カテゴリー: ⑥片山一の文章

  • なさけない

     テレビから目が離せない事情もあった。背後にあるはずのごみ箱めがけて、前をみたまま丸めたティッシュを肩ごしにぽいと放った。
     するとどうしたあんばいか思いもかけず、その一投が見事に決まってしまったのだ。
     ふむ、これが百発百中で出来るとしたら、ちょっとした芸だななんて考えたわけではない。しかし、その快感が忘れられず、わざわざごみ箱からティッシュを拾い出して挑戦している。
     あれをビギナーズラックとでも言うのだろうか。今度はそうやすやすと入らない。
     再度ごみ箱の回りに散らばったティッシュを集めて前を向こうとした瞬間、ふと気配を感じて台所の方に目をやると女房が声をころして笑い転げていた。
     まずい、最初から見られていたとするとこれは相当にまずい。
     われに返ると自分でもばかなことをやっていたと思わないわけではないから、すごすごとティッシュをごみ箱に戻して、テレビを見ている格好は作ったが女房からの一言を身構えて待つ。
     案の定、お父さん、ときた。
     お父さん、そこまでしたら、せめてもう一度、決めるまでは続けなきゃ! なんと小憎ったらしいいいぐさだろう。
     私は屈辱にふるえながらじっと耐えるしかないのだった。

    (北海道新聞 朝の食卓 2010年7月27日掲載)

  • オートバイ

     親父のオートバイはたしかメグロといったと思う。
     あれで250ccもあったのだろうか。
     古い、鉄の塊のような重く頑丈な造りだった。
     中古で手に入れた親父はピカピカに磨き上げ大事に大事に乗っていた。
     そのオートバイを夜中に引きずり出して乗り回す楽しみを覚えたのはいくつの頃だったろう。
     一人では扱いきれなかったから弟を抱きこみ親の寝入るのを待って、よく無人の国道をぶっとばしたものだ—といえば恰好がいいのだが扱い方が悪いのか、機械そのものに問題があったのか、エンジンはしばしば咳込み、停止して私たちはそれを再始動させるのに乗り回すよりもはるかに多くの時間を費やさなくてはならなかった。
     点火プラグを外し、カーボンを拭取るなど、よくやったものだ。

     駆っていないと倒れるところがオートバイ好きにはたまらないらしい。
     風との一体感がいいと気障なことをいう奴もいる。
     私は4輪が安心だと思うし、できれば風や雨から身を守ってもらえる方がありがたい。
     年を取っても卒業できないでいるオートバイマニアはたいてい常軌を逸している。
     古びたオートバイを見せられてこれはすごいんだぜというから、よく見るとB・M・Wのマークが付いていた。
     おゝドイツ製かとつい相手に迎合するような言辞を発したのがまずかった。
     そうとも、しかもこれはシャフト・ドライブだ、待ってましたとばかり、一時間もオートバイの薀蓄を聞かされる羽目になった。
     ハーレー・ダビットソンなどあんなもの外道だといわれれば、そうかと思うし、あれこそ究極のバイクだと聞けば、それもそうかと思う。
     私のオートバイに対する関心は所詮そんなものだ。
     
     人の運・不運はどんな都合で決められていくのだろう。
     霧だったか靄だったか、一寸先も見えないような夜更けの国道を突っ走っていて、カーブを曲がりきれず私たちはオートバイごと路肩に放り出されたことがある。
     しばらくは息も出来なかったが、立ち上がるとこれといった怪我はなかった。
     兄さんといって駆け寄ってきた弟にも別に異常はなく顔を見合わせて、大笑いして、事はすんだが一つ間違ったらと思うとさすがにぞっとする。
     私が死んでもおかしくはない状況だし弟を殺しても心の傷は一生つきまとったことだろう。
     オートバイを壊したことでこっぴどくしかられたのは、今ではなつかしい思い出だ。

  • 酒はそこそこ…

     酒はずいぶん飲んできたが本当に好きだったのかどうか、最近ちょっと疑問に思うことがある。
     どうも酒が好きなのではなくて、ただ酔って、少し軽くなった頭と口でだらだらととりとめもない会話を続けるのが楽しくて飲んできたのが真実ではないのだろうか。
     いまさらながらそんな気がする。
     元来、一人で飲むことはなかった。一人で飲み屋に入ったためしはないし、厭な気分のとき眠れない夜など、酒の力を借りようとしないわけではなかったがまったくはかがいかなくて往生したものだ。
     酒は強い方ではないという自覚は早くからあったが、それでも若い頃にはまわりに気を使い、場を盛り上げようと焦るあまり一人先走って悪酔いしたりしていた。
     
     寝て起きるともう前の夜のことはころりと忘れてしまう人がいる。あれは芸なのかと疑ってもみたがどうも嘘でもないらしい。なんともうらやましいかぎりだ。
     いかに深酒しようとそこで繰り広げた醜態はしっかり記憶に残ってしまうから翌朝は身体もつらいが精神的にも相当きつい。
     頭をかゝえて蒲団の中で悶々ともう酒は止めたと幾度思ったことだろう。
     それでもすぐに性懲りもなく飲みだすのだからやっぱり好きなのだと下戸には笑われそうだ。
     別に好きだと認めたところで構わないようなものだが、本心を吐露すればやっぱり少し違う。
     気分よく酔って会話の妙を楽しみたい、それだけで酒に主眼があるわけではない。
     落語の仕方咄ではないが、実にうまそうに酒を飲む人がいる。あんな飲み方をするのが、真の酒飲みだ。
     残念ながら私にはついにそんな真似は出来なかった。
     そこら辺の不徹底がよくも悪くも私の酒なのだろう。

     夏、私の工房がある山の中では誰に憚ることもなく気の合った仲間を呼び集めて、昼なかから酒が飲める。
     炭を起して、肉を焼き、酔うでもなく醒めるでもなく馬鹿っ話に大笑いしながら日を過す。
     それが楽しい。その為に日頃、働いているのだと思う。
     なろうことならこれから先も、それぐらいの酒は飲めるよう身体でありたいものだ。

