしたコンクール荒しだった。
     母はいったい私にどんな人生を想定したのだろう。ひょっとすると私が障害児になった途端、期待の上半分はあっさりと吹き飛んだのかもしれない。
     マージャンと読書、私は今、母から手渡されたわずかな資本を元手に一人歩きの二歩三歩を始めたところだった。
     よくやっているとほめられてもいいようなものだ。

     半荘四回、四時間あまりがまたたく間に過ぎた。
     結果は私がトップで棚沢が二着、タケがしょぼしょぼの三番手で松木の一人負けだった。
     清算を済ませて、外に出ると辺りはもう暗かった。
     飯でも食うか、勝ち逃げがいやで私が誘った。
     気にするな、じゃあな、棚沢と松木は片手をあげると離れていった。そろそろ別の遊びが始まる時間帯なのだろう。午後六時を過ぎていた。
     俺も今日は行くけど、今度一度つき合え、あとに残ったタケが言った。
     いいよ、半分はその場限りの愛想のつもりで答えたのだが、じゃ連絡先を教えろとタケはけっこうしつこかった。
     私もタケに見込まれたのだ。

  • 贋自分伝(おおよそ事実 だがすべてをそうとられても困るという意味で)より タケⅠ

     お前さんの擦れてないわけでもないくせに妙にうぶっぽく見えるところがいいんだよな、どうだい、しばらく俺と組んでやってみないか、タケは銜え煙草の煙に顔をしかめながら片手でビールを私のグラスに注ぎ足すとそう言った。
     私は軽く頭を下げてビールを受けた。話の要領がよく飲み込めていなかった。おごるからちょっと出て来いと誘われて、深く考えもせずに出てきたまでだ。
     しかしけっこう打つよな、昨日今日覚えたマージャンじゃないだろう。
     開店間もない居酒屋には客はおらず、店員たちもまだ仕込みに余念がなかった。奥のボックスに壁を背にして座ったタケはせわしげにグラスを空けるとビールの追加を店員に言いつけてから、どうだと念を押した。
     どうだと言われてももう少し具体的な話をしてもらわないことにはどうとも答えようがないのが私の正直な気持ちだった。だいたいタケとはついこの間、初めて顔を合わせたばかりだ。友人と呼ぶのさえはばかられる。
     しかし、その存在に関心を持たされてしまったことには違いなかった。

     三日前のことだ。
     午後の講義が突然休講になって、しようこともなく食堂で煙草をふかしていたら、同級の棚沢に声をかけられた。
     トイツが足りなくて探していたところだという。意識したわけではなかったがそういう展開を心持ちにするところがあった自分を否定することは出来ない。マージャンは好きだし、かなり率のいい収入源になっている。

     棚沢とは一年の時、レポートを代筆してやったことで親しくなった。何の苦労もしないで育つとこんな大人が出来るのかもしれない。態度がでかくて人当たりがよいという矛盾した要素を大きな図体に違和感なく同居させていた。大学を自分の庭ぐらいに思っているのは付属高校から上がってきた奴らの思い上がりだが、それでも誰彼の別なくやたらに突っかかったりしないところはやっぱり育ちのよさなのだろうか。赤い外国製のスポーツカーを乗り回す姿を構内でもよくみかけた。
     どうしようととりまき連中を相手に大騒ぎする声を小耳にはさんだから、書いてやろうかと買って出たが原稿用紙五枚ぐらいのレポートにそれ程恩を着せるつもりはなかった。しかし棚沢はどういうわけか、いたく感動して、とっておいてくれと万札を押しつけると以来、私を友人扱いするようになった。

     けっこうマージャンが打てるとわかってからはちょくちょく仲間内の遊びに誘われるようになったが私に小遣い銭を稼がせる魂胆もあってのことだったろう。彼らから見れば私は目を覆いたくなるような貧乏学生に違いなかった。
     たまにまるで畑の違う分野のレポートを書かされるのにはまいったが、それだってアルバイトと割り切れば悪い話ではなかった。
     図書館で資料を当って幼児の感情表現とその対応についてなんて保育論めいたものを仕上げたりした。どうせ今ちょっかいを出している短大部の女の子に安請け合いをしたのだろうが、それにはどんな点数がついたものか。文句を言われたことはないからとりあえず及第は出来たはずだ。

     それで他のメンバーは、すでに付き合うつもりになっていたが一応聞いた。
     一級下の松木、お前も何度か打っているから知っているだろう。
     私は棚沢の子分みたいにつきまとう松木ののぺらっとした顔を思い浮かべた。そいつも大学をマージャンのトイツか女をあさるところとでも心得ているような奴だったが、いくら負けても機嫌よく金を出すので相手としては異存がない。
     もう一人は初対面だな、俺の古いつれだがちょっと変わっている、雀師になるってほざいて、ここ二、三年はマージャンのことしか考えてねえんじゃないか、打つぜ、だけど、まあ、お前となら五分かな。