  •  弟を背負った母は私の手を引いてその坂を上った。私はなえた右足を庇いながら引きずられていく。
     もっと右足を使えと母がしかる。
     下りは楽だが下れば上りが待っている。
     そうして日に幾度上り下りをくりかえしたことだろう。
     看護師だった母には機能回復訓練の知識はあったろうがまだ小学生にもならぬ子供にその意味は理解できなかった。
     ただ母の必死の思いが伝わるから私も黙々と従っていた。
     不具になったことで親を恨んだことはないがその坂はしばしば夢に出た。それはけして気持ちのいい夢ではない。
     数十年ぶりに女房、子供を連れてその坂を訪ねて、私は思わず笑ってしまった。
     それは本当にちっぽけな坂だった。こんな坂になんで私はこだわってきたのだろう。
     のどが渇いたと息子がいった。
     坂の上の店でラムネを買い、したり顔で栓を抜いてみせ、私もびんを口にあてた。
     するとどうしたわけか、突然、涙がふき出してきて私は家族の手前、あわてて背を向けるとあくびでもするふりをして、空をあおいだ。
     母さん、それで母さんはやっぱり不幸だったのかい…。
     まっ青な空には白い雲が一つ静かに流れていた。

    (北海道新聞 朝の食卓 2010年6月19日掲載)

  • くすぶり

     女を抱かせてとたしかに男は言ったのだった。
     酒を飲ませて、女を抱かせてようやく聞き出した話だ、間違いない。
     10才の牝馬の引退レースだ、花を持たせようとみんなで握っている、間違いない。
     それで50万貸せと男は言った。
     旭川で挽えい競馬がさかんだったころの話だ。
     私は小さな会社の責任者で多少の金は自由になったが土曜の午前中ではどうにもならない。
     20万円をなんとか工面して俺にも乗せろととりあえず10万円を相手に渡した。
     第10レース、8番、単勝、私たちはちょっとおそい昼食をラーメンをすゝってすますと口笛でも吹きたい気持で時を待った。
     第8レース、第9レース、勝った負けたと大騒ぎする奴らが馬鹿にみえてしかたがなかった。
     しかし第10レース、その馬は第2障害を最後まで越えられなかった。
     私のくすぶりはそこから始まった。

     ツキとはいったいなんなのだろう。
     運だのツキだのとそんなことを私は口にする程、信じてはいなかった。ただ人間関係に角をたてないための韜晦じゃないか。
     それがツキに見放されるとはこういうことかと思い知らされるような事態が招来した。
     賭け事はいうに及ばず仕事家庭すべてが裏目、裏目にまわる。
     もう一つへたをすれば女房に離縁を切り出されてもおかしくない状況だった。

     長い長いくすぶりが続いて、6ヵ月後、俺の女がな、費用は持つ、皆んなでぱっとやりたいと騒ぐんだと男の誘いがあった。
     当然、私たちは一も二もなく話に乗った。
     その女、小料理店の女主人が店をしまうまで私たちは奥の座敷で待つことになる。
     
     とりあえずマージャンでもしていよう、暇潰しで嘘のような低いレートで始めたマージャンでいきなり私は国士無双をつもあがりした。
     それからはゴト師がどんなうまい積み込みをしてもこうはうまくいくまいというような手が次々ときた。
     お前、何かやってるんじゃないだろうな、しまいにはそんな声がかヽった。
     こいつにそんな腕があるか、もう1人が嘲うとこんなレートでなきゃ勝てねえんだから、好きにやらしておけと残りの1人も言った。

     そろそろいいわよ、女主人が声をはずませたとき、実は私は九蓮宝燈をてんぱっていた。
     おう、これでしまいだ、言った男が切った牌が当りだった。
     ロンといいかけて私は息をのんだ。
     冗談のような勝負だとしてもこれで上がると生命を失うといわれる程の大役だ。
     私に上がりを躊躇させるものがあった。
     私が運命の神秘を信じた瞬間だったかもしれない。
     とりあえずそれで憑物でも落ちたように私のツキのなさは消滅した。

     あれでもし九蓮宝燈を上がっていたらどんなことになっていたのだろう。
     俺はあのツキをまだ手の内に残しているのだと時々思う。
     人生、まだ勝負が終ったわけではない。

  • 妄想片

     疲れているのだろう。
     このごろ“蒸発”に奇妙な魅力を感じている。
     ある日、突然、直面する現実を拒絶する。一切を棄てて身を隠す。
     死ねばそれまでだが死ねないところがいかにも人間臭くていい。
     この言葉に本来は無関係な失踪の意味が付加されたのはいつごろのことだったか。
     たしか一時はブームのような現象が起って、あっちこっちで蒸発さわぎが頻発した。
     実際には出来るはずもないのだがしたらどんなことになるか、現実がうっとうしいとしばし勝手な妄想にふけったりする。

     蒸発の所作、正しい蒸発などあるはずもないのだがそれでも綿密に計画を立て、次の落着きも用意の上ではどうも本来の趣旨とは違うような気がする。
     ある日、ふと思いたつ。積年の我慢がぷつんと音をたてて切れる。
     自己同一、俺の心で思うことと俺の身体がのぞむことをもう一度いっしょにしてやろう。
     所持する金も現在地を離れるために必要な切符を購入したら残るのは小銭ばかり。
     その夜は見知らぬ町の食堂でラーメンでもすゝって空腹を満たすとしても翌日からはさっそく浮浪者の生活が待っているのだ。

     今ならまだ引き返せるかもしれない。
     多少の後悔と未練を引きずりながら暖簾を押し分けて入ると閉店まぎわだったのか客もいない。
     カウンターの隅で煙草をふかしていた女主人がものといだけな視線をなげる。
     ラーメン、麺は少し硬めにしてくれ、私はぶっきらぼうに注文をすませるとしょうこともなく棚の上のテレビに目をこらす。
     すでに火を落していたのか意外に時間がかゝってようやくラーメンが運ばれてくる。
     最後の一仕事をおえて気が楽になったのだろう、お客さん、遠いところから来たみたいだけど、それにしちゃあ、出張にも観光にも見えないねぇ、女主人が無駄口をたたく。
     ほう、どういう推理か聞きたいな、私もどんぶりにコショウをふりかけながら軽くうけこたえる。

     このあたりからは妄想の妄想たる所以なのだが話はとんとんとはずみ、しまいには泊るあてがないんなら泊っていくかい、娘が出ていって、ちょうど部屋が空いているんだ、なんてことまでに発展していく。
     気がつくと私はそのラーメン屋のひもというか居候に収まっていて濡縁で足の爪を切りながらそろそろ見切りをつけなきゃなあなどと考えている。

     千に三つはそんな話もないわけではないだろうと思ってはみてもやはり蒸発の先にはホームレスの生活が待っているものと覚悟してかゝらなくてはならないだろう。
     ホームレス入門などというマニュアル本もおそらく出ているにはちがいないが見たことはないので手さぐりで始めることになる。

     ダンボール箱を集めて小屋を作る。ふと少年時代の冒険の思い出が心をよぎるかもしれない。
     近ごろの公衆便所は清潔だし、お湯も出たりするから入浴できないこともさほど苦痛には感じないですむだろうか。
     一番の難儀は食いもののことだ。
     多少なりとも収入があれば残飯を漁らなくてもすむはずだ。
     学生時代、くすねたコーラのびんを金にかえて飯を食ったことがあったが空カンひろいはそれ程の金にはならないのだろうか。

     とりあえず夏はいい。思いのほか快適な日々が過せるかもしれない。
     満天の星を見上げて、人生の意味を悟る瞬間に出会うこともあるはずだ。

     しかし。
     しかし、冬は寒いだろう。病気をしたって誰がかまってくれるわけでもない。
     イソップ物語のキリギリスのように無様に足を引きずって行くのだろうか。
     野たれ死。野たれ死ぬ決心と死にきれる幸運にめぐまれる自信がなければやはり妄想は妄想にとどめておくのが無難かもしれない。
     明日の仕事を考えればおのずから妄想も蒸発していく。

  • 叱られて

     私には二つ違いの弟がいた。
     仲のよい兄弟だった。
     そのころ、父親はまだ充分におそろしい存在だったが、しかし、男の子にはいたずらが仕事のような時期もある。
     怒鳴られ、殴られしながら性懲りもなく、二人して悪さを繰り返していた。
     あれはなにをやって叱られたのだろう。
     女房にもよく指摘されることだが、私には子供のころから妙に強情なところがあって、おかしなところで突張るから、それで事態を悪化させたのかもしれない。
     それでも晩飯をとりあげられ、外にたたき出されるとなるとさすがにこたえる。
     あてもなく家のまわりをさまよいながら見るともなく見上げた夜の空、あの満点の星を私は今も忘れない。
     大空にちらばった星たちがやがて一つの糸でつながっていき、ある姿を形づくるさまを私たちは魔法にでもかけられたような気持で見つめていた。
     北斗七星がゆっくりと柄杓の形に集約されていき、おどろく程の近さにせまっていた。
     私たちはしっかりと手をにぎりあいながら見上げていた。つらかったがそうしていると泣かずにすんだ。
     私たちは世界にたった二人の兄弟だった。
     その弟は40才で死ぬ、もう20年も前の話だ。
     この頃はようやくそれ程も思い出さずにすむのだがたまに息子の後姿に弟を見る。

    (北海道新聞 朝の食卓 2010年5月掲載)

  • 女友達

     そんなことがなかったおかげでいまだにいい関係が続いている女友達がいる。
    家が近かったから、子供のころにも一度ならず遊んだはずだが、中学で初めて同じクラスになって、いつの間にか姉弟のように親しんでいた。
    私のどこかに母性本能をくすぐるものがあったのだろう、彼女を紹介してくれたり、なにかと世話をやかせたものだ。
    そのくせ、どうも私は恋愛の対象にはならなかったようで、そこらあたりの機微を理解するのはむずかしい。
    当然、女房とも旧知の仲で家に来ると私をさておいて、二人、更年期の話なんかに熱中している。
    この辺の芸も男にはなかなか出来ないところで妙に感心させられる。
     数年、しゅうと、しゅうとめの介護で大変だったらしいが、ようやく開放されたとかで、先日、酒を呑む機会があった。
    ほろっと酔って、そう言えばおれたち、近所だったのに一度もお医者さんごっこなんてしなかったな、ちらりと大人げない言辞を披瀝すると、なにそのうちに寝たっきりになったら一度ぐらいはおむつを替えにいってあげるからとかるくいなされた。
     男、63歳いまだにこれだもの、女房、子供にだってばかにされてもしかたがないなとほぞをかむ。

    (2010年3月19日 北海道新聞「朝の食卓」掲載)

  • 自己啓発ごっこ

     自己啓発のワークショップなどでよくやらされるゲームのようなものの一つにきめられた時間内に自分のやれることをできるだけ沢山、書き出すというのがある。
     やれることならなんでもいい。
     立てる、歩ける、カーテンが引ける、電燈のスイッチがひねれる・・・そうやってあげていくと自分でもおどろく程、多くのことをあたりまえにやっている。
     人間はけっこうすごい。
     主宰者もこころえたものでころあいをみて、あなたたちにはこんなにも色々なことをやる力があるんですよなどともちあげてみせる。
     落込みかげんの人にはたしかにちょっとした立直りのきっかけにはなるかもしれない。
     私は本来ならこの手のセミナーには、まゆにつばをつけて敬遠する方なのだが関係していたボランティアの都合で幾度となく体験する機会があった。まあしかし、ふりかえってみて、無駄なことを学んだとも思わない。

     深夜、それを一人でやってみることがある。
     本を読みあきた時、日中の不快がおりのようにとどこおっている時、ちょっとうつ気味の時、もちろん多少自分の都合にあわせてルールは変更している。
     たとえば、人より自分の方がうまくやれると思うことといったふうにだ。
     ロクロが引ける、釉薬掛け、窯がたける・・・これは職業だから当然だろうが、そのほかにもいろいろある。
     整理整頓なら女房よりうまい、子そだてはその道の専門家よりもうまくやったといったぐわいだ。
     ことここにいたると本当にそうかと多少客観的な吟味も必要になる。と言っても自分でやることだからわきは甘い。
     そんなことをくりかえしていると自信が回復してくる。
     最後の仕上げに寝酒を一杯、それで次の日はきわめて壮快。
     子供だましと笑うことなかれ、これ、意外とききます。
     ただし真剣にとりくむことがこつ。

  • 厨房の誘惑

     学生のころはアパートに住んだから、当然、炊事、洗濯、掃除、なんでもやった。
     親は“男子…”と考えていたかどうか、とりあえず家で強いられることはなかった。見よう、見真似といっても特に関心があったわけではないから意識的に観察したこともない。
     貧すれば鈍す、必要にせまられてやったにすぎない。
     洗濯はちょっと油断するとたちまち溜る。
     替が底をついて使用済の中からましなものを探し出すこともやったけれど平均的な学生からみるとかなり几帳面にこなした方ではないか。
     看護婦だった母のすりこみで床や壁はクレゾール液で拭かなければ気がすまなかったし、庖丁拵きなど、ガールフレンドが溜息をついて見惚れたものだ。
     小器用だったのだろう。器用貧乏なんて私の為にある言葉だったかと思わないでもない。
     主夫という発想が当時あればあるいはそれが私に一番ふさわしい職業だったかもしれない。
     だから結婚したてのころは女房のやること、なすこと心もとなくてしかたなかった。
     他人のすることにはいちいち口をはさまない常識があったおかげで思いとどまったが女房がピーマンの種を抜かないできざみ始めたときにはさすがに唖然としたものだ。
     しかし歳月は人を変える。
     女房の手料理は今、どこのどんな喰い物より私の口に好ましいし、家事全般、とりたてて文句もない。
     私はといえば掃除機、洗濯機の操作もおぼつかなく、下着がどこにしまわれているのかさえ認知しない。
     このあいだなど女房の留守にやってきた集金人に印や小銭がみつからず出直しをおねがいする仕儀にいたった。
     まさに禁治産者にちかい。
     それでも果物の皮むきは依然、私の仕事だ。
     かって寿司職人と競ったかつらむきの技術はけして錆てはいない。
     料理を作って、自分の器で人を供応できたら、どれ程楽しいことだろう。
     暇があればと思う。
     家督を息子に譲ったあとは若い妾と別宅でというのは江戸時代の夢でそんなおそれ多いことはつゆとも考えないがそのうち料理には手を出してみたい。
     男の手料理など文化教室の案内にはつと食指が動く。

  • 尻の下

     尻に敷かれたふりをして遣り過ごせば家の中は万事、丸く納まる、結婚したてのころ、天啓のようにそう悟った。
     事実そうだった。
     入学のお祝いはいくら包む、香典はいくら、女房には女房の思わくもあるのだろう。まあ女房の思わくの通りでいい。
     子供の習い事、塾、どうぞ好きなようにやってくれ。
     任せっきりの知らんぷりでは時に逆鱗に触れる恐れがあるからとりあえずいっしょに考えるふうは装おうがけして主張はしない。
     大人の知恵とはこんなものではないのだろうかと思っていた。
     家に問題がなければ多少外で遊ぶ余裕だって出来る。
     そうやって私はけっこう上手にやってきたつもりでいた。
     だがある時、私は思い知る。
     ふりであったはずがいつか本当に尻に敷かれていた。
     今日、女房は上手に私を立てるふりをする。
     お父さん、お父さん、人前ではそれこそどんな名女優だって顔負けの演技をみせる。
     しかし、それに騙されて、いい気になると家に帰ってからひどい目に会わされるのがおちだ。
     今更どうしようもないから私は年老いた飼い犬のごとく、見えない鎖に引きずられて、女房の後ろに従がっていく。
     唯一つ心配なのは、それで飼い主が先に逝ったら、俺の餌は誰が按排してくれるのかということだけだ。

  • 大工の話

     子供の頃、近所で家の新築工事が始まると、私はもう忙しくて大変だった。
     学校から帰ると、なにをさておいても現場に駆けつけた。
     あたりには今までになかった活気が満ちている。
     香わしい木材の匂い。

     棟が今、上がるところだ。
     男が二人、左右から柱を担ぎ、もう一人が掛矢を打ち下ろす。
     掛声が響き、柄がくい込む音がきしみ、私はなにか酔ったような舞い上がった気分に浸る。

     大工仕事のどこがそれ程魅力的だったのだろう。
     まさか将来、自分がそんな職人の世界の片隅に身を置くとは想像もしていなかったがいくら見ていても飽きなかった。

     黒い腹掛けに向う鉢巻の棟梁が両手に唾をくれるとやおら片足を角材にかけ、鋸を引き始める。
     電動工具などまだない時代だったがそんなものがある必要もなかった。
     一引き、一引き、小気味よいテンポで鋸は確実に木を切り分けていく。
     傍では溝をほる鑿の音、釘を打つ金槌の音。
     私は鉋くずを鼻に押し当てて、木の香りを胸一杯吸い込んだり、切り棄てられた端材を貰い受けたり、それはもう幸せの絶頂だった。

     私は祖父に会うことはなかったが腕のいい大工だったと聞く。
     父も辛抱していたらきっといい大工に仕上がったことだろう。詳しいいきさつは知らないが半端で家を飛び出している。それでも戦後のどさくさのときには一軒、二軒、一人で家を建てたというから昔の徒弟制度というのはたいしたものだ。うらやましいぐらいの大工道具を一揃、後生大事にかゝえていた。
     いつか親と和解しようというような心づもりでもあったのだろうか。

     大工、諸職を統べるという、私は身体の都合で思いも及ばなかったがそうでなければ案外むいた職業だったのではないか。
     血とはおそろしいものだ。
     時間の余裕が出来たら息子をかたらって、ログ・ハウスでも自力で建ててみたいとけっこう真剣に考えている。

  • そんなこと

     最近は地球温暖化を実感させられるがついこの間まではここらあたりはよく冷えた。
     なんといっても明治35年(1902)、1月25日に氷点下41.0℃という日本観測史上の最低気温を記録している土地だ。
     ちなみにこの日、青森では八甲田山を雪中行軍中の陸軍第8師団第5連隊の210名が遭難、実に199名の死亡者を出す大惨事があった。
     全国、いたるところで異常低温を記録しているから大寒波が列島を襲ったにちがいないがそれにしてもこの気温はすごい。
     南極、昭和基地の-45.3℃にはさすがに一歩ゆずるとしても、富士山頂の-38℃はかるく上回っている。
     上川盆地の中心、その旭川から20キロ程山裾のわが鷹栖町ではさらに5℃は低くなるだろうというのが通説だ。
     引越しの当初は味噌、醤油も凍る、朝には掻巻の襟さえ凍ることがあるなどと威された。たしかにそんな話を昔話のように聞いた記憶があった。
     しかし、その時代から住居は飛躍的に改善されている。まさか今どきと私は半信半疑だった。
     どうも新参者をからかう気配がある。
     それでもそんな折、つけたしのようにされた凍裂の話はいまだに耳に残っている。
     樹液が凍結して立木が裂ける凍裂は-25℃を越えると起こるらしいがそれもしばしばあったという。
     妙に乾いたやるせない音が闇夜に響く、あれはいやなものだと古老の一人は目をつぶった。

     焼きもの屋はけっこう気温には神経質だ。
     粘土を凍らせると大騒ぎになる。
     データを取ろうと外に出していた寒暖計が破裂したのは最初の正月を過してしばらくしてからだ。
     -20℃までの表示だったから判断も甘かったのだが、それにしても破裂までにはさらにずいぶんと温度は下がっていたことだろう。
     たしかにここの気温は侮れないなと気を引き締めた記憶がある。
     その頃、私は夕食後も工場に出て、深夜1時、2時まで働いていた。
     引越しに際してした初めての借金が気になってしかたがなかった。
     若くて無理がきいたし、予定を前だおしして返済を早めるのも楽しかった。
     運、不運に関わりなく、そもそも大物になる資質には欠けていたらしい。

     その夜、一仕事を終えて、工場を出ると奇妙な違和感にふと立ち止まった。
     空気が層をなしてたゆたっていた。
     一瞬、気のせいかと目を疑ったがたしかに空気は薄いレースのカーテンでもたらしたようにかすかに揺らいでいる。
     そうして、私はいつの間にか、そのやわらかいカーテンに包み込まれていた。
     鼓膜が抜けたように無音で、寒さも感じられなかった。
     思わず声が出た。するとその無意味な音声は四方八方に反響しあうのだった。
     私は興に乗って再び言葉を発した。谺は拡散し集中する。増殖しながら共鳴しているのだった。
     幻想の世界が現実にある。私は少なからず錯乱したが落着くにしたがって一つの推測ができあがった。
     気温がある条件下で下がっていき、限界点を越えると大気中に水分が凍結したまま浮遊してこのような現象になるのではないだろうか。
     私は女房を起こすと外に連れ出して、この神秘的な体験を共有した。
     この土地に移り住んですでに30年になるが、以来、再びこの現象にはめぐりあわない。
     風のないよく冷える夜には外に出て声を出してみることがある。
     ひょっとするととそのたびに思うのだが、言葉はむなしく暗闇にすいこまれていくばかりだ。
     あれはなんだったのだろう。
     すごく大切なものをそれと気づかずにやりすごしてしまったような無念さが残る。

  • 電話

     年に一度か二度、ごくたまに朝6時を過ぎるのを待ちかねたように電話が鳴ることがある。
     はずかしながら私たちはまだふとんの中で目覚めきらぬ頭につきささるような電話のベルに辟易しながらあゝまた部落のどこかの家で不幸があったなと考えている。
     女房が起き出して受話器を取る。対応に聞き耳を立てながら間違いがなかったことを確認する。
     これで丸一日半は拘束される。予定を思い浮かべて身体を空ける算段をつけ、身支度を急ぐ。7時にも葬儀の打合せが始まるからだ。遅れたらまた何を言われるかわからない。
     それにしても、一日、24時間あるのにどうしていつも早朝なのか、そこらへん、わかりかねるところもあるがとにかくそんな時にはきまって、朝、6時すぎだ。
     引越した当初は面食らいもし、腹も立った。
     以前、真夜中に無言電話がかゝることが続いた。
     私は身に覚えのない疑いを女房にかけられて、無実の証明に四苦八苦させられたが、それはさておき、時間外の電話は特別なことであり特別なこととは身内になにか異変があった場合しか考えられなかった。
     時間外の電話は精神衛生にもきわめて悪い。
     夏場の農家なら、すでに一仕事を終えた時間かもしれないが夜の遅い私たちにとっては、朝の来るのはもう少し先になる。
     農家とは生活のリズムが違う。表立って文句を言う程の元気はないが、かんべんしてくれよといいたい気持だ。
     しかし少し時間をおくと客観的にものをみる余裕もでてくる。
     ひょっとすると農家どうしでは平気で朝の3時、4時に電話がとびかっていたりするのではないか。
     あそこは夜がおそいからと連絡担当はいらいらしながら6時を過ぎるのを時計をにらみながら待ってたりするのかもしれない。
     そんなふうに考えれば相手に対してもいくらか柔軟な対応ができるというものだ。若い頃はとんがる一方だったが年の功か、自身を韜晦する術を身につけつつある。
     結局、それが身の為だ。
     袖ふれあうも他生の縁などと思いながら顔を洗う。
     朝ごはんどうすると台所で女房が叫ぶ。
     それにしても電話のベルをあゝいう音に設定した人は天才だと思う。
     へたな目覚まし時計よりよほど神経を覚醒させる。
     無視したところでなに程の不都合があるとも思えないのに結局、受話器を取らされる、あの仕掛け。
     考えると電話はけっこうこわい。

  • 読む

     年度ごとのベスト・エッセイ集が文芸春秋社から発売されている。
     80年台の初めから始まって、かれこれ30年、30冊あまりの本が出ていることになるのだろうか。
     一般公募もしているらしいが、ともかく審査委員が選定した五・六十篇のエッセイが一年分、一冊に納められている。
     出来がいいことだけを基準に集められたものだから、当然統一されたテーマなどはない。文章の長短もさまざま、文体もさまざま、執筆者も素人、玄人、有名、無名、実にさまざまだ。雑駁といえばこれ程の雑駁もないだろう。とりとめのないことおびただしい。
     今までならおそらく手にとることもないような本で、実際、まめに書店がよいをしながら、こんな本があることは知らなかった。
     自分でも思うが、私はかなり狭視野に限定的な読書をしてきた。それだって一生かゝっても到底、読みきれないだけの本はある。
     エッセイもよく読むが好きな作家のものとか特別に関心のある人物に限ってきた。たまたま文章を書こうなどと発心したおかげで読んでみようと思うようになったまでだ。
     エッセイなど片手間に書けると思い違いする者が玄人の中にもいるようだがどうしてどうして、これ程、出来、不出来のはっきりするものもないと思う。埋草とはいったものだが雑誌などには読むに耐えないようなものもけっこう並ぶ。
     世のみとめる文章とはどんなものか虚心に接してみるつもりだった。
     好きだ、嫌いだと我を張るのではなしにできるだけ客観的な立場で読もう。
     よい文章に数多く当るという、王道中の王道をいくわけで、その為にもまさに格好のテキストだ。
     ここ5年分ぐらいは文庫化されて、書店にも並んでいた。さかのぼって5年分ぐらいは注文で取り寄せることが出来た。
     単行本も文庫も原則再版はしない方針のようでそれから先は宝探しのようなものだった。足しげくかよっているとふいに古本屋でみつけたりする。読むよりも集めることに情熱が傾いたという人も知っているが、その気持もなんとなくわかった。私たちにとって図書館は最後の保険のようなものだ。
     最初の頃の本には今日すでに歴史上の存在と化した錚々たる顔ぶれが並ぶ。時代の古びもついて書いていることにもなんとなく重みがあるような気がする。
     あの時代、この人たちがリードしていたのだと思えばありがたさもいや増す。おかしな刷り込みもあるのかもしれない。
     近年になるにしたがって、テレビなどで顔と名前は知っているが文章などは読んだこともない女流作家たちが登場してくる。よい機会だ、どんなものだろうといささか小意地の悪い心持ちで読むのだが、それがなかなかどうして達者なものだった。
     私たちの若い頃には文学をやるというのは世を棄て四畳半でもんもんと原稿用紙と格闘するイメージなのだが今どきの人はもっとずっとスマートにワープロを打つのだろう。
     おかげで日本語もすっかり変わってしまってといかにも年寄りめいたくりごとが浮ぶ。
     書くための勉強のつもりで読んだのだ。しかし活字となり本となる人の文章はみなそれぞれにうまい。
     これじゃ、自分の立つ瀬などどこにもみあたらないではないか。
     ベスト・エッセイ集はあけてはならない玉手箱だったのだろうか。
     ひげだけが伸びる。

  • 父の年

     わが町には長寿番付なるものがあって、大相撲よろしく、年齢順に東西の横綱、大関とふりわけられた氏名の一覧が年に一度正月に配られる。
     父の名前が前頭下位に入って以来、毎年、少しずつ順位が上がるのを見るのがひそかな楽しみになった。
     それでつい、頂点をきわめる最後のチャンスだ、がんばれなどといらぬことを口走ってしまったのかもしれない。
     父にも十分、功名心はあったのだと思う。
     あるときから父が言う年齢が番付よりも一つ、二つと先行するようになった。
     とうとう来たかと思ったがそれ以外は実にはっきりしている。どういうことかと女房と二人、さんざん悩んでふと気付くことがあった。
     満年齢に統一されたのは戦後のことでそれ以前は正月に皆がいっせいに年をとった。私の子供のころには満だの数えだのとちょっとした混乱もあったものだ。
     父もそこらあたりで迷ったあげく、自分に都合のいい解釈を選んだのではないのだろうか。
     年齢早見表を見せて父に納得させたうえでもち食って一つ、ケーキ食って一つじゃよくばりすぎだ、とからかうと、おまえがいくつになっても頼りないから、おれは人の倍、がんばることになるんじゃないかとみごとに切り返された。
     憎まれっ子、世にはばかるとは本当らしい。
     父は96歳、かくのごとく元気だ。

    (2010年2月10日 北海道新聞「朝の食卓」掲載)

  •  私が暮らすのは学校だったところだから住宅のまわりにはかなりの空地がある。引越しの当初にはすぐにでもそのぐるりに木を植えるつもりだった。
     どんな木がいいだろうと考えている間は楽しかった。
     檜葉はあたりまえすぎて、面白くない。ポプラは棄てがたかったが少し背が高くなりすぎるような気がした。30mを越すポプラに囲まれたらさすがに圧迫感があるだろう。
     あれやこれやと悩んだあげく、ついにエゾヤマザクラに落ち着いた。
     同じサクラであってもソメイヨシノなどにくらべて地味な感じのところがいい。国粋主義者でなくても桜は好きだ。日本人なら当然だろうというところがある。
     桜切る馬鹿、植える馬鹿という言葉があることをその時、知った。
     私はなにか始めようとする場合、しっかり下準備をしてかゝらないと気がすまないたちだ。庭木としての桜はなかなか扱いが面倒らしい。
     しかし、年に一度、満開の桜に囲まれて過す誘惑には抗しきれなかった。
     エゾヤマザクラの苗木は1本3千円もしたのだったろうか。1,5m間隔で周囲に植えるといくらになるか、小学生の問題のような計算をして出たその数字に驚いた。
     ここらあたりでは反だの町だので土地を数えるから坪なんて猫の額程に思っていたが千坪という敷地は案外広い。
     生まれて初めて、借金をして、工場を建て、家をいじって、私は相当、高揚した気分でいたがすでに金銭的な余裕はまったくないのが実情だった。
     それでも無理をしたらなんとか無理が通りそうな気もしないわけではなかったがそれを理性でしゃにむに押さえて、私は本当に涙をのむようにしてあきらめた。
     そんな鬱憤を酒の席かなにかで話したことがあったのかもしれない。
     お情のように桜の苗木が数本とどけられたこともあったけれどそれは結局根づかなかった。
     土地が悪いという話だった。
     あそこは田んぼに盛り土をしたところだから、本格的にやろうと思えばきちんと客土して土壌をととのえなきゃいけないと講釈する人もいた。
     話が大げさになればなる程、実現は遠ざかる。
     そうして、いつの間にか25年が過ぎてしまった。
     あの時やっていたら思うことがある。
     どれ程の桜の森が育っていたことだろう。
     眼をつむればその森はくっきりと眼にうかぶ。
     見はてぬ夢とはそのように老いの身につきまとうものかもしれない。
     

  • ツイてない  

     雨が降っている。なんともうっとうしい。
     雨は嫌いだ。とにかく無難に一日やりすごそう、そう自分に言い聞かせて、朝、家を出たのだった。
     しかし前を走る若葉マークの小型車が右折の車をかわせなくてぐずぐずしているうちに信号が赤に変わった。それでなくても朝は気がせく。ちょっと舌打ちでもしたい気分だ。
     タイミングが一つ狂うとどうもすべての調子がおかしくなるらしく、先々の信号が目の前で赤になる。今日はなんともツイてない。
     雨の日は車を使用する人の数も増えるのだろうか、なんとかたどりついた駐車場も満車状態で奥の方にようやくスペースをみつけて車を寄せていくと、すんでのところで脇からきた車が鼻先を突込んでいく。
     ビルに入るといい具合にエレベーターが止まっている。
     上着の雨を手ではらいながら急ぐと人を小馬鹿にしたように目の前でドアが閉る。
     気のきかない奴らだと一瞬、腹が立つ。
     訪ねた人は今日は休み、おいおい、一週間前にアポをとって、俺はその為にわざわざ出掛けてきたんだぜ。
     予定をはずされて、まあちょっと時間は早いけれど昼飯でも済ませておこうと入ったラーメン屋は、それはもう最悪、今時こんなものでよく商売が出来るなあとむしろ関心させられる始末。
     一事が万事、こんな調子でへとへとになってようやく夕方、たまに本屋でものぞいていくかと信号を待っていると、見知らぬ女の人が突然、あの、ツイていますと耳元でささやいた。
     俺は今日、一日、まったくツイていなかったんだぜ。
     なにかおかしな新興宗教のキャッチかと、むっとして、見返すとなにやら意味ありげに目線が下の方へ。
     つられて、ズボンを手でさぐっていくと、たしかに得体の知れないものがお尻のあたりにべっとりと、ツイていた。

  • ツイてる

     たとえば、朝、町に向かって車を走らせていると、まるで待ち構えるように信号が目の前で青に変わる。
     一つや二つではままあることかもしれないが、三つ目になるとおやっという気持になるだろう。
     四つ続くと、おゝ今日はツイてると誰だって思うはずだ。
     五つ目の信号で一息ついて、なにげなくラジオのスイッチを入れるとちょうど天気予報の最中でこの地方は今日は一日、快晴だと言っている。
     雨が好きだなんて男の気を引こうとする女のたわごとでからっと晴れた青空がうっとうしいはずがない。
     駐車場に車を入れるとけっこう混んでいる様子だがさてっと思案するまでもなく目の前から大型車が走り出る。
     エレベーターは戸を開いて待っていたし、商談はこちらから切り出すまでもなく、思いのほか、好条件でまとまった。
     今日はツイてる。
     もっとも朝方のツキが一日中続くなんてめったにない。
     だいたい当人が昼食を喰うころにそんなことは忘れている。
     しかし、たいして選ばずに入った店のラーメンが意外においしく、支払いのときには、開店3周年のお祝いなのでと、次回半額のサービス券をわたされたりすると、おっと朝のツキを思いだす。
     今日はツイてると思うせいか、本当にツイているのか、いい気分でこなす仕事は普段の倍も進んだし、夕方のかえるコールには、気をつけて帰ってきてね、今晩はお父さんの大好物よと機嫌のいい女房の返事。
     こんな日だってたまにはあるんだ。
     今夜は女房とビールを飲んで、それからフ、フ、フ・・・。

  • 好き嫌い

     牛肉は乳くさい臭いが鼻について口に出来なかった。
     チーズも食べられなかった。
     バターを使ったいためものも熱いうちは平気だったが冷めてくるとやっぱり臭いが気になって箸は止まった。
     それでいて、熱い御飯の真中にバターを埋めてちょっと醤油をたらす、いわゆるバター飯は好物だったのだからこの辺の微妙な嗜好は自分でもうまく説明がつかない。

     父は好き嫌いが激しくて、だから子供の頃は納豆だのとろろだのといったぬめるものはめったに食卓に上がらなかった。
     マヨネーズやトマトケチャップも家には置いてなかったと思う。
     醤油一辺倒でそのかわりなんにでも見境いなくじゃぶじゃぶ醤油をかける。
     漬物にも梅干にも醤油をかけた。
     その癖をどうも私も受け継いでしまったようで今でも時々女房にたしなめられている。
     
     そんなふうには思わせなかったが、ひょっとすると母の方が父よりももっと好き嫌いがはげしかったのではなかったか。
     母の場合は買う買わないの判断も調理についても一切がその手の内にあったのだから実体は見えずらいが、どうもそんな気がする。

     そんな親たちだったから私も好き嫌いをとがめられたり矯正されたりすることなく育った。
     知性のすぐれた人間には好き嫌いがあって当然だとでも勘違いしていた節もある。
     食物の好き嫌いと人の選り好みとにはなにか関連するものがあるのだろうか。
     どうも非科学的だが無関係ではないような気がする。
     父も母も私も、それぞれに人の選り好みも激しかった。
     一目見て駄目だと思ったらどうにもならなかった。
     それでどれ程、人生を狭くしたかわからない。

     年を取ると好みが変わるというのは本当だ。
     若い頃には見向きもしなかった煮魚がおいしくなった。
     風呂吹き大根だの茄子の煮浸しがうまいと思う。
     そのせいかどうか、人間に対する許容の幅も拡まったような気がする。
     だとすると年をとるのもまんざら悪いことばかりではない。

  • 高橋和巳

     古本屋で書棚を漁っていたら、ふいに高橋和巳という文字が目に飛び込んできて、思わず本を手に取った。
     なつかしい。
     名前を聞かなくなって久しいが、私たち団塊の世代の若い頃には教祖のような存在だった。
     あの理屈っぽい難解な文章を皆が競うようにして読んだ。
     「悲の器」、「散華」、「憂鬱なる党派」、いかにも時代の共感を惹起しそうな作品名がつけられていた。
     高橋和巳は京大の中文の助教授をやっていた人で、異常に語彙の豊富な作家だったがあの表題の設定はまた別の才能なのだと思う。そしてそういう感覚が彼を一躍、流行作家にまで押し上げたに違いない。
     しかし「孤立無援の思想」をいったいどれ程の人が真に理解していただろう。
     高橋和巳は一般うけする要素と大衆に背を向ける部分が渾然と同居する咀嚼のやっかいな作家だったような気がする。

     「人間にとって」という新潮社発行のその本の記憶がかすかながら私にあった。
     高橋和巳は70年安保の翌年、39才で亡くなったがその直後急遽、発売されて、ベストセラーになったはずだ。
     100ページほどの薄っぺらい本の奥附を見て私はそれを確認した。
     どういう人が所有し、どういう理由で手放したのか、わからないが本は読んだ形跡が感じられないくらい程度のいい状態だった。
     書庫を探すとどこかから出てくる確信があって、ちょっと迷ったが結局私はその本を買った。
     105円、高橋和巳に線香を1本、手向けたような気持だった。
     
     本の話をしていると、読んだんだがなぁ、覚えてないなぁといったたぐいの発言にしばしば出会う。
     若い頃にはそんな言葉に敏感に反応した。
     読んでないくせにときめつけた。
     当時は読んだ本の内容を忘れるなどということが考えられなかった。
     見栄を張って、厭な奴だと腹の底で軽蔑した。
     だが、私が今、そういう状態になっている。
     若い人と本の話をしていて、ひょっとすると今、私はそんなふうに認識されたかもしれないと思うことがある。
     「人間にとって」も間違いなく、読んだはずなのにまるで覚えていなかった。
     三島由紀夫が割腹した事件についてめずらしく素直な感想を述べた部分があった。
     いつもなら一ひねり、二ひねりして、目くらましをかますところが感情が整理できないのか、体力がついていかないのか、その半年後の当人の死を思うとなんだか痛痛しい感じがする。
     もっとも即座に太宰治を引きあいに出し、対比するあたり、学究としての批評眼はまだ確かなものだ。
     私は発言者としての高橋和巳はそうとう無理をしていたのではないかと思っている。

     高橋和巳ももう一度読んでもいいなと思う。
     たしか、河出書房が出した全集もどこかに仕舞ってあるはずだ。
     しかし、そういう時間がもう永遠にこないことも私はどこかで意識している。

  • 蟻が10匹  

     もう5年も前のことになるだろうか。
     その年、娘から贈られた父の日のプレゼントは黒い色画用紙を切り抜いて作った蟻だった。
     贈り物はいつ、誰にもらってもうれしい。
     だから、わくわくしながら小包をほどき、中に黒い蟻しか入っていないのを確認したときにはさすがに拍子抜けしたものだ。
     1匹20cm程の蟻が10匹繋がっている。
     ありがとうというシャレはすぐにわかった。しかしいつもはなにかしら気のきいたものをくれる娘がなんとしたことだろう。
     部屋いっぱい蟻を拡げて考えた。
     昔、お手伝い券やら、肩たたき券をもらって喜んだことはある。
     それが当時、娘に出来る精一杯のプレゼントだった。
     親に内緒で一生懸命作ったのだろう。おぼつかない字で書かれたチケットはそれだけでもうれしく、とても使う気にはなれなくて、机の引き出しの奥にしまいこんだ。
     いつかなにかの折、取り出して、まだ有効かどうか確かめてやろう、そんないたずら心で時々思い出してはにやりとしている。
     あの頃は可愛いかった。
     だけど23才の娘の蟻10匹なのだ。
     部屋に閉込って一心不乱に蟻を切り抜いている娘の姿を想像する。
     そして、ふいに思い当たることがあって、不覚にも私は涙ぐんだ。
     娘は学友たちにファザー・コンプレックスを揶揄されていたようだが、私にも自分たちが軽度の共依存の関係にあることには気付いていた。
     もっとも、母親と息子であれ兄弟であれ、度を越さないかぎり家族が依存しあうのは異常なことだとは思っていない。むしろ幸福な家族の証しだともいえるのではないか。
     私たちは雪深い山の中に暮してけっこう濃密な家族関係を築いていた。
     その親ばなれの季節がおそまきながらやってきたに違いない。
     意識したかどうかはべつとして、この黒い蟻は娘の独立宣言と受取るべきなのだろう。
     今こそ笑顔でにぎった手綱を手ばなす時だ。
     何も聞かず愛想よく礼を言ってそれきりではあったけれど以来私は娘との距離感に気を配るようになった。
     これも娘が嫁にいってようやく出来る話の一つだ。
     蟻はもちろん私の手元に大切に保管している。

  • マイ盃

     マイ箸というんだそうだ。
     ハンドバックなどの片隅に自前の箸を忍ばせておいて、レストランや食堂での割箸の使用を自粛する。
     森林保護やエコ運動と連動して、結構なブームらしい。
     間伐材や端材を使うのだから目くじらを立てることもないという意見もあるが毎日大量に破棄される割箸の山を見せられるとしたり顔でそんな発言をするのも躊躇される。
     折たたみのもの、つないで使うもの、最初から小ぶりにまとめられたもの、デパートにはそれ専用のコーナーもあって、見ていても楽しい。
     値段はけして安くはないがやっぱり人前で取り出して得意になれそうな品がそろっている。
     そんな新風俗にはなじめぬと顔をしかめるには及ばない。
     股旅といった時代の渡世人はあっちこっちで一宿一飯の世話にはなったろうが箸は自前ときまっていた。
     万葉の昔、飯を椎の葉に盛ると歌った有馬皇子だって箸は持参していた可能性が高い。
     腹合わせの笄は箸にも使うためのものだったし、なんといったってきわめつけは、古来、乞食は箸と茶碗を肌身はなさず持ち歩く。
     ひよっとすると日本人にはそんな習癖が遠い昔になんらかの理由で遺伝子に組み込まれてしまったのかもしれない。
     男が盃を持ち歩いた気持もわかろうというものだ。
     ついこの間までといっても、昭和が終ってすでに20年もたつのだが、かっては気に入りの盃を錦の小袋などに納めて、袂や懐に男は飲み屋に出かけたものだった。
     女房に帯の余りででも作らせた小袋は使込まれてほどよくくたびれている。
     男は椅子を引き、従容せまらざる手つきで袋の紐をとき、おもむろに盃を取り出す。
     酒と手ずれで鈍色に沈む盃が卓に置かれると周囲の人の目が思わずそれに集中する。さすがにそれだけの迫力がその小さな器にもそなわっている。
     これは魯山人なんだがね、ロクロは豊蔵だと思うんだ。この高台の造りがね、いや、やっぱり豊蔵だ。
     問わず語りに一人ごちながら器に酒を満たす。
     すっかり毒気を抜かれて酔客は静かに口元にはこばれる盃を息もつかずに見つめている。
     ふん、こんなもんが百万円かい、下世話なことを思うのは銚子をとどけたおかみさんぐらいのものだ。
     うん、いい酒だ、一瞬の間をおいて男がいう。
     いい酒だねえ、いい燗だ。
     ようやくほっと場がなごむ。
     いいかげんな年になったら、これぐらいの芸のできる男でありたいものだ。
     しかし、人品、風貌、物腰、態度、そのどれを欠いてもこれはもう絵にならぬ。
     最近盃を持ち歩く場面に出会わなくなったのはそのような度量の男が絶滅寸前の状況にあるせいだろうか。
     盃ならそれほど売る程あるのに残念なことだ。
     男を磨いて、マイ盃、やってみませんか?

  • 何でだろう

     「何でだろう」と1人が言った。
     「どうも最近、かみさんが怖くてな。妙によそよそしい態度が続くと、離婚でも切り出されるんじゃないかと、どぎまぎする」
     「そりゃあ、おまえの行いが悪すぎたからだ。せいぜい、いじめられろ」。もう1人が、すかさず突っ込んで言う。
     「じゃあ、おまえのところは大丈夫か」
     還暦をすぎた男が3人、居酒屋で飲んでいる。
     「日ハムは最後の最後で残念だった」と、しばらくは盛り上がり、「鳩山も何か、もたもたしだしたな」としたり顔で政治談議もした。しかし、妙な具合に連れ合いの話になった。
     「いや正直言うと、おれも怖い。おれなんざ、何だかんだといったって、結局、いいようにかみさんに、あやつられてきたんだけどな。ふと、かみさんの顔色をうかがう自分に気付いて嫌な気分になる。何でだろう」

     「おい、おまえはどうだ」。ふいに話をふられて、「おれかぁ」と私はすっとんきょうな声をあげた。
     受けを狙うか、調子を合わせるか。一瞬、判断がつきかねた時、1人の男の携帯電話が鳴って、話は終わった。
     よかった。私だって女房に「あんまり、おかしなことを言いふらすんじゃない」とくぎを刺されてきたところだった。

     女房は怖い。だけど、何でだろう。

    (2009年12月9日 北海道新聞朝の食卓掲載分